2020年7月16日(木) |
『日記掲載の休止』 |
諸般の事情によりしばらくの間、日記の掲載を休止致します。
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2020年7月9日(木) |
題:樋口一葉著 「樋口一葉 小説集」を読んで |
樋口一葉は何作品か読んだことがあるが、まとまって小説作品を読むのは初めてである。本を捲るとなんと戯作調の文体である。ずっと以前読んだ「たけくらべ」や「にごりえ」などは現代語に訳していたのであろうか。裏表紙に紹介文があるので引用したい。『一葉の作品を味わうとともに、詳細な脚注・参考図版を多数収録することで一葉の生きた明治という時代を知ることのできる画期的な文庫版小説集。いわゆる〈奇跡の十四カ月〉時期の代表作とそこに至るまでの初期作品を主として収録。資料編として鴎外、露伴、緑雨、高山樗牛らの一葉評も付す。 収録作品 大つごもり/ゆく雲/うつせみ/にごりえ/十三夜/わかれ道/たけくらべ/われから/闇桜/闇夜 編集・解説 菅聡子』とある。
つまり本書は原文のままで現代語訳はついていない。ただ、図入りの脚注がついている。まあ、脚注付きの古文をそのまま読むと等しい。ただ、古文と比較すると現代文との語彙の意味の変化は少ないながら、圧倒する語彙の豊富さが読み手を惑わせる。髪結いや着物などの知識に古文の知識なども加わっている、それに何と言っても一葉の戯作調の文体である。井原西鶴や近松門左衛門を読むようなものであるが、井原西鶴の悲劇を読んで楽しむ作品と言うより、近松門左衛門のような圧倒する濃厚な人情と悲劇がある。圧倒する以上に心理的な背景を含めて葛藤と狂気が描かれている。また揺れ動く心の機微も描いている。まさに近代の入り口にあるのか、近代の病状や狂い、そして滅びゆくものと新しく育ち行くものそのものを描いていると言って良いかもしれない。こうした小説が二十四歳という若さで、それも一年ちょっとの間に書かれたというのは奇跡と言って良い。鴎外は一葉の家を訪れているし、漱石は一葉の小説を褒めている。なお、彼らの生年は以下のようになっている。
森鴎外 1862年生まれ
幸田露伴 1867年生まれ
夏目漱石 1867年生まれ
尾崎紅葉 1868年生まれ
高山樗牛 1871年生まれ
樋口一葉 1872年生まれ
つまり、一葉は鴎外や漱石に、樗牛よりも若いのである。坪内逍遥(1859年生まれ)が「小説神髄」や「当世書生気質」なる作品を、戯作調を脱して心理主義の小説を標榜し発刊したのが、1885年である。一葉は読んでいるはずである。森鴎外の「舞姫」が1890年に、発刊されている。従って、一葉はこれらの作品を読み得る時代に生きていた。ただ、漱石の「我が輩は猫である」が1905年に発刊されているため、漱石作品は読むことができなかった。何が言いたいか、なぜ一葉が戯作調の文章で書いたかと言うことである。つまり、一葉は当時の文壇からは取り残されていて、旧態の文章を使いながら書いた。師匠なる半井桃水からの影響があったのか、独学からきたものなのか、その理由は調べないと分からない。彼女の作品内容は濃厚な人情と情緒的な人間の機微とを含んでいるが、こうした戯作調の文章によって本当に何をどのように表現したったのか、そこが一番知りたい。経歴的には、一家を養うために吉原遊郭の近くに駄菓子屋を開いている。また、鴎外が一葉を訪問したこともある、誰かの妾になる話もあったようである。これら一葉の経歴などは一冊の本となって出版されているであろう。ここでは一葉の作品内容そのものを読んで簡単に紹介したい。このあと一葉を研究して彼女の文章を読み解き研究するのもよい。ただ、彼女の文章を解読できるかどうかは別問題である。
さて、各作品を紹介したい。「大つごもり」は謂われがあって大つごもりに、主家の金を盗むが、放蕩息子の善意なのか、見つからずに済む話である。「ゆく雲」は気の乗らない娘と結婚するために田舎に帰る話である。「うつせみ」は既に亡くなっている旦那、そして兄と母に見守られても病弱に衰えていく女の心情は狂気に近い。「にごりえ」は遊郭の女が妻子持ちの貧しい男に惚れていて、上客の誘いにも乗らずにいたが、最後は殺傷沙汰になる。深みのある筋と構成を持った作品である。「十三夜」は身分違いの旦那と別れるつもりで実家に戻ってきたが、諭されて帰る幌に乗るとなんと昔知っていた男に会うのである。「わかれ道」は一人暮らしをしている女は少年と仲が良いが、妾となって出世する話である。
「たけくらべ」は一葉の作品の中では一番有名である。遊郭な大黒屋の美登利とお寺の息子信如を中心にした少年少女の勢力争いの物語である。信如の下駄の鼻緒の切れた雨降る場面での美登利の淡い恋心が読みどころである。その美登利も一人前の芸子として育っていく、また信如も修行のため寺を出る。登場人物の少年少女が多くて、勢力争いの闘争の描写が幾分まとまりを欠いている嫌いもある。「われから」は構成が混乱している。母は死に父と娘、そして娘の夫が子供時代から成年へと葛藤し暮らす様子を描こうとしたのだろうか。最初の妻が、夜書生の部屋に訪れる場面など良かったために残念である。「闇桜」は処女作で、兄を慕う妹の痩せ衰えて死んでいく話である。特異な文体に、切ない人情がこびり付いている。「闇夜」は零落した女が偶然拾い上げた書生に恋心を抱してしまう、書生は女のために時々訪れる昔の恋人なる議員に刃物沙汰を起こしてしまう話である。
こうして読んでみると各作品に流れているテーマに特徴がある。貧しさ、出世、狂気、人情沙汰、人情そのもの、冷淡さ、病弱、零落、妾、闇などである。先にも述べたたが、一葉のこれらに関する描写は江戸戯作を擦り抜けて、近代文学の心理描写に届こうとしている。むしろ、その自然主義文学などの表層的な心理描写に比較して、より深みを増している。身の内に内蔵していて爆発する、もしくは沈潜したまま身を滅ぼしていく心情とその哀れさが手際よく描かれている。こうした一葉文学は何度も全作品を丁寧に読まなければ評することはできないだろう。
ただ、それ以上に気に掛かるのは文体である。処女作品「闇桜」の句読点のない長い文章から、「にごりえ」の句読点を入れて読みやすくした文章は一葉の文章技巧の進歩なのだろうか。菅聡子の解説によると、進歩であり進化である。確かに読みやすくなっているし、そうであるのであろう。ただ、私はこのどろどろして長い文章が好きである。一葉の作品を紹介した高名な文学者の講評などは省いて、「闇桜」のこの文章を紹介して感想を終えたい。この文章は思い返せば平安朝から江戸戯作を通じて見たことがない。ただ、井原西鶴などの戯作文なる長文との類似性は確かにある。無論、詳しく論じるためには調べなければならない。
「闇桜」よりの引用文章・・・今日よりはお目にもかからじものもいはじお気に障らばそれが本望ぞとて膝につきつめし曲尺ゆるめると共に隣の声をその人と聞けば決心ゆらゆらとして今までは何を思ひつる身ぞ逢いたしの心一途になりぬさりながら心は心の他に友もなくて良之助が目に映るもの何の色もあらず愛らしと思ふ外一点のにごりなければ我恋ふ人世にありとも知らず知らねば憂きを分かちもせず面白きこと面白げなる男心の淡泊なるにさしむかひては何事のいはるべき後世つれなく我身うらめしく春はいずこぞ花ともいわで垣根の若草おもひにもえぬ。・・
本文書に句読点を点ければ確かに読みやすくなる。その他の特徴として、作者なる主体の一貫性がありながら、描く対象がその心理の憶測も加えて素早く変わっている特異な文章なのである。表現は「心は心の他に友もなくて」や「知らず知らねば」など独創性やリズム感などが含まれていて、とても含蓄がある。ただ、樋口一葉を解読しようとすると相当に難解な作家になるかもしれない。
以上
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2020年7月2日(木) |
題:ヴァージニア・ウルフ著 川口静子訳「波」を読んで |
ヴァージニア・ウルフの作品1925年発刊の「ダロウェイ夫人」や1927年発刊の「灯台へ」は良かったと記憶している。だが、今回の1931年発刊の「波」は良いのであるが、どこか恣意性が強くて読みにくい。6人の男女の独白はそれぞれ繋がりがあるようで、それも老年に至るまでの長い時間的経過が記述されている、相当に凝った作品である。文章は独特の感性によって描かれているが、文章に繋がりがない。原文が悪いのか訳文が良くないのかは分からないが、でもウルフの感性の良い面がほとばしり出ている。さて、まず、本書の裏表紙から本書の内容についての紹介文を引用したい。『夜明け前から日没へ、岸辺に打ち寄せる波のリズムを背景に、登場人物のモノローグによって物語は展開してゆく。幼児期に共通の経験をもつ六人の人生、その生の諸相を極限まで探求したウルフ文学の極北』と紹介されている。なお、ウフルは1941年死亡している。
川本静子の「波・解説」によると、ウルフはピカソの抽象絵画に影響され、十九世紀のリアリズム小説にノンを突き付け、自分の感覚世界を信奉する一人であったと記述している。そして『単にパッシヴな受像機能としての意識ではなく、客体を溶かすほどに燃え盛る生命力を備えたアクティヴな意識の流れこそ、ウルフの描こうとしたものであった』と述べているが、きっとそうなのだろう。ただ、本書ではこれを表現する形式と内容が凝り過ぎているのである。各人が続けるモノローグがそれぞれに分断されているし、また一日の時の経過と共に進む日差しと波の形態の変化も良いのであるが、モノローグそのものとは分断されている。もっと注意深く読むと関連が見えてくるのかもしれないが、良く分からない。「ダロウェイ夫人」は複数の登場人物の意識と空間が分断されていたが、この分断が読み進めるに従って心地よくなり、ダロウェイ夫人の開催するパーティがどうなるのか気に掛かってくる。「灯台へ」は夫婦の灯台に向かう行動そのものを瞬間に寸断された意識をベースに表現していたし、時を経て友人が昔を懐かしくのも良かったと記憶している。
言い換えると、本小説「波」の形式が斬新過ぎて、内容が密やかに筋を込められている、そのことが小説としての質を削いでいると思われる。いわば、ナタリー・サロートの「黄金の果実」に似ているのではないだろうか。小説を批評した内容が記述されているこの「黄金の果実」もそんなに心地よく読めなかったと同様に、この「波」もまた精読できないのである。アラン・ロブ=グリエの視線ある文学とは対照的に、本書は感情の込められた詩的な文章であるが、それも生きてこないのである。筋を秘めやかに記述しなければ、そうした魂胆を意図しないで描いていたならば、もっと優れた作品になったと思われる。サミュエル・ベケットの「名付けえぬもの」などのモノローグはとても良い作品である。この「波」はとても惜しい、もっとモノローグに近いものとして、構成そのものを解体して、もう一度構成を単純にして新たに考慮し作り上げて欲しい、そうした思いでいっぱいである。
ヴァージニア・ウルフのヌーボーロマンとの関係は良く分からない。サミュエル・ベケットもヌーボーロマンの作家に入れられていることあるため、これら独特の形式と内容を持って同時代に独自に活躍していた作家は皆一括りにされて、ヌーボーロマンなる作家と呼ばれているのかもしれない。過去の日記を探したらアラン・ロブ=グリエ著の「快楽の館」とナタリー・サロート著の「黄金の果実」を読んだ感想文が出て来たので以下に紹介したい。なお、内容は殆どなく簡単な紹介である。
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題:アラン・ロブ=グリエ著 若林真訳「快楽の館」、ナタリー・サロート著 平岡篤頼訳「黄金の果実」を読んで
シュールリアリズムやヌーボーロマンの小説を少し読んできたが、その評価を巡ってはさまざまに論争が行われてきたようである。私見では、既成概念を打ち破って、伝統的なロマン小説の枠から脱出しようと新しい形式の小説が次々と作成されてきたけれども、ごく少数の小説家しかその目的を達成してはいないと思われる。ここで紹介するアラン・ロブ=グリエ著の「快楽の館」やナタリー・サロートの平岡篤頼訳「黄金の果実」も、この少数の成功した例に入っているとは思われない作品である。つまり、試行的な失敗作品と思われるのであるが、少し論じてみたい。
アラン・ロブ=グリエ著「覗く人」でも述べたはずであるが、視線が文学を形成することの困難性がある。視線が描く小説の物質的な表面に意味を見出すには、主体の位置が定かでなければならない。視線が彷徨するにつれて描き出す物質の表面に意味があるのではない、主体なるものの堅牢な視線の位置が物質の表面に意味を見出し確かにするはずなのである。空無や疎らや蜜な主体であっても、この主体の堅牢さが揺らぐことがなく物質を徘徊し、嘗め回すようにして意味を見出す、もしくは無意味を見出すか、意味を廃棄するのである。成功した作品群にはこうした確かな主体が存在するのである。この確かな主体とはどのようなものかについて論じるのは難しい、この堅牢さが何を意味するのかもはっきりしない、きっと成功したと思われる作家をあげれば分かるかもしれない。サミュエル・ベケット、デユラス、ブルドン、ブュランショなどなど。ただ、ブランショなどはアラン・ロブ=グリエ著「覗く人」を擁護しているとのことで、やはりヌーボーロマンの小説などには多様な評価があると思われる。また、文章の行間や描く対象や観念的な思いなどに加えて、作家の文章の特質が多大に影響しているのかもしれない。
それにしても本の横表紙に描かれている文章のなんと刺激的なことか、過大に祭り上げようとしている。アラン・ロブ=グリエ著「快楽の館」では次のようになっている。『女の肉体に憑りつかれた男のエロチックな夢想を描き現代人の生の虚妄を衝く新しい文学』『驚くべき文学的冒険――中村真一郎 奇妙なことに、この小説は相変わらず視覚的でありながら、一方でそれは一遍の夢となっている。これは驚くべき文学的冒険だといわざるをえないだろう。この小説では彼は夢を非人間化することに成功してしまったのだ。これは作家で、誰ひとり試みることのなかった気違いじみた仕事である。そして、新しい認識というものは、ネルヴァールの例によっても明らかなように、いつも狂気から始まるのである・・』
ナタリー・サロート著「黄金の果実」の横帯では『意識下にうごめく他者への不気味な嫉妬、憎悪、恐怖の感情・・・。内面に深い虚無と空白をいだいた現代人の魂! 動脈硬化の症状を呈する既成の小説美学に反抗し、独自の革新性にかがやくヌーボーロマンの新作』と記述されている。なお、「黄金の果実」の筋を簡単に述べると、ブレイユなる小説家の「黄金の果実」という作品に対する評価を会話文、および会話文もどきから成り立たせた小説である。ナタリー・サロートの作品をどの程度読んでいたかはもう記憶にないが、もう読むことはなさそうである。
ヌーボーロマンには入るとは思われ無いのであるが、それにしても好作品であるサミュエル・ベケットの作品群、特に「マーフィー」や「モロイ」などが懐かしい。ただ、この二作品は全集ではなくて単行本で持っており、「モロイ」などは引っ越しの時になぜか水を浴びたのかよれよれになっている。きちんと読むためには新しく購入しなければならない。なお、小説作品は読み継がれてこそ値打ちが生まれてくるのである。ただ、膨大に埋もれている作品や膨大に廃棄される作品、これらが甦ってくるには恐ろしいほどの困難性がある。つまり、ドウルーズがマゾッホなどを見出したのは稀有な例で、生み出された作品は絶滅種よりもあっさりと消滅してしまうのであり、すぐさま廃棄されてしまうのである。今さらながら、聖書や古事記に叙事詩などの趣向など凝らさずに簡単な文章で記述された本が、何千年も生き続けているのは相応のわけがあるはずである。
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この感想文を読んで、恣意性を排除し叙事的に記述した作品が良いと思っていたそのことの記憶が改めて甦ってくる。無論、抒情性の作品も良いのであるが、大好きである。形式的には叙事的な単純性こそが求められる。なぜなら、この世界の構造とその中に住む人間は単純な生き物であるためである。この単純さについての説明は省きたい。
以上
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2020年6月25日(木) |
題:松岡譲筆録 夏目鏡子述「漱石の思い出」を読んで |
夏目漱石の妻、鏡子の語りを松岡譲がまとめたものである。「編録者の言葉」として、松岡譲は何度も加筆修正したと述べている。記述した文章を鏡子に確認したり、鏡子が新たに思い出したことなどもあるためである。64の断章にして時代順に記述しているが良くまとまっている。特に漱石の英国留学後のヒステリや修善寺での吐血から永眠までの思い出の内容がとても濃い。そうした内容よりも、鏡子なる妻がいなかったなら、漱石は小説を書けなかったのではあるまいか。神経質で癇癪もちの漱石に対して鏡子はおっとりとして何処か鈍くて、それでいて漱石と喧嘩をしながら包容力がある。とても十歳差の夫婦とは思えない、対等の気力と母性とを鏡子はそなえているのである。
「解説」で漱石の孫である(漱石の長女筆子の子)半藤未利子は、『髪をふり乱して目を真赤に泣き腫らして書斎から走り出てくる鏡子を、筆子はよく見かけたものだった』と言いながら、『・・これらの言葉は思い出す度に私の胸を打つ。筆子が恐い恐いとして思い出せなかった漱石を、鏡子は心の底から愛していたのであろう』との言葉が印象的である。さて、本書の内容で気に掛かった点、特に生活面を中心にして簡単に示して感想文として示したい。なお、結婚当初からの時系列で示している。無論、漱石が「硝子戸の中」などに記述している話が結構あるが、無論本書とは若干視点が異なる。
1) 熊本で簡素な結婚式をあげる。しめて7円50銭と安上がり。鏡子の記憶力が良いのか、本書では金額が結構明確に示されている。ただ、漱石はどちらかというと金に無頓着で、勝手に財布に小遣いを入られている。本以外は金のかからない古道具集めなどの趣味に使っていたらしい。なお、絵画と俳諧は生涯の趣味であったらしい。
2) なお、松山での本代は月収70円のうちの20円である。
3) 漱石はゆったりとしていて公平で、向かっ腹もたてることもない。
4) 楠緒子は俺の理想の美人だと漱石は鏡子に言っていた。
5) 樋口一葉を漱石の兄の嫁にという縁談があったとのこと。貧乏な家で金を借りられると困ると親父が断ったとのこと。漱石は一葉の全集を買ってきて読み、男でもなかなかこれだけ書けない感嘆していたとのこと。
6) 大学への返済も真面目に行っていた。
7) 草枕の那美さんのモデルの話。
8) 漱石の腹違いの姉高田の寧さんの話。
9) よく吠える犬の話。
10) 洋行を転機として漱石一家に暗い影がさすようになる。有名なロンドンでの発狂の話が語られている。帰国後の漱石に例の病気が発生。どうも漱石の癇癪は帰国後に生じて、季節性や顔が真っ赤に上気するなどの兆候がある。鏡子は一時別居などする。漱石はいろんなことを頭の中で創作して、時々狂的にいじめる。その後、年ごとの周期となり少しは治まる。
11) 漱石と鏡子の喧嘩。鏡子は生きるか死ぬかの境にたっていたようなもので、自分ながら死にもの狂いでやっていた。離縁の話がたびたび持ち上がる。鏡子の父が裁判所に願いを出してくださいとたのむ。
12) 探偵の話。
13) 貧乏であったが、頭さえ静まれば比較的楽であった。
14) 頭の調子が良くなるにつれて、大学の講義のノートの字が目立って小さくなる。
15) 猫の話。全身足の爪まで黒い福猫を飼う。
16) 少しずつ書き始めて原稿料が入り少しずつ楽になる。
17) 泥棒の話。読みもしない本を枕元に持ち込む。なお、泥棒には何度も入られる。
18) 猫の原稿料でパナマ帽を買う。
19) 四女の出産時、漱石が面倒を見て取り上げる。ナマコのようにとらえどころのない赤ん坊。
20) 朝日新聞入社。「草枕」が見込まれての入社。
21) 「文学論」の出版。
22) 漱石は涙もろい質、気の毒な話にはすぐに同情する。面倒見も良い。
23) 坑夫や謡の稽古の話。
24) 猫の墓が文鳥など生き物の墓になる。
25) 満韓旅行。
26) 鏡子の占い好き。修善寺大患時の祈祷の願い。病気のおかげで穏やかな性格になる。大塚奈緒子の死。
27) 博士号辞退。
28) 善光寺への漱石と鏡子の一緒の旅。なお、漱石は講演の用向きがある。
29) お房さんとお梅さんおの二つの縁談。「行人」に関係するのだろう。
30) 雛子の死。墓を作る話。
31) 頭の病気の前に耳がぴくぴく動く。毒掃丸を隠して飲ませる。
32) 長塚節の「土」の朝日新聞への掲載。
33) 「行人」記述時の例の病気。胃の病気が頭の病気の救いになる。
34) 「心」の岩波からの自費出版。
35) 芝居と各力好き。
36) 祇園のお多佳さん、お茶屋の女将でありなが有名な文芸芸者との話。そう言えばテレビでみたことがあるが、この本のこの話を元にシナリオを書いていたのではと推測する。晩年の漱石の恋という話にしたのであろう。詳細不明。
37) 男の子の語学教育。女の子は放任主義。
38) 「文学論」を超えた自らの文学観ができたと言って、漱石が則天去私や悟りや道の話をする。
39) 死の床の話。なお「明暗」は一日に一回分を書くのが日課。頭に水を掛ける。死相が表れてくる。この辺りの逸話は結構他にも記載されている。
40) 解剖所見のカタカナ文あり。漱石は解剖を承認していた。脳と胃を提供。文献院古道漱石居士。漱石の戒名と鏡子の戒名を墓にならべて掘ってもらう。
本書の最後には(昭和三年十月九日)と日付が記されている。書き忘れたが漱石が亡くなった時には結構お金があったらしい。稼ぎに追いつく貧乏なしといったところか。お金に苦しめられないでも、漱石は遺作「明暗」やその一作前「道草」で、お金の工面や何らかの面倒に、せびる親族者などのことを書いている。
以上
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2020年6月18日(木) |
題:メルヴィル著 坂下昇訳「ピエール」を読んで |
久し振りに面白い本を読んだ。メルヴィルの長編であり彼の新しい一面が見える。本書は悲劇であり喜劇である。情熱でありとともに絶望である。最近読んで面白いと思ったのはヴァージニア・ウルフとハーマン・メルヴィルの作品であるが、ウルフが人間の生きる時間と空間の内に漂う意識を描いているなら、メルヴィルは人間が天界を目指すのではなくて地の底へと下っていく、むしろ浮遊していると言った方が良いかもしれないが、人間の漂う魂を描いている。ウルフが女であることを描いているなら、メルヴィルは姉と弟になることを描いている。いずれにせよ人間と世界に光を当てて偏光させて、分波されたスペクトラムの断面を小説なる空間に丁寧に描いているのである。
早速、本書の裏表紙を引用して内容を紹介したい。『〈ピエール・グレンディングよ!そなたはかの父の一人子ではありません・・この文を綴る手はあなたの姉のものなの。そうなの、ピエール、イザベルはあなたをあたしの弟と呼ぶ身なのです!〉由緒ある家柄グレンディング家の若き後継者ピエール。美しき母とともに優雅な田園生活を送る彼の前に、異母姉と称する謎の女イザベルが現れる。濡れたような黒髪とオリーブ色の頬をした彼女の不思議な魅力に取り憑かれた彼は、イザベルを救うため、母も婚約者も捨てて彼女とともに都会へと旅立つ。やがて二人は、運命の糸に操られるまま、闇の世界へと迷い込んでいく・・。あの「白鯨」の作者が人間の魂の理想と矛盾を描いた、怪物的作品』と書いていて、おおよそのあらすじが分かる。
ただ、全体のあらすじをネタバレになるが紹介したい。ピエールには姉と弟と呼び合う美しい母と暮らしている。仲の良い美しい娘ルーシーとの正式な婚約も近い。ただ、ピエールは編物教室の定例集会で出会った神秘的な魅力を持つ女の顔が忘れられない。その女イザベルからの手紙をもらい会うと姉だと告げられる。彼の部屋に飾っていた父の画、それは居間に飾っている父そっくりな大きな画とは異なった父が描かれている。その死んだ父に、母とは異なった愛する女が居たのである。ピエールはイザベルを姉だと信じて永久に守ると誓う。だが、彼はこの事実を母に告げることができない。父を愛している母を傷つける、それに母は自らの荘園で働く若い男女の成した愛の不祥事を悪徳としてしか認めていず、腹違いの姉など認めることなど決してない。このため彼は愛するルーシーに別れを告げ、イザベルと偽装結婚をして不祥事を起こした娘デリーを伴ないに都会に逃げる。従弟のグレンに依頼していた部屋は確保されていない、グレンは昔と違ってピエールに横柄である。グレンはルーシーに恋していた、婚約を知ってその仕返をしているのかもしれない。母はピエールを廃嫡にする。財産を受け取れずにピエールは自力で稼がなければならない。結局母が死んだ後グレンが相続するのである。こうしてピエールは使徒協会の支援を受けて文筆活動で稼ごうとする。一方ルーシーはグレンの言い寄りにも負けず、例え結婚していてもピエールと一緒に暮らしたいと言って街にやって来る。こうしてピエールとイザベルとデリーにルーシーを加えた奇妙な生活が始まる。寒くて稼ぎの少ない生活は厳しい。イザベルは自分さへ居なければと自己嫌悪する。一方ルーシーは二人に構わず似顔絵を描いて生活の足しにしようと賢明に懸命である。イザベルにはルーシーが清らかな天使のように見えて嫉妬する。やはりグレンとルーシーの兄フレッドはピエールを倒そうと狙っている。ある日三人は散歩に出かけ絵画の展示会を見る。異邦人の首像やチェチェンの首像を見る。ただ、ルーシーは人ごみではぐれる。彼ら敵と出会うとピエールは戦い、グレンを打ち殺してしまう。留置場に集まったイザベルとルーシーにフレッド、彼らの傍らでピエールは横たわりながら、牧場の牧場における大きな石とタイタンの山などの自然的風景を幻想している。イザベルの指から空の鉢が落ちて彼女はピエールの心臓の上に倒れ込む。するとイザベルの黒い髪がしっかりとピエールの全身を抱いているのである。
酒本雅之が本書の解説で、この小説の意図などを概説していて納得し得る。ドゥルーズに本小説の解説はない。やはり白鯨におけるエイハブ船長と書記バートルビーがメルヴィルを解き明かす鍵となる小説人物なのであろう。この「ピエール」はそういう意味で言えば、通常の小説の形式と内容である、でもメルヴィルの魂の叫び声が大きく聞こえてくる。イザベルなる姉と弟との関係、そして愛していたルーシーともどうなっていくのか、興味深く読んでいくことができる、味わい深い小説である。もし、簡単に本書の意図が知りたければ酒本雅之の解説を読むのが良いとも思われる。メルヴィル全体の小説の中での位置づけや役割なども記述しているが、哲学的な概念的とも言える記述はない。まだメルヴィルそのものが謎に包まれている部分があり、メルヴィルの全体像を作家論として現在も表し切れていないのかもしれない。いずれにせよ、メルヴィルや本作品そのものを論じることはとても難しい。従って、気の付いた何点かについて箇条書きて示したい。まあ、私の感想でもある。できれば概念的に記述したいが、今現在は無理である。
1) 劇場型に激情するピエールの死
ピエールは激情型である。そして暗い方へと引き摺られていく魂があり劇場型に行動する。まるでエイハブ船長が白鯨を敵として戦いを挑むように、自らの定めた行動の規範を逸脱などしない、決して調和することのない運命を背負って行動する過激さがある。これは書記バートルビーのあいまいな行動からはかけ離れている。バートルビーの最後は壁のそばで身を縮めて冷たい石を枕にして横向きに寝転んでいる、ぴたりとも動かない、食事なしで生きている男、もはや生とは無縁な死んでいるような男である。でも、ピエールの最後も結局は死んで横たわっている。ピエールの激情がエイハブ船長と同じように悲劇的な死をもたらしたとも言うことができる。これらメルヴィルの作品における主人公は過酷に死に至らざるを得なのだろう。なぜならエイハブは敵に敗れたのであり、バートルビーは配達不能郵便の職員であり絶望感を深めている。そしてピエールは自らの書きあげた作品が突っ返されて絶望的であり、敵を撃ち殺したがもはや監獄の暗い穴の中に閉じ込められているためである。こうした死に何を象徴させてメルヴィルは描いたのか。道徳でも社会的な規範でもない。自らの描いていた希望や夢と異なった世界そのものの不確定性であり、運命的な恣意性であり、この世界から隔絶されていること、隔絶されていなければ隔絶するように世界に対して要求する魂にある。魂がそもそもこの世界と反りが合わなかったためであるかもしれない。良く言われる不条理ではなくて、そもそも世界が死を要求してきて知らずうちに、むしろ知っているからこそ魂自らが深くて暗い穴の中に落ち込んでいくのである。
従って母に父の秘密の恋愛があったことを知らすことができずに、ピエールは自らを犠牲にしてイザベルを守ると決める。即ち、愛するルーシーを見捨ててイザベルと偽装結婚して都会に出ると決断する。この決断は激情型の劇場的な行動でありながら、そうせざるを得ないと定められていたことでもある。暗くて深いこの世界の深い穴の底へと落ちていく運命を背負っている。後で述べるようにピエールには天と地の血筋が混ざっていて果敢に攻めながら、結局は地に這いつくばる運命を持っていたのである。決してルーシーと幸せな家庭を作り、一方では姉を愛しむ生活など送ることなどできない。なぜなら、イザベルとは姉と弟での関係である、姉と弟は特別な背徳な関係を持たなければ暮らせないためである。
2) 姉と弟
では、なぜ姉と弟は婚約者とも言える愛する人を見捨てて、特別な関係、近親相姦的な関係を持たなければならないのか。その解の一つとして本作品にはタイタンの近親相姦が書かれている。タイタンは天と大地とが姦通して出来た子であり、更にタイタンが母なる大地と姦通して出来た子の一人がエンケラドゥスなのである。エンケラドゥスはいわば子であり孫である。メルヴィルはピエールも天上性と地上性を融合したものから生まれ出ていると書いている。つまりピエールは天を望みながらも地上的な解脱を達成できない。地上的な母に縛り付けられてしまい、エンケラドゥスと同じ二重の近親相姦者なる情緒をピエールは創出しているのである。天の攻撃も辞さない孫なる情緒を持ちながら、天に至ることなどなくて、穢土に這いつくばって住む者にもならざるを得ない男でもある。こうしたピエールの情緒は劇場型に激情するピエールが突き進んで行く結末とも言える。生まれつつき天に攻撃を行っても這いつくばることになる運命を突き進んでいくことになる。この母と子の近親相姦は、姉と弟に変形していくことになる。メルヴィルはこの心理的な推移を、母を姉と呼んでいた子との対話の倒錯性にあったと記述している。元々この地と天とが近親相姦していたなら、子が母との関係を、弟と姉と呼び変えるは自然な順応性である、妻とも呼ぶこともできる。ただ、ピエールとイザベルの関係は真実な肉体性を持ってはいない、絡み合わさっても互いの暖かさを感じながら、ただじっとしている。召使のデリーは真実の夫婦関係を持っていないと嘆いている。即ち、ピエールとイザベルは近親相姦上の境界線上にいながら、もはや実質的には近親相姦関係にあると思われるが、単に境界上に位置していて至福に至ることができるのである。
3) 無垢性と近親相姦
こうした近親相姦は無垢性と対比される。イザベルは神秘的な顔を持つ姉なのであり、この神秘的なかつ魅惑的な顔が相姦を要求してくる。言い換えれば姉であるためにこそピエールにとって魅惑的な顔になる。一方、ルーシーはもはや関係性を要求してくることはない。イザベルとピエールが夫婦関係にあっても純粋にピエールを愛している。そのためにこそ彼女は捨てられたのにも拘わらず、都会に住むピエールの元にやってくる。もはや彼ら夫婦がどうしようとも関心を持たずに、ただ自らの成すべきことに没頭する。このルーシーの態度こそが謎である。まるで無垢性を持つ天使のように純粋である。もはや天上界に居るかのように、地上の出来事には無関心でただ自らの心に従ってのみ生きている。罪なき穢れなき隣人のようである。ピエールはルーシーも愛している。ただ、イザベルと同等に愛して両者を左右に配置した間に立っているのではない。互いの中間地点に居てどちらも愛しているのではなくて、やはりイザベルの神秘性に惹かれている。左右の中間地点に立って彼女たちの手を握ろうとも、ピエールはイザベルとの穢れた近親相姦の方に惹かれているのである。
これはまさしく顔が分け隔てている。最後の方になって三人は絵画展に紛れ込む。「無名画家による異邦人の首像」を見ると、ピエールとイザベルに強烈な印象を残す。ただ、この若やいだ男の像がイザベルには自らとの相似性を認めたのに対して、ピエールは父の顔を描いた画と同一性を認めていない。同じく父と思い秘めていても、彼らの近親的相姦な愛に違いが生じている。この違いはピエールの猜疑心であり曖昧性が生じたためであり、これについては後述したい。一方、ルーシーは立ち止まらずはぐれて部屋の反対側に行ってしまうのである。そして近親相姦と父親殺しなる二つの喪章をつけた「チェンチの像」の模作の前に立っている。原像の青い眸と白い肌は同じであるが、原像の金髪に対して黒髪である。金髪が二つの罪を犯したのであるが、イザベルと同じ黒髪が飾られているとは、ルーシーはピエールとイザベルの罪なる関係性を見抜いているに違いないのである。黒髪こそが罪をもたらしている。でもメルヴィルはルーシーに関するその後の描写を欠落させている。きっと、こうした無垢性との対比はメルヴィルにとってそれほど意味のあるものではないだろう。単なる相姦性との対比として描かれている。従って、ピエールとイザベルとの濃密な関係に対して、ルーシーはもはや単なる部外者でしかあり得なくなっている。
4) 敵との戦い
善や悪に罪や穢れが混じったこの混濁した世界を単純化するには悪なる敵を作り出すことである。この敵を殺してこの世界を単純化してしまえば一挙に解決することになる。憎きグレンを射殺してしまうのも、そうしたメルヴィルの願望を表している。でも射殺することで一挙に解決するのか。そうではなくて、この世界は混沌と混濁とを持ち合わせていて何ら変わることがない。変わらなければ敵を殺して解決しようとするものが死ななければならない。白鯨を敵にしたエイハブ船長は逆に殺される。ピエールも死んでしまうのである。彼らは死ぬことによって自らの混濁性を解決する。ただ、本当に敵はいたのだろうか。はなはだ疑問である。むしろ、敵を作り出して自らが殺されること、自らが死ぬことによって何事も解決できると暗示している。だが、この世界は何も変わらずにあるのである。
5) ピエールの曖昧性
メルヴィルにおいて一番重要なのはこの曖昧性である。猜疑心とも言える。この現実の出来事における疑念である。因果律に対する疑念とも言える。ピエールはイザベルを姉と認めていた、ただもはやこの事実を疑っている。姉ではないのかもしれないと思い始めている。もし姉でないとしたら、彼女に尽くした行動や愛そのものが無意味性を帯びてくる。この疑念に苛まれることこそがメルヴィルの最大の課題であり、生の無意味な消尽こそが生を成り立っている。もはや、人生とは根拠のない馬鹿げた芝居を演じていることになる。こうした視点を成り立たせているメルヴィルは暗い絶望の淵に瀕しているとも言える。一方、そうと無意味性を認めれば何かが力を貸してくれるのではないか、との私の思いもある。渕から立ち上がって作動して生を謳歌することもできる。従ってメルヴィルを読み解くには、この無意味性を広げて生の謳歌が可能かという観点から行うのが良いかもしれない。苛まれる心に秘められた生の可能性を探り得るかどうかである。すると「ビリー・パッド」がメルヴィルの重要な作品になってくる。言語論的な解釈を施す「バートルビー」ではない、この世界における不可思議性を表現した船乗りビリー・パッドの状況こそが近接している世界であるとの思いが募ってきて仕方がないのである。
6) 作家論とアメリカ文学論
アメリカ文学や作家論を小説の内に結構記述しているのはメルヴィルらしいが、本書の内容などを調べるのは面倒で割愛したい。
7) 協会と聖書にシェイクスピア
また、キリスト教会や聖書、それにシェイクスピアなどのとの関係も割愛したい。
いずれにせよ、メルヴィルを紐解くにはもう少し作品を読み込まなければならない。そして先に述べたこの世界の事実や出来事に対する疑念、猜疑心を中心に探るとそれなりにメルヴィルの像ができあがり、概念的に述べることができるようにも思われる。
以上
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2020年6月11日(木) |
題:バルザック著 石井晴一訳「谷間の百合」を読んで |
スタンダールの「赤と黒」はおぼろげながら記憶している。貴婦人の手に口づけする青年の情熱を・・。ただ「谷間の百合」はさっぱり記憶がない。そこで読んでみると、やはり貴婦人の肌への口付けである。バルザックの壮大で描写力豊かな文章は、誰をも寄せ付けずに圧倒してくる。また、主人公や貴婦人の心は良く描かれている。でも本書の前半は緩慢であり、最後の貴婦人の手紙が胸の内に秘められていた欲望を赤裸々に綴っていて心を打ってくる。それにも拘わらず、本書にはたっぷりと皮肉が込められている。それは主人公に対する皮肉である。この物語を送った先の貴婦人の主人公に対する皮肉は本書全体の、この時代に生きる人々への皮肉であると言うより、主人公である作者ばかりではない、読者なる上流階級への侮蔑である。いや、作者の「人間喜劇」に通じる人間観察なのかもしれない。ただ「人間喜劇」は読んでいないために良く分かららずに、ここでは、本書「谷間の百合」だけの感想を示したい。
本書の裏表紙のあらすじを紹介したい。『純真な青年フェッリクスは、舞踏会出会ったモロソフ伯爵夫人の美しさに魅了され、夫人の住むアンドルの谷間を足しげく訪れるようになる。充たされない結婚生活を送る夫人の心にも、若者の影は、いつしか凄愴な内心の葛藤をともなってしのびよってくる――。白ゆりの芳香の漂う谷間にざわめく強烈な官能の高まりと、宗教的永遠観が精緻な描写に託された近代リアリズム小説の傑作』その通りであるが、あらすじを少し捕捉したい。本書の体裁はフェッリクスが過去の経緯をナタリー婦人に手紙で告白するという形式で成り立っている点には注意する必要がある。
舞踏会でフェッリクスは侯爵夫人の肩に口付けする。これが夫人の心に欲望の傷跡を残すのである。ただ、フェッリクスが足しげく通っても、モロソフ侯爵や子どもたち息子ジャックや娘マドレーヌと打ち解けても、モロソフ侯爵夫人は来客として受け入れるだけで変わらない。モロソフ侯爵は傲慢で夫人につらく当たり、領地の年貢の取り立ての裁断など夫人に任せっきりである。少しずつ呼び名を変えるなどして幾分夫人に受け入れられるけれど、息子として取り扱われるだけで満たされないフェッリクスは谷間を離れ、奔方なダドレー夫人と肉体関係を持って、肉体の愛人を得る。でもモロソフ侯爵夫人に恋い焦がれているのである。手紙の来ないことを心配して、モロソフ侯爵夫人を訪れることにする。ダドレー夫人とは自らと彼の地で待ち合わせることに認める。モロソフ侯爵婦人に会うと、彼女はフェッリクスが愛人を得たことを知って心を痛めていたのである。愛しているけれど行きなさいと言うモロソフ侯爵夫人に対してフェッリクスは後ろ髪を引かれながらダドレー夫人の元に去る。
こうしてモロソフ侯爵夫人は体が弱り出して、フェリックスが訪れると永遠の別れを告げて死ぬ。死んだら読んで欲しいという手紙には、夫人の肩への口付けが火を点けたと述べていて、肉体の欲望を心が必死に抑えている夫人の真実の心が書かれている。また、フェリックスの心ではない体だけがダドレー夫人を愛していて許すといったこと、そして死んだ後の娘マドレーヌとの結婚のことなどが書かれている。最後に、フェリックスのこの物語を記した手紙を読んだナタリー夫人は、悲しい目に合わせたモロソフ侯爵夫人と更に奔方なダドレー夫人の二人の夫人の役割を演じることなど無理だと言い、フェリックスの包み隠さない書き方が揶揄しながら、求愛を拒絶するのである。
今まで読んだ古典的なロマンもしくは不倫小説と比べてみたい。感想文として掲載している作品もある。
1)クレーヴの奥方 ラファイエット夫人作 1678年 不倫な感情を夫に告白をするクレーヴの奥方と相手のヌムール公を通じて恋愛心理を描く初めての本格的な作品である。
2)危険な関係 コデルロス・ド・ラクロ作 1741年 法院長夫人を姦淫へと誘う心理的な罠など、性に放縦なバルモン子爵とメルトイユ夫人を主人公にして、書簡体で記述した作品である。
3)谷間の百合 バルザック作 1835年 フェッリクスなる男の青春恋愛小説であり、フェッリクスは男として成長していくが、モロソフ侯爵夫人のフェッリクスを愛する心と欲望する肉体との相克が描かれている。
4)赤と黒 スタンダール作 1830年 ジュリアン・ソレルなる青年の青春恋愛を通じて成長していく様を、法や軍など政治的状況も含めて描いている作品である。
5)ボバリー婦人 フローベール作 1856年 奔放なボバリー婦人の性遍歴を通じて破滅していく過程が繊細で美しい文章で描かれている作品である。
こうしてみると、小説も成長していくのか、純朴さが放蕩と重ね合わさってくる、心理そのものが肉体との協調と離反を従えて小説作品が展開されている。「谷間の百合」は心理小説であるが、壮大で描写力豊かな文章は時代を通じた人間社会に及んでいて描く枠が広がっている。このためにか女性心理はとても良く書かれているのであるが、どこか微妙ながら男性が描いて創作している気がする。きっと「クレーヴの奥方」が素朴な純粋さを持った文章であるためにか、一層そのように感じるのであろう。この「谷間の百合」は確かに良い作品であるけれど、どこかあざとい。これも手紙なる構成上と先に述べた皮肉とも嘲笑から来ていると思われる。やはり面白いのは「ボバリー婦人」や「危険な関係」の不倫小説である。人間の本性が発現した時にどうなるのか描かれているというより、悪徳や退廃さが善や健全さを上回って魅力的なためであろう。でも、適度に悪徳や退廃が含まれている必要があって、この観点からすると「危険な関係」は幾分刺激的である。「ボバリー婦人」が文章の魅力も加わって善悪の釣り合いも取れていて、一番良い作品のように思われる。
こうしてみると、このバルザックの文章はロラン・バルトのエクリチュール論から解読していくと面白いと思われる。歴史性と現実を反映して自らの資質と感性を織り込んだエクリチュールなるもの、この研究と解読に値する。無論、他の作品も論じることが可能であるが、バルザックの文章はこれらの成分を濃密に含んでいると確信できる。でも、バルザックは「人間喜劇」を読まないと良く分からに違いない。それに、ロマンに不倫小説はまだまだたくさんある。気の遠くなるような話であって、どこかで読むのを打ち切らなければエクリチュールなるもの姿は見えてこない、というより追い駆け続けているだけになるのだろうか。恋愛や不倫小説、それにその他の小説の読書も明確に区切りをつけて研究する必要がある。と言うより、そんなことは考えずに、まあ、小説は読んで楽しければ良しとしなければならないのだろうか。エクリチュール論とは、きっと追い続けるものなのだろう。
以上
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2020年6月4日(木) |
題:バーネット著 土屋京子訳「秘密の花園」を読んで |
なにやら秘密めいた本書の題名であるが、秘密など含んでいない。バーネットは小公女や小公子の著者である。従って本書は暗い底から立ち上がってくる、希望にこそ満ち溢れている。いわば、童話の延長線上にある。それが簡素で淡い抒情を含んだ文章によってより際立っている。登場人物もきちんと役割を持ちその役割を果たしている。こう言えば、もう感想文を書き切ったといっても良いのであるが、本書の内容を少しばかり紹介したい。そして私の記憶にある「百万回生きた猫」なる童話とともに論じたい。
本書の裏表紙に紹介文がある。『インドで両親を亡くしたメアリは、英国ヨークシャーの大きな屋敷に住む叔父に引き取られ、そこで病弱な従兄弟のコリン、動物と話ができるディコンに出会う。3人は長い間誰も足を踏み入れたことのなかった「秘密の庭」を見つけ、その再生に熱中していくのだった』この紹介文のあらすじに少し捕捉したい。メアリは美しい母に見捨てられ、代わりに召使に育てられて勝手気ままに育っている。コレラで両親が死に召使もいなくなって、叔父のいるイギリスに送られるのである。叔父はメアリに関わろうとしない。悲しい出来事があったのである。せむしの叔父は若くて美しい妻と暮らしていた。だが、この美しい妻は花園の老木に座っていた時、枝が折れて死んでしまったのである。その後花園は閉鎖されている。
召使のマーサはメアリをちやほやなどしない。メアリは大勢の兄弟を持ち、ディコンは動物と話ができ花とも仲良くなれる。母親は貧しいながら大いなる慈愛を持って生きている。ある時メアリは偶然に秘密の花園を見つける。ディコンに花の種やシャベルなどを買ってもらいながら手入れを怠らない、元気に育っていくのである。家の中に密やかに響いていた泣き声の主なる叔父の一人息子コリンとも知り合いになる、せむしになると怯えてわがままに生きていたコリンも手伝いに加わる。こうして秘密の花園は庭師のウェザースタッフの助けも借り、甦ったように美しい花が咲くようになる。そして、コリンも元気になり歩けるようになる。長い間旅に出ていた叔父も帰って来て、コリンはメアリと共にその元気な姿を叔父に見せつけるのである。
童話なれば小川未明やアンデルセンやペローなどがあるし、昔話もある。印象深いのはアンデルセンの童話であろう。童話の宝庫とも言え読み答えがある。大人も十分堪能できる。ここで取り上げたいのは「百万回生きた猫」である。記憶があやふやであるが、百万回もさまざまに生きた猫が白い猫に恋をして、この白猫がたくさんの子猫を生む。けれど、死んでしまうのである。百万回生きた猫はとても長き悲しむ、そして最後は白猫の傍らで死ぬのではなかっただろうか。本当に短い話でありながら印象深く残っている。愛する者の死に会うと自らの甦生もかなわなくなったのだろうか。愛する者の死の嘆きが切なく伝わってくる、不思議に悲しさが底知れない悲哀へと充填されて一回の生の大切さが分かる。このように悲哀が含まれていて童話は深みを増す場合が多い。小川未明の「赤い蝋燭と人魚」も蝋燭に秘められた人魚の悲哀がある。この人魚は見世物小屋に売られようとしたが、船が沈没して海へと帰ったのだろうか。記憶が不確かで、でも調べればすぐに分かることであるが、調べるのは止めたい。この童話には明確には謂わないが、悲哀よりも他の感情が含まれている。
そういう点から述べると、バーネットの作品は大いなる善なる善が支配していて健康的である。松永郎の「解説」では児童文学の歴史をたどり、ロマン派では無垢な子供時代の汚されていない世界は想像世界として、決して回復されることのない失楽園として機能する。これが作品になると、美しく純真な子供が周囲の大人を癒すという感傷的な物語が、変奏され反復されて作られることになる。一方、無垢な子供も心は複雑で子供時代の感情を、無垢を突き抜けた経験として表現できる作品こそが、経験を知った子供として再現させることで、喜びと悲しみの両方を読者に呼び起こすことになる、バーネットの「秘密の花園」は後者に属すると松永郎は述べている。どうもこの経験なるものが何を意味するかあまり良く分かっていないが、生きる悲しみと悲哀とを経験した作者自身を投影した作品であるのだろう。この「秘密の花園」がそうした経験を持っているか、持っているとした何なのかについては言わないでおきたい。というより経験の作品へ関与の仕方が良く分からないためである。
以上
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2020年5月28日(木) |
題:マルセル・モース著 吉田禎吾/江川純一訳「贈与論」を読んで |
なんとも不思議な本である。贈与の詳細を知りたくて読んだ本であるが、確かに詳細に記述している。なんと注が本文と同等の分量としてある。その詳細は本当に細かくて読み切れない。あまりにも部族や共同体の贈与について子細に書いているために、具体的な事例として密に書いているためにもはや頭に入らずにお手上げである。主張は簡単である。簡単に言い切ることができる。贈与とは部族や共同体において微妙に異なるのであろう。でも専門家でない者にはこの子細さはしんどい。本書の主張とは次のように言えるだろう。贈与とは物を受け取る義務も強制されているのである。即ち、贈り物を受け取ると、それとともに「荷物を背負い込む」ことになる。単なる物々交換ではなくて、交換される物によって人間たちの交わりや結合関係が生まれる。こうした関係が道徳や法に経済を成り立たせていく。モースはポリネシアやサモアにマオリなど実際に現地調査を行いその結果を述べている。また鷹揚さや名誉に貨幣との関係を述べている。更に古代ヒンドウー教やゲルマン法について述べている。目次を見ると『序論 贈与、とりわけ贈り物にお返しする義務』と書いてあって、まさしくこのお返しの義務のことが事細かに書かれているのである。
もはや裏表紙の紹介文を引用したい。『ポトラッチやクラなど伝統社会にみられる習慣、また古代ローマ、古代ヒンドゥー、ゲルマンの法や宗教にかつて存在した慣行を精緻に考察し、贈与が単なる経済原則を超えた別種の原理を内在させていることを示した。贈与交換の先駆的研究。贈与交換のシステムが、法、道徳、宗教、経済、身体的、生理学的現象、象徴表現の諸領域に還元不可能な「全体的社会的事象」であるという画期的概念は、レヴィ=ストロース、バタイユ等ののちの多くの思想家に計り知れない影響とインスピレーションを与えた。不朽の名著、待望の新訳決定版。人類社会のアルケーへ!』と、とても上手に紹介している。なお、この紹介文にもカタカナ語がでてくるが、本文にもたくさんカタカナ語が出てくるのでとても悩まされる。いずれにせよ、古い昔には贈与は社会システムの基盤として機能していたのである。もはや贈与と言うより、社会システムの大いなるフレームワークなのだろう。
ずっと以前、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を読んだことがある。熱帯での現地調査によって血族関係の複雑さを記述していた。部族内の婚姻関係によって生じた血縁の繋がりが種々の行事などにおいて座る場所など事細かに規定を施しているとの記述が、熱帯の情景とともに浮かんでくる。おじや姪にもっと離れた血縁も関係してくる、近親が遠戚も肉体的に近寄ってよい距離があるのである。無論、住むべき敷地にも関係していたはずである。感想文を読もうとしたけれど、どこかに埋もれていてない。ストロースは構造主義の祖とも言われているが、まさに構造主義とはフレームワークから成り立っているシステムである。文化人類学ばかりではなくて言語や精神心理学や哲学にも影響を及ぼしている。構造とは思想的に強固なものなのであろうか、続けてポスト構造主義という哲学もある。まあ、名前なんぞ何でもよいが、構造が人間たちを支配している。むしろ、人間たちは構造を成り立たせて自らを縛り付けている。そして、この縛りを破局的に解体する運動を行うのである。けれど、またいつの間にか新らしいもしくは新らしく見せかけた古いままの構造を成り立たせて、自らをすっぽり被せて縛り付けているのである。
人間たちとこの構造なるフレームワークとは一種の循環運動である。だから束縛と開放が繰り返されるが、すべからく差異を伴なっている。脱構築や差延とはこうした考えに基づいていたのだろうか。すっかり忘れてしまったけれど、この循環運動が社会のフレームワークを覆したり変形させると認識しなければならないだろう。人間たちは常に収縮と膨張、束縛と開放を導き出す人間社会なるフレームワークの内に生きていることになる。差異が大切であると思う、差異を伴なって反復される構造こそが源にあり、この差異が社会構造のフレームワークの色を染めるのである。まさに色によってフレームワークは人間社会の構造の味付けをするのである。
以上
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2020年5月22日(金) |
題:ヴァージニア・ウルフ著 杉山洋子訳「オーランドー」を読んで |
本書の裏表紙には次のように紹介されている。『オーランドーとは何者? 36歳にして360歳の両性具有者、エリザベス1世お気に入りの美少年、やり手の大使、ロンドン社交界のレディ、文学賞を受賞した詩人、そしてつまりは・・何者? 性を超え時代を超え、恋愛遍歴を重ね、変化する時代精神を乗りこなしながら彼/彼女が守ってきたもの。奇想天外で笑いにみちた、再評価著しいウルフのメタ伝記』と書かれていて、興をそそられた。即ち、両性具有者と書いてあるから、ウルフならきっと「アントナン・アルトー著 多田智満子訳 ヘリオガルバス」のような晦渋に満ちた哲学風で重みに満ちた記述と思い、でも奇想天外で笑いとは何なんだろうと疑問を持って読み進めたのである。
その結果、ヴァージニア・ウルフの作品には珍しく文章が走っており、深刻さがなく滑稽であり、時間は瞬間ではなくて奇妙に飛んで幻覚的でもある作品である。ウルフにこうした滑稽さが潜んでいるとは知らなかった。ウルフの写真が結構掲載されているが神経質そうで、最後には自殺もしているから、滑稽さと彼女は無縁だと思っていたことが、読み進めるうちに覆させられたのである。写真とは瞬間的な真実を暴きながら、決して人格の全体を表現するものではない。なお、本書にはさまざまに変身したオーランドーの画が挿入されていて、読む者を楽しませてくれる。
なお、本書は伝記作家が記述しているという方式を採用している。簡単にあらすじを紹介したい。「隠し絵のロマンス――伝記的に」と題して杉山洋子が巻末に解説を行っていて、章ごとの内容を紹介している。雑になるけれどもっと縮めて示したい。第一章では、オーランドーはエリザベス1世の寵愛を受ける。ロシアの姫君なるサーシャ―と恋に陥るが結局逃げられる。第二章では、詩人を目指すオーランドーは作品の評価を願ったグリーンなる作家に会い、彼の話を面白いと思いながら歓待する。でも、逆に自らを引用されて出版される。背の高いルーマニアの皇女に付け狙われ逃げ出す。第三章ではオーランドーは女になる。いや男の力強さと女の優美さを兼ね備えた両性具有者になる。ただ、男女両オーランドーの自己同一性は少しもゆるがない。第四章では、ルーマニアの皇女は大公殿下なる男になってしまい、求愛されるが逃げ切る。社交界に出入りする。第五章で、オーランドーは結婚する。夫は海の男である。第六章で館に戻り詩集「樫の木」を完成させる。オーランドーが暗く静まり返ったことで、このオーランドーは単一の主体、真の自我となる。女王陛下が館に訪れる。
「樫の木・詩」とラベルを張ったノートに詩を書き続けている姿が印象的である。最後には賞も取るのである。隠し絵のロマンス――伝記的に」と題した杉山洋子の解説には、本書「オーランドー」と作者ウルフの実体験の関係などが割と細かに記述されている。ウルフには実際に男性役のヴィタなる女性がいたとのこと。またシェイクスピアの両性具有の影響も受けているとのこと。これらのオーランドーの何者なのかに対する回答を与えていて、かつウルフの経歴や当時の文学的状況、女性の文学的状況も含んで簡潔に記している。この解説を読むとおおよその事が分かるのでぜひ読むことをお勧めしたい。なお、本書「オーランドー」は「ダロウェイ夫人」や「灯台へ」と異なる系統の作品であることには注意が必要である。ウルフのおしゃべりで辛辣で道徳的など多様な性格が滲み出ている作品である。なお、ウルフは一生涯精神病を患っている。
なお、ウルフは「後期印象派」の絵画展覧会を見て性格を一変させたらしい。『それまでのストーリー中心、ハッピーエンドさもなくば破局で終わり、人物創造に関しては外面的客観事実を描くことに傾いてきた小説に反旗を翻した』のであって、普通の日の普通の人の心をちょいと調べれば、心は数知れぬ印象を受けているとウルフは言い、日常の内面を描き始めたらしい。なるほど、これが「灯台」や「ダロウェイ夫人」を生み出して、今までの小説の筋を壊してしまったのか。これらの小説がなぜ書かれたのか、その原点が分かってくるようにも思われる。ウルフについては「波」を読んでひとまず終えたい。
以上
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2020年5月14日(木) |
題:ヴァージニア・ウルフ著 丹治愛訳「ダロウェイ夫人」を読んで |
たぶん、この作品は傑作である。ヴァージニア・ウルフの作品は少し前に「灯台へ」を読んだことがある。感想文も書いていて、日常における意識の非連続性、瞬間性を描いた作品であると結論づけていたはずである。ただ、「灯台へ」と「ダロウェイ夫人」の間には違いがある。「灯台へ」のラムジー夫人は、夫ラムジー氏とともに揺らぎのない主体として描かれている。でも「ダロウェイ夫人」では、もはや小説の背後にいる作家、即ち、ヴァージニア・ウルフが全権を握って各登場人物の主体性を操作し、彼らの挙動を描いている。それに相互に直接的な関係を持たない人物も登場してくる。文章も「ダロウェイ夫人」の方が詩的であって感情が満ちているが行動は控えめである。一方「灯台へ」は心理的な動きに行動が付随して、時間的な経過に悠久の時を忍ばせていても、散文的な文章だったはずである。
従って「灯台へ」と「ダロウェイ夫人」のどちらが先に書かれているのか迷いながら読んでいた。「灯台へ」の方が落ち着いていて作品にまとまりがある。一方「ダロウェイ夫人」は詩的な文章が時々小爆発を起こして若さを感じさせるが、登場人物の相互の関連性など斬新なアイデアがある。読み終わって「訳者あとがき」を読むと「ダロウェイ夫人」の方が先に書かれていたのである。この丹治愛による「訳者あとがき」は良く書かれている。読みながらどう感想を書こうかなどと思い浮かべた以上の鋭い視点で本書を捕らえている。従って簡単なあらすじを述べて、後は「訳者あとがき」から少し引用して感想を述べたい。
ダロウェイ夫人の家でパーティが開かれる。夫はもう大臣に登り詰めることがない政治家である。長女がいて女家庭教師と仲が良い。一緒に買い物にいくこともある。ダロウェイ夫人はこの家庭教師が嫌いである。嘗ての恋人がインドから来ている。当然会うが、とても仲が良かったけれども結婚はしなかった、今は彼に若い恋人がいるようである。夫人には宮廷の仕事をしている嘗ての友人や同性愛的に仲の良かった女性の友人もいる。これらの人物が逢ったりして昼間に食事をするなどしている。ダロウェイ夫人の過去や現在を行き来する心の動きが丹念に描写されている。一方戦争に従軍して神経症を患い苦しんでいる青年が公園で苦しんでいる。彼は妻の介護や嫌いな医師の診察を受けている。こうして、他の結構多い登場人物含めて、ロンドンの街中での会話や行動をする描写が続いて、やがて夜のパーティが開かれる。総理大臣もやってくるなど大勢いるようで賑わっている。医師の妻もパーティに招かれていて診察を続けていた青年が自殺をしたと連絡を受けたと言う。まさに、パーティのまっただなかに死が入り込んできたとダロウェイ夫人は言う。神経症を患っていた青年の死にダロウェイ夫人は、死は挑戦でありコミュニケーションの試みであり、抱擁があるなどと思っている。忙しくて会えなかった昔の恋人が何か異なる感情を感じたその時、そっと寄ってきたダロウェイ夫人が傍らにいるのである。
「訳者あとがき」から引用すると、本書はキリスト教の大きな物語の解体とともにあらわれた時の無常のなかであらわれた小説なのである。『「ひとつの目的」へではなく「空中に溶けてゆく」ビック・ベンの響きのように無に流れ去る時間を背景にしながら「連続性」から解放された、はつらつたる「瞬間」を「瞬間自体のために」愛するミセス・ダロウェイ、「善のために善をおこなうという無神論者の宗教」の実践としてパーティという「捧げものための捧げも物」を催すミセス・ダロウェイを主人公とする「ダロウェイ夫人」』には、そのような世紀末的な感性が色濃く反映していると言えるのだ。つまり、この作品は第一次大戦以後の精神の病をえがいた戦後小説の傑作であるとともに、1890年代のポスト・キリスト教的な精神状況を表現する「世紀末」文学の傑作でもあるのだ』
訳者は「連続性」と「瞬間」を確かに捕らえていて、加えて世紀末的感性と精神状況を表現していると言っている。そのような感性を潜ませているけれど、むしろ女性性と文章そのものの問題、分裂するそれぞれの主体、更に刻印されて逃れることのできない死との絡みをもっと分析する必要もあると思われる。作家と登場人物の関係、それらを支配する都市の空間に流れる時間と位置は何を言い表しているのかと問うこともできる。でも、訳者の一番優れている点は、このウルフの間接話法と直接話法の中間たる描出話法の翻訳の苦労は並大抵のものではないと述べ説明していることである。翻訳されているため正確には分からないが、確かに会話に微妙な調子が含まれていた。それにこの「訳者あとがき」には、挿絵も結構掲載されていて楽しいものになっている。本書を一読することをお勧めする。
さて、ジル・ドゥルーズがウルフに対して何と述べているか興味深い。ドゥルーズはウルフをエクリチュールと女性性の関連で捕らえている。彼の重要な概念である「女性になること、女性への生成変化」とは、男性的な「存在」の秩序からの離反であり、女性性なるエクリチュールの記述を可能にするだろう。ウルフはそう意味で両性性を愛している稀有な作家であり、かつ女性の社会的な地位の確保に努めている。なお、「女性になること、女性への生成変化」は作家ならば男性作家も含めて、誰しもがこの洗礼を通過しなければならないのである。この芸念の詳細な説明は残念ながら省きたい。私がよく理解していないためでもある。
以上
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2020年5月7日(木) |
題:ジェーン・オースティン作 富田彬訳「説きふせられて」を読んで |
ラファイエット夫人作「クレーヴの奥方」がとても良かったので、ジェーン・オースティン作「説きふせられて」も読むことにした。結構、題名はよく聞く本である。でも、二匹目の泥鰌とはならなかったのである。あらすじは表紙から引用したい。『愛しながらも周囲に説得されて婚約者と別れたアン。八年後、思いがけない出会いが彼女を待ち受けていた・・興趣ゆたかな南アングランドの自然を舞台に、人生の移ろいと繊細な心のゆらぎがしみじみと描かれる。オースティン最後の作品』と書いてある。全体400頁弱の内、40頁そこそこで、アンはすぐさまラッセル夫人に説得されウェンワース大佐と別れるのである。大佐が金を持っていなかったからである。そして、父エリオット卿の財政難で家を貸すことにし、父や姉妹は別の土地か、なにやら分からぬが一緒か別に暮らすことになる。そして、借り手の人間たちにその仲間も加わって、誰が誰だか良く分からなくなる。どうしても何もが分からなくなる。つまり、40頁以降は、あまり読んでいないのである。登場人物も多すぎる。
「クレーヴの奥方」も、最初は多くの人間が登場してきてその関係がよく分からなかった。この小説の場合は、心理が行動に交錯していて丁寧に読んでいないと置いてきぼりを喰うのである。でも、後半はクレーヴの奥方とヌムール公に話が集中してよく理解することができた。こうして考えると、いったい登場人物は何人まで許されるのだろうか。今まさに読んでいる最中のヴァージニア・フルフ著「ダロウェイ夫人」も、最初は登場人物が良く分からない。でも、表紙の裏に主要な登場人物が記載されていた。これが結構役に立つ。ウルフの場合、登場人物の相互の関係さえも良く分からないけれど、読んでいくと作者が都合よく気ままに拵えていて、この時代の風景の中に埋め込んだ人間たちであることが分かるのである。まあ、こうした「ダロウェイ夫人」の話は次回に行うとして、無理に登場人物を増やすことは良くない。作品内容が集中しなくなる、心理もよく分からなくなる。無論、叙事詩などの古い書物ではたくさんの登場人物がでてくる。ギリシア神話などはお手上げである。腰を入れて読まなければ、登場人物を紙にでも記述しておかなければ、読んでも結局誰が何を行ったのかよく分からないだろう。
きっと主要な登場人物一人か二人に脇役をそろえることが良い。たくさんの登場人物に、平等な重みを与えるととても分かりにくい。というより、もはや小説ではなくなる、ある種の別な形式になる。こんなことを話していても詰まらないから、「説きふせられて」に話を戻すと、ウェンワース大佐は再開しても若い娘と付き合うなどして、アンとの間は知り合い程度である。でも、娘たちと結婚はしない。しかしながら恋愛小説にはよくある話で、実はアンに思いを寄せていて、最後に二人はめでたく添い遂げることができる。
「解説」を読むと、オースティンは思慮分別ある常識的で健康な生活と文学観を主張しているリアリズムの作家と書いてある。それに『つまり作者は実生活や作品の中で自分自身の神や人間の生き方(モラル)を探求しているのではなく、社会からモラルを与えられて、それを作品というお皿の中に綺麗に盛って差し出しているようなところがあるのだ』と評している。評価が低いのはもっともなことである。実はこの「解説」にはヴァージニア・フルフの評価が記載されているのである。ここでこの文を引用して感想文として追加したい。少し優しく婉曲ながら非難している、もっともな評価のためである。ヴァージニア・フルフのオースティン評は次の通りである。
『「説きふせられて」には何か特別の美しさと特別の退屈さがある。退屈さというのは、よく二つの時期の間の過渡期を示すあの退屈さである。作者はすこし面倒くさがっている。彼女は題材のうえに、あまり親しみすぎて、今さら注意して眺める気はなくなっている・・・彼女は題材のうえに、全心を集中していない。ところが、そういうことは依然の彼女の方が得意だったという感じを与える一方、他方ではまた、彼女は今まで企てたことのない何かを為そうと試みているのだという感じを与えるのである・・・彼女は、自分で想像していたよりも世界がもっと大きくもっと神秘的でもっとロマンチックなものだと、気づき始めているのである』さらに『彼女の視野がひろがるにつれてあの安全弁はゆり動かされ、今までのようにあるがままの人たちを描くばかりでなく、人生そのものを描くようになったのではないだろうか』とフルフは好意的な表現に徹している。
好意的と言うのは、逆に言えばとても厳しい評価である。厳しい評価は普通言わずに放っおくのに、ウルフがオースティンについて述べるのは、少女時代に読んだなどの思い出あるためなのだろうか。良く分からない。ただ、ウルフが、安全弁がゆり動かされる人生を描くようになったのは確かである。つまり、ウルフはオースティンを借りて自らを語っているのである。
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2020年4月30日(木) |
題:ラファイエット夫人作 生島遼一訳「クレーヴの奥方」を読んで |
本の題名を知っていたためか、何気なしに買ってしまった。読んでみるととても優れた作品である。どうなるのかと読み進めざるを得なくなる、文章を細かく追ってクレーヴ夫人の姿を追い求めずにはいられない。フランスの代表的心理小説のさきがけとなったと言われるのも最もである。表紙のあらすじを紹介したい。『夫の愛情に感謝と尊敬をいだきつつも、美貌の貴公子への道ならぬ思慕に思い悩むクレーヴ夫人。ついに彼女は断ち切れぬ恋の苦悩を夫に打ち明け心の支えを求めるが・・。作者(1634-93)はルイ14世時代の宮廷婦人。緻密な心理分析と透徹した人間観察が生み出したこの名編は、フランス心理小説の古く輝かしい伝統のさきがけとなった』名編と言われるのはきっと真実である。
本作品は宮廷での社交生活が綴られていて、最初は幾分複雑で名前などを覚えるのが大変であるが、また各人の心理や行動が交錯して良く分からないこともあるが、次第にクレーヴ夫人と彼女の思慕するヌムール公との話に集中してくる。クレーヴ夫人はとても美しい人で男性なら誰もが恋心を抱かざるを得なくなる、でも彼女は恋などする心は持ち合わせていずに、クレーヴ殿と結婚する。クレーヴ夫人は母に淑女としての心構えを厳しくしつけられていたのである。この躾は幸福を呼び込んだのか。いずれにせよ結婚した後に心をときめかす、真底愛する人を見いだしたのである。その人こそがヌムール公である。宮廷での数多くある恋愛事例が語れ、特に手紙の件などは誰が誰に送ろうとして紛失したのか、そして誰から誰への手紙と誤解されるのか、紛失した事実の揉み消しは上手くいって事なきを得たのかなど、宮廷での恋愛事情の複雑性や人のうわさなどが話しとして加わって作品を盛り立てている。でも、クレーヴ夫人は自らの心を隠している。
もはや、ヌムール公はクレーヴ夫人にのみ恋煩っている。彼女の別荘に忍び込んでまでその美しい姿形を追い求めざるを得ない。彼女との瞬時の出会いの幸福は、友人に話さざるを得なくなる。この話も誰が誰へと噂を広げて、どう結末されるのか読んでいると冷や冷やものである。本当に冷や冷やで済んだのだろうか。ヌムール公の抑制的な恋心も、クレーヴ夫人の恋心も誰にもばれることはなかったのだろうか。結局、クレーヴ夫人は夫にヌムール公への恋心を打ち明けたのである。他者への恋心を夫に打ち明けるなどという馬鹿げた話はなぜあり得たのか。打ち明けられた夫は、紳士的な誠実さでクレーヴ夫人の貞節を信じることができたのか。むしろ、妻の本心を知って悩み苦しむのではないのだろうか。まさしくその通りにクレーヴ殿は苦しむのである。
クレーヴ夫人のヌムール公への恋心は、公が御前試合たる競技で倒れた時に顔色を変えて駆け寄った時も、手紙の主の噂話が弾んで思わず身を翻した時も、ばれることがなかったならば何時ばれるのか。妻の他者への恋を知ったクレーヴ殿は苦しんで死ぬのである。夫の死にクレーヴ夫人の心はどう変わっていくのだろうか。もはやクレーヴ夫人は貞節を汚すことなくヌムール公へ身を委ねることができる。自らの身を自由にできるのである。礼節をわきまえながらも言い寄ってくるヌムール公にどう対応するのか。ヌムール公は執拗にクレーヴ夫人の屋敷の近くに家を借りて、夫人の姿を目に焼きつけながら切ない恋の成就を望んでいる。この激しい恋心にクレーヴ夫人が答えないわけはいかない。クレーヴ夫人もヌムール公が椅子に腰掛けているのを見出さないわけにはいかない。この作品の結末は書かない方が良いと思われる。
この作品を読んで思い浮かべるのは、フローベールの「ボバリー婦人」やコデルロス・ド・ラクロの「危険な関係」である。それよりも幾世紀も以前にこの「クレーヴの奥方」は書かれいていて、きっといい意味でも悪い意味でもその後の恋愛や不倫小説に影響を与えているはずである。これらの比較検討は論評しない。興が薄れるためである。でも本作品を読んで恋愛における切ない心の真実性は女性作家の描写の方が優れていると思われる。というより、細やかな心理の襞が出来事に伴って推移されることに、ラファイエット夫人の特徴なのか良く分からないが、緻密さがあることは確かである。でも、「ボバリー婦人」には心理展開としての緻密さと大胆さが、「危険な関係」には大胆な策略と行動とが表現されている。そういう意味で行けば、日本の恋愛文学にこれらの作品に匹敵する質の高い作品があるのか気に掛かる。けれど、どうも思いつかない。それぞれの国の事情があるから特に落胆することはないだろう。
以上
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2020年4月23日(木) |
題:ヘンリー・ジェイムズ著 小川高義訳「ねじの回転」を読んで |
ヘンリー・ジェイムズの作品は読んでいるかどうか良く分からない。名前はよく聞く作家である。その中でもこの「ねじの回転」は有名である。読んでみると、ああ、こういう作品を書く作家であったかと、得心したのである。本書の表紙にはホラー作品の先駆的な名著と述べている。確かにホラーであるけれども、もっと奥深さがある。それは言語の虚偽性にある。述べられている言葉の緻密さと裏腹な虚偽が密やかに含まれている。そして虚偽は言葉の細部ばかりではない、作品全体にも及んで存在そのものが不確かになっている。このヘンリー・ジェイムズはジル・ドゥルーズも結構述べていたはずである。
まずは本作品のあらすじを述べたい。作品内容ができる限り漏れないように裏表紙の紹介文を引用したい。『イギリス郊外に静かに佇む古い貴族屋敷に、両親と死別し身を寄せている美文句秀麗な兄と妹。物語の語り手である若い女「私」は二人の伯父に家庭教師として雇われた。私は兄妹を悪の世界に引きずり込もうとする幽霊を目撃するのだが、幽霊はほかの誰にも見られることがない。本当に幽霊はそんざいするのか? 私こそ幽霊なのではないのか? 精緻で耽美な謎が謎を呼ぶ、現代のホラー小説の先駆的な名著』確かにホラー作品とも言えるが、それにしては見たこと聞いたことは怪奇性も恐怖性もあまりなくて、ただ、死んだ下男や死んだ前の家庭教師の幽霊がでてくる、それを私が見ている、当然兄妹も見ていて影響されているということだけである。最後はどうなるのだろうと思っていたが、この結末には驚いてしまう。なお、本作品は女性が書いた手稿を読むと言う形式で始まっている。
この小説の背景と言うのが興味深い。家庭教師になる女性は二十歳そこそこの田舎娘で、伯父さんに二度しかあっていない。破格の待遇ではあるが、問題はすべて一身に引き受けて苦情も手紙も書かず、この伯父さんなる男を煩わせないという約束がある。立派な風貌で贅沢が身についていて女の扱いも洒落ている、この伯父さんに女性は恋をしていると思われる。それゆえに困難な問題が生じようとも解決して認めてもらおうとしているのか。会うことのできない男のために懸命に努力するのである。何という不毛の恋であろうか。こうした恋の努力は今まで聞いたこともない。この背景がじんわりときいて不毛な努力の報われることを願いながら読むのであるが、無論、他者を介して知らせるなどの方法も行えても、決して報われることはないのである。なお、ねじの回転と言う言葉は確か二回でてくるが、子供に与える『ねじの一ひねり回すくらいの効果』である。二人なら二ひねりになるのだろうか。
「訳者あとがき」で簡潔明瞭にかつ的確に本書を解説しているので若干紹介したい。『物語は視点人物が見たようにしか語られずその主観的な語りに含まれないものは読者に分からない』という点が重要である。更に幽霊がでたどうかはさして問題ではない。原文を読んで迷わないように訳したら、原作を裏切っている。字句に関する解釈など文章が面倒で読む人の数だけ解釈があると述べている。更に「テキストの異同から生じる矛盾」と言って、どの部屋であったのか、人物の配置や優越感など意識がなさせる認識の矛盾や齟齬を表すテキストそのものの特異性を述べている。もしや語り手が幽霊を敵(または仮想敵)とする自作自演している、と訳者は指摘している。確かに、若い家庭教師の芝居とも言えないこともない。と言えば、この物語全体の解釈が不能になってくる。
「ドゥルーズ 千の文学」では堀千晶がヘンリー・ジェイムズを「幽霊の知らなかった二、三の事柄」と題して論じている。簡単に言えば全知全能の語り手がいず、あちこちに散りばめられているものことを通じてしか、世界をみることができない。ドゥルーズがジェームズに対して言う秘密の誕生とは、全知全能の視点の消滅に対応する出来事なのである。そして感覚されるものが見えているものとは別の何かを示すメタファーとなる。ジェイムズの作品は曖昧なものをそのままのまま打ち立てて、意味の不確定性な揺らぎと散逸を設定する。更に兆候が崩壊せんとする限界地点に立ち会おうとしている。「訳者あとがき」と同じ視点ながらとても詳しく書いているので関心があれば読んで頂きたい。ドゥルーズが述べている大切な概念である「表現の形式と内容」に言及しているのである。
もう一つ記述に付け加えることがあるならば、きっと不可能性である。カミュなどの「シジフォスの神話」のような、カフカの「城」のような不可能性である。中心に近づこうとしても決して近づくことのできない不可能性こそがこの世界にあるということである。
以上
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2020年4月16日(木) |
題:エマニュエル・レヴィナス著 合田正人/谷口博史訳「われわれのあいだで」を読んで |
レヴィナスの「神・死・時間」は、講義録をまとめたものであった。本書「われわれのあいだで」は、短論文を20ほどまとめたものである。本書の横帯には次のように記述されている。『《他者に向けて思考すること》をめぐって フッサール、ハイデガー、ベルグソンらの思想との格闘をつうじて混迷する現代社会の道徳と政治に一条の希望の光をもたらす。1950−80年代におけるレヴィナスの思索を集成する』即ち、30年間にわたる短論文を集めたもので、他者に向けた思考でありながら、「存在の彼方へ」、「全体主義と無限」、「実存から実存者へ」のように思想が纏められ展開されているのではなくて、長年にわたって変遷し展開していく思想の痕跡である。従って、分かりにくいレヴィナスの思想がより細切れになってより分かりにくいが、それでも彼の全体の思想のうちの、一部な細部の思想がそれなりに細かく記述されている。レヴィナスを読む場合は、まずは「存在の彼方へ」、「全体主義と無限」、「実存から実存者へ」を読むべきなのであろうが、これらの本を読む時の理解に、本書はある程度の支援をしてくれるはずである。そうした観点から、序言を除いて20もある論文やインタヴューの内、関心を持ったもののみについて簡単に内容を紹介したい。簡単であるために説明不足であることは注意されたい。
「序論」ではレヴィナスは出発点として動詞としての存在をあげている。動詞は存在するプロセスとして、存在すると言う出来事ないし冒険として存在が捕らえられるのである。そして、人間によって生きられる生のうちに生じる偶発的な出来事は、他なるものへに自己を捧げることを本義としている。人間の実存においては他者のために身代わりになる一者の可能性であり、この可能性こそが倫理という出来事なのである。人間の実存の内には他者のために実存することという死の脅威よりも強き使命が存している。この主張こそがまがうことなきレヴィナスの核心の思想であろう。
「存在論は根源的か」では、ハイデガーの存在論から始まる。ハイデガーの存在論は存在者を存在の次元で認識することであり、存在了解とはこのような認識によって唯一実在するものである特殊な事物と関わることである。即ち、この存在者同士の関係は存在者を存在者として了解し存在者を存在者として自由にあらしめるのである。ただ、唯一の例外は他者である。こうしてレヴィナスはハイデガーの意味する存在者と他者との違いについて論じていく。他者は了解の対象であり呼びかけによって語りかけることと不可分の関係にあり、彼に語りかけることによって彼は私の連帯者になる。他者との関係は存在論ではない。他者との絆は他者を表象するのではなく他者に請願することである。この絆において了解が請願に先立つことがなく、この絆こそを宗教と呼ぶ。そして言語の本質は祈りである。存在者との関係は顔への請願でありすでに発語していることなのである。こうしてみるとレヴィナスのこの初期論文は、他者との思想の根幹を示している。請願と言う思想は彼の根幹を成していて、その後他者への責任に関わる思想へと発展していったのであろう。
「自我と全体性」では、思考の有無から記述されている。ある特殊な存在が自分を一個の全体としてみなし得るのは、この存在が思考を欠いている場合のみである。即ち、思考する存在は全体を認識し関係付けようとするのだが、自らの特殊性と全体性を混同している。混同させているものこそが生なのである。意識が外部を認識し始める時に思考は始まり、摂取することのできない外部との関係を確立している。即ち、自己意識は内的システムとは無縁なものとして外部を思考し外部を表象できるのである。こうして思考する存在は外部と内部の全体と関わりながら実存するとはいえ、全体からは分離されて留まる自我であり続ける。なぜなら外部の内部への侵入は、生体の意識それ自体の消失である死であるためだ。この自我と全体との関係は思考の道徳的諸条件の記述に帰着するとレヴィナスは述べているが、私の所有物ならざる事物、この事物と関わっている複数の人間との関係が自我と全体の関係であり、この関係が正義の業で実現されるために倫理的なのである。こうしてレヴィナスは罪障性や無辜、法や慈悲、宗教や全体性、身体と意志などについて述べている。
幾つかレヴィナスとのインタビューが掲載されているが分かり良い。問いもまたふるっている。例えば「哲学、正義、愛」では他者の顔と絡めた愛、神、国家などに関して話している。「死刑執行人」も顔を持つかとの問いに、「死刑執行人」は隣人を脅かす者、この意味において暴力を呼び寄せる者であり〈顔〉を持たない。ただ、「間主観性の非対象性」と呼んでいる自我の例外的な位置があるとのこと。この例外によるのか、正義を起点としてある程度の必要な暴力は存在すると答えている。ただし、人間同士の関係が不可能である全体主義的な国家ではない、暴力を制限する国家において数々の制度を認めなければなない。即ち、このような国家のうちに正義伴うとして暴力的な必要部分が存在するのである。
「非志向的意識」では、レヴィナスが思想の礎として負っているフッサールの意識を動かす志向性という概念から始まっている。ここの文章は抜き書きしたい。『意味の地平は、思考されるもののなかに思考が吸収されるならば掻き消えてしまう。思考されるものとはつねに存在の意味作用を担うものである。掻き消された意味の地平は、志向性という分析によって再び見出される。すなわち志向的分析は、存在者と存在の地平を忘却した思考を反省して検討し、この意味の地平を甦らせるのである』では、非志向的意識とは何か。志向性としての世界や諸客体に向かう意識は間接的に自分自身にとっての意識でもある。世界や諸客体を再現前化する能動的な自我についての、再現現前化の作用そのものの、心的活動ととしての意識である。ところが間接的なものであれば媒体を欠いていて、暗黙のものであれば思考目標を欠いているのである。この非志向的な意識は混乱した表象として考察され、志向的意識によって世界それ自身を表象するものとして変えることができる。ただ、志向的なものに付随して体験させられる非志向的な意識の真の意味を問うことはできて、この問いの答えをレヴィナスは論じている。そもそも意識とは自己についての知を意味するより、むしろ現前の消失もしくは控えめな現前そのものなのである。即ち、告発されるべき罪人性について述べているが、自己の現前そのものが責めを負う疚(やま)しい意識であり、前反省的な非志向的な意識なのである。この非志向的な意識は自己の現前そのものの責を負うとする。こうした非志向的な意識についての思想はレヴィナス独特のものかもしれない。
内容の紹介はここまでとしたい。最初にも述べたように、レヴィナスの思想を理解するためには結構役に立つ本である。ただ、細部まで正確に読み解くには難しい。時間と調べる手間ひまが掛かる。
以上
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2020年4月9日(木) |
題:メルヴィル著 飯野友幸訳「ビリー・パッド」を読んで |
メルヴィルは「白鯨」と「バートルビー/漂流船」とやはりこの「ビリー・バッド」を読んでみないと分からない。無論その他にも著者の作品は結構あるが、良くは分からないけれど、あとは「ピエール」だろうか。「ビリー・パッド」は「白鯨」のように長編ではないし、白鯨に対するエイハブ船長の執念を描いているのではない。また「バートルビー」のように、「できればせずにすませたいのですが」[I would Prefer not to]と謎めいた言葉を発するのでもない。一人の若くて誰からも好かれる船員の激情にかられた行為が悲劇的結末を引き起こすのである。「バートルビー」よりも現実味がある。現実から引き出したメルヴィルの記述であるようだ。
本の裏表紙には次のように紹介されている。『18世紀末、商船から英国軍艦ベリポテント号に強制徴用された若きビリー・パッド。新米水兵ながら誰からも愛される存在だった彼を待ち受けていたのは、邪悪な暴略のような運命の罠だった・・。アメリカ最大の作家メルヴィルの遺作にして最大の問題作が、鮮烈な新訳で甦る』ビリー・バッドは嫌われているためか反乱を疑われて目の前で船長に告げられる。ビリーはこの告げ口をする先任衛兵長クラガードを右腕を閃めかせて殴り、その結果クラガードは死ぬ。ヴィア船長はどう対応したらよいか悩む。結局船内にて軍事法廷を開いて、自らは目撃者として、また船長の考えを示して、三人の裁判員たちの判断に委ねる。船長は情を訴えながらも、事実こそが結論を導かなければならないと言うのである。三人の裁判員たちは困惑しながらもヴィア船長の考えを受けいれる。結局、ビリー・バッドは有罪判決を受ける。絞首刑である。絞首刑が執行されるまで描写は抒情的であり、最後は本事件を伝える海軍新聞の記事、「ビリーは手錠をかまされて」という題の詩が掲載されている。
「解説」として大塚寿郎が行っているが、メルヴィルの経歴を含めて的確に書いていて分かり良い。そして本書の読み解きについても賛同する。その論旨について紹介したい。簡単に言えば「物語」は曖昧で不確定と言うことである。本書は寓話的な物語、歴史・政治、それにメルヴィル自身の個人的体験の三本の糸が絡まさっていて解きほぐすことができない。神学的にも政治的な意味もなくて寓話でもない。ポストモダン的な「不確定性」や「曖昧」と言った言葉であらわされるものである。ホーソーンがメルヴィルを「信仰にも不信仰にも満足できない」と評したことに通じている。いわゆるオチのある物語ではない。何が正義なのかではなくて、誰の正義なのかが問われている。そしてオチがあると思っていた物語は曖昧で不確定なものなのであり、そんなポストモダン的な空気を吸って私たちは生きているのである、というのが解説者の論旨である。確か、J.ブリゴジンも「確実性の終焉:時間と量子論、二つのパラドクスの解決」という哲学書の中で、ニュートン力学の確実性から量子論の不確実性に入れ替えて論じていたとの記憶がある。物理的な数式を不可逆的な時間へと入れ替えていたかもしれない。ただ、この不確実性はポストモダン的な出来事の出現と絡ませて哲学的に論じると面白いのかもしれない。この辺りはもっと調べる必要がある。
ただ、確かに言えるのは、メルヴィルは海軍の反乱事件を題材にして思いのままに筆を走らせたに違いない。そして何度も書き直して自らの意に沿って本作品を仕上げているのだろう。本作品はメルヴィルの没後に発刊されている。なぜ何度も書き直したのかが問題となる。無論、自らの意に添わせるとは、自らの文章によって描かれていることである。即ちエクリチュールとして歴史と現在の世界から影響を受けて作り出した自らの文体が縦横に発揮されていることである。このメルヴィルのエクリチュール、文体こそ問題としなければならないだろう。訳者あとがきでは、メルヴィルの訳の難しさを述べている。特に本書の28章に記述されている『純粋なる小説においては形式上の均衡美が得られるとしても、本来絵空事ではなく事実をあつかう語りにあってはそれは容易に達成できない。真実を妥協なく伝えようとすると、語りはいつもごつごつした部分ができてしまう』なるメルヴィルの文書の重要性を指摘している。真実を言葉にすると常に、ごつごつとした虚構性が含まれている、とでもメルヴィルは言っているのだろうか。こうしてみれば彼の文章にはとても関心がある。ただ、自らではなくて他者の著作物を読むことで確かめたい。メルヴィルは今後も解明され続けなければならない作家の一人であるのは確かと思われる。
以上
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2020年4月2日(木) |
題:ド・クインシー著 野島秀勝訳「阿片常用者の告白」を読んで |
ジル・ドゥルーズが結構取り上げている文学作品とその作家について、日本人哲学者や文学者がドゥルーズとの思想と絡めて論じている「千の文学」なる本が発刊されている。この本には約40人の作家について記述されている。でも、約10名については読んだことがない。これら読んだことない作家の作品を読もうとして仕入れた本の一つが本書である。結論から述べると、前半が抒情的な散文で、後半の阿片中毒の話が記述されている。阿片中毒の話は阿片の量を減らして、結局止めたと言っている。でも実際には常用していたらしい。他の阿片中毒者の参考になるかは不確かである。それ以上に、前半の抒情的散文に魅力がある。訳者による解説もド・クインシーは散文の達人であったと述べている。なお、本書の原文には三倍の量のある増補版がある、けれど、量は多くても簡潔さに難点があり本書を選んだとのこと、もっともと思われる。本書は「告白」として、1822年に発刊されている。増補版は1856年に発刊されている。
前半の抒情的散文とは訳者の文章から引用すると、後見人との確執、グラマースクールからの遁走、ウェールズ放浪、ロンドンでの飢餓生活、オックスフォード通りでのアンとの物語である。アンの物語は心に残る。飢餓生活において著者は、十六歳にもならない若い売春婦アンの助けを受けた。アンは自らの乏しい財布から金をはたいて気付け薬として葡萄酒を買ってくれたのである。そして何週間も一緒に通りを歩いていた。金を借りる算段として著者が遠くに出掛けなければならなくなった時、再開を約束して別れる。でも、二度と会うことができなかったのである。アンの苗字を聞いていなかったので探しても見つからない。このアンはクインシーの心からもはや決して離れることがない、美しい物語なのである。その他の話は省略したい。なお、麻薬の話は主に日ごとの摂取量の増減についての話である。
訳者野島秀勝の解説では、ド・クインシーはコウリッジと書簡のやり取りをしていたとのこと。コウリッジと言えば幻想詩「クーブラ・カーン」なる詩を思い出す。訳者によると、コウリッジも麻薬を常用していたとのこと。当時、麻薬は現在ほど取り締まりも厳しくなく、薬局に売っており、歯痛など痛み止めなどに結構使用されていたらしい。その後次第に取り締まりは厳しくなっていったとのこと。コウリッジはド・クインシーの気質を次のように評している。「切々としていながら遅々としており、あまりにも正確さを期して混乱し、筋が通っていると同時に迷宮的」とのこと。言い得ているとも思われるが、言い得ていないとも思われる。つまりコウリッジは対言語を用いて表現することで曖昧性を前面に押し出し、言い得ていると錯覚させている。ボードレールもこの本を愛読していたらしい。なお、ボードレールはハシーシ(大麻)の作用について記述しているとのこと。訳者野島秀勝は美しい文章で解説を書いているのでぜひ参照して頂きたい。
「千の文学」では西脇雅彦が「ド・クインシー ライプニッツ的哲学者」と題して短論文を書いている。そう言えば本書ド・クインシーは自らを哲学者と評している。カント哲学を研究していて挫折した過去を持つようだ。この短論文について簡単に述べると、ドゥルーズは「襞――ライプニッツとバロック」で知覚について「分子状の知覚」と「モル状の知覚」を述べているが、これはライプニッツの「表象」ないし「微小表象」と「意識表象」に対応している。そして、この分子状の知覚=微小表象はド・クインシーによって表現されているとドゥルーズが述べていたということだ。なお、この知覚について記述した哲学書や心理学所は結構出版されている。その中でもメルロ=ポンティーの「知覚の現象学」が一番体系だっているように思われる。
以上
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2020年3月26日(木) |
題:谷崎純一郎著 「台所太平記」と「潤一郎訳 源氏物語」を読んで |
「台所太平記」はとても良い作品である。谷崎家に仕えていた女中の話である。無論、谷崎は女中という呼び名を嫌っていて、個々人をどう呼ぶべきか、いろいろ工夫していたようである。例えば、本名を置き換えて呼ぶなどして気を使っている。主人の千倉磊吉の好色気味な性格は表立ってでることがない。女中たちの引き起こす出来事が主に綴られている。この出来事が人間の深層心理に届いていて、それに対応する磊吉や妻の賛子の溢れる人情味が、人間を肯定して未来への幸福な旅立ちを約束している。戦中の悲惨さや戦後の混乱期において、主人夫婦の女中に接する態度は慈愛に溢れている、どうしてここまで対等とも言える関係を維持できたかは分からない。やはり谷崎の人間に対しての肯定感が浮き彫りにされているためであろう。他の作品においても、谷崎が否定的に描いた人物は若干名を除いて記憶にない。無論、文壇仲間では激しい罵り合いもあったようであるが・・。
谷崎の文章は長めでおっとりとしている。ゆったりとした語り口が滑らかに彷彿としてくる暖かみのある作品にこそ、この文章は良く似合うはずなのである。例えば「盲目物語」や「吉野葛」である。決してマゾ的な肉体を描いた作品ではない。マゾ的とは鞭打つ瞬間性と俊敏性を持たなければならない。おっとりとした鞭打ちなどない。従って谷崎のマゾ的な態度は擬態である。女が好きであって女に憧れているためにこそ、マゾ的な擬態に結びついている。無論、主役は女でありながら、谷崎は決して女に尻に敷かれて鞭を打たれているわけではない。単に背中に足を乗せて按摩をしてもらっているだけである。主人として若い女を教育して、放たれてくる色香を楽しんでいただけである。こうした谷崎の楽しみは戦中戦後の芳しくない状況で、源氏物語の現代語訳と合わせて苦境を乗り越えさせる源になったと思われる。これらの本の出版年は以下の通りである。
台所太平記 1962年
谷崎源氏 「潤一郎訳源氏物語」 1939年
「潤一郎新訳源氏物語」 1951年
「潤一郎新々訳源氏物語」 1964年
さて、本書の内容を簡潔に紹介したい。女中と彼女たちが引き起こした出来事だけを簡単に記したい。「初」は美人ではなかったけれど、肉付きは豊満で皮膚の色は真っ白である。雑巾で拭いたように足の裏も真っ白である。田舎の鹿児島では夜這いがあるが、されたことのない唯一の女である。磊吉は初の足で踏まれるのが好きである。初の姉は弟に貢ぐために三千円で売られている。「梅」は癲癇の症状があって、ガタガタ震えていることがある。嘔吐することもある。じっと空間の一点を見詰めたまま音もなく歩いて便所に用足しに行くこともある。結婚すれば治ると医者に言われて、実際結婚して子を産むと治ったのである。「小夜」は磊吉の鉛筆を無断で使って、引き出しにわび状を入れる。ねちねちした話し方をする女でもある。磊吉は怒って妻の賛子の説得に拘わらず首にする。
「節」は小夜が止めると田舎に帰ると言うが、別の宅に紹介する。節は小夜と同性愛の関係にあったらしい。小夜を斡旋してあげた先の女主人は穢わしいと言って、彼女たちが一緒に寝ていてダブルベッドなどを処分する。小夜が田舎の徳島から小包みを送ってくる。するとすき焼き鍋の古いのやらガラクタが出てくる。こっそり集めていたものを返してきたらしい。「駒」は「男性の精子は何処の薬局に行ったら売っているのでしょう」と言うなど、突飛なエピソードがたくさんある。嫁に行くとき妻の賛子が枕絵を見せると、熱心に息を凝らして見詰めて「こんなのを見るのは好きでございましわ」と言う。駒は人の声色を真似るのが得意である。怪しげな人が戸外に居ると、五六人の声色を真似して退散させてしまう。犬のダニを五千匹追い払ってぽろぽろと泣いている。犬が可哀そうでたまらなかったらしい。
「鈴」には磊吉自ら教育して、鉛筆で文字の練習をさせたことがある。自らも勉強して難しい漢字も書けるようになる。「銀」は自転車に乗って橋から転げ落ちて眉間から血を流して痣が残る。「定」は再婚した母親の元に居づらくなり、実父も再婚して、姉も悪い男に騙されて子がいる。この定が女中の中で最初に嫁に行く。孤独で優しく他人のために骨身を惜しまず働くことを惜しまないため結婚相手の母に見染められたのである。器量よしは銀と鈴である。銀はタクシーの運転手と恋仲になる。タクシーは磊吉の家と買い物などをする熱海とを結ぶ貴重な役目を持っていたのである。運転手の光雄と石段の下でキスをしている。車内で二人抱き合っているなど熱い仲である。銀は光雄のために田舎の祖母から都合された三十万金を貸すなどして、博打などなどの悪行から手を引かせるつもりである。銀は鈴があるところから調達してもらった五万円も光雄に貸している。ただ、同じ女中の百合とも光雄は恋仲にある。
「百合」は磊吉の外食時の最高のお供である。磊吉に気後れなく物言いするためである。光雄との仲が破局して後に百合は有名女優の付け人になる。元々からそういう希望を持っていたので妻の賛子が世話したのである。ただ、女優の代わりになった積りで周囲の者たちに威張り散らすため有名女優も腹に据えかねていた。結局炭坑の落盤事故で脳天から顎にかけて鉄の棒のようなものが真っすぐに突き刺さって死んだ父の元にもいかず、豪勢に集めた品々と持ってある会社に勤め口を見つけ出したらしい。百合は光雄が男性の象徴たる一物の偉大さを自慢して見せびらかすと、助平野郎と言って怒っている。体の関係はなかったらしい。銀はすでに女になっているとの噂がある。結局、銀が光雄と結婚する。光雄も根気良い説得を受けて、賭博、女漁り、競輪、負債の山などの悪行を止める。鈴はラブレターを受け取った男としばしば喧嘩をしていたようだけれども、清い交際をしていて、結局縁談としてまとまる。
磊吉は女中たちの子の名付け親になったり、妊娠時の「帯祝い」を行ったり、こうして晩年になったある日、昔の女中さんたちなどにも来てもらって喜寿のお祝いの宴を開く。健康を祝して万歳をあげる。最後に本書について再度言うが、谷崎のゆったりとした文章が、女中と言うより女が好きな磊吉と人間味溢れる女中の小話を丹念に描いて、意外ながら傑作とも言えるのである。これは夏目漱石の「坊ちゃん」と同等に値打ちがある。
「潤一郎訳 源氏物語」は良い本である。谷崎のゆったりした長めの文章が良く似合っている。それに、できるだけ具体的な現実感を削いだのが良い。ある種夢の中にいるような、物語の中に溶け込みそうな気がしてくる。この「潤一郎訳 源氏物語」については機会があれば論じたい。
以上
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2020年3月19日(木) |
題:横溝正史著 「病院坂の首括りの家」を読んで |
横溝正史の映画はテレビなどでよく見ている。どろどろした人間関係が好きである。でも、たぶん、彼の著書は読んでいない。あまり文章に張りがなくて読めないと恐れていためである。読めない作家は結構いる。ただ、横溝正史はぜひ一度は読んでみたい。もし良ければ作家論も書いてみたい。従って、内容の知らない本書「病院坂の首縊りの家」を読んでみることにする。何と言っても題名が良い。「病院坂」と「首縊りの家」が巧妙に組み合わさっている。病的なイメージをもたらす「病院」と「坂」との組み合わせ。そして家が首を縊ったと錯覚させる「首縊りの家」とは上手すぎる。ああ、写真屋か。写真屋と言えば、男女の赤裸々な姿を映した乾板を巡る恐喝によって起きた殺人事件を思い出す。江戸川乱歩の作品であったと思っていたが、横溝正史の作品であったのか。記憶が不鮮明なために分からない。
読んでみると文章はそこそこながら、記述内容が冗長すぎる。半分以下に圧縮できる。でも読み飛ばすことができるのは幸いである。結論から言うと、横溝正史は類いまれなエンターテイメントな作家である。凄惨な殺人事件は滑稽とも思われて、でも筋書き通りに話は進み、金田一耕助はたくさんの殺人を防げなくとも事件を解決する。そして読者を幸福に導くのである。まるで水戸黄門が大団円で終わるのと同じように、読者に多大な満足をもたらして生きる力を付与してくれる。たくさんの凄惨な殺人が行われながら、エンターテイメントの力とは恐ろしく生を肯定して、生きるための活力を注入してくれる。なんとも言えない奇妙な死と生の構図である。でも、これが真実な感想である。ただ、定めた筋書き通りに物語を進ませるためか、微妙に筋や心理に狂いが生じている。狂いが生じてもものともしない、本書にある説得力こそが不思議である。これこそが文章の力なのか良く分からないが、何とも言えず展開や謎解きを楽しんで結末では安堵し納得できる、まさにエンターテイメントに読むことができる探偵・怪奇本なのである。
どう作品内容を示したらよいのか。上巻の裏表紙の紹介文を引用して示したい。『その昔、薄幸の女性が首を縊った忌まわしき旧法眼邸。明治から戦前まで隆盛を極め、“病院坂”という地名にもなった大病院の屋敷跡であった・・。本條写真館の息子直吉は、ある晩そこで奇妙な結婚記念写真の撮影を依頼された。住む人もない廃屋での撮影は、何やら不吉な出来事を暗示しているようであった。数日後、再び屋敷を訪れた直吉は、そこに鮮血を滴らせ風鈴の如くぶら下がった男の生首を発見するが・・!?』風鈴と生首、そして呪いの詩集に、現在も送られてくる脅迫文は、過去に生じた悲惨さ出来事が現在も活力を保持していて殺人が起こることを予告している。そして金田一耕助の巧妙な探偵作業にも拘わらず、忌まわしい殺人が次からへと起こるのである。この詳細は述べないことにする。
後は本書を読んで疑問を感じた筋に、若干の感想などを記述したい。筋が明らかになることもあるので、本書を読んで楽しみたいと思う人は以降読まないことを勧める。なお、飛ばし飛ばしに読んでいたので誤解があればご容赦願いたい。
1) まず、第一に大きな疑問は由香利と小雪のあまりにも似かよった容貌である。夫も分からない位であるなら、一卵性双生児を思い浮かべていたが、そうではなかった。同一人物を想定して読んでいたが、空間的配置に無理が生じてくる。そして、本書では彼女たちは叔母と姪の関係にあることが、二人の人物の瓜二つの根拠としている。由香利は本書の影の主役でもある弥生の若き日の淫乱な行為の結果生まれた子供ではなかったのである。でも、それでは、一卵性双生児と同等な容貌には成り得るはずがない。
2) 弥生はなぜ乾板の処分を早期に行わなかったのか。写真屋に相応の金を渡してすぐに処分できたはずなのに、自らの淫乱さを証明する乾板をなぜ残したままにしていたのか。写真屋に死体の処理を任せるくらいであるから、直ぐにできた関係のはずである。それを行わずそのままにしておいたのは理解し難い。
3) 犯人はなぜ殺人を行ったのか。妻の淫乱さを知っていて自らの子でない可能性も十分考えられるのに、自らの子と知ったからと言って複数の殺人を行う根拠とはなりにくい。
4) 美穂は愛する人と初めての契りを交わしたのに、なぜ別の男をホテルに誘うのか。心理的な根拠がない。愛する人と添い遂げたい思いを持っているからには不可解である。おまけに愛する人と泊まったホテルに落書きして、証拠として残していたなんて都合がよすぎる。この落書きは別の日に書いた可能性もあり、初め偽のアリバイと疑ってもいたのが、なんとも気の回し過ぎであった。
5) 最後の独白によって謎解きが行われるのは常套手段であるが、なんとも言えず心に迫ってくる。そして、弥生が死んで変わり果てた姿には感心する。淫乱さがおぞましくて罪の意識に苛まれる著者の倫理観は誰にも受け入れられるだろう。
6) 風鈴と詩集が首縊りの、首のぶら下がったイメージに重なっていてとても良い。だが、サムスンとデリラを小雪と敏男にイメージを重ねるのはあまり関係性がない。小雪と敏男は敏夫の女癖の悪さがあるが、相思相愛の仲に近くて、サムスンとデリラのように欺き欺かれる敵対性はないのである。
7) 戦中の爆撃と戦後の風物詩が根底を流れている。経済的な勃興と退廃も流れていて作品にある種の質を与えている。バンドも良いが構成員の役割がいまいち分かりにくい。
8) 金田一耕助の最後の事件簿というより等々力元警部が主役にも思われる。いずれにせよ、金田一耕助に関する殺人事件はすべて解決して、彼は意を決しアメリカに旅立つのである。
最後に、横溝正史の作家論を書くのは取りやめにしたい。なぜなら、他の作品を読む気力が湧き上がって来ない。テレビなどで映像を楽しむのが一番良いかもしれない。ただ、小説のエンターテイメント性については堪能することができた。小説とは昔からエンターテイメント性を持っていて、読者に読む楽しみを与えてきたのである。それが細やかな心理描写が加わって、ダイナミズムが失われスタテックな哀愁に満ちた心理小説が増えてきた気もする。こうした小説のダイナミズム性とスタテック性とを絡めた筋と心理の関係については別の機会に考察したい。
以上
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2020年3月12日(木) |
題:メルヴィル著 牧野有通訳 「書記バートルビー/漂流船」を読んで |
どうもメルヴィルは「書記バートルビー」を読まないとだめらしい。バートルビーこそがメルヴィルを論じるのに必要な人物である。読んでみると、「書記バートルビー」よりも「漂流船」の方が面白い。カフカの「城」を読んでいる雰囲気があって、前半は謎に包まれていて視線と怪しげな作動だけがある、それが急転してくる。でも「書記バートルビー」もそれなりに面白い。内容的にはむしろ、バートルビーこそがカフカ的とも思われる。自らが存在することの曖昧性や不可能性が書かれている。憎き敵を執拗に追い続けるエイハブ船長を描いた「白鯨」とは全く異なるこうした筋を簡単に紹介することは難い。もしくはこれらの小説を読む者のために、筋を明らかにしない方が良い。この作品は裏表紙に書かれている紹介文を引用するのが良いだろう。
『ウォール街の法律事務所で雇った寡黙な男バートルビーは、決まった仕事以外の用を言いつけると「そうしない方がいいと思います」と言い、一切を拒絶する。彼の拒絶はさらに酷くなっていき・・。不可解な人物の存在を通して社会の闇を抉る、メルヴィルの代表的中編2作』と書かれている。決して社会の闇を抉っているわけではない、存在論的なある種の意味付けの不条理性を書いている。まあ、良いが「漂流船」の筋が書かれていない。「漂流船」は港に停泊している船が漂流船を見出す。船長が乗り込んで水や食料の援助を申し出る。相手の船長は申し出を受け入れるが何やら要領を得ない。黒人の従僕がすぐふら付く船長の面倒を見て、そして二人で時々怪しげなひそひそ話をしている。船には手斧研ぎや槙皮作りなどをしている黒人や白人の乗組員、それに子をあやす黒人の女も乗っている。この船は船長の話では、スペイン人と黒人が乗っていたが暴風や疫病で相当な人員を失ったということである。あらすじの紹介はここまでにしておきたい。なお、船首像に人間の骨から作られた「死の骸」が飾られていることだけは記しておく。
ジル・ドウルーズが「批評と臨床」で「バートルビー、または決まり文句」と題して結構詳細に論じているので簡単に論旨を紹介したい。「そうしない方がいいと思います」なる「I would prefer not to」は、この本の訳では「できればせずにすませたいのですが」となっているが、
この繰り返される言葉が、柔らかく、力はないが、我慢強い声で呟かれることで、非分節化された魂、ただ一つの息をかたち作って、非文法的な表現と同じ力、役割を担っているとドゥルーズは述べている。この言語論については詳細を省くが、決まり文句によって言語行為が骨抜きにされているのである。決まり文句は語と事物、語と行動を分離するのであるが、バートルビーの場合、言語行為と語とも分離し、言語活動は基準からどれもこれもが切り離されてしまい、基準とすべき背景がなにもない人間になっている。基準をもつことなく、突如として現れ、姿を消す人間としての使命に則っているとドゥルーズは述べている。詳細は上記の本を参照のこと。
カフカの述べている独裁者なる人物「彼にとっては地面は両足に必要な部分だけだし、支点は両手で覆える範囲で事足りている」こそが、バートルビーであると述べているのが興味深い。バートルビーの事務所での生活空間は徐々に狭まってくるのである。ただ、彼は事務所長なる弁護士との諍いで解放される。むしろ追放されると言った方が良いかもしれない。事務所長なる弁護士は彼を親身に思い、むしろ愛しているとも言っていい位なのであるが・・。ドゥルーズはこの所長を代訴人と呼んでいる、この代訴人とバートルビーとの間での同一化の関係について問うている。ドウルーズの論点は彼の概念たる父親的な機能の喪失やパッチワークや線に基づいて、この同一化を論じることで、新しい同一化、新しい世界を構成するアメリカの夢の三つ特徴を指摘している。そして、バートルビーとエイハブなるまったく異なる人物を描いたメルヴィルについて論点を移していくのである。これら論じられる内容の詳細は省きたい。
メルヴィルは物事が謎をはらんだままで、しかも恣意的でない小説を書く偉大な作家の一人なのである。独創人とは一人ひとりが孤独で力強い図形人形であり、説明可能ないかなる形態からも漏れ落ちてしまう人物である。この独創人であるバートルビーとエイハブを和解させること、非人間を人間と同居させることがメルヴィルの最も高次の問題であると指摘している。ただ、共同体において同居は可能であるのか、ドゥルーズの筆はロシアにアメリカ、プラグマティズムに社会主義、ロレンスにメルヴィルを論じて縦横無人に走っている。結論だけ示しておきたい。『バートルビーは病人ではなく、病めるアメリカの医者、呪医であり、新たなキリスト、あるいはわれわれすべてにとっての兄弟である』と述べている。ただ、すべてにとっての兄弟であることには間違いないけれど、アメリカやヨーロッパにその他の国の病とはそれぞれに異なるものであって、その病とはいかなるものなのか、と少し思いを馳せる。この思いを馳せているのは誰なのだろうか。無論、私でありながら私ではない誰かである。と言えばバートルビーはわれわれすべてにとっての兄弟ではない、誰かであるとも言うことができる。こうした言い方は恣意的に謎を含ませていて詰まらないことである。
「漂流船」の感想や論評については機会があれば行いたい。「漂流船」は読み進めるうちに不安感が高まってくる。でも、その謎は解けるのである。カフカの「城」の結末を思い出そうとするけれど、どうしても思い出せない。「城」に謎はあったのだろうか。「審判」の結末は波打ち際にて起こる死である。この「書記バートルビー」については機会があればまた論じてみたい。
以上
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2020年3月5日(木) |
題:ラウリ・マエロフ著 羽田詩津子訳 「コピーキャット」を読んで |
間違って読んだ本である。でも、刑事ものでもあるし殺人心理でもあり追跡劇でもある本書は、とても素敵な作品であった。実は、ジル・ドゥルーズが結構取り上げている文学作品とその作家について、日本人哲学者や文学者がドゥルーズとの思想と絡めて論じている「千の文学」なる本が発刊されている。この本には約40人の作家について記述されているが、約10名については読んだことがない。これら読んだことない作家の作品を読もうとして仕入れた本が本書である。読み終わった後に調べたら、マルカム・ラウリーとラウリ・マエロフとを間違えていた。間抜けな話である。でも、間違っていても面白ければよい本である。
この「コピーキャット」なる本の内容紹介は裏表紙に書かれている文章を引用したい。すべての筋、特に最後を記述するわけにはいかない。救われるか、救われることのない絶望的な結末になるか、それは読んでみないと分からない。『犯罪心理学者のヘレン・ハドソンは、連続殺人鬼のカラムに命を狙われて以来、広場恐怖症になり、部屋に籠って怯え暮らしていた。サンフランシスコ市警の辣腕女性刑事モナハンは、再び起きた女性連続殺人を解明する糸口を探していた――。モナハンの要請で、連続殺人の手口を分析したハドソンは、不気味な事実に気がついた。誰かが過去の異常犯罪の手口をコピーしていることに・・・。』本書の良い所などは箇条書きにして簡単に示したい。
1) 文章が卓越している。出来事を書きながら、その心理的な背景にも行き届いた記述をしている。この文章が並の文学作品以上に文学的であり詩情豊かである。
2) そして、生じる出来事が過去とオーバーラップして重層化している。現実の出来事を記述する時は素早く場面も変わり良く分からない時もある。けれど、現実そのものが二重構造化して進行していると錯誤させる、錯乱してくるとも言える楽しさがある。
3) 悲惨さを含んでいて恐怖に引き攣り壊滅的な時もある。でも現実はこれら悲惨さを含んで進行するのであり、生きている人間たちは受け入れざるを得ない。またこの悲惨さはある時にはサド的な絶対否定の観念として作動する。でも、本書は優しく労わる慈悲も加わっている。
4) 複数に多重化された恋愛が進行しては挫折している。これは恋愛だけであるが、人間はカフカが示すように、幾つもの現実的な役割を多重に担っているのであり、その位置する場面場面において巧妙に人間は役割を果たすのである。
5) 視線の果たす役割、精神的な緊張と弛緩が哲学的な関心を持って想起してくる。
6) 探偵小説として筋も人間配置も巧妙である。犯人と犯罪心理学者の愛とも言える確執が面白い。まさに、善と悪が対立するのではなくて混濁してある種の愛を育んでいる。また刑事と犯罪心理学者なる女たちの確執と愛が他の男との愛も含めて描かれていて、恋愛小説とも言える一面を持っている。
7) パソコンやネットなどを有効利用して現在のハイテク技術を指し示している。この作品は技術批判までは繋がっていないが、現代技術を有効活用し記述している。
8) 難点として名前が多くて突然出てくるなどあるがこれ以上記述しない。
9) 結論として、恐怖に満ちた娯楽性と愛おしい人間愛を楽しめる作品である。
既に映画になっている。ユーチューブで数分間見たが面白そうである。文学に動的な運動が必要としたら、こうした作品の心理と行動とを取り入れた、もしくは幾分か模倣して記述を行えば毛色の変わった文学作品が生まれ出てくるのかもしれない。実は横溝正史が好きで、でも映像しか見たことがないが、一度読んでみたいものである。
以上
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2020年2月27日(木) |
題:モーリス・メルロー=ポンティ著 永戸多喜雄訳 「意味と無意味」を読んで |
意味とは何かについて書かれている、と期待して読んでみる。もう殆ど忘れたが、ジル・ドゥルーズの「意味の論理学」みたいな意味について論じていると思っていた。ところが、本書は哲学的なエッセイ、もしくは短論文であって「作品」、「思想」、「政治」と区分けされて、13のエッセイや短論文から成り立っている。絵画や小説や政治、特にマルスクス主義について語っている。著者は人間が世界に投げ掛けられている状況を捕らえて、実存主義の現況を説明すると同時に歴史的なマルク主主義の行動を批判的に論じて、真のマルクス主義とは何かと問い掛けてかつ答えている。マルクス主義は希望でありプロレタリアを救うものであったはずが、戦後ロシアにおいてもアメリカの大衆運動にも、プロレタリアは犠牲的な位置に置かれている。人間の世界が可能であるとの自信は持っていないと著者は述べている。結局、無意味とは希望なるマルクス主義を実現できないこの戦後の状況であり、セザンヌが作品に描くように物自体が提示し欲求していることを開放することが意味なのである。ただ、著者は「序文」にて、『人間もまた、危険と任務とを測りさえすれば、勝利をものにすることが出来るのだ』と未来への希望を述べているが・・。
モーリス・メルロー=ポンティの原文の難しさのためか、訳文がぎこちないためか 文章は飛んで切断されいて、かつ硬い言葉を課されていて分かりにくい。詩的言語でもない、論理性を含んでいるために正確に把握して論じるには、とても分かりにくい文章である。メルロー=ポンティの訳文の本は何冊か読んだことがあるが、事細かに論理的に論じていたと記憶しているが・・。取りあえず、気になった短論文だけを簡単に紹介したい。でも、メルロー=ポンティが主眼として論じているのは、戦中戦後のマルクス主義、人間を救うはずのマルクス主義の運動の実体とその役割の評価と期待である。意味があるとするなら、この主義が真にプロレタリアの未来に果たすことのできるという大いなる期待なのであろう。
「セザンヌの疑惑」では、メルロー=ポンティは、セザンヌはかれの眼に映じた世界そのもの中で、かれに提示されていた意味を開放したにすぎないと述べている。この意味とはそれらが言おうと欲していたことである。こうしてセザンヌの経歴に話が及び、彼は絆を失い人間の中で異邦人にならなければならなかったと述べ、投企は自由な選択による自発的なものと思われがちであるが、選択は出生の時に成されていたとする。こうして自由について論じているが、我々は限定されていないけれど、自らの内に自分のなっているものの予告を見出しているとして、やはり決定論的な立場を取っている。「セザンヌの疑惑」とは絵画に自らの目と思いによって真実に描こうとしたセザンヌの真摯な態度そのものを指していると思われる。「小説と形而上学」では、シモーヌ・ド・ボヴォアールの小説「招かれた女」における二人の男女に、招かれた女を加えたこのトリオなる三人を通じて、意識、他者と倫理を論じて、実存主義へと展開している。「悪評作家」とはサルトルのことで、「嘔吐」などを通じて人間の創造と政治について述べている。
「映画と新しい心理学」では、古典的な心理学はいくつかの感覚の集積またはモザイクとみなして、個々の感覚はそれに通じる局所的な刺激に左右されているとする。一方ゲシュタルト心理学では感覚の概念を排除することによって、形態理論は記号と意味、感じられるものと判断されるものをもはや区別しないとして、網膜を通じた感覚について、そして映画について論じている。メルロー=ポンティの大著「知覚の現象学」(まだ読んでいないが)に通じるものがあるはずである。「ヘーゲルにおける実存主義」では、ヘーゲルにおいては自己に委ねられて、自己に理解しようとする生命であると言う意味で実存主義が存在するとして、ヘーゲル著「精神現象学」は人間が自己を取り戻すための努力を重ねていると述べている。「実存主義論議」では、なぜ実存主義がマルクス主義に接近するかについて、ルフェーヴルの思想を通じて論じている。そう言えばサルトル著「実存主義とはヒューマニズムである」を読むと共産主義を行動基準に採用している、その無謀さに癖々したことを思い出す。メルロー=ポンティは、マルクス主義は自律と依存とを同時に確立する新しい意識の概念を要求しており、実存主義を窒息させる代わりに実存主義的な探求を救い上げて統合すべきと結論付けている。
「人間における形而上的なもの」では、ゲシュタルト心理学を事物としての実存と意識としての実存を混合体に似たものとして再び心理学的認識を新しい方式で生気を与えるものだとする一方、言語について論じている。言語は内面なき事実のモザイクでありながら、一つの総体でもあるとし、言語は個々の主体のまわりで回りながら中心には主体や投企も見出されなければならないとする。主体の交流の意志にとってこそ、言語は事実の多様性の中に志向や照準を見出すことができて、これは心理学の事物と意識の実存としての混合体に相当するのである。そして真理や価値、宗教などを通じて人間として形而上的な意識について論じている。「マルクス主義をめぐって」では、主にマルク主主義の歴史と思想的な解析を行っている。チエリ・モーニエ著「暴力と意識」を参考にしながら、モーラス主義について引用しながら、マルクス主義の偉大さに、文化史と経済史の統合について、生産と労働の人間活動や社会構造について論述している。
「マルクス主義と哲学」では、真正なマルクス主義について述べている。簡単に言えば、歴史の運動の中で人間が自分自身と世界とを自分に取り戻すことなのである。この短論文は結構気合が入っていて、人間と社会と経済の関りについて書いている。なお、哲学するとは実存する仕方がさまざまあることの一つでもある。その他「政治」についての短論文の紹介については省略したい。これらは戦争についてのエッセイでもあり、政治的な状況とその批判を含んでいる。それにしても本当に硬くて分かりにくい本である。どうやら新しい翻訳本がある。
以上
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2020年2月20日(木) |
題:オウィディウス著 中村善也訳 「変身物語」を読んで |
ずっと以前から読みたかった本である。表紙に記述している紹介文を紹介したい。『古代ローマの天成の詩人オウィディウス(前43−後18)が、ストーリーテーラーとしての手腕を存分に発揮したこの作品には、「ナルキッソスとエコー」など変身を主要モチーフとする物語が大小あわせて250もふくまれている。さながら、それはギリシア・ローマの神話と伝説の一大集成である。ラテン語原点の語り口をみごとに移しえた散文訳』と書いている。なお、オウィディウスは騎士階級に生まれローマに行きながら、あまりにも詩才にすぐれていたため官界での出世はかなわず、結局異境の地に流罪にされる。彼の代表作の一つ「愛のさまざま」なるエロチックな詩作品が原因であるらしい。「有名女性たちの手紙」、「色道教本」、「恋愛治癒術」と加えて、作者にいわゆる「恋愛研究」の時期があったのである。この時期を過ぎて「変身物語」や「祭事歴」に見られる神話伝説や祭事に関する物語を創作する。ただ、最後は追放されて嘆きく「悲しみの歌」や「黒海からの手紙」を作ることになる。こうしたオウィディウスの生涯は波乱の満ちたものであるが詳細は省きたい。なお詩作品には韻律を踏まえた叙事詩と自由な詩型とがある、またそれらの過渡的な形式もあるとのこと。これたの形式のおおまかな説明は本書の解説で述べられているため、参照のこと。
本書を読むと当然ギリシア神話を思い出す。でもギリシア・ローマ神話とは厄介で、有名な話は覚えているが、殆ど忘れているのではないだろうか。まずもって名前が覚えきれない。神話としての話が微かに脳の隅にこびり付いているだけである。確かトマス・ブルフィンチの「ギリシア・ローマ神話」や呉茂一の「ギリシア神話」に野上弥生子の「ギリシア・ローマ神話」は持っていたはずであるが読み切れていない。野上弥生子の作品には巻頭に夏目漱石の紹介文が載っていたはずである。串田孫一の「ギリシア神話」は簡明で有名な話だけが載っていてすべて読んでいる。記憶にあるギリシア神話は、この串田孫一の本が痕跡として残してくれたものかもしれない。元々各国の神話とは似通った箇所があり、特に世界の始まりとしての神話と古事記の日本の始まりやペルセウスとヤマトタケルとの試練の類似性などには関心が深い。これらを調べるのも面白いが、たぶん結構な時間が必要とされるだろう。
この「変身物語」は原文もしくは訳が良いのか文章に味があって読むに耐え得る、それ以上に味わい深いものが在る。ただ、有名なお話は分かるが、それ以外の物語は連続的に記述されていて区切りが不明瞭で良く分からなくなる。即ち、古事記はイザナギとイザナミの系譜の時間的な流れが明確であるが、ギリシア神話は時間的な流れが混濁していて、誰が誰の子だとか混乱してくる。無論、系譜図などもネットを調べれば載っているはずであるが、調べないと分からないのはあまりにも登場人物が多いためであろう。古代ギリシア・ローマは周辺国や人種も含めて複雑であることが、神話本を厚くさせている一因なのかもしれない。それにゼウスが多数の女に多数の子供を生ませ過ぎる。無論、古事記でも多数の子が生まれてくるが、物語として意味ある行動を行っている人物は限られていて、当然お話は少なくてすんでいる。北欧神話を読み調べようと思ったら函だけがあって中身がなく空っぽである。インド神話はごく一部しか読んだことがない。こうした各国の神話を調べるのも面白いが、困難性が伴うであろう。
話が幾分横に逸れたが本「変身物語」を読んで一番良かったのは、ペンテウスとディオニュソスの神話に登場する信女たちの狂気を暴いていたことである。ギリシアの悲劇作家エウリピデスの「バッカスの信女」をはるかにしのぐ描写がされていた。ペンテウスが母の率いる信女たちに腕を引きちぎられるなど残酷な仕打ちを受けた後、母の勝利の宣言が印象的である。こうした経緯はカドモス王の子孫たちが生み出すしているが、カドモス王そのものが因果を導いているとも言える。このテーバイの王なるカドモス王そのものの話も加わっていて話を豊かにして、結構長めに書かれている。更に、アポロンに変わって日輪の運行を行うパエロンの悲劇、更にペルテウスによるゴルゴーンの三姉妹との、特に石化する目を持つメドゥーサの首の獲得の戦いやその後の話は印象的である。更に自らの姿を見て恋い焦がれるナルキッソスは有名である。オルペウスが冥界に降りて妻のエウリュディケを受け取り、後ろを振り返ってはならないというのに振り返ってしまいまた死ぬことになる話は、イザナミの腐乱した死体を見たイザナギの話と似ている。このようにこの「変身物語」には数々の変身の話が、詩情豊かに書かれている。
本書「変身物語」は、物語を作る上で大いに参考になるかもしれない。芥川龍之介が「今昔物語」から創作上のアイデアを仕入れたように、物語を紡ぐには現実の出来事以外に過去の物語を参考にするという手法もある。けれど、過去の物語から物語を紡いでもこの現実こそが反映されている。なぜなら文章とはエクリチュール論に基づいていると確信していて、エクリチュール論はロラン・バルトやデリダなどが行っていたはずであるが、作家の書く文章とは自らの感性も含まれているけれど、伝統文化や現実からも大いに影響を受けているとの理論である。そうした文章は概念でしか紐解けないはずである。
なお、本書「変身物語」の細かな内容の紹介は省略したい。ただ、変身には悲劇を伴っていることが多い。カフカの「変身」のようにシュールに絶望的ではないが、悲喜こもごもの人生の悲劇が詰まっている。でも、どこか幻想的で読むと楽しませてくれる。
以上
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2020年2月13日(木) |
題:関根正雄訳 「十二小預言書」を読んで |
ずっと以前に「十二小預言書」を読んだことがあるが、忘れたので読み返してみる。大預言書としては「イザヤ書」、「エレミア書」、「哀歌」、「エゼキエル書」、「ダニエル書」があるが、殆ど記憶にない。ただ、「エレミア書」は良かったと記憶している。こうした預言書の他に「律法」(モーセ五書)、「諸書」があり、旧約聖書は結構複雑な構成になっている。馴染みのない者にはなかなか難しい。また、本書によくでてくる(古代)イスラエルを国また民族として理解するのも難しい。古代イスラエルに存在したユダヤ人による国家がイスラエル王国である。ただ、「ユダ王国」と分裂などして時系列を追うと複雑になるが、ユダヤ人とは唯一神のヤウェーを神とするユダヤ教を信仰する民族である。また、ローマ帝国の侵攻を受けパレスチナと改名されるのである。パレスチナ人とはこの地に住むユダヤ人、アラブ人を呼ぶ。ローマ帝国によってキリスト教が権威を確保すると、ユダヤ人は迫害され追放される。こうしてユダヤ人は主にヨーロッパ各地に住むようになる。ヒットラーが国を持たないユダヤ人へホロコーストを行っている。現代ではユダヤ人はイスラエルなる国家を樹立し帰還している。こうした経緯のすべてをきちんと理解するのは困難であり、この程度に簡単化したい。というよりこの程度しか理解できない。
「十二小預言書」にはホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデア書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニア書、ハガイ書、ゼカリア書、マラキ書がある。こうした預言書には基本的な筋としての流れがある。ヤウェーがイスラエルに怒り災難などをもたらそうとすると、預言者に言葉を語り、預言者はこの言葉を民衆に伝える。怒りはイスラエルが淫行などにふけり堕落しているために生じる。だが、イスラエルの民衆は聞かず、神の怒りの鉄槌が下る。すると、民衆は悔い改めて、ヤウェーはイスラエルなる国を復活させるのである。この「十二小預言書」では各預言者の言葉が詩形式で綴られている。そして同等以上の枚数で詳細な解説がなされている。これらをすべて理解することなどできない。また、理解する必要などない。私は詩として読み楽しんでいる。無論、細かな内容に関心はあるが、それなら「出エジプト記」や「ヨブ記」などを再読する方が望ましい。従って、本書の感想は書かずに、詩の内容を一部抜粋して示したい。直接的な表現が目に引く、叙事詩として優れている詩である。訳文は少し古めであるとも思われるが、でも、相応に堪能できる。ヤウェーとイスラエルの民の行為と怒りと嘆きが露わになっている。以下、数編の詩を引用し示したい。
ホセア書
四 沃地の神
「訴えよ、君たちの母を、訴えよ。
彼女は私の妻ではなく、
わたしも彼女の夫ではないから。
彼女はその顔から淫行を除き、
その乳房から姦淫を去れ。
さもないとわたしが彼女を剥いで裸にし、
その生まれた日のようにしよう。
わたしは彼女を荒野のように、
潤いなき地のようにし、
渇きによって彼女を死なせよう。
彼女の子らをわたしは憐れまない、
淫行の子らだから。
そうだ、母は淫行を行い、
彼らを生んだ者は恥ずべきことをした。
・・・以下省略 淫行とは、イスラエル人がバールのために、顔や胸につけていた何かの入墨、またはお守り、飾りの類を指すらしい。なおバールとは所有者、主を示す。姦淫の女は裸にして石打ちしたらしい。ここでは石打ではなく渇きによって死なせる。ホセアは女を婚姻により子らを生む大地と見ている。
ヨエル書
ヤウェーの日の予兆
第一章
・・・
覚めて泣けよ、酒に酔う者、
泣き叫べ、すべての酒飲みよ、
新種は君たちの口から奪われた!
げに一つの族がわたしの国へと攻めてきた。
その族は力強く数知れぬ、
その歯は獅子の歯で
そのあご骨は雌獅子のそれ、
わたしの葡萄の木を荒らし、
無花果の木を折り
皮をひんむいて横倒しにし
その小枝をはだかにした。
嘆けよ、若き時の夫のために。
荒布を腰にまとう処女のように。
ヤウェーの家から素祭と灌祭は絶たれるのだ。
悲しめ、ヤウェーにつかえる祭司らよ、
畑は荒れ果て、地は涸れ果て
げに穀物は荒れ果て
葡萄の身はひからび
オリーブの汁もかれた。
・・・以下省略。いなごの災害を述べているらしい。
アモス書
三一 終わりの日の救い
「見よ、終わりの日が来て」
とヤウェーは言われる、
「耕す者は刈り入れる者に続き
葡萄を踏む者は種蒔に続く。
山々は新酒でしたたり
すべての丘はとける。
わたしはわが民イスラエルの運命を転換する。
彼らは荒れはてた町々を建ててそこに住み、
葡萄園を植えて、その酒を飲み、
菜園を作って、その実を食べる。
わたしは彼らをその地に植え
彼らは再びわたしが与えた地から
引き抜かれることはない」
と君の神、ヤウェーは言われた。
・・・終わりの日はこの世の終わりではなく、救いの日であるとは珍しい。
以上
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2020年2月6日(木) |
題:谷崎潤一郎著 「谷崎潤一郎 フェティシズム小説集」を読んで |
谷崎潤一郎の「冨美子の足」を読みたかったのである。本書はフェティシズム小説集として六つの作品を集めている。「刺青」は処女作。感想は既に記述済み。「悪魔」は親戚の家に居座る学生が従妹を気にする。この従妹の手布についた鼻汁を啜り心躍らせる学生、この学生の話は他の作品にもある。「増念」は痛みに快感を覚える少年。この痛みは肉体に与えられるのではない、与える痛みである。なお、少年は鼻の孔の醜さを見てから痛みを与えることになる。この鼻は「武州公秘話」では主テーマになっている。「冨美子の足」は冨美子の美しい足の描写である。「青い花」は若い女に服を買って着飾らせる中年の男の話である。谷崎には珍しく文章が走っている。女の裸体を妄想している男が、女の肌へ、肌ともなる服を貼り付ける描写が良い。「蘿洞先生」は作者自身がモデルなのか、雑誌記者の面会を受けるが話のしないしょぼくれた老人である。記者は帰りに家の周りを歩いて老人の背に小女が鞭を振るのを見る。発表年は以下の通りである。
「刺青」 1910年 「新思潮」
「悪魔」 1912年 「中央公論」
「増念」 1914年 「甍」
「冨美子の足」 1919年 「雄弁」
「青い花」 1922年 「改造」
「蘿洞先生」 1925年 「改造」
これらの短編を読んで感じるのは、まず文章の密着度である。これは肌、足、鼻、鼻汁なる肉体に密着した文章であると同時に、これらに執着する心の密着度も表わしている文章でもある。心とはエロシチズムなる妖しさ、執着心と言っても良い。ただ、密着して相応に執着していながら緊迫感は薄い。無論、「青い花」では女の肌を貼り付けるようにして服を着させるが、その執着心は彫刻や裸体の想像も含めて強いのであるが、どこか客観的に描かれている。対象に寄り添うように作者はいながら対象の内部に入り込むことを望みながら、どこか醒めている。言い換えれば、足や肌や鼻に執着していながら逆にこの執着性が対象からむしろ離脱させているとも言える。逆に「春琴抄」などは作者が明確に作品の外に居て、春琴の姿を冷静に物語として綴っているのに、むしろエロシチズムが濃厚に浮き出てくる。これに比較して、これらの作品ではむしろエロシチズムが希薄であり、極端に言えば嘘くさい虚妄性とも思われる。
こう思うのは、作者の倫理的な規範が作品に色濃く反映されているためであろう。作者が老いなどという衣を被って現実的なエロシチズムの表現を極度に抑えているために生じている。即ち、これら肌、足、鼻、鼻汁なる肉体に作者は執着している。けれど、これらが作品の内では規律を守って作動している。とても冷静なのである。作者の心の奥底が明らかにされていない。明らかにされているとしても想像上の、いわば妄想として取り扱っている。一見自己を曝し出すようにして作品を書きながら、実は谷崎は自己の正体を現わしていない。正体とは本心である。本心はこうしたフェッチのみが好みであるのか、または別の好みもあるのか。作品はこれらの選んだフエッチを超えず、ただ文章がフェッチの密度を増して描かれている。けれども、表現の形式と内容とを節度を保って抑制して律義に道義性を保持して、エロチシズムは希薄なのである。
こうした律義な道義性を持っていてもっとエロシチズムを深めたいなら、それにあい相応しい表現の形式と内容がある。相応しい表現を用いなければ、内容は抑制された表面上の、いわば深入りしない表現としての行為と心理になってしまう。従って、描写が長くなるにつれて緩慢性を帯びてくる。深入りしない文章であるため、ただ表面上を徘徊して描写することになる。「冨美子の足」は今述べたこれらの点を明確に指し示している。読む前は美しい冨美子の足、その形や色合い、肌の艶やかさ、血管の浮かび具合、太腿へ続く盛り上がりなどを延々と記述していると思ったら違っていた。即ち、小説形式として、青書生が先生に手紙を書くと言ういつもの常套手段を用いている。「卍」などと同じ手法である。手紙で色好みの隠居の足を愛でる性癖を実現させている冨美子の足を、隠居は青書生に絵に描かせるのである。それも草双紙の好みの画と同じ縁側に腰かけて上半身を左方へ傾け、右の足を外へ折り曲げているある種の肉の張った緊張感のあるポーズである。こうして青書生と冨美子と隠居が掛け合いのように話して行動して物語を進ませる。いわば富子の足の美しさを称える文章はほんの少しである。冨美子は隠居の遺産を期待していて、既に愛人がいる。隠居は死ぬ前に冨美子の足に踏まれることを望んでいる。こうして小説の表現は行動と心理の表層、言い換えればある種の律義な道義性を保った内容を決して逸脱しない範囲で記述されているのである。
先に述べたように、最初から作者が明確に作品の外に居て出来事を連鎖させて「春琴抄」や「細雪」などと言った作品を記述する時、初めて谷崎潤一郎は高級な通俗的作家とも言える評価から逃れ出ることができた。即ち、高貴な作家として無意識のうちに永続する時間と空間を描き切ることに成功したのである。描く文章の質を保ちながら、通俗作家から一転して谷崎潤一郎を高尚な哲学的な次元へと概念を表現できる作家へと押し上げている。もう、谷崎の作品をだいぶ読んだので、「谷崎源氏物語」などを読んで終えたい。できれば作家論としてまとめたいが何時になるかは分からない。というより、もう出来上がっている。
以上
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2020年1月30日(木) |
題:畠中尚志訳 「スピノザ往復書簡集」を読んで |
この「スピノザ往復書簡集」は「知性改善論」と同じ畠中尚志が訳している1958年発行の古い本で、復刻版として入手している。この「スピノザ往復書簡集」はスピノザの書簡の内か個人的な思想とは無縁の記述は削除されているらしい。どうもスピノザの思想を浮き彫りにするために編集されているとのこと。書簡は年代順に並べられて、合計十九人とのやり取りが掲載されている。無論、スピノザ思想の信奉者ばかりではなくて、論敵とのやりとりについても掲載されている。神学者のブレイメエンベルクとスピノザとの間で取り交わされた「悪について」は「スピノザ 実践の哲学」にも簡単に紹介したが、生々しいものがある。ブレイメエンベルクの主張にも納得しかかる。けれど、次第に手紙は俗悪さに満ちてくる。反駁するスピノザは冷静である。常にスピノザは温厚で冷静に手紙を書いている。自らの思想の更なる説明を求められた時も簡明に論理的に書いているが、幾分突き放したように見えるのは既に著書にて説明していると主張しているためであろうか。
なお、この「スピノザ往復書簡集」はスピノザの哲学的思想ばかりではなくて、科学的な内容も結構含んでいる。また、哲学的内容そのものも繰り返されて書かれている。従ってすべてを理解しようとして読んでいると、とても時間がかかるため科学的な記述はおおよそ読んだだけである。もったいないと思うけれど、無制限に時間があるわけではないので致し方ない。感想としては、哲学的な概念について記述した個所の内、気になった点のみを箇条書きにて示したい。なお、引用は本書の文章の接続詞や動詞を省くなどして縮めるなど、若干の操作をしている。また、本書以外の訳文があるかどうかは知らない。最後にほんの少しだけ感想を述べたい。
1) 神とは自己の類において無限で最高完全な無限数の属性からなる実有である。
2) その本質において全然異ならないような二つの実体は存在しない。実体は産出されることができず、存在することが実体の本質に属する。すべての実体は自己の類において無限で最高完全である。
3) 個々の意志発動は、その存在の為に自らの原因を有せねばならぬので自由とは言われ得ず、むしろ必然的にそれらはその原因から決定される通りである。誤謬乃至個々の意志発動は自由ではなく、むしろ外的原因によって決定され、決して意志によって決定されない。
4) 実体の本質には存在が属する。同一本性の実体は多数存在せずただ一つである。すべての実体は無限なものである。
5) 様態の定義は何らの存在を含むことができず、存在していたとしても存在していないものと考えることができる。持続の概念の下に様態の存在のみを説明できるが、実体の存在は永遠の概念の下にのみ説明され得る。
6) 持続と量を任意に限定できるため、時間及び大いさの概念が生じて、時間は持続を、また大いさは量を表象できる。
7) 持続が瞬間からなるというのは単なる零の寄せ集めだけから一定の数を得ようとするのと同一である。
8) 精神の状態から生じる表象力の現れ即ち表象像は未来の物の前兆となる。
9) 神は実体としての精神の原因であるばかりではない、我々が意志と名づけている精神の運動・努力の原因でもある。従って精神の運動即ち意志の中にはどんな悪も存しないか、それとも神自身がその悪を直接的になすかのどちらかである。
10) 存在する一切は他物と関係なしにそれ自体で見られる限りある完全性を含んでいる、単に不完全性の表示に過ぎないところの罪というものは、実在性を表現するあるものの中に、例えばアダムの決意とその遂行の如きものの中には存し得ない。
11) アダムの決意の中に存した悪はアダムがあの行為のゆえに失わなければならなかったより完全な状態の欠如にほかならない。
12) 我々は意志し判断する力を知性の限界内に保ち得る。
13) たとえ混乱した事柄でも、それに同意して自由を行使することが常に無関心であることより、即ち最低段階の自由に止まるより遥かに善い。
14) 三角形の和が必然的に二直角に等しいことを認めるやいなや、それが偶然の結果であることを否定する。
15) 狂人、お喋り女、その他この種の多くの者も、精神の自由意志から行動すると信じ、衝動に左右されているとは信じていない。人間は自分を自由であると信じている。
16) 我々は神の諸属性のうち思惟と延長しか認識得ない。
17) 精神は現実に存在するある物体の観念である。ところで物体のこの観念は延長と思惟以外の他のどんな神の属性も包含しない。
18) 思惟においては絶対に無限なる知性、延長においては運動及び静止がある。
19) 各物は神の無限な知性の中では無数の仕方で表現されるけれど、この表現された無数の観念はある一個の物体の単一なる精神を構成することができず、無数の異なった精神を構成する。異なった無数の属性に関係するこれら無数の観念の各々は相互に何らの連結を有しない。
20) 聖書は聖書のみによって解釈されなければならない。
さて、このように引用した文章にはさまざまな概念が含まれている。自由や意志、持続や瞬間の概念が提示されているのが興味深い。
スピノザは神即自然を根幹とする汎神論と決定論の持ち主であることは、上記の引用文からも窺い知ることができる。上野修著「スピノザの世界」からも若干言葉を借りて、神と人間とを簡単に表現すると次のようになる。私の文章であることに注意されたい。同一本性の実体はただ一つ存在する。実体とは神であり無限の属性を持つ。こうした神は事物に様態化し変状する。神の本性には知性も意志も属さない。在りて在るものはその本性の必然性から一切を生じる。自由とはこの神の自己必然的な様態化である。人間もまた神の様態である。この人間の精神は神の属性の内延長と思惟以外に何らの認識もし得ない。
以上
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2020年1月23日(木) |
題:上野修著 「スピノザの世界 神あるいは自然」を読んで |
だいぶ長い間スピノザの本を読んでいない。スピノザ哲学もだいぶ忘れてしまったので、本書なるスピノザの紹介本を読んでみた。結論から言うと、本書はスピノザの「知性改善論」を導入本として紹介し、更に主要著書「エチカ」に基づきスピノザの思想を紹介している。結論から言うと、良い本かどうか容易に判別がつかない。著者は「知性改善論」や「エチカ」の文章を引用して、スピノザの思想を紹介しているけれど、哲学に慣れていない人には文章がやや硬くて分かりにくいと思われる。また、ある程度分かった人には少々物足りない。哲学の紹介本をうまく記述するのは難しい。
哲学の紹介本では木田元の「哲学の最終講義」や「哲学と反哲学」など、それなりに読んだことがある。木田元は哲学書を繰り返し読み、分かりやすい文章で紹介することを旨としていた。若い時の紹介本は、ある種の哲学的な晦渋さが滲んでいたが、「哲学の最終講義」ともなると、これほど簡単な文章で正確に哲学を紹介できると感嘆したものである。さて、本書と並行して「スピノザ往復書簡集」を読んでいるので、スピノザの思想的な内容はこの感想文に譲るとして、本書の記述のしかたについて気付いたことをまとめたい。また、ジル・ドゥルーズがスピノザについては「スピノザ 実践の哲学」と「スピノザの表現の問題」の二つの本を書いているので、以前に書いた「スピノザ 実践の哲学」の感想文を再度掲載したい。ただ、この本が見当たらず「スピノザの表現の問題」なる本はあったが、これの感想文が無いと言う何とも言えないちぐはぐさであった。困ったものである。「スピノザの表現の問題」は結構厚い本で、内容的にもスピノザの思想内容を詳しく論じていてきっと質が高い。この本を最初に見つけていれば本書ではなくて、こちらを読んでいたのにと思うが、今さら遅い。
本書の記述のしかたや内容について気付いたことを簡単に箇条書きにてまとめる。
1) 冒頭の文章を読むと、知性を追求する誘いに喜びを見出すスピノザの姿が浮かんでくる。ただ、商人の所有欲と知識への欲求の比較が俗っぽくておかしいと思っていたら、「知性改善論」に書いている話であった。このように引用した話はきちんと明示されるべきである。無論、著者は明示している。でも、スピノザの哲学の話をどう進めるか分かりやすく言い切って提示すべきである。もしくは読み落としていた私が悪い。なお、私が持っていた「知性改善論」は1931年発行の訳本で相当に古い。本書においては新訳なのか、読みやすくて正確さを期した訳文が引用されている。
2) 文章が読み解きにくい場合が結構ある。例えば「知覚の蝕」の説明について、著者の文章によると『そういう巨大な思考のあるものが全部そろった完全な概念としてわれわれの精神を構成しているとき・・巨大な思考のあるものが部分的にだけわれわれの精神を構成しているとき・・非十全な観念を感じている』と記述されている。著者が記述しているように『われわれが・・巨大な思考する存在の局所的な一部分である』はずなのである。即ち、この巨大な思想は「あるもの」単位で分割され、分割された「あるもの」の思想は、完全にわれわれの精神を構成しているが、また異なった「あるもの」の思想は部分的にしか、もしくは全く構成していないと理解できる。著者のこの後の記述は分かりにくい。巨大な思考から「自然の源泉と根源」としての思考の限界を説き、知性の謎を解けるかもしれないとう話に、即ち非十全な観念からひとっとびに知性の謎めいた性質へと移っている。そして、「知性改善論」なる本は、知性の謎の提示とその開示の暗示で終わっていると記述している。この話の流れはとても分かりにくい。
3) というより、上記の私の書いた文章がそもそも分かりにくい。言いたいことは、本書の全般を通じて独特の記述の仕方が分かりにくいのである。例えば、引用文で省いている「↓」や、また、記号以外も図やダイアグラムを多数使用して理解し易くしているしている積りが、記号や図が返って理解を難しくしている。もう少し簡潔な言い方で記述するのが良いとのではないだろうか。木田元も簡明な表現ながら的確に表わすためには長い年月をかけて絶え間なく努力をしていた。即ち、難しく言いたいのであれば別であるが、簡潔にかつ正確に言うには、木田元のように文章の表現力の向上と言う以上に自らの内で咀嚼して簡明な文章にすることが必要である。
4) ただ分かり良い文章もある。『人間精神は人間の身体の観念あるいは認識にほかななない』という定理は身体の変状を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識するという、知覚を介した論述を指摘していて分かり良い。また、『われわれの欲望はみな、意識を伴なった同じ一つの衝動である。とすれば、欲望が欲している善、実現すべき目的なるものは、衝動が付与する欲望の強度として理解できる』という、「衝動」と「欲望」に関する表現は大いに理解できる。こうした文章で本書を貫き記述して欲しかったということである。
再度言うが、本書は、文が章簡明化されていないために、一度読んだだけでは分かりにくい点が結構あり、良い本かどうか容易に判別がつかないと言うより、他の簡単なスピノザ紹介本例えば「人と思想」シリーズなどを読む方が良いのかもしれない。
―――ここで、以下に、ドゥルーズ著 鈴木雅大訳「スピノザ 実践の哲学」を読んだ感想文を付加しておく。
どうもニーチェに関して、簡易版「ニーチェ」と詳細版「ニーチェと哲学」があるように、この「スピノザ 実践の哲学」(平凡社ライブラリー 440 2002年 初版)も簡易版であり、「スピノザと表現の問題」が詳細版であるらしい。でも簡易版と言っても、ドゥルーズのスピノザに対する思い入れが伝わってくる分かり良い本である。読むことをお勧めする。本書は全部で6章あり、それぞれについて簡単に紹介し感想文としたい。なお、学位論文の主論文として「差異と反復」が提出され、副論文として「スピノザと表現の問題」が提出されたとのことであり、ドゥルーズのスピノザからの強い影響を窺い知ることができる。
第一章 スピノザの生涯
ユダヤ人であるスピノザは、哲学的回心によってユダヤ教会を破門される。身の危険を感じたスピノザは、住む場所を変えレンズ磨きをしながら独学で哲学を行っていたらしい。大学の哲学正教授の職も断っている。『このつましい、無一物で、病にも蝕まれていた生が、この華奢でひ弱な体が、この輝く黒い眼をした卵形の浅黒い顔が、どうしてこれほどの大いなる生の活気に満ち、生そのものの力を体現している印象を与えるのだろう。・・』このドゥルーズのスピノザへの文章がスピノザを的確に表わしていると同時に、もしやある意味でドゥルーズ自身の核心をも表わしているのではないだろうか。『スピノザにとって生は観念ではない。理論の問題でもない。それは一個のありようそのもの、すべての属性において同一の、ひとつの永遠な様態なのである。・・人間がいわばねじれておかしくなっているなら、このねじれという効果=結果は、それをその原因から幾何学的にとらえなおすことによって矯正されることだろう。そうした光学的幾何学が「エチカ」全編をつらぬいている。・・幾何学的方法と、レンズ磨きの職業と、スピノザ自身の生と――この三つひとつの全体として理解されなければならない。・・』このスピノザの生涯を紹介するドゥルーズの文章は、素直でとても感銘する。
第二章 道徳と生態の倫理のちがいについて
スピノザの有名な理論的テーゼの一つに「心身並行論」があるとドゥルーズは言う。「身体」という新しいモデルを提供するのであり、『心における能動は必然的に身体においても能動であり、身体における受動は心においても必然的に受動なのである。・・身体は私たちがそれについてもつ認識を超えており、同時に思惟もまた私たちがそれにつてもつ意識を超えているということだ。』そして深い思惟のもつ無意識の部分が発見され、ドゥルーズは「主要な大半の活動は無意識的になされている」と述べるニーチェの文章を引用する。即ち意識は錯覚を起こしやすく、原因を知らずにいるため、意識に対する評価の切り下げを行うのである。
私たちの身体にとって、<いい>とは身体の力能を増大されるような出会いであり、<わるい>とは身体の構成関係を分解させるような関係に陥る出会いのことであり、<善>も<悪>もなくて、場合に応じた個々の具体的な<いい>と<わるい>があるだけであり、ドゥルーズは、<エチカ>〔生態の倫理〕が<モラル>〔道徳〕にとって代わるのであると述べる。道徳とは神の裁きであり<審判>の体制に他ならず、<エチカ>はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまうのである。『「エチカ」とはまさにエトロジー〔動物行動学、生態学〕であり、これは、どんな場合にもただ触発に対する変容能力から人間や動物をとらえようとする考え方に立つのである』とドゥルーズは述べている。
第三章 悪につての手紙
素人の神学者のブレイメエンベルクとスピノザとの間で取り交わされた「悪について」論じた手紙について記述している。スピノザにとっては〈存在〉そのものが善悪を越えているのであって、ただ彼は手紙を通じて、この問題にのめり込んでしまったらしい。第二章と同様の表現になるが『実際には私たちは、どこまでも私たち自身によって、そのときどきの状態にしたがって裁かれるのにすぎない。・・道徳にもとづく審判とはまったく逆に、〈生態の倫理〔エチカ〕〉をかたちづくっているのである。』がスピノザの一貫した立場である。ネロやオレステスや姦通などを通じて悪を論じていて、スピノザはブレイメエンベルクが悪を越えて広範囲に論じようとした時、関係を断ち切ったらしい。
第四章 「エチカ」主要概念集
「エチカ」の主要概念をまとめたものである。特に重要と思われるのは「共通概念」、「変様」などである。「共通概念」とはすべての身体がもしくはいくつかの身体にとって相互に共通な何かを表わすものである。「変様」とは様態そのものである。というのはいっさいの様態は、実体もしくはその属性の変様にほかならないからである。本書では多数の概念が詳細に説明されているので、とても役に立つ。
第五章 スピノザの思想的発展
スピノザにおける神と実体と属性と自然の関係について、また共通概念、認識の思想的な展開を記述している。更に「エチカ」の展開においての緩急の問題、即ちすべてがゆっくりと流れていくが、浅瀬となり、淵となって流れていく一本の大河なのである、とドゥルーズが述べているのは面白い。宇野邦一は「流動の哲学」という表題なる本でドゥルーズを紹介しているが、まさしくドゥルーズ自身がダイナミックに流れる大河なる哲学であると思われる。
第六章 スピノザと私たち
スピノザは体をつねに無限数の微粒子にて、微粒子間の運動と静止、速さと遅さの複合関係と捕えている。またもう一方では触発し触発される体のもつ触発される力〔変容能力〕と規定している。運動的なものと力学的なものである。この二つの規定からドゥルーズはスピノザと私たちについて考えを展開する。即ちスピノジストなるものについて。最後にドゥルーズは多くの注釈者が彼を<風>に例えていたと言い、突然の疾風なのか、魔法の風かと問い、結論はその両方であり、ロマン・ロランの言葉で結ぶ。
――― 紹介終わり
やはりスピノザを理解するにはスピノザ自身の著書を読むことともに、「スピノザの表現の問題」も丁寧に読まなければならないと思っている。それにしても哲学者の思想を紹介する時は、自らの解釈を加えても平易にかつ正確に記述しなければ、読者に的確に伝わってこないと思われる。自己反省しなければなるまい。
以上
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2020年1月16日(木) |
題:谷崎潤一郎著 「夢の浮橋」、「幼少時代」を読んで |
谷崎潤一郎の作品もだいぶ読んできた。無論、主要な作品は読んでいるから、もう読むのを止めてもよいのかもしれない。谷崎に対するイメージはもう変わりなくて、少しも膨らんでこない。谷崎潤一郎なる作家論はイメージを元にすれば書けるはずである。無論、概念的な基盤は既に持っていてまったく変わらない。この「夢の浮橋」、「幼少時代」もそういう意味では、随筆、幼少時代の思い出とそんなに意味のあるものとは思われない。ちらちらと読むと、谷崎は自らの人生経験から題材を求めることが多いためか、他の作品でも使われていたモチーフが結構含まれている。まあ、眺めて読んだので作品の内容を簡単に紹介したい。
「夢の浮橋」は「夢の浮橋」だけが小説で、「親不孝の思い出」、「高血圧症の思い出」、四月の日記」、「文壇の昔ばなし」が随筆である。「幼少時代」はすべてが随筆で約20作品ある。これらの随筆は先に述べたように谷崎自身の経験を文章に表したものである。以前、高名な人物たちの随筆を何冊か購入して読もうとしたが、まったく読めなかった。随筆とは人の体験を追体験させるものであるから、感性、趣味、文体などが合わなければ読まずに捨て置くだけである。他人の体験ほどつまらないものはない。つまらない人の発する言葉を永劫に聞いているのと似ている。そういう意味では夏目漱石の随筆は読むことができた。「硝子戸の中」などはとても良かったと思っている。話が関心を引いて読ませる。いわゆる随筆の書き方が読むポイントに含まれるのかもしれない。谷崎の知識の披露が長くて、長い文体が興を削いでいる。それに漱石のように出来事に基づいたある種の謎や緊迫感を含んでいない。漱石の場合、推理小説が好きだったようで謎を含んで出来事と心理が推移していくその書き方が良かったのかもしれない。作者の心理が緊迫して謎を含んで、出来事が意味をもしくは無意味を含んでいる。まあ、こう言ってしまえば身も蓋もなくなる、がそれぞれの作家の随筆を読んで実際に感じたのだから致し方ない。
そのため「幼少時代」は表紙の紹介文を掲載して終わりにしたい。『江戸の面影を残す明治中期の東京下町に生まれ育った谷崎潤一郎が、生い立ちから小学校卒業までの暮らしを愛着をこめて描き出した回想記。団十郎や菊五郎の芝居見物、少年の日の読書など、谷崎文学を読み解く話がいっぱいつまっている』こう記述されると小説作品を読み説くには、作家の経験を知っておくことが必要と思われるが、まあ、読書は作家論を書くために読んでいるのではなくて、面白いから読んでいるのであって、その延長線上に作家論がある。いわゆるエクリチュールに基づいた解釈が可能であって、それが作家論になるはずなのである。それにそもそも随筆が露出趣味に基づいたものであってはいけない。何かしらの作品でなければならない。読み応えがなくてはいけない。こう言えば、なぜこうも自らの人生を書き切らなければならないのだろうと疑問に思う。人間は個体として生きている、谷崎は自らの個体の記憶を呼び戻して記録しなければならないとの執念を持っていたのだろうか、とつい余計な思いが生じてくる。
こうした思いは個々人にて違っている。どうしても人間は消尽してしまうのであるから、固有名詞はn番地へと飛び地して掻き消えてしまうものと思っている私には理解不能にもみえる。個々人の記録など必要ない。立派な墓もついえてしまうのである。墓地に行くと本当に立派な墓があって固有名詞が厳然と建立されているのを見ると、なんとなく阿保らしく思われる。柳田国男によると、死んだ人間は三十年を経て忘れられることによって神になることができる、なんてこともどこかに書いていたと記憶している。三十年経つと、経っても経たなくてもいわゆるすべてが忘却の彼方に消えてしまうのである。従って墓碑に、まあたくさんの名前を刻んでも、あまり意味のあることとは思われない。個々人とは常に死んで忘れられる者たちである。悲惨などの出来事も関与しない、ただ生きていた人間が死んで物質として解体しただけである。これは古今の真理である。なんて、思うに任せて書いていると随筆っぽくなるからもう止めよう。
「夢の浮橋」だけは少し論じたい。この短編のあらすじはこうである。最初に源氏物語を読んだ後の母の一首があって、主人公はこの母が実母であったか継母であったか思い出せない。こうした二人の母が、継母の乳を口に含むなど、思い出を含ませて現実に重ね合わさってくる。父は息子と継母との関係性を優しく見守っているだけである。自らが死ぬ者と覚悟して継母と濃厚な関係性を持つように企てているのかもしれない。この母が産んだ子を里子に出すのを訝し気に思い主人公は調べる。弟として引き取る覚悟である。妻になる女は、夜に母の寝室に行くが主人公が呼ばれることはない。弟には母の面影がある。父が死にやがて継母も死んで、主人公は妻を離別し、弟が一人前になるまでは一緒に暮らそうと思っている。
解説を読むとこの「夢の浮橋」の二人の母にはモデルがいるとのこと。そして谷崎の妻の死産が関係しているとのこと。なるほど、谷崎は自らの経験を題材にして小説を拵えていることが多いから本当のことなのだろう。ただ、それを知らずに本小説を読んでいたその途中まではすごい傑作だなと思っていた。現実が過去と幻想的に重なっていて、母恋や女のエロシチズムを含み、謎を秘めていて筋書きにも心理にも奥行きがあるのである。でも、最後は弟と暮らす決意表明であっけなく終わってしまった。もし、「細雪」のような長編であったなら、過去と幻想的に重なる現実の描写がずば抜けている、今までにない表現を持った作品になったはずだと、とても残念に思っている。晩年の口術筆記の作品であるらしい。致し方ない。これまでに読んだ作品では「少将滋幹の母」が作風的には一番作似ているが、「少将滋幹の母」が作品として高度に完結しているに対して、「夢の浮橋」はやはり未成熟なのである。
さて、谷崎潤一郎の作品もだいぶ読んできたので、気になっていた「冨美子の足」や「谷崎源氏」など数冊を読んで終えたい。そして、「谷崎潤一郎作品の紹介と解読」としてまとめたい。
以上
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2020年1月9日(木) |
題:メルヴィル著 田中西二郎訳「白鯨」を読んで |
長い間読みたかった本である。やっと読むことができた。と言っても厚い本で、(上)(下)巻で合わせて、約900頁あり、途中は省くか、斜め読みしている。なるほど、これがメルヴィルの「白鯨」なのか。小説の流れよりも、メルヴィルの文体と感性とを掴むことができたのである。歯切れの良い抒情的な散文である。ある種の詩的な感性が現実的な出来事の内に含められていて、叙事と抒情が組み合わさっているとも言える。物語が進むに従って、エイハブ船長の恐ろしいほどの執念と頑固さが伝わってくる。そして、結末には驚いてしまう、この結末については述べない。悲劇であるとだけ言っておきたい。
従って本書の内容は裏表紙の文章を引用してすませたい。ただ、本書はイシュメールと言う風来坊の船乗りがエイハブ船長の率いるピークォド号に乗ってその経験談を語るという形式をとっている。『アメリカ東海岸の捕鯨基地に現れた風来坊イシュメール――陸の生活に倦み果て、浪漫的なあこがれを抱いて乗り組んだのが捕鯨船ピークォド号。出帆後数日してやっと姿を見せた船長エイハブは、自分の片脚をもぎとった神出鬼没の妖怪モービィ・ディックを倒すことのみ、異常な執念を燃やしていた。堅忍不抜の決意を秘めたエイハブの命令一下、狂気の復讐は開始された・・』(上巻)『獰猛で狡知に長けた白鯨を追って、風雨、激浪の荒れ狂う海をピークォド号は進んだ。ホーン岬、インド洋、日本沖を経た長い航海の後、ついにエイハブは、太平洋の赤道付近で目ざす仇敵をみつけた。熱火の呪詛とともに、渾身の憎悪をこめた銛は飛んだ・・。作者の実体験と文献の知識を総動員して、鯨の生態と捕鯨の実体をないまぜながら、エイハブの運命的悲劇を描いた一大叙事詩』(下巻)
本書を読めば言語が修飾語も含めた詩的情緒を加えて、正しく機能していると知ることができる。いわば言語の懐疑性は否定されて、生きた言語そのものが波打つ海の響きに乗って情景や物語を綴っている。言語の正しさとは現実に生きる人間の肯定であり、生じている出来事の肯定である。即ち言語に吹き込まれた命が脈々とこの世界の内に息づいている。言語は表現と形式の内に、しっかりと骨組みされた輪郭の内に、生きて作動しているのである。これと正反対なのがヌーヴォーロマン(新しい小説)であろうし、またシュールリアリズムである。これらは言語を通じて現実を変形し作動させる、現実の歪曲化を通じて言語と現実の命を削ごうとしている。無論、正確に述べれば命を削ぐよりも新しい命を吹き込み再生させようとしているのだろう。これらの点を論じるには調べるのに時間がかかるため行わないが、ジル・ドゥルーズなる哲学者がフランス文学よりもアメリカ文学に魅せられた理由が良く分かってくる。
このドゥルーズの「批評と臨床」は文学の役割と代表的な作品を論じている。この「批評と臨床」では、メルヴィルについては「書記バートルビー」に多くを述べていて「白鯨」については殆ど記述がない。ただ、書くことは生き得るものと生きられたものを横断する〈生〉の移行なのであり、エクリチュールは生成変化を生み出すと述べて、エイハブ船長とモービィ・ディックの個別的特徴がヴィジョン[視覚=幻影]まで高められて、彼らは生成変化として限定せざるものの中へと押し流されていくと簡単ながら述べられている。これにそれほど深い意味はない。生成変化を生み出すエクリチュールを応用して、エイハブ船長とモービィ・ディックは限定され得ない何かになると暗示しているにすぎない。この何かについては女でも、動物や植物でも、分子でもない、知覚し得ぬものである。生き得る者が生きられたものへと生成変化していくのである。
「ドゥルーズ 千の文学」では宇野邦一が「メルヴィル あるいは〈新しい人〉」と題してメルヴィルを論じているが興味深い点が多い。「書記バートルビー」は無論、「白鯨」についても結構論じている。その論点の一つだけ紹介したい。英米文学こそおびただしい逃走線に満ちていて、メルビィルは「白鯨」にても逃走線を描いている、これはエイハブの父権的な主体からの逃走として描かれていると述べている。この主体の逃走を通じて更にアメリカなる共同体に話が及んでいる。とにかくメルヴィルを理解するためには「書記バートルビー」を読んでいなければならない。
ここでヘミングウェイの「老人と海」と比べてみたい。壮絶なカジキとの海における戦いと少年との秘めた友情を示しながら、やはりフランス文学と比較した英米文学の枠組みのしっかりした堅牢な文章が褒め称えられていたと記憶している。ただ、「白鯨」と「老人と海」とは根本において異なっている。「白鯨」の方が「老人と海」よりも多彩な視点からの解読が可能で枠組みがとてつもなく広い。「老人と海」は老人の孤独な戦いを描いていて、文学空間は狭くて孤独と友情との感傷性が強くて観念性はほとんどない。「白鯨」は執念なり怨念を描いている、いわば脚をもぎとられた鯨に対する復讐を描いている。そして、捕鯨の歴史的背景と捕鯨の困難性、また鯨の多彩な利用法方法など冗長とも思われる記述も多いのであるが、エイハブ船長の白鯨に対する執念を通じて浮かび上がってくるこの社会と人間との関係性に及んでいる。ただ長くて読むのに途方もなくエネルギーを必要とするが・。
結局こうした文学作品には何が求められているのか。ドゥルーズの「批評と臨床」では錯乱のなかからの健康の創造、民衆=人民の創出、つまりは生の可能性を、解き放つことであると述べているは興味深い。
以上
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2020年1月3日(金) |
題:メアリ・ダグラス著 塚本利明訳「汚穢と禁忌」を読んで |
題名に引かれて初めて読むメアリ・ダグラスなる学者の本である。ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」や「エロシチズム」のような何らかの哲学的な、宗教的とも言える神秘性を期待していたが、そうしたものではなくて文化人類学の本である。レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」のような未開社会の描写を行い血族的な構造を解析するような紀行文でもない。文化人類学の観点から他の学者の批判も加えて、具体的な汚穢と禁忌を現地人の慣習などから論述している。他の学者への批判が長くて返って著者の主張を分かりにくくしている傾向もある。ただ、読むとそれなりの知識を得ることができる。帯には「文化人類学の金字塔」と書かれているが、本当にそうなのかは判断できるだけの文化人類学に関する知識は持ち合わせていない。でも、難しい話はなくて、文化人類学への入門書にはなりそうである。
本書をどうまとめようかと思ったが、全部で十章書かれていて、章ごとに何が書かれているか文章を引用するなどして簡単に示したい。 は引用した文章である。
序
本書は、不浄なるものと感染という観念について論じたものである 本書は二つのテーマを展開することで結論に向かっていく。タブーとはそれぞれの部族がもつ宇宙観独特のカテゴリーを保護するために自然に発生した装置だ、・・知的・社会的無秩序を防ごうとするのである。・・第二のテーマは、曖昧なものが惹起する認知的不安を考察する・・
緒言
汚穢とは本質的に無秩序である。・・不浄とは秩序を侵すもの 未開社会とは、その社会が属する宇宙の中心を占め、かつ、力を帯びた構造体である 汚穢の考察とは、秩序の無秩序に対する関係の考察を意味し、存在の非存在に対する関係、形式の無形式に対する関係、生の死に対する関係等々の考察を意味するであろう
第一章 祭祀における不浄
引用が多くて著者の主張との区別がつかず論旨が掴みにくいが 不浄とは聖なるものとの接触に伴って相互に作用する危険 である。
第二章 世俗における汚穢
伝染病の回避と祭式における回避が驚くべき一致を示す として、レビ記の豚肉について論じ、剰余について考察する。
第三章 レビ記における「汚らしいもの」
レビ記と申命記を引用して食べて良い動物を示し論考する。また、聖潔と道徳律、つまり律例(おきて)、律法について論じる。
第四章 呪術と奇蹟
呪術と奇蹟の関係を論じる。『宗教的儀式の意味は経験を創造し、それを支配することにある・・・原始的祭式の執行者は、身振りを表現の手段とする呪術師とはもはや見做されなくなったのである』
第五章 未開人の世界
未開人の世界観はいくつかの違った意味で人格的な宇宙と向かい合っているのだ
第六章 能力と危険
無秩序が形式を破壊することは当然であるが、他面では形式の素材を提供する。一方秩序は制約を意味している。・・・無秩序は危険と能力との両方を象徴しているのである。祭式は無秩序のもつ潜在的能力を認めている こうして社会組織の秩序について、社会的混乱について論じる。また呪術と能力について論じている。
第七章 体系の外縁における境界
肉体の境界、特に肛門など開閉部と汚穢の関係について論じる。
第八章 体系の内部における境界
汚穢の規範は、倫理的規範とは対照的に、不明確な余地を残さない として姦淫の掟などについて論じる。また穢れと潔浄との関係について論じる。
第九章 体系内における矛盾
未開文化における共同体の男女両性の差異における汚穢の観念について、結婚や密通、月経、交合などについて論じている。
第十章 体系の崩壊と再生
秩序の限界を侵すことによって招かれる危険こそが能力となるのである。善き秩序の破壊をもたらそうとする不安定な辺境部や外部から襲来する力は、宇宙に内在するもろもろの能力を表象している。善き秩序のためにこれらの能力を利用し得るときはじめて、祭式は強力な効果をもつことになるのだ こうして鱗だらけの動物センザンコウについてかつ原始的宗教について論じる。
こうしてみると本書「汚穢と禁忌」に書かれている思想の核は、汚穢と禁忌を介した構造体の秩序と無秩序の関係であり、秩序の破壊をもたらそうとする力をうまく利用してこそ善き秩序が保たれるということであろうか。今までに読んだ本には書かれていて、それほどこの本に関しては面倒に考えることもないが、実は秩序と無秩序と禁忌や消尽との関係の概念は今なおテーマ性を持っている。ただ、汚辱を加えたことが新しいと受け止めることは、私が汚辱を軽視して見逃していたためであろうか。
以上
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