2019年12月26日(木) |
題:平野啓一郎著 「マチネの終わりに」を読んで |
著者の作品は「日蝕」だけを読んだことがある。感想を書いたはずなのに見つからない。偽古文など難しいことは分からないが、最後の場面の過剰な高揚感だけは覚えている。最近、現代作家の作品は滅多に読まない。読んでも裏切られることが多いためである。本書は話題になっていて敢えて挑戦し読んだ本である。結論から述べると読めるからには、文章は優れていて、恋愛小説としてのエンターテイメント性を結構楽しむことができたのである。ただ、横溝正史の探偵小説を楽しむことができるように、本書も拵えられた小説として荒唐無稽な心理と筋を書いていながら楽しむことができたということである。無論、横溝正史の文章よりも優れていて、背景として戦争や原爆に経済問題も取り扱っていて奥行きがありそうでありながら、恋愛心理が継ぎ接ぎで推移していくように、現実も継ぎ接ぎで成り立っている。つまりは劇場型の拵えられた恋愛小説が一人の或る読者をそれなりに満足させたとも言える。
なぜ劇場型の横溝正史の書く探偵小説と同等なのか。無論、どろどろした人間関係から生じる凄惨な出来事は本書には盛られていない。その点で本書は横溝作品より劣るが、謎を秘めていた出来事が「真相」という章によって登場人物の誰にも納得されて、殺人事件が解決し目出度く終わるように、本書の恋愛の相互の行き違いも最終章にて解明されハッピィエンドに終わるためである。本書のキーポイントは携帯電話にある。「スマホを落としただけなのに」より若干本書の発刊が早いとも思われるが、携帯電話は推理小説の構造を各種の観点から難しくさせるように、小説内に登場する携帯電話に負荷をかけ過ぎると荒唐無稽な小説になる恐れがある。そして実際、本小説は荒唐無稽という言葉とエンターテイメント性との両方の言葉を用いているが同じことで、筋書きに負担をかけ過ぎて無理が生じている。こればかりではない、他にも種々の心理と出来事の齟齬がある。つまり本小説は小説自身の愚鈍さ、愚かしさとも言える性質を赤裸々に物語っている。この点にこそ本小説の値打ちとエンターテインメント性がある。ただ、この値打ちは本小説そのものも毀損してしまう恐れを十分に持っている。以後、取扱いに注意して小説作品の記述を修正し反映されるべきであるか、または、大いに活用して読書の楽しさを倍増させるかは著者の作品の記述方針に依ると思われる。
この愚かしさを述べる前に本書の筋書きを簡単に示したい。最近の本のため要約はせずに、本書の背表紙の言葉を引用したい。『切なくも美しい愛の物語』『天才ギタリスト・蒔野 国際ジャーナリスト・洋子 たった三度出会った人が、誰よりも深く愛した人だった――』なんとなく要旨伝わってくる言葉である。本書は映画にもなっていて、背表紙には俳優の顔写真が載っている。さて、本小説は小説自身の愚かしさを示していることに値打ちがあると述べたが、具体的な愚かしさとして、知性、感性、過去の記憶の三つとしたい。そしてこれらの愚かしさについて、本小説の筋などを元に提示したい。いわば本小説が荒唐無稽であって、いわゆる純文学的な深さを持ち得ていない証しともなる。なお、これらの愚かしさは代表的な例のみを提示したい。それほど深くは読んでいないためである。また、愚かしさはすべて著者自身が構想した筋書きに起因するが、登場人物に背負わせたい。登場人物が気を利かして気付くべきだったのである。著者は最初の筋書きだけに責めを負うとしたい。更に、これ以降を読むと本書の筋書きが幾分ばれることだけは知っていて欲しい。
1. 知性の愚かしさ
1) 著者の愚かしさ
何と言っても著者が携帯電話をトリックに使用したことが筋書きの知性を削いでいる。どうしても拵えた筋として無理がある。例えば、洋子が日本に到着時に震災が起きるなど別の筋とすれば、もっと真実味を増すことができたかもしれない。震災のためによって生じた取材や傷害などによって、洋子は蒔野に会うことができなくなる。そして蒔野も心身障害を起こすのである。更に著者は、戦争や原爆に経済問題を背景として描いているが、特に経済問題、サブプライムローンに関して作成された方程式に対する潔癖な倫理観が宙に浮いてしまっている。つまり、洋子の夫たる者が作成した方程式に洋子が疑念して、彼らの心が相互に乖離していくことが納得できない。洋子を得ると、もはや夫には蒔野の存在が重くのしかかり不倫に走る、この単純な話の方に説得力がある。なお、これらの背景なる事象を描く場合、軽く記述するか、もっと重く記述するかで、恋愛小説の恋愛そのもの質が変わってくる。もっと薄めた方が恋愛そのものを深く主題化できるのかもしれない。さらに言えば無くしてしまう、原爆などの記述はなくとも一向に差し支えない。この広島問題も拵え過ぎていてどこか浮いていると感じられる。そもそも、ここで言うのもおかしいが、クラッシック音楽会を通じて知り合った洋子と蒔野の二人がなぜ惹かれ愛し合っているのか私に良く分からない。なお、私はクラッシク音楽を聞いたことがない。ロックとソウルとを主に聞いている人間である。
2) 洋子の愚かしさ
三谷が送信した偽メールを洋子が即座に信用するとは、洋子の知性からは考えられない。何年か後に、同様の文章を三谷の口から語られた時、すぐさまその場で同じ文章だと気付いたではないか。文章に携わるものは文章そのものの質に鋭い嗅覚を持っている。直感で区分けができるのである。また、その後蒔野から送られてきたメールを廃棄するなど蒔野を慕っている洋子の心情からは信じられない行動である。このようにジャーナリストとして仕事を行っていた洋子の知性は、小説内では無残に打ち砕かれている。洋子は聡明なのではない、愚かしさに満ちて発想し行動している。
3) 蒔野の愚かしさ
「洋子さんが死んだって聞いたら俺も死ぬよ」との言葉は、いくらスカイプで話を重ねているとは言え二度目に会った女性に言う言葉だろうか。言うならば肉体関係を持ちたくて口説いているためである。蒔野は軽薄な男である。そもそも「俺も死ぬよ」と言うこの男が、洋子が日本に到着時に、倒れた師匠の見舞いを優先させるのは納得できない。また、携帯電話をタクシーに忘れたとはいえ、何らかの方法を見つければ洋子との連絡は取れないはずがない。連絡先を知っている人がいるはずなのである。洋子への連絡と師匠の見舞いの両方を果たせる方法を見出して実施できたはずで、いずれにせよ、師匠の卒倒と携帯電話を忘れるというこの二つの出来事が同時に起こることが、どうしても作為的でまさにエンターテイメント的なのである。
4) 三谷の愚かしさ
初めて洋子に会った時から、ライバル心を剥き出しにして記述して欲しい。後になって突然ライバルになった気がしてならない。でも、蒔野に心底尽くすこと、東京で洋子に会い蒔野のコンサートを見る入場券を奪ったこと、マリアとマルタの話は彼女に荒々しいながらも知性が宿っていることを示している。携帯電話で偽メールを送ったことを蒔野に打ち明ける、これは彼女の荒々しい知性が、自らの内には治めておくことができずに溢れ出て崩壊することを指し示している。倫理的な観点からの告白ではない、簡単に言えば、犯人が重荷に耐えられなくなって、みんなの前で自白するような手回しの良い筋書きを実現するための荒々しさを含んだ知性なのである。
2. 感性の愚かしさ
洋子と蒔野が三度目に会った時、ソファでいつ尽きるともない口づけに浸りながらジャリーラの病気のせいで完全に結ばれなかったのは奇異である。他の有名な小説では、例えば夏目漱石の「行人」で二郎と直とが結ばれないのが自然である、大岡昇平の「武蔵野夫人」で道子と勉が結ばれないのは不自然である、とは異なった状況に洋子と蒔野はいる。結局、洋子と蒔野は観念的な恋人で欲情が似合わないのではない、どちらでも構わないと言える。感性の底から緊迫して生じる互いの肉体存在を確かに感じる必要がない、疑似的な恋愛関係にあるとも言える。従って、結婚の約束も放棄したままで、洋子と蒔野の感性が共鳴して互いに熱愛していると記述されているが、何やら信じがたい恋愛感情である。恋愛と言う概念こそが二人を結び付けているとも言える。
3. 過去の記憶の愚かしさ
「未来は常に過去を変えているんです。変えられると言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか」との蒔野の言葉がある。なるほど、過去は未来によって変えられる、変わり得る。この過去を広島に投射した時どうなるのか。洋子の母が洋子に「あなたが健康でいることが、わたしにとって何よりなのよ」と言う時、元気な子を産んだからには広島の原爆の影響は免れていて、原爆なる過去の記憶は繊細ながら変えることができる。つまり、洋子の母は原爆の悲惨さを認めながら蒔野の言葉に従えば過去の経験を質的に変えることができるのである。デリダが「ならず者たち」で原爆とは一種の災難だと被災者が述べていたと書いていた。記憶ではないが経験したそのことがもはや質の違いを生み出しているのである。これと同等に洋子の母は経験した原爆の過去の質を変えることができる。ただ、厳然とした事実は事実であって、過去の出来事ではなくて記憶をのみを変えることができるというのが蒔野の主張であるのだろう。でも、もはや出来事なる事実そのものも変えることができる、つまり、認識する主体の記憶ばかりではない、歴史的な客観的な事実も変えることができると蒔野が述べていれば、彼の言葉は至極真っ当な言葉になり得る。
まだもう少し、リチャードやジャリーラについても述べたいが時間がないので止めたい。最後に、再度言いたいのは、本書は横溝正史の探偵小説を楽しむことができるように、拵えられた小説として荒唐無稽な心理と筋を書いていながら楽しむことができる。いや、荒唐無稽な心理と筋を書いているからこそ、エンターテインメント的な小説として楽しむことができる。ただ、謎を解く金田一さんは居ずに、愚かしい心理と行動を書いている歯切れの良い文章そのものが自らの謎を解き明かしている点が異なっている。金田一さんのように完全な謎の解明はなされない。でも、それなりに納得し満足できる謎解きは行われている。結局、探偵小説的な構造を持つ稀有な恋愛小説作品であると言える。
以上
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2019年12月19日(木) |
題:ジョン・クレランド著 中野好之訳「ファニー・ヒル 一娼婦の手記」を読んで |
この本は好色本である。それ以外の何物でもない。何かしらの、サド的な超自我による絶対否定の観念、マゾッホ的な契約と宙吊りの観念、それに「O嬢の物語」の人間のモノ化などの哲学的観念を含んでいない。というより、性を通じて生命を謳歌する絶対肯定の観念があるとも言える。底の知れない楽観主義でもある。全体で三百頁ほどあるが、百頁ほど読むとほぼ理解できたので、後は流し読みしている。
従ってあらすじは裏表紙の文章を引用したい。『欺かれて娼婦に身を落とし、さまざまな男性遍歴を経る少女ファニーの数奇な運命・・。十八世紀イギリスが生み落とした好色文学の名作を、無削除逐語的名訳で贈る』いみじくも、やはり好色文学と言っている。付け加えれば、ファニーは娼家で見染めた男と逃げ出す。でも、男は遠地に追い出されて、ファニーは若さと美しさ故にいろんな男の愛妾になるなどするが、結局最後にはこの最初の逃げ出した男チャールズが舞い戻って来て会うことができる。もはや夫婦になって暮らしているのかもしれない。
とにかく精緻な行為の描写は卓越している。その場面が具体的に浮かんでくる。ファニーが初め心配するが、次第に没頭し歓喜する心持ちが分かるほど上手に書いている。そして、行為の描写が過半である。これは「悪徳の栄え」や「毛皮を着たヴィーナス」にはなかったことである。「悪徳の栄え」では激烈で過激な描写があるが、長い政治や哲学の話も含んでいて、ある種の退屈さを含んでいる。「毛皮を着たヴィーナス」では女を見出して愛して契約し、鞭打たれることによって現実の内に混濁していく心理を描いている。この心理の移り行く様が上手く書かれている。「O嬢の物語」では行為における肉体の部位の絡まり方が長く書かれていて、どう絡まっているか良く分からなくて退屈である。でも、全体として奴隷として飼育され次第にモノ化しても、少なからず人間の心理を失わずにいたが、ステファン卿に捨てられることでO嬢は死を決意する。最後に絶対的なモノ化を希望する。本書はこうした大枠の概念がなくて、享楽的というよりも善的である。生命に対して肯定的かつ楽観的であることこそが、本書の概念と言える。
当然、本書は禁書である。「悪徳の栄え」も禁書であり、裁判沙汰にもなっている。では、フローベールの「ボバリー婦人」がなぜ裁判沙汰になっているのか。行為の具体的な描写など殆どない。たぶん、日常の退屈さに飢えが生じて、不倫へと走る心理が見事に書かれていたために違いない。この心理が現実の主婦たちの行動となることを、当時は恐れていたのかもしれない。なお、本書の作者はこの一冊だけが有名で他の作品はあまり売れなかったとのこと。他の作品も同様に精緻な行為の描写を行っていれば、そこそこ売れたのだろうと思われるが良く分からない。こうした好色文学はたくさんの作品を生み出しながら傑作と呼ばれるものはきっと少ないだろう。
日本での西鶴の好色ものとは人情本とも言える。男と女の悲劇的な恋愛と、恋愛の経験的積み重ねが喜怒哀楽を生んでいるとも言える。「四畳半襖の下張り」は殆ど忘れたがしっとりとした情緒を含んでいて良かったと思う。「家畜人ヤプー」や「ドグラマグラ」などは猟奇本と言える。それにしても「金瓶梅」や「千夜一夜物語」に「デカメロン」などは好色本というより、ある種、世界観や人生観や関与してくることもある。確か、長編の「金瓶梅」を読み終わった時には、なんだか楽しくて何日も浮かれていることができた。自分が西門慶になったような気がして幾日か楽しい気分で過ごすことができたのである。惜しいことに「紅楼夢」は読んでいない。こうしてみると読書の楽しみの一つに、特に小説では自らを作品の内に置いて、その世界内に羽を伸ばさせることにあるのだろう。そして、例え悲惨な切迫した心理を描いていようとも、文章に描かれた境地を体験して自らを治癒できる。ただ、好色本とは好色性のみを満足させる本であるのだろう。無論、根底には生と性の肯定にある。この肯定こそが大切な事であるとも言える。
以上
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2019年12月12日(木) |
題:河野多恵子著「幼児狩り・蟹」を読んで |
河野多恵子の作品は説明的な描写が多くて上っ面を書いており、質が高いとは思われない。特に会話が息繋ぎになって文章が冗長になり生きていない。マゾ的なエロシチズムを含んでいるが、むしろ日常的な嗜好を書いていて、どうと言うべきこともない。でも、読んだからには少しばかり感想を書いてみたい。なお、六つの作品を比較すると幼児の肉体に拘泥する「幼児狩り」、塀の中に閉じ込められた女工たちに飼われていた幼児の死と戦争体験の生々しい描写を含んだ「塀の中」、甥と海岸で蟹を探す「蟹」が彼女なりの作品に仕上がっている。ただ、義母の死後の吐血の生々しさや同じ病気の罹患などを書いた「雪」を良いと思う人もいるかもしれない。「劇場」や「夜を行く」は夫婦スワッピングを書いているが妖しさを描きたいという目的は達成されていない。
1. 平凡な妖しさ
作者の妖しい心と行為は日常にある。ありきたりの日常に潜んでいるひっそりとした妖しさであり、作品を仔細に読まなければ分からない時もある。文学とは人間の境地こそを描くもので、作家と読者の健康を回復させると説いている人もいる。そういう意味で言えばありきたりの日常に潜んでいる妖しさを描き切ることは並大抵の力量ではできない。例えば、谷崎の「痴人の愛」や「卍」などは本書に比べ格段に優れているが、文章や描写は幾分緊迫性を欠いていて緩慢である。詳細な説明は省くが、平凡な日常の妖しさを普遍化するには、読み手の心理ににじり迫ってくるある種の静謐さと執念と納得できる筋が必要である。
2. 冷淡さ、冷酷さと感情性
マゾはサドのように世界を否定や破壊するのではなくて否認する。この世界から逃亡して期待することにある。現に存在するものの正当化に反逆して、現実の予見の彼方に新たな地平を開示できる宙吊りなる未決定状態を作り出して、この宙吊りにされたものに向かって自分を拡げる。言わば現実を超えた錯乱でもある。そして、冷淡さと冷酷さの内に感情を勝利させることにある。こうした視点からみると、著者はまだ超自我を持っていながら、わずかに未決定状態へ身を乗り出して自らを広げようとしている。幾分冷酷さも持ち合わせていて、少なくとも感情的に勝利しようとしている。このためマゾ的と言える資格を持っている。ただ、これらの作品を通じては、どの程度自らを露出させているかは分からない。また、その度合いも、誰しもが秘めているものを表していて一般化し納得させることもないと思われる。
3. 可能態の現実化と潜在態
可能態は現実化できる。潜在態は現実化できない。著者の描く現実は可能態である。可能態とは可能性であり、著者が望む現実の姿である。著者の小説における現実は可能性を含んで描かれていて実現されている。ただ、描かれた可能態の範囲は狭い。著者の認識の内に埋もれた潜在態の全貌など容易に読み解けない。著者の作品を相当量読んでも分かるはずもないが、認識していながら露出を意図的に隠している潜在態もあり得る。でも、これらの作品を読むと、著者はそれほど潜在態を持ち合わせていず、マゾ的には広がりも奥行きも観念的意味合いも持たせていないのではないかと推測される。
4.「蟹」の寸評
蟹は束縛するものであり、硬くもあり、俊敏に行動する象徴である。誰もがこの蟹が象徴するものを想像することができる。発病したマゾ的な悠子は、サド的な夫に強い刺激を求めても見捨てられる。悠子は夫をスキーに追い出すなど追放する。転地療養をすると悠子は体力が満ちてくる。すると真っ赤なハサミを持つ蟹が欲しくなり甥と蟹探しを始める。蟹が捕まらず、甥が夫に蟹を捕ってもらうと言ったとき、顔を赤くして羞恥を覚える。もはや悠子は違う蟹を求めていて、その本心を夫に見透かされることを恥じたためである。
こうして日本の近代における女性作家の妖しさを調べてみたが、得られるものは殆どなかったと言える。やはり谷崎潤一郎の妖しさは群を抜いている。でも、谷崎の妖しさは擬態であって、彼の本質は彼自身が認識しているかどうかは定かでないが、出来事の連鎖による日常の連続性、瞬間なる隙間のない流体のような時間の連続性、未来永劫に続く時間の滔々とした流れを表していると言ってよいと思っている。こうした谷崎については別途論じたい。
以上
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2019年12月5日(木) |
題:エマニュエル・レヴィナス著 合田正人訳「神・死・時間」を読んで |
エマニュエル・レヴィナスの著作物は読むと、その内容は雰囲気として分かる、大雑把には分かる、でも細かな点は良く分からない。こうした状況が続いているが、レヴィナスの著作物を読むのは、良く分からなくとも詩的で難解な文章が好きなのと、存在と存在に関わる倫理が問題になっているためである。本書も大雑把に理解できても、良く分からない点も多い。その原因として、本書はレヴィナスの最後に行った講義の記録なのである。それも二つの講義を録音テープによってまとめたもので、レヴィナス自身が書いたものではない。本書の「前置き」を書いているジャク・ロランによって、まず「死と時間」の講義が1991年に発表され、次に並行して行われていた講義「神と存在―神―学」が加わって本書が1993年に出版されている。
更に、本書がレヴィナスには珍しくヘーゲルやハイデガーにカントなどの読解を通じて論じているために理解が難しい。また、レヴィナスの使用する言葉「隔時性」や「語ること」と「語られたこと」、「同」に「他」、「証し」などが簡単な説明だけで、もしくは説明なしに用いられていることが理解を困難にしている。また、新しい用語「徹宵の留意」や「不眠」などが使われている。なお、「存在の彼方」へを読むと主要な語の定義が載っているが、その定義を理解するのも結構面倒である。いずれにせよ本書の訳者である合田正人などのレヴィナス論を読むのが理解に早道であるかもしれない。でも、その前にレヴィナス自身の著作物をいくらかでも多めに読んでおきたい。なお、それほど遠くない昔に、簡単ではあるが「存在の彼方へ」、「全体主義と無限」、「実存から実存者へ」の感想文は書いたことがある。振り返ると、レヴィナス自身の文章が理解を困難にしている、そうした文章上の特徴があることは確かである。いっそのこと細部にこだわらず俯瞰して読むのが得策とも思われる。
本書の内容をごく簡単に紹介したい。本書も他人の顔を通して〈他者〉の問いを提起して中核をなしている。また、ハイデガーなどの哲学者の読解を通じて「死と時間」と「神」を論じていることは改めて述べておきたい。また、「死と時間」では24回の講義、「神と存在―神―学」は23回の講義が行われていて、それぞれに題名がある。「死と時間」の初めに、レヴィナスはまず本講義を「時間の持続」に関することと断っている。時間というものは流れや流動ではなく測定できるものではない、時間それ自体の様相があると述べている。そして、自らの死は経験することができない。死は応答がないことであり、存在様相(顔)が虚無化することである。即ち「もはや存在しないこと」への移行として死は現れるが、同時に未知なものへ帰路なき出発でもある。他者の死を通じて私と死の関係は織り成され、死が私たちの生を襲い、私たちの生きている時間の持続に衝撃をもたらす。この時間に侵入してくる死は受動的な触発をもたらして、この時間の様態は経験や虚無には還元不能なものでなのである。
こうして死の意味とは他者の死において私たちが係わるものから到来する。そして、時間の構造は志向的なものではなく、経験の未来把持や過去把持からなるのでもないとレヴィナスは主張する。この時間を受動的な観点から述べれば忍耐となる。なぜなら死は、時間が忍耐や期待を、志向性のない期待を引き出してくる地点をなしているためである。そして、レヴィナスは余談として、時間の持続は、無限との、内包不能なものとの、〈異なるもの〉との関係である、〈異なるもの〉との関係で《同のなかの他》の表現における「のなかの」が隔時性を表しているが、時間とは〈同〉のなかの〈他〉であると共に、〈同〉とは共存不能な〈他〉、共時的なものたりえない〈他〉でもある。即ち、時間は〈他〉ゆえの〈同〉の動揺であるとも述べている。なお、隔時性とは記憶可能な過去の起源などとの共時性をとれない時間の隔たりを意味している。
こうしたレヴィナスの時間の存在に与える関係は『時間は存在の制限ではなく、存在と無限との関係です。死とは虚無化ではなく、無限との関係ないし時間が生起するために必要な問いなのです』と言い表している。こうしてみると、先に示した『時間の持続は、無限との、内包不能なものとの、〈異なるもの〉との関係』と言い切っている点にレヴィナスの時間に関する概念の基盤がある。こうして、レヴィナスは各哲学者を論評しながら「死と時間」を細かに論じていくのである。なお、レヴィナスは『時間とは一切の潜勢態が現勢化されるような成就の、完璧な規定の時間です』とも『時間とは純粋な希望なのです』と言っていることに注意されたい。〈異なるもの〉との関係においてまさしく、時間とは潜在態が現実化される希望であることが彼の真意であるに違いない。
「神と存在―神―学」での内容を簡単に述べる。存在の意味の究極の源泉とは、存在とはすなわち存在と虚無のことである。存在と虚無とは連動している。そして神とは他なるものの存在を意味している。この意味していることを思考すると、神に倣って存在の炸裂や転覆を、存在することからの脱出をすることができる。他なるものは〈同〉には還元不能ではあるが、ある種の関係(倫理)において、この他なるものないし彼方を思考できる。この倫理は存在―神―学より古い何かであり、この倫理が存在―神―学を解明できる。神と存在―神―学を対立させて新たな観念を認め、倫理的な関係こそが探求のための出発点になるとレヴィナスは述べている。こうして存在と意味が論じられる。言語がなければ意味はなく、この意味としての意味は存在の現出だと言い切っている。でも、意味の論理的陳述は語り直しを求めていて、意味と現れることとの融合がある。こうしてレヴィナスは〈語ること〉や〈語られたこと〉、主体―客体の関係、倫理的主体性、無―起源としての主体性などを通じて、自我、善意、自由と責任、証し、不眠などについて論じている。
現在として現前するものに対する超過が〈無限者〉の生であり、〈同〉に対する〈他〉の現前なき、〈同〉への〈他〉の内属は、関係をなす諸項間の還元不能な不―一致ゆえに時間性である。無限者の栄光は、ありうべき逃亡の可能性を奪われて狩り出された、そのような主体における無起源、無秩序であると言う。分かりにくいが、逃げ場を失いひび割れ核を失った状況ながら、主体が隣人に対する責任を負っていることこそが無限者の栄光なのである。こうして、神は他者にとって他のなるもの、他者とは別の仕方で他のなるもの、他者の他者性に、隣人への倫理的な収斂に先立つような他者性を有した他者とレヴィナスは言い切っている。どんな他者とも異なり、不在をなすほど超越的で、超越が栄光へと高まり、真なる超越でもあるのである。レヴィナスがこうした言い方をするのは神の声を聞くことに、その存在の固有性を思考することに理解を求めていたのではないだろうか。いずれにせよ不明な部分もあり尚も理解を深める必要がある。ただ、言葉を綴り簡単ながらも感想文を書くことによって、或る程度レヴィナスの述べている思想の太い幹やその周りの雰囲気は伝わってくる。
以上
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2019年11月28日(木) |
題:岡本かの子著「鮨」を読んで |
こうした女性作家の作品を読むことは珍しい。彼女たち女性作家の妖しい心を探り、谷崎潤一郎の妖しい心と比べるためである。岡本かの子著の短編「鮨」を読んでみる。
あらすじは、鮨屋の看板娘なる女の子ともよは、五十過ぎの先生と呼ばれる紳士、憂愁を帯びて、かつ一種の諦念を持つ湊の鮨の食べ方が気に掛かる。巧者でありながら通ぶるわけでもない。どうも、ともよはいつの間にか湊に淡い恋心を抱いている。彼の身振りや視線が気になる。この湊と偶然会ってともよは、彼の幼児の時の母親との鮨体験を聞く。湊はおかしな子で食べ物が偏っていた。そして、現在の母親とは別の母親なる「お母さん」を持っていた。無論、現在の生んでくれた母親が一番好きである。この母親は食嫌いな、食が細いといより嘔吐する子供のために鮨を握って食べさせてくれる。子供の喉に鮨が通って歓んでいる、母親は自らの勝利と思っている。内緒で自分が母と呼んでいる母はこの母親であったのかと、心を空想の母に移していたのことに悪い気がしてくる。こうして何度か鮨を食べさせてくれた母も父も死に、当然傾いていた家も潰れてしまったのである。この話を聞いた後、湊は店に訪れなくなる。彼の住むアパートは知らない。ともよは湊が何処かへ越して、何処にもある鮨屋に行っているんだろうと思っている。
著者の作品で読んだのはこの一作品だけである。簡明で的確な文章が印象的である。ただ心理の内部へ降りて行くことはせずに、心理の表層だけを書いている。湊の幼児期の過去は、現実との齟齬に苦しみながらも結局母が救ってくれる。母は優しさに満ちた存在である。この話をしてくれた先生なる湊は風来坊のように居なくなり、ともよの淡い恋心は実ることない。実に淡々とした話である。ただ、鮨だけが共通語として全体を覆っている。ともよには趣味が少し異なるが表面的には仲の良い両親がいて、無邪気に育てられながらも孤独である。母親とは親と子の関係以上に親密さはない。湊のように幼児期の凄惨さなどない無邪気さの内に、ともよには未来に向けて育ちゆく乙女心が同居している。そうした心情が滲み出ている作品である。
この「鮨」なる作品は著者が50歳時に発表されていて、著者自らの養母体験や拒食症、誰か思慕する男性を加えて創作したと推測される。即ち、ともよなる女の子の目を通した秘めた思いは、自らを投射して回想的に作ったものである。晩年の著者が若かりしときに思いを馳せて、現在の思いを重ねあわせて作った作品である。でも何度も言うが深い心理は伴わずに立ち入ることはしない。著者はやはりこうした表層を描く作風なのだろう。短歌にはもっと濃密な作があるのかもしれない。なお、男性に実名の候補者はいるが不明である。もしくは複数者を重ね合わせているかもしれない。作者と登場人物の人称の関係は、とても重要である。湊の幼少時の話の内容を、ともよと同様に三人称で扱って記述することは無理な気がする。作者自身が得たいが知れなくて登場人物の間で浮いてしまっている。
この作品を表層だけというのは、鮨を通してさまざまに内包されていながら、中長編に展開可能なテーマが含まれていて、既に相応の完成度を持つ作品があるためである。淡い恋心は、森鴎外著「雁」が若い妾の切ない心を描いていて良い。フローベール著「感情教育」も永久の初恋を描いている。また、母親への切ない思いは、母の経歴を調べて無垢な娘への純朴な愛を描いた谷崎潤一郎著「吉野葛」が良い。母への愛おしさは、同著者の「母を恋うる記」など、すさんだ少年時の思い出としては同じく「或る異端者の悲しみ」、「少年」などの作品がある。つまり、著者が「鮨」の中に含んでいるテーマはそれぞれに展開可能で、著者がどう長編化しているか気に掛かる。ただ、この「鮨」の書きぶりをみると、長編への展開を拒んでいるような気がしてならない。さっとさりげなく心の綾を表層的に書く気風の気がする。なぜなら、文体は最初に書いたように、簡明で的確ながら心理をたどり行かないためである。
こうした心理の表層を書く似た作品には永井荷風の「墨東奇譚」などがある。これらの作品をドストエフスキーやツルゲーネフなどの心理が動的(ダイナミック)に書かれている作品と比較すると、淡泊で静的(スタティック)である。こうした静的な作品はもしかすると日本においてのみ顕著に見受けられるのかもしれない。そして国民性や経済性に影響を与えている。それとも逆に国民性こそが静的な文学を求めているのかもしれない。無論、単なる推測であって確証はない。でも、古代歌謡も万葉集も、愚痴文学とも言われる平安朝の日記文学も、中世の御伽草子なども、江戸時代の近松も井原西鶴も心理と言わずに筋も動的であって、漫画チックに面白いのである。では、こうした静的な文学はいかに生まれたのか。狙いを付けているのが古今和歌集に、琵琶法師が弾き語る平家物語などの物語である。
何を言わんとしているのか、これら静的な作品の評価が高すぎる。文学とはこうした静的なものだと思っている固定観念を覆したいとの思いがある。無論、そう簡単にはいかない。どうなるわけでもない。ただ、ドゥルーズがフランス文学よりもアメリカ文学に引かれた原因がアメリカ文学の動的な心理と行動にあると知っている、この同じ思いに取り付かれているだけである。静的な、むしろ表層をたどって息をしない作品を嫌っている、そうした思いだけが募っている。では、こうした静的な作品が生まれ出て来た背景を探っていきたいと結論付けて、うやむやに記述を終わらせたい。
最後に、近代日本で一番動力学的な運動を伴なっている作品を発表している作家は、夏目漱石で、次いで二葉亭四迷、以外にも横光利一が加わり、大江健三郎などが続くのではないかと思っている。無論、読書量が少ないので、まだ加えるべき作家はたくさんいると思われる。
以上
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2019年11月21日(木) |
題:田村俊子著「木乃伊の口紅」を読んで(副題:妖しいエロシチズムな作品) |
こうした女性作家の作品を読むことは珍しい。彼女たち女性作家の妖しい心を探り、谷崎潤一郎の妖しい心と比べるためである。う〜ん、文章もお話も平板だし、色気もない。あまり出来の良い作品ではない。このため本書に関する話はさっと終わらして、色気、妖しさ、エロシチズムに関して、今まで読んだ本の中から良いと思ったものを簡単に紹介したい。
1.「木乃伊の口紅」について
主人公みのるは男の生活を愛さない女である。夫の義男はちっとも女の芸術を愛することを知らない男である。この二人の貧乏な生活と口論に夫の強制や暴力が描かれているけれど、結局みのるは義男にすがって生きざるを得ない。「木乃伊の口紅」とはみのるが見た夢である。重なり合う木乃伊の女の唇が真っ赤な色をしている。みのるは何かを暗示していると文章にして書こうとするが、義男は嫉妬しているのか、夢の話は嫌いだと言う。全体は取り留めもない作品である。「木乃伊の口紅」を全体に関係させる筋かイマジネーションが欲しい。
つまり、本書の題名が内容を的確に表現していない。フランケンシュタインのように木乃伊が登場するかと思ったら、まったく登場しない。また、女は男に虐げられて、死んだ木乃伊であるより逞しく生きている。すると、欲情する肉体を持つ木乃伊なる女を描けば良いのではないだろうか。欲情する木乃伊なる女がこの世界を闊歩して男を食い散らかす、滴る血が唇を紅色に染めるのである。何とロマンチックで優雅な筋であろうか。こうした破壊的な筋を望まないのであれば、せめて女を木乃伊と重ね合わせて描写して、死して横たわっているのではなくて、生きて男と交合する木乃伊の奇妙な日常の生態を記述すればよいのではないだろうか。でも、ヴィヴィドにこの世界に生きている木乃伊とはどう描けば良いのだろうか。なんだか良く分からなくなってくる。結局、木乃伊の生態をきちんと定義しなくちゃいけない。死んでいても生きていても肌が艶めいていても褐色にひび割れていても、肢体があってもなくても、木乃伊自身が木乃伊であることに納得でき得る様態が定義されて記述されなければならない。
2.エロシチズムの定義や特徴
こうしてみると、妖しいエロシチズムな作品というは、それなりに対象の様態を定義してなおかつエロさの定義も行っている。なお、説明は簡便に行いたい。なお、ジル・ドゥルーズ著の「マゾッホとサド」を参考にして、都合よく思想の一部を借りている。
1)ジョルジュ・バタイユの「エロシチズム」では、エロシチズムは消滅する個体の連続性の保持手段である。また禁忌の侵犯こそが最高のエロシチズムとなる。
2)マルキド・サドの「悪徳の栄え」などでは、超自我による自我の破壊、絶対否定の観念こそが究極のエロさとなる。もはやエロさを越えた破壊力がある。従って、人民を消尽する制度、法体系が必要となる。
3)マゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」では、鞭打つ女主人とは契約をしなければならない。そもそもこの女主人は鞭打たれる男が教育して作り出した女である。そして鞭打つのは男ではないと否認する。否認するとは未決定状態であり、この未決定状態に自らをと宙ずりにして身をさらけ出すのである。
4)ポリーヌ・レアージュ「O嬢の物語」では、人間のモノ化が語られている。O嬢はモノとしてただ奉仕しなければならない。そして遂には首輪などを嵌められ裸のまま引き回される、見世物になる。哀れなことに捨てられてしまい、最後にわずかに残されていた自らの意志で、自らの死を希望するのである。
3.海外における妖しい作品
エロさというより妖しさか、良く分からないけれども、とても感動した海外の作品を何点か紹介したい。
1)フローベールの「ボバリー夫人」は破滅に至る不倫を描いていてとても上質な作品である。「感情教育」における老年に至るまでの長い初恋は、悠久の時の流れを感じさせる。
2)コデルロス・ド・ラクロの「危険な関係」では、心理的な策略を用いて法院長夫人を陥落させる場面がクライマックスとなる。つまりエロさとは心理的な裏切りや凶悪さが根底に潜んでいる。そして、もはや窮地を逃れ出ることができないように追い詰めることこそがエロさを含んでいる。
3)コレットの「青い麦」では思春期の恋の心情と肉体を描いている。肉体を他者に通過させることで、少女は心も体も女として成長していくのであろう
4.日本における妖しい作品
日本の作品を何点か紹介したい。海外の作品に比べて微妙に美しくも哀れでもある繊細なエロさがある。
1)上田秋成の「蛇性の淫」では、蛇性の美しい女は妖しいと言うより妖怪変化であろう。ある種の恐ろしさがある。
2)森鴎外の「雁」では、学生への憧れている若い妾の指から滴る血が美しすぎる。それに蛇が加わって、なお妖しさを美しく盛り立てている。
3)夏目漱石の「それから」の三千代のコップの水を飲む妖艶さにはどきどきしてしまう。それに「行人」の止む無く同宿することになったお直の二郎への誘惑は媚態というより、すごく妖艶である。
4)谷崎潤一郎の「春琴抄」にける春琴の体を洗う佐助の献身的な愛には負けそうである。「少将慈幹の母」における美しい女と不浄観は肉体のエロさを際立たせている。
5)夢野久作の「ドグラマグラ」における隣室少女の悲痛な叫び声はまるで実際に聞こえてくるようである。また腐乱遷移図は、悩ましくも肉体にしがみ付かざるを得ない人間の宿命を描いている。
6)萩原朔太郎の「崩れる肉体」、「蛙の死」などの詩は最高にエロさを秘めているというより、存在論的な深さで表現している。
その他、悩ましくも美しい妖しさを的確に表現した作品はいろいろあると思われる。
以上
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2019年11月14日(木) |
題:アンリ・ベルグソン著 原章二訳「精神のエネルギー」を読んで |
アンリ・ベルグソンの著書は殆ど読んでいる。「時間と自由 意識に直接与えられた試論」、「物質と記憶」、「創造的進化」、「道徳と宗教の二源泉」、「持続と同時性」、「笑い」、「思想と動くもの」である。だいぶ前に読んだので内容は忘れていたが、きちんと感想文に記録していたので、簡単な記述ながらこの感想文を読むと要旨を思い出すことができた。哲学書などは読んで記録しておくことがいかに重要か思い知らされたものである。機会があればこれら感想文も紹介したい。
この「精神のエネルギー」は横帯に『ベルグソンによるベルグソン入門! ベルグソン哲学の核心にある思想がふつうの言葉で語り出される、哲学者自身のしつらえた導入路を、より的確でより読みやすい新訳でたどる』と書いてある。目次は、T意識と生命、U心と体、V〈生きている人のまぼろし〉と〈心霊研究〉、W夢 X現在の記憶と誤った再認 Y知的努力 Z脳と思考――哲学的な錯覚とある。読むと新訳のせいかより一層文章が美しい。でも、決してベルグソン思想の紹介本ではない。ベルグソンの七つの短論文である。それも1919年発刊である。従って、「時間と自由 意識に直接与えられた試論」(1889年)、「物質と記憶」(1896年)における思想は大いに含まれているが、「創造的進化」(1907年)もそれなりに含まれているが、「道徳と宗教の二源泉」(1932年)はまったく含まれていない。アインシュタインの相対性理論を批判した「持続と同時性」や笑いについて考察した「笑い」の内容は含まれていない。また、本書の後半において、表象と物質や記憶に知覚と、脳を踏まえてた精神の再認や幻覚などの精神の心霊現象については、しつこいくらいに斜め読みせざるを得ない位に詳述している。なお、「思想と動くもの」は本書の続編である。「訳者あとがきに」に本書の記述に関して訳者原章二が簡単にまとめて紹介しているので、そちらも読み参考にしていただきたい。
本書を読むよりも、「時間と自由 意識に直接与えられた試論」、「物質と記憶」を直接読んだ方がベルグソンの思想は分かりやすいと思われる。訳者はふつうの人の分かりやすい言葉で書かれているけれど、やさしいと思うのは浅慮であると述べているが、けだしそうでありながら実はそうではない。哲学的研究者ならいざ知らず、一般的哲学愛好家にとっては、自らのベルクソン像を作り上げることが大切である。この像は著書を読むことによって、直感的に浮き上がってくるベルクソンの思想的なイメージ像の確立することにある。細かな思想の枝葉など必要なければ切り捨て、必要であれば拡大して像に反映させればよい。本はそれぞれの読者に従った読み方があるはずなのである。
簡単に本書の内容を紹介したい。T意識と生命、U心と体 では、意識、記憶、物質、知覚を主に記述している。意識とは記憶であり、未来への予期である。そして、知覚とは過ぎ去ったばかりの過去と、間近に迫った未来という二つの部分からなる持続の厚みである。意識は過去と未来との間に渡された橋であると述べて、ベルグソンはこの意識、意識ある存在とは何であるかとの問い掛けを出発点にして論じ始める。感覚から刺激された脳は運動への選択器官である。一方感覚は意識と物質の合流点にあって意識を特徴づける持続の中に膨大な期間を凝縮させている。こうして生命の進化と再生に話が及び躍動と内的推進力が生命を歩ませ、生命の進化する力の内部には本能と知性が混じり合っていたとする。精神の力とは自分の持っている力以上のものを自分から引き出す能力である。精神の力とは精神のエネルギーと言い換えても良い。こうして社会に話が及び『社会は個体を自分に従属させるのでなければ存続できず、個体を自由にするのでなければ進歩できません』という含蓄ある言葉が発せられる。なお、「心と体」とは物質と精神のことである。そして脳と思考の波と行動と語を論じる。生きるとは精神にとって本質的に果たすべき行動に集中することなのである。
こうしてベルグソンは〈心霊研究〉としてテレパシーや幻視を題材にする。意識は脳の機能ではないが、少なくとも脳は意識を私たちの生きている世界につなぎとめていると言う。こうして身体組織を超える意識があるとして魂の残存の確実さを訴える。物質に対する知識の深まりによって心理的な現実の未開拓な領域に入って行けるとする。この心理学的な問題として夢について述べる。夢と知覚の違いについて述べる。弛緩と緊張に絡めて夢と精神を論じる。更に錯覚と誤った再認について論じる。誤った再認とは自分が自分の見物人になる自己の二重化のことである。誤った再認は意識内に二つのイメージが現実に存在し、そしてその一つはもう一つの再生なのである。このイメージを記憶と知覚と絡めてベルグソンは執拗に論じている。きっと現在と一体となっている未来から引き離した意識の停止が絡んでいるからに他ならない。現在の記憶は意識の躍動の弱まりや停止を持って現れるためである。誤った再認は現実の堅固さが失われ現在の知覚はその背後にある何か別のものによって二重化されていくのである。逆に意識の躍動は生命の躍動をあらわして、その単純さによって分析を免れている。このようにベルグソンは意識の躍動の裏側の現象をあぶり出している。
こうして知的な努力として弛緩と緊張、記憶の努力、想起の努力を絡めて「純粋記憶」から「意識の平面」という概念を述べる。また「動的図式」という概念も述べる。この「動的図式」とは多数のイメージに展開しうる単純な表象を指す言葉である。なお、「意識の平面」とは感覚に隣り合った聴覚や運動の記憶を含む平面である。こうして図式とイメージと意識について述べているが、これは「物質と記憶」におけるイメージ論を言い直したものであろう。こうして物質と象徴を通じて観念論と実在論を比較検討する。これらは精神の理論の出発点になるためである。出発点とは「時間と自由 意識に直接与えられた試論」、「物質と記憶」のテーマであることを示している。従って何度も言うが、本書よりもこれらの著書を初めに読んだ方が良いと思っている。本書を読んでだいぶ記憶を呼び戻したことは確かであるが、読んでいたからこそ呼び戻せた記憶である。
「道徳と宗教の二源泉」の道徳と宗教、それに本書でも書かれている魂について一番関心を持っている。それらがあまり本書で記述されていなかったのは残念である。いわばベルグソンの神秘に触れたかった。きっと神秘主義とは物質を貫いて突進した精神がそこまで進もうとして、進むことのできなかった地点を目指している、もしくはその位置そのものである。完全な神秘主義とは行動であり、創造であり、愛であろう。それらが決して消え失せることのない地点がある。きっとベルグソンは人間が推進する力を、その力をこそ含有して生きていることを確信していたはずである。
以上
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2019年11月7日(木) |
題:大槻修校注「堤中納言物語」を読んで |
久しぶりに日本の古文を読んでみたいと思い選んだ作品である。古典文学は、たぶん、代表的な作品の過半は読んでいるはずである。なんと言っても「紫式部日記」が好きである。出だしの風景に織り込ませた心的描写と消息文と呼ばれる他者批判と自虐とも思われる悲嘆とのアンマッチがとても良い。これが「源氏物語」の作者の日記なのかと疑わせる。冷静さを欠いているためである。これに比べれば「枕草子」などは軽くて詰まらない。良いとか悪いと書いた記述した単なるエッセイ的な作品である。こうして古文について書けば長くなるのでやめる。なお、活字化された古文のみを読みこなすのは難しい。でも、注を頼りに分からい所は何度か読めば何とか分かる。現代語訳文を読まないのは古文の持つ音律、語感が好きなためである。
この「堤中納言物語」は「物語合」で読まれたものであるらしい。作者も編纂者も題名の由来も謎である。なお、成立年は十一世紀から十三世紀の作品を集めているらしい。即ち、平安朝後期からの作品を集めたものである。十作品と断章からなる。一作品約十頁程度と短い。「竹取物語」が十世紀前半には出来上がっていたのと比較すると、もっと遅い作品群である。「竹取物語」などと文章を比較したいが、それほど時間的余裕も能力的にも不足するために、ただ、簡単なあらすじと若干の感想だけを述べたい。
「花桜折る少将」は浮気者で美しい女を手に入れようとする少将であるが、女付きの童女や雑色の手違いで老いた尼を奪い取る。「このついで」は子供をめぐる悲劇的な恋、厭世的な女性の参詣、ある女の出家の話からなる。「虫めづる姫」は一番有名な話である。たくさんの虫が出てくるが、蛇の偽物はなかなか趣向がある。姫は「みにくくはあらで、いとさまことに、あざやかにけだかく、はれやかなる」な容姿である。でも、眉は剃らずげじげじで、お歯黒もしていない。色男も登場して姫と歌を交わすなどするが、やはり恐れて諦める。「ほどほどの懸想」は下級、中級、上級階級のさまざまな恋模様を書いている。「逢坂越えぬ権中納言」は、中納言は内裏にて根合わせや管弦で遊ぶが、思いを寄せる宮とどうしても結ばれない。「うらむべきかたこそなけれ夏衣うすきへだてのつれなきやなぞ」なる最後の歌が、色っぽくてかつ悲しさが滲み出ている。
「貝合」は貝合を行う話である。勢いのある本妻の方の姫君と、一方、はかなげな姫君には手助けする男がいる。無論、心を寄せてくれるのが条件と童女に伝えている。ただ、姫君はいっぱい集まった貝を見て仏がなしてくれたと喜んでいる。「思はぬ方にとまりする少将」は言わば、姉妹の手違いによる相手の男の取り違えである。姉妹は驚くが男たちはどちらの女とも縁があると言い愛情深い。「はなだの女御」たくさんお女たちの評判記である。「はいずみ」は、あたらしい妻ができて古い妻は引っ越す。男は古い妻のあばら家に嘆いている。男が新しい妻を不意に訪れた時、急な化粧ではいずみを塗った顔に驚いて近くに寄れない。陰陽師の呪詛から生じたのかもしれないと推し量っている。「よしなしごと」は僧侶と女の関係が、僧侶の山に籠るに必要な品の要求だけの関係として書かれている。
情感を含んで筋が面白い作品は「このついで」、「虫めづる姫」、「貝合」、「はいずみ」である。あと「花桜折る少将」や「逢坂越えぬ権中納言」も趣がある。「このついで」や「はいずみ」は男女間の機微が男の女への愛の復縁としてそれなり情感に満ちている。「虫めづる姫」は姫の虫好きの奇妙さと美しさとの齟齬、それでも物にしよとする男がいるところが面白い。「貝合」はたんさんの貝を仏の贈り物としてはしゃぐ姫を男が楽しく眺めているのが良い。いずれにせよ小品なので文章の変わり身が早くて、筋の展開も心持も注意深く読まなければ見落としてしまう。また、小品であるために平安朝の日記文学に比較して物足りないことも確かである。声に出して読めばまた物語の違った景色もみられるかもしれない。
以上
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2019年10月31日(木) |
題:谷崎潤一郎著「鍵・瘋癲老人日記」を読んで |
谷崎潤一郎の小説もだいぶ読んできたが、「鍵・瘋癲老人日記」は晩年の評価の高い作品である。以前、読んだことがある。今回もカタカナ語に悩まされ、また仮名漢字文には悩まされて結局頁を捲っただけである。死ぬ五、六年前に書いた老人の性や肉体への執念を知りたかったけれども、良く分からいというより、それほど優れた作品であるとは思われない。ずっと以前読んだ時に感想を書いていたので、そのまま今回の感想としたい。殆ど読んでいないために筋は示さない。ただ、「鍵」は老作家と妻の日記を綴ったものである。老作家が妻に愛人をこしらえさせ、娘もこの不倫を支援する。なお、日記の保管場所を開けることができるのが鍵である。
―――――以下、引用文
カタカナが読むのが面倒で今まで読めなかったのであるが、今回もカタカナは読めなかったのである。仕方なしにカタカナ語のほんの一部と「鍵」の妻の日記がひらがら漢字で書かれていて、その部分だけを読んだ感想文である。従って、本書の一部を読んだだけで自分でもよく分からないままに書いた感想文である。
カタカナ語がなぜ読めないか、たぶん文章を読み理解するとは、ある直接的な脳へと知覚する通路が、書かれた文字を意味として理解する通路が存在するためであろう。かな漢字文の場合、見た瞬間に通路を移動して理解できる訓練が成されているのである。カタカナ語の場合、この通路は見るのではなくて文字を理解するために途方もない長い時間を必要とするに違いない。これは将棋や囲碁の局面の理解と同じである。ゲームの規則を理解していないと、ただ駒や碁石が意味もなく並んでいる。川原に転がっている石のように乱雑に無意味に物質や形象が意味なく転がっているだけとなる。ただ、カタカナ語でも努力すれば、時間をかければ通路は閉ざされていずに読むことができる。読みたければ石に齧りついても読むはずであり、きっとそれほど読みたいのではなくて、ただ何が書かれているか知りたいだけで、読んでもそれほど面白くはなくて結局挫折しているに違いない。
結論から言うと「鍵」は「春琴抄」や「吉野葛」などより劣る作品である。「春琴抄」の引き締まった文体や濃密に底流するエロシチズムや情念の濃度、そして物語としての卓越性、「吉野葛」の母恋や友人の故郷の自然な情景に、人の心の優しさや暖かさが含まれる作品の方が良いし好きである。「鍵」は妻の日記だけを読んでいるが、淫乱さを秘めている貞淑な妻が夫の日記に書かれている示唆に従って、夫の部下と関係を結ぶことになる。それはきっとこの相手の男に恋している娘の陰謀も手助けして実現したのかもしれない。夫はこの妻の淫乱さに嫉妬し欲情し続けて、結局は脳溢血で死ぬ。これは妻の病気持ちの夫を死なせるための策略でもあったらしい。結局これら四者の関係が、夫と妻の日記と言う体裁を取って記述されているために良く分からない、微細に描き切れていない。そして病気になった夫の死ぬまでを書いた妻の後半の日記の大半が無意味に疑心暗鬼と病状のみを描いていて長い。更にこの妻の書いている日記の文章が非常に冷静に分析的で、疑念を抱きながらも論理的で、妻の貞淑さや淫乱さやその葛藤が、夫の死後を除いて作為的な感じがして、その思いが切に伝わってこない。
きっと谷崎は文章の余白を強調していたと記憶している。それは美しい文章として余韻を残すためであるが、今回は余白が多すぎて、こういう小説であったのかと少し記憶に留めて置くことにしたい。なお、「瘋癲老人日記」はすべてカタカナ語のため読んではいないが、颯子という若い女性を嫁に得た老人の話らしい。どういう風に颯子を得てどういう行動を行っていたかは分からない。ただ「鍵」、「瘋癲老人日記」とも性に執着する老人が描かれているはずが、「鍵」では老人の執着も発表当時はインパクトが絶大であっても、現代においては少し古くなって、少し作為性を感じさせて、飽くなき執念として心底願う切実さが妙に削がれて伝わってこない。ただ先ほどの少し述べたが、妻が夫の死後の本心を語る日記の文章はさすがに谷崎と納得させるものがある。「瘋癲老人日記」の老人の執念は読んでいないために、どうにも分かるはずがない。なお、颯子は谷崎の息子の妻なる千萬子をモデルにしたらしい。谷崎と千萬子が交換した手紙は「千萬子との手紙」として出版されていて読んだことがあるが、なるほど若い娘への執着心が執拗に加わっている。
―――――以上、引用文(幾分修正されている)
谷崎の性への執念は良く分からない。というより多種な面を持つ。「千萬子との手紙」や「蓼食う虫」では若い女への教育として現れている。教育とは日常生活、特に日本的な文化についての教育である。一方「春琴抄」や「痴人の愛」での執念は幾分マゾ的な性質を持っている。「少将滋幹の母」では「不浄論」にたどり着く。その一方、母への思慕がとても強い。こうした谷崎の性に関する心理については、谷崎純一論にて論じたい。と言っても若干のマゾ的な性格と肉体への執念だけにする予定である。予定であってまだ書いていずにどう展開されるかはまだ分からない。論旨の幹はベルグソン哲学の応援を得て、持続とエランヴィタルの概念を利用する、これもまだ予定である。
以上
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2019年10月24日(木) |
題:谷崎潤一郎著「武州公秘話・聞書抄」「陰翳礼賛」を読んで |
「武州公秘話」、「聞書抄」、「陰翳礼賛」の出版時期は次の通りである。
「武州公秘話」 新青年 1931年
「聞書抄(第二盲目物語)」大阪朝日新聞・東京日日新聞 1935年
「陰翳礼賛」 経済往来 1933年
簡単に各小説の感想を述べると次のようになる。「武州公秘話」は切り取った首の話から始まり、首を処する女のエロシチズムを描いている、すごい傑作な作品だなと思っていたら、エロシチズムは深まらず、鼻を削がれた首(女首という、戦場から持ってこれず鼻を証拠として取られ残った首)にされた父の恥辱を娘が果たすと言うありきたりな話になる。主人公はこの娘に助太刀する男として展開する。ある種の滑稽小説である。途中から興を削がれたが、最後まできちんと読むことはできた。「聞書抄(第二盲目物語)」は副題にあるように、「盲目物語」のような味わい深い作品を期待していたら、長々しい文章が邪魔をして読む気が起こって来ずにすぐさま読むのを止める。「陰翳礼賛」は随筆で、陰翳(いんえい)こそが日本の美の原点であると主張している。この随筆はそれほど関心を引かず、ぱらぱらと頁を捲っただけである。
こうなると筋も感想も書く気が起こらないが、記憶を保つために最低限の記述をしたい。「武州公秘話」は、大名の子であるけれども人質である法師丸(武蔵守輝勝の幼少時の名)が、戦で集めた首を洗い清め飾り立てて仕分けをする女たちの仕事を見るところから始まる。法師丸は一人の女が女首を扱う時に浮かべた微笑に心をときめかせて、性的な快楽を感じる。自らの首を差し出してこの女に取り扱って欲しいと願う。この願いは、首を取り扱っている女の怪しげな姿をもう一度見たいと法師丸に願わせて、敵陣にひっそりと忍び込ませる。そして敵の大将を殺める。ただ、首を切り離すことはできずに、鼻を削いで持ってくる。この敵の大将の娘が法師丸の主人筋の武将に嫁ぐ。そして、この主人を父の鼻を削いだ犯人であると決めつけ、娘の復讐が始まる。即ち、もはや夫となった男の鼻を嫁の桔梗の方が削ごうとする。それを知って河内介(幼少時の法師丸)は手助けを申し込み受け入れられる。こうして河内介の主人なる筑摩則重はみつくちになるなど被害を受ける。この後の筋書きは記述しないでおこう。
「武州公秘話」は「乱菊物語」の系列に入るだろう。「乱菊物語」よりも作品的な質は高いが、物語の筋として展開して、生首なるエロシチズムは追求されて描かれない。性癖という言葉が何度も書かれているが、並べた首を自らが眺めて恍惚とする性癖は再現されて描かれない。谷崎の性格にもよるのだろうが、一度描くと直接的なエロシチズムはもはや再度書かないのである。ただ、そのような雰囲気を文章にて作り出して筋として展開している。言わば「冨美子の足」なる作品にて美しい足に執着するように、首に執着して描かないのである。こうした奇譚な小説は夢野久作の「ドグラ・マグラ」などの方が優れている。マゾッホ作「魂を漁る女」に描かれる悪魔的儀式を前にしたドラゴミラの奮闘に比べると迫力が落ちる。つまり谷崎はマゾ的な気質を持ちながら、それをさりげなく示しているだけであり、記述は極端あるいは深部へと決して入って行かない。つまり、谷崎の文章力が想像を喚起させる力を持っているだけである。また筋の走りの良さが小説の質の希薄さを生み出している短所がある。言い換えるとこれらの作品は純粋な文学からはほどよく距離を保って、話の筋として面白さがある小説と言える。こうした谷崎の筋を中心にした小説は、荒唐無稽やエロさではなくて日常の些細さを中心に据えた時こそ、その真価が発揮される。これについてはまた別の機会に書きたい。
「陰翳礼賛」も結局は同様に言うことができる。一つの思いに繋がって連想することがらを、筋を転がし展開するように長い文章で書いている。こうした文章を読むのは疲れてくる。夏目漱石の「硝子戸の中」は日常の細かな出来事を小さな感情と事実で綴ったものである。無論、漱石であるから短文で歯切れがよい。こうした随筆の比較は随筆を読む本人の感性に合うかどうかだから、話しをしても無駄であろう。私は漱石の随筆の方が断然好きである。なお、この「陰翳礼賛」は、「陰翳礼賛」、「懶惰(らいだ)」(怠けること)、「恋愛及び色情」、「客ぎらい」、「旅のいろいろ」、「厠のいろいろ」の六つの随筆からなる。先に書いたように陰翳こそが日本文化の原点であるとの主張が含まれて、それぞれの題に従って連想を展開させて、多岐にわたり思うままに記述している。内容に関心のある話題もあるが、その内容はもう記述はしない。ただ、「厠のいろいろ」における「厠」は、「武州公秘話」における河内介(幼少時の法師丸)と桔梗の方とを繋げる場所でもある。それも高貴さを醸し出すために砂の代わりに翅を敷いたという点も確か同じで内容であり、その内容が好都合に展開されているのを知ってわずかに面白みを感じた。便そのものを高貴に見せるために姫君が苦労した話は「源氏物語」にもあったはずである。自らを気高く見せるために、あらゆるものに気を配って細工するのは、恋心の成就のためばかりではなくて、何かしらの自尊心や虚栄心が含まれていると思われる。
以上
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2019年10月17日(木) |
題:「ギリシア悲劇W エウリピデス(下)」を読んで |
確か、岩波の「ギリシア悲劇全集」は持っていて、結構読んでいたはずである。ソポクレスの「オイデップス王」や「アンティゴネー」などは良かったと記憶している。でも、探したけれど見つからない。田舎に送ったのだろうか。実は「バッコスの信女」を読みたかった。ディオニュソスに狂う女たちをどう描いているか知りたかったためである。「バッコスの信女」だけの文庫本も売っていたが、本書はエウリピデスの過半の作品が掲載されていると分かり、本書を選んで、数編読んでみた。結論から述べると、どうも昔感激したような感情が湧き上がってこない。ソポクレスとエウリピデスの作家の違いではなくて、ギリシア悲劇そのものが戯曲であって、舞台と合唱隊と観客が一体となって演じて観劇するためであろう。文章もそこそこ良いのであるが、どうも真実味が伝わってこない。一度、読んでいるためであろうか、それともギリシア悲劇の類型的な話であるためであろうか。良く分からないが現代的な訳が少しギリシア悲劇の悲劇内容を削いでいる気もする。それに、予備的な知識がなければ登場人物も多くて、その性格や役割も分かりにくいのである。
「バッコスの信女」はディオニュソスのテーバイへの来訪と共に引き連れてきた女たちの淫猥さを、テーバイ王なるペンテウスが覗こうとしたことが引き金になり起こる悲劇である。ディオニュソスを神と崇め立て祭れと言う先代の王カドモスたちの諫めも聞かずペンテウスは神なるディオニュソスを蔑み、女たちを罰しようとする。実はディオニュソスとペンテウスはカドモスを父としたセメレーとアガウエーなる姉妹が宿して生まれた従弟同士な血縁関係にある。セメレーを母にするディオニュソスは結局ゼウスの腿の中から生まれ出るのであるが、カドモスはこの神聖なゼウスを父に持つディオニュソスを神として称えているのである。女たちを覗いて見ないかとのディオニュソスの誘いにのり、ペンテウスは信女たちを見に出かける。なお、この信女たちにペンテウスの母アガウエーも混じっている。祭りの様子をしゃべらせてはならぬというアガウエーの命令に、この信女たちは従う。ペンテウスは肉を引き千切られ肋骨も剥き出しになり、肉片を毬のように投げられる。母アガウエーはカドモスに知らされ後、正気に戻ったのか真実を知ることになる。そして、カドモスは神なるディオニュソスに謝るのである。
なお、ギリシア三大悲劇詩人アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスは同じ神話を扱いながら解釈を異ならせていることもある。「フェニキアの女たち」では、オイデップスが父でありながら子でもあるポリュネイケスとエテオクレスとのテーバイをめぐる相続の争いを描いたものでる。母なるイオカステは子供たちの決闘による二人の死を知り死ぬ。妹なるアンティゴネはイオカステの兄弟のクレオンの息子ハイモンとの結婚により王妃になれるというのに断る。兄弟をこの地に葬ることを認められなかったためである。そして、盲目となって登場したオイデップとともに、前々から病んでいたこの国を去る。なお、フェニキアの女たちというのはデルポイのアポロンの信託所に仕えるために送られた乙女たちで、その途中で王位の継承をめぐる争いに巻き込まれた女たちである。乙女たちは合唱隊の役割を果たしている。この悲劇では、年老いて盲目なオイデップが最後に現れて街を出て行かなければならないことを嘆くが、永久に罪を断ち切れない者の切なさを実感させる。それに、アンティゴネの父を思って仕えるさまが印象的である。
「エレクトラ」が一番面白い。トロイア戦争のギリシア軍総大将としてのアガメムノンは妻クリュタイメストラの手にかかって殺される。アイギストスという情人を持っていたのである。この父の仇を討つために娘エレクトラは貧しい農夫と結婚して身を隠している。そして神託を受けた弟のオレステスと出会うのである。元の家来の老人の証言によって、エレクトラは弟オレステスと確信する。そして、オレステスはアイギストスを見事に討つのである。母なるクリュタイメストラは最後になって言い訳をする。つまり、トロイア戦争は姉妹ヘレネのふしだらのため生じたのであり、アガメムノンは娘を祭壇に捧げ、また気違い女を連れ帰り寝床の仲間に加えている。この辺の詳細は記述しないが調べるとなかなか面白いことが書かれている。情人を持って夫を殺したクリュタイメストラも理路整然とした納得しうる言い分がある。でも、衣服をはだけ胸もあらわに投げ出した母は殺される。貧しい農夫と結婚していたエレクトラは農夫の実直さに処女妻である。オレステスを匿わせていたフォキス王の下のいとこのピュラデスとエレクトラは結婚することになる。オレステスは母殺しの罪で狂気となりあちこちさ迷い歩くことになる。その定められた役目を終えると苦悩から解放され幸福に暮らせるようになると言う。
本書には全部で九作品があるが残りの六作品を読む気力はなかなか湧き上がってこない。つまり名前と人間関係が複雑で読み直さなければならない時もある。また理解するために調べなければならないことも多い。更に、それほど感激して読むこともないためである。
以上
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2019年10月10日(木) |
題:ジャン・ポードリアール著 今村仁司・塚原史訳「象徴交換と死」を読んで |
本書は前半の詳細な説明から幾分バランスを欠いた記述になっている。哲学書と思っていたが、経済書でもあり、それらの思想が混然一体となって趣旨は分かるのであるが、釈然としない部分もある。文章はぶっきらぼうで、きめ細かく理解するのは難しい。ジョルジュ・バタイユの「エロシチズム」や「宗教の理論」、ソシュールの「アナグラム」や記号・言語論などの引用の他に、フロイトやベンヤミンやジュリア・クリステーヴァ、それに交換や贈与論やモードにシミュレーションやシミュラークル、コピーにオリジナルなどの用語などなどが氾濫しており、これらの言葉に慣れない人にはとても読みにくい。でも、難しくて何を言っているか分からなくとも、全体の約五百五十頁の内、最初二百頁を読めば、彼の思想の幹が見えてくる。後は読み流しても一向に構わない。ただ、枝葉と思われる理論に、特に現実の労働争議や移民問題などを論じた部分が妙に生々しく響いてくる。今現在の出来事が合理的に解釈されているとも思われる。従って、本書の評価は、再読して再吟味が必要である。直感的に言えば、社会経済システムにおける象徴交換としての労働や貨幣との絡みはそれまでに結構述べられていたものであり、そんなに新しくはない。また、死の交換と含めて消尽や贈与の絡みの関係も述べられていたものである。これらが結合して何か新しい思想が生み出されているかは、死との象徴交換をどう評価すべきことになる。また、記号の象徴作用の破壊が何を意味するかにもかかっている。著者の思想は未来を先取りした新進な思想とも、また、ただ単に死が先走った思想、もしくは幾分アナキーな思想とも受け取れないこともないのである。
こう言っても本書が何を書いているか分からないために、本書の要旨を簡単に示したい。なお、この要旨は本書の「序」を中心にしながら、それ以降の記述も加味した理解である。経済学はもはや生産と何の関係もない、いわばシステムが生産から現実的な目的を奪い取って、生と死を賭けた企てのようなもの、つまりシステムは象徴的な企てに関わっているとする。当然商品の価値との交換ではなくて、例えば労働力などは死との交換になる。すべての商品が互いに等価であることは物の象徴的死滅を予想することになる。この死とは主体や価値という規定が消滅する形式であり、政治経済やリビドー経済は価値に支配されて動いているが、それを超え出ると価値の死滅に基づく社会関係の図式があるのである。つまり、近代社会において象徴交換はもはや存在しないのではなくて、死との交換という象徴交換が残っているとする。
この説明だけでは分かるはずはない。更に説明すると、著者は、フロイトやマルクスの仮説よりもソシュールのアナグラム論とモースの交換―贈与論を重要だと言い、同様にフロイトの死の欲動も捕らえる。アナグラム理論とは言語学における記号に割り当てる法則や公理や合目的性の彼方にある、表現作用を伴わない言語の二律背反的な形態である。この詩的言語形態は記号と象徴作用を破壊して、象徴交換として価値を根絶する場となる。また、モースにおける交換―贈与論は民俗学におけるものであり、これも生産主義と蓄積主義を超え出ている思想である。これらは絶滅と死の形式をとる、象徴界の形式そのものである。もはや避けることのできない形式なのである。こう述べると著者の思想が、商品価値との交換を超えた後のシステム形態を、過去の思想に基づいて構築かつ予測しようとしていることが分かる。ただ、この思想の正統性はまだ理解できていないけれど、現代システムにおける脆弱性や危険性を示唆しているとも思われる。
更に著者は続ける。システムは不確実性のなかで動揺しており、現実なるものはコードとシミュレーションというハイパー現実に吸収されてしまうのである。今やシミュレーション原則がわれわれを支配して、モデルが我々を生み出す。今やイデオロギーははなくてシミュラークルしかない。こうして現代は第三の領域の時代であり、実在の領域はもはや存在せず、存在するのはハイパー現実の領域である。こうしてシステムの戦略全体が、浮動する諸価値のハイパー現実にからめとられているのである。ハイパー現実主義的システムに対する唯一の戦略は、超物理学的であって「想像解をもつ科学」である。そして、価値と等価物の商品法則にたいしては、革命の弁証法が照応していたが、コードの不確定性と価値の構造的革命にたいしては、死を念入りに取り戻すことしか照応しないと著者は言い切っている。
こうして著者は全部で六部「生産の終焉」、「シミュラークルの領域」、「モード、またはコードの夢幻劇」、「肉体、または記号の屍体置場」、「経済学と死」、「神の名の根絶」を記述している。経済ばかりではなく、関連する多岐の項目に渡って記述している。特にバタイユの「宗教の理論」よりも「エロシチズム」の解釈が長くて個体の消滅と連続性を説明している。更に共同体における「消尽」と「剰余」を取り上げている。著者はバタイユの連続性を、生の秩序に属する連続性であると批判し、根源的な連続性はつねに秩序そのものの途方もない消滅を意味していると述べている。更に真の豊かさとは、死との豪奢な交感、すなわち供犠にのうちに存在していて、この部分こそは投資=備給の対象や等価物になることもなく無に帰せしめる以外にないと言うのである。
また、ソシュールの「アナグラム」についても結構詳しく書いている。言語学上の観点から残余や価値について、蓄積と価値の回路に戻ってゆくものは、供犠的消尽から残ったもの、贈与と対抗贈与の不断の循環のなかで汲みつくされなかったものである。この残余を人びとは蓄積する、この場所から経済的実践が誕生するのであると述べている。ところでこの残余について、生活を変えるためにはあらゆる領域で残余を根絶することが必要だとして、詩的実践は等価性も蓄積もない残滓もない操作によってこのモデルになるとも言うのである。剰余と消尽、また残余。著者の主張の真意を見極める必要がある。いずれにせよ、現代の社会経済やメディア言語論を語る時に本書は必要かもしれない。なぜなら、シミュラークルに支配されているハイパー現実主義的システムなる領域にもはや突入しているかもしれない、現実があるのかもしれないのである。
なお、一つ付け加えておきたい。著者の死の考え方である。『賃金と労働力との等価は労働者の死を予想し、すべての商品が互いに等価であることは物の象徴的死滅を予想する。死はいたるところで等価計算と無差別な規制を可能にする。この死は暴力的でも物理的でもない。それは生と死との無差別なコミュニュケーションであり、生きることあるいは延期された生と死をそれぞれ骨抜きにすることである』『労働にはいたるところで延期された死が染み込んでいる。労働は延期された死である』とジャン・ポードリアールは述べているが、生と死はある種一体となっている。ところが、バタイユは「宗教の理論」で、死が生の最大の肯定者であり、死が現実の否定というより初めて内奥的な生の肯定であるとする。現実の秩序がこの生を無効にするその瞬間において、内奥性が欠けるその瞬間において、死があるとは知らなかった現実的事物だと知ると述べている。即ち、バタイユにおいては生と死は明確に分離している。この生と死の認識の違いは、ポードリアールの死が染み込んでいるという言葉に良く表れている。即ち、ポードリアールは生と死が混然として交換可能な状態にあるのである。秩序の消滅も残余の根絶もアナキー的な色合いが強いが、この現実をどちらが正しく捕らえているか、関心が尽きない。
以上
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2019年10月3日(木) |
題:島崎藤村著 「千曲川のスケッチ」を読んで |
日本の自然主義文学者のなかで、島崎藤村が抜き出ている。比べるとしたら、志賀直哉なのだろうが、その代表作「暗夜行路」は、島崎藤村の「破戒」に比べて凡作に終わっている。なぜなら生命力がないためである。生命力とは物語であり、文章が生み出す力である。彼らはきっと互いに反対側の位置にある。島崎藤村は生き生きと表情豊かな生命力にあふれているのに対して、志賀直哉は視線を放つ内側の感情を物化させている。島崎藤村は感情が自然にほとばしるのに対して、志賀直哉の感情は殆ど凍り付いている。でも、この志賀直哉の感情を除去し硬直した文章を褒め称える人の多いことは意外である。無論、彼らの作品は代表作くらいしか読んでいないために、この評価は正しいかと問われると即答はできかねるが、おおよその確信を持ってそうだ言い切りたい。
藤村はこの「千曲川のスケッチ」を読んで確認することにする。本書は島崎藤村が信州小諸で私塾の講師として過ごした六年間の文章による千曲川近辺のスケッチ画である。なるほど、「破戒」に描いた多数の描写が既に作られている。調べてみると、島崎藤村はこの後も「春」、「家」、「新生」、「夜明け前」など結構作品を作っている。小説を書く前は詩集「若菜集」を出版している。更に島崎藤村には近親相姦や狂気が付きまとっているのを知る。まあ、そんなに大したことではないが、人間は何かしらの事情を抱え込んでいることが多いものである。「千曲川のスケッチ」は男子生徒よりも女生徒の、男より女の描写が多いのも事実である。でも、これの意味するところなど何もない。
「千曲川のスケッチ」は随筆集とも言える。信州小諸の自然と人情を端正な文章で描写している。端正とは癖のない自然な簡潔で的確な文章であり、感情も澱むところがなく人間愛に満ちている、いわば模範的な文章である。あまりにもけれんみがなく人情の機微と朗らかさを表している正直さに戸惑ってしまう。これが文学だとするなら、返って何となく後ろめたくなってしまう、そうした恥ずかしさに気迷う文章でもある。こうした日本の自然主義文学は再度読むことにためらいがある。ゾラなどの西洋の自然主義文学もドゥルーズが褒めるほど良くはなかったと記憶しているから、もう自然主義の小説文学とはできればお別れにしたい。無論、同じ主義でも面白そうな作品や作家が見つかれば別である。余分なことながら、谷崎潤一郎の随筆「文壇昔ばなし」には、東京生まれの作家には島崎藤村を毛嫌いする人が多かったと書いている。特に芥川は激しく、それに漱石も嫌っていたらしい。なるほど、彼らの作風は人情の機微と朗らかさと正直さとは縁が遠い。一方正宗白鳥は褒めていたらしい。作風の差とは作家の感性とテーマの差そのものであり、当然好き嫌いとなって表れてくるものなのだろう。
さて、本書「千曲川のスケッチ」は吉村樹(しげる)なる年下の人物に宛てて書いている体裁を取っている。その一からその十二まである。これが章であり、この章が五から七、八の節に分かれている。章があるテーマを書いたものであり、節はこのテーマを細分化したものである。章に題名がないので簡単に題名をつけると、「百姓」、「学校の小間使い」、「祭り」、「風景」、「温泉」、「山登り」、「気候と収穫」、「山住い」、「屠場」、「千曲川」、「小作人」、「季節」とでもなるだろう。屠場と善光寺、それに農村や牧場の描写は、また議員のモデルらしき人物も描かれていて、「破戒」の下書きになっていることは確かである。文章も最初は幾分覚束ないが、次第に描写力が増して活き活きとしてくる。なお、島崎藤村は腰に和綴じの帳面(スケッチブック)をさげ、かつ矢立てをさして常に行動してスケッチしていたらしい。
ともかく小説は文体、エクリチュールで書く物である。エクリチュール論など難しいことは必要ないが、このエクリチュールが肌に合うかどうかで読むことができるかどうかが決まってくると言える。なお、エクリチュール論はロラン・バルトの「エクリチュールの零度」やドゥルーズの「批評と臨床」、それにデリダやバタイユ、モーリス・ブランショなどにもあるはずである。それぞれの視線や思想は異なっているが、一度まとめてしっかりと論じることが必要なのかもしれない。エクリチュールは作品の質やテーマの深度を計ることができる。また、何度も言うが好みに関わってくるのである。
以上
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2019年9月26日(木) |
題:小池清治著 「日本語はいかにつくられたか」を読んで |
魅力ある題名なので読んだ本である。結果は、若干知識が増えただけである。魅力ある内容ではなかったためである。知識が増えたのは喜ばしい。ただ、疑わしい点も若干あるので注意が必要である。
吉本隆明著「言語にとって美とはなにか」、そしてその拠り所とした膠着語としての日本語を考察した、三浦つとむ著の「日本語とはどういう言語か」は読んでいる。「日本語とはどういう言語か」で、アラン・ロブ=グリエの視線の文学の視線の向こう側に主体がいるかどうかを論じていたのは面白かったし、「言語にとって美とはなにか」は相応に思想的な内容を含んでいた。吉本隆明は、言語表現は韻律・選択・転換・喩によって表現され得て、文学はこれらを使用した自己表出へと進み、話し言葉は指示表出へと進むとする。そして、「構成」を知ることが大切だと主張する。「構成」とは有形的なものを指し示す指示表出の空間の展開、時代的な空間の広がりである。ヘーゲルの思想を礎にしている。今思えば、吉本隆明著「言語にとって美とはなにか」はだいぶ批判したが、もっと高く評価してよいのかもしれない。日本の文学に関する思想と言えないことはないのである。
さて、本書の内容を簡単に説明したい。本書は六つの章からなる。太安万侶について説明した「日本語表記の創造」では、太安万侶は日本語を文字(漢字)で部分的にも表現しようとしたのである。文字(漢字)を用いて日本語を書き表すのは極めて難しく、日本に存在しなかった文章語、書き言葉のスタイルを創造しようとした、言わば彼は日本語の表記法の開拓者なのである。「和文の創造」では、紀貫之を既に出来上がっていた仮名文字を用いて「伊勢物語」を書いていると紹介する。また、紀貫之は「古今和歌集」の選者の一人として、仮名で序文を「仮名序」を書いていて、これと漢文で書かれた「真名序」とを著者は比較している。ここで「仮名序」と「真名序」との内容や作成年代を比較検討などに深入りしない。著者にも難しい問題なのであろう。そして「日本語の仮名遣の創始」として藤原定家を紹介している。藤原定家は「新古今和歌集」の歌の撰にも当たっている。
「日本語の音韻の発見」として、本居宣長を紹介している。音韻とは音の響きである。いわば、「あいうえお」なる五十音、母音や子音などの音韻学を紹介している。「近代文学の創造」として夏目漱石を二葉亭四迷と比較して、漱石を自由な言葉使いにより現代の日本語を創造したとして紹介している。「浮雲」と「三四郎」をレトリック(修辞学)上の比較である以上に、主人公の苦悩の救いの点に評価判断を求めているのが面白い。著者によると文章の息苦しさが違うのである。また漱石を三人称視点での言文一致の祖としている。最後に時枝誠記を「日本語の文法の創造」として紹介している。日本語には古来単に個々の言葉だけがあり、この日常言語レベルから脱するには、文法が必要になる。自覚的な言語行為によって獲得されるものが文法なのである。文章論と言っても良いかもしれない。ただ、この章で示されているのは、助詞などの活用語尾など細かすぎて専門的すぎる。
こうしてみると日本語は万葉仮名から発している。万葉仮名とは漢字の一字一字を日本語の発音にあてはめたものである。こうして漢字の草体から更に崩して作った音節文字がひらがなである。そして、読みと意味を分かり良くしたものが日本語となる。なるほど、日本語がいかに作られたかは分かった。でも、なぜ日本人は文字を持たなかったのであろう。著者は社会の体制に文字が必要なかったと述べているが、漢文が入ってきて、その後に文章表現としての漢文の必要性が生じたとの記述をしている。つまり社会体制が文章表現を必要するには記録や保管など、それなりの高度さがなければならないのであろう。人類は紀元前のずっと以前から文字を発明し使用してきたはずである。中国では昔亀の甲羅に字が書かれていた。他の文明も文字を持っている。ただ、縄文時代や弥生時代にも簡単な記号的な表現、もしくは絵文字はあったとされている。
文字が必要とされるのは情報の伝達と記録であるとするなら、縄文時代や弥生時代、そして弥生時代に続く大和時代における大和民族は文字を必要としなかったのだろうかという疑問が生じる。大和時代は弥生人が大和地方(奈良盆地)に住み着いていた時代で三世紀ころである。こうして記号があると同時に、漢字も入ってきているはずである。本書でも四世紀以前に漢字が日本に入ってきていると述べている。古事記の作成が712年である。この間に非効率的な記号が淘汰され漢字が幅を利かして、次第に日本語の表記方法を考慮していくことになったのであろう。でも、それは漢文が重宝され、その逆作用として宮廷の女たちを中心にして日本語が仮名文字として発展していくことになる。
なんか、とりとめがない記述が続いたが、記号に文字や日本語の発生の確認は難しくて、本書はこの問題をほぼ擦り抜かして漢文に基づいた日本語の作られ方を論じている。もう少し古代における日本語なる言語の発生状況を論じていれば良かったとも思われる。でも、この言語の発生と日本語の作られ方とは別の問題なのだろう。そして再度述べるが、本書は日本語なる言語を言語論として論じたのではなくて、漢文から日本語がいかに作られたかを記述している本なのである。
以上
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2019年9月19日(木) |
題:アントナン・アルトー著 粟津則雄著「ヴァン・ゴッホ」を読んで |
アントナン・アルトーの著作物は、多田智満子訳「ヘリオガルバス」、宇野邦一、鈴木創士訳「神の裁きと決別するために」、責任編集:粟津則雄、清水徹「アントナン・アルトー全集 T」などを読んでいるが、今回もっとも関心を持っていた「ヴァン・ゴッホ」に「神経の秤」に関して別訳を読むことにする。フランス語が分からないために、訳文を比較することなど無意味とも思われるが、ただ、文章の色合いがあまりにも違うために、敢えて訳文も含めて感想を簡単に記したい。「ヘリオガルバス」は多田智満子が知的にうまく訳している。うまくまとまりすぎている気もするが、本人も言っているように狂人で詩人の文章を訳すなど困難を極めるのである。「アントナン・アルトー全集 T」の文章は硬い。宇野邦一、鈴木創士訳「神の裁きと決別するために」は簡明に訳していて読みやすい。形式も斬新にして、アルトーの意識をむき出しにしようとしている。粟津則雄著「ヴァン・ゴッホ」はそれほど衒いを狙っていなくとも、でも確かにアルトーの声が響いて聞こえてくる。無論、訳文とは、原文と日本語との意味と無意味とを疎通させ、言葉の律動の伝達に苦労しながら訳すものであり、これらは文章というより、意志とスタイルを持つエクリチュールを訳すことなのであろう。このため、訳者の翻訳に対する考え方が影響すると思われる。
「ヴァン・ゴッホ」なる作品の出だしの文章を比較したい。
「神の裁きと決別するために」なる本:人はヴァン・ゴッホの精神状態について語ることができるが、その彼は全生涯のあいだにただ片方の手を焼かれただけであるし、それ以外には、あるとき左の耳を自分で切り落とす以上のことはやらなかった。
緑色のソースで煮たヴァギナや、
母親の性器から出てきたところを採られたような、
鞭でひっぱたいて泣き喚かせた新生児の性器を毎日喰らっているひとつの世界のなかにあって。
そしてこれはひとつのイメージではなく、地上全体を通して、あり余るほどふんだんに、そして日常的に繰り返され、培われてきたひとつの事実である。
「ヴァン・ゴッホ」なる本:人びとは、ヴァン・ゴッホが精神的に健康だったと言うことができる。彼は、その生涯を通じて、片方の手を焼いただけだし、それ以外としては、或るとき、おのれの左の耳を切り取ったにすぎないのだ。
ところが彼の生きていた世界では、人々は、毎日緑色のソースで煮たヴァギナや、鞭で引っぱたいて泣かせた赤ん坊の、
母親の性器から出てきたところをつかまえたような赤ん坊の性器を喰らっていた。
これは非喩ではない。全地上を通じて、大量に、毎日、くりかえされ、つちかわれている事実である。
「神の裁きと決別するために」は原文を正直に訳しているのだろう。これに対して「ヴァン・ゴッホ」は文章を補正しながら訳していると推測される。趣旨は同じであっても文章の微細は異なる、詩的情緒と論理性が異なる。私は「ヴァン・ゴッホ」の方が読みやすい。また、論理性を声高に叫びながら狂い叫ぶアルトーの精神を論理的にかつ情緒的に伝えていると思われる。まあ、原文を見ていないから確かなことは言えない。同じように「精神の秤」の文章を比較しようと思っていたが止める。あまりにも無駄な行為に思えるためである。
なお、「ヴァン・ゴッホ」は副題として「社会が殺した者」とあるように、アルトーは精神科医によって殺されていたと主張している。自らが同じ体験をしている。即ち、精神病院に入れられた狂気持ちが同じ狂気持ちの画家を論じているのである。まるで絵画の縁を守りながらモチーフを超えて進むまいとしながらも、アルトーは社会と自然とを捕らえて透かして見せつける文章を散りばめている。ゴッホの「からすたち」の画を絶賛している。われわれとこの世界の精神をむき出しにするからである。なるほど、ゴッホの画にはそれほど関心のない私にも、画の中に現れるカラスたちは異様であり不気味であり不安になる。夕暮れ時に帰るカラスなのだろうか。そんなはずはない。不安的に不気味に揺れるカラスは宇宙の波動理論に捕らわれることもなく、ひまわり畑を低空に飛んでいるはずである。
やはり傑作は「精神の秤」であろう。精神と生の虚無性を指摘しながら、ひとつの美しい精神の秤はある。語と私の諸状態との毎分時との一致を欠いているにも拘わらず、魂はいかなる部分も持たず、精神はいかなる瑞初を持たずとも、アルトーは存在が与え続ける執拗な快感を覚えて自分を作り直すという一つの仕事を持っている。でも、アルトーの精神はそこにない。あらゆる言葉が枯れて、あらゆる精神がひからび、あらゆる言語がこわばる。これらがはっきりと見出されるとき、私なるアルトーは、もはや語ることを必要としないのである。
アルトーは虚無と錯乱の思想を持っていて、否定の観念を強く満ちながらも肯定もする、思想の正しい道を歩いている。正しい道とは錯乱しているが故に許される論理性や情緒の欠如であり、一方再生を指し示すことである。片や論理性や情緒も示して、この生の空虚さを暴きその空無さに浸りながら、肉からなる体の再生を願わずにいられない。願わずとも肉を崇めて快楽する精神の虚無性に満足することができる。でも、精神の秤は均衡しながらも遂には壊れる。正しき道も遂には邪悪な道に入るのではない、秤そのものが失われる、消失してしまうためである。こうした精神を計る秤は、うっちゃって壊れても失われたまま捨て置くしかないであろう。
以上
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2019年9月12日(木) |
題:高橋英夫著 「神話論集(1)神を見る」を読んで |
著者は、初めに志賀直哉や小林秀雄を手掛かりに神を論じると述べていて、私は彼らを好まないので、どうなることかと思っていたが、西洋と日本の神話を平易に分かりやすく、かつ新たな視点も組み入れて論じていて、良い本だと思っている。真に迫るような文章もある。それに、志賀直哉や小林秀雄の論じる要旨も客観性を持っていて、彼らを好まなくなる理由を納得できた。第三者からの公平な記述である。初めて読む人なので、続編「神話論集(2)神を読む」は、買わないでいたがとても残念である。
論点はそれほど面倒ではない。文章は平易である。それでも「神を見る」ことがどういうことか、論じることの困難性を、東西の夥しい神話の歴史を組み説き、さらりと組み立て直して、現代への新しい見方を付け加えることができるのは作者の力量の大きさを物語っているのだろう。本書は四つの章からなる。T「見」から「観」へ、U死と再生、Vディオニソスをめぐって、Wロゴス、そして言葉 である。ギリシア哲学にニーチェなどいろんな知識が混じっているが、簡単に紹介したい。本書は「見る」と「観る」の違いから始まって、アポロンとディオニソス論で最高潮となる。そしてこの底流に死と生があり、現代に通じる神話論が書かれているのである。
「見る」ことは「もの」との関係があり、究極的には知覚からはみ出て行く。対象を捕らえる目の作用が、対象の輪郭を破壊して対象間の比例を破壊してまで、対象の本質を見ることが「観る」なのである。著者はこれを論じるにあたって、志賀直哉や小林秀雄の「見る」ことと「観る」ことを、彼らの文章から分析して論じている。志賀直哉の「見る」ことは、ただ「もの」を見ることなのである。彼は神を見るなどのディレンマに逢着しなかった。そして、この「見る」ことの深化が夢の中の混乱や不安、恐怖などの嵐として生じさせながら、取り乱すことなく志賀直哉はこの「見る」ことのリアリティを拡張して確保していたのである。彼の冷静な「城崎にて」などの「見る」小説の裏側には、こうした拡張した幻覚を含むリアリティがあったのである。リアリズムを純粋にしていけば人間は変わり得て、この「見る」はカタリシスやデカダンスの承認へと向かうと著者は述べて、「見る」から、誰にでも生じるのではない「観る」へと変貌する小説や詩などを紹介している。
こうして著者は「観る」について詳しく論じる。『「もの」を見ることが直ちにその「もの」のモラルを確立することとなるような始原的な視力の活用が、最初に存在していた』と述べている。これは文学的なリアリズムから根源的な状態に近づくことであり、「観る」に通じている。私見であるが、共同体社会においてこの「観る」は巫女の特権である以上に、誰もが持っている権利と考えた方が良いかもしれない。誰でも「観る」へ知覚を変貌できる。始めに共有されていた「観る」ことが職能分化されて巫女に禅譲されていったとも考えられるのである。私がこうした言い方をするのは、志賀直哉や小林秀雄の知覚は、他の作家大岡昇平を含めて特異な知覚ではない。誰もが持ち得る知覚であり、そしてその知覚が変奏されているということを予め知っておく必要があると思うためである。彼らが好きでないために無理に話をこじらせているとも思われるが、志賀直哉は悪夢を見ようとも「もの」から逃れられない。ジュネのように石化から脱出しようとするのではない、カミュの「異邦人」のムルソーのように思考せずに現実の内に出来事を連鎖させるのでもない、ただ、見るだけである。人間的な肉体自然の「見る」からモラルとしての、もしくは生の判断としての「見る」が分離して、急接近する精神の回復運動が志賀直哉の小説的磁場であると著者は述べているが、そんなに彼の小説を読んでいるわけではないが、基本的な場の理論からすると、石化しているそのことが基本であり、生の場は石化していて生への脱出は行われずに静止し停止していて、むしろ死の場に近い。「暗夜行路」は石化した小説であり、単にこれから逃れる振りをして書いた本と思っているためである。大岡昇平の「野火」も人肉嗜好をモラルの観点から精神的障害の原因としているがどこか拵え物である。真の狂気なる精神的狂気を描いていない作品と思われるためである。
さて、「死と再生」は『生への回帰や再生は、死を前提として、死の暗さ、恐怖、彼岸的な遠さを不可避の条件としたとき、はじめて達成されるものでなければならない』と著者は述べて、まず、最初に死んだ神を探し出すのである。次に「隠れたる神」、神殺しの概念について考察する。これらを古事記や聖書に求めて展開される話は日本文学なども含みなかなか面白い。確かに神は隠れていて時々姿を現す「隠れたる神」だからこそ、神でもある。活ける神だからこそ隠れるのである。隠れと顕われは天空の異常な自然現象と関係する。また、他界の神を見ることで人間は死に帰したのであり、これゆえ生に帰還する資格は取り戻すことができるのである。こうした神と人間との関係を著者は安息ではなく、遠い垂直的な関係と述べている。いわば、生と死の遠い距離を行き来できて、人間は他界を見ることで信仰と芸術の基盤を持つことができるのである。
ディオニソスとアポロンの話が一番面白い。それまで持っていた私の印象と、彼らはだいぶずれている。簡単に述べると次のようなものである。アポロンは知の神、光の神でありながら、他方暗い神でもある。アポロンは距離のある神、生の遠さの神でもある。アポロンの国は聖なる死の故郷であり、人生に飽きた人間たちは頭に花冠を被って、岩の上から海中に身を投じるのである。酒で狂信的に陽気と思われたディオニソスも暗部を持っている。ディオニソスの母セレメは父ゼウスの雷火によって死に、母の胎内から取り出されたディオニソスはゼウスの腿の中で育ち月満ちて生まれ出る。一方、冥府とも関係があると推測される。冥府の女王ペルセポネとの間に生まれたザグレウスとはディオニソスとも言われている。エウリピデスの書いた「バッコスの信女」ではディオニソス的狂乱を拒否したペンテウスは八つ裂きにされる。この原型はザクレウスの伝説での受難を受け継いだものなのである。即ち、ティタン神族に襲われたザグレウス、即ちディオニソスとして再誕するザグレウスも八つ裂きにされてその肉を食べられている。この辺りの話は固有名詞も含めて複雑で難しい。でも、ディオニソスとアポロンは共に冥界や死と関係を持っていたことは確かなようである。
結論になるが、神話は静止していず、言葉(ロゴス)によって言い放たれて反応を示す時、生命を吹き込まれる。神話は結局のところ生命体で、生命の反応を示すもので、一種の組織化された肉体なのである。言葉(ロゴス)を費やして語られる膨大な神々の系譜は、隠れた神話的生命力の場である。この生命を表現している神話は終末も包含すべきであると著者は主張する。また、人間は日常生活の中でも別世界との間の飛び移りや行き戻りを経験する、この現代さえも神話の中に含まれてしまっていると著者は述べている。こうした現代の神話化など、まだ、本書については言い足りないことがたくさんあるが、長くなるのでこれで感想文を終えたい。続編「神話論集(2)神を読む」は機会があればぜひ読んでみたい。
以上
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2019年9月5日(木) |
題:谷崎潤一郎著 「吉野葛・盲目物語」を読んで |
この吉野葛や盲目物語は良い作品である。谷崎の作品では肉体に拘泥した愛や葛藤する心を描いている「痴人の愛」や「卍」などの方が、一般的に評価が高い。でも、どこか作り物語的で心理は表層的である。「吉野葛」は義経と静御前の歴史を忍ばせ、故郷に、あかぎれや母への思いを描き、「盲目物語」は織田信長の妹のお市の方の数奇な運命を思い偲んでいる。共に悠久の歴史の流れを感じさせて、それでいて心に優しく迫ってくる作品である。無論、人それぞれに好き嫌いはあるだろうが、谷崎の小説の幅を広げていることは確かである。なお、これらの作品の作成年月日は以下の通りである。
「吉野葛」 中央公論 1931年 1月
「盲目物語」 中央公論 1931年 9月
「吉野葛」は前回にて記した「卍」の1930年終了、「乱菊物語」の1930年の後に書かれた作品である。「武州公秘話」の1931年の作品を読んでみないと分からないが、初期の作品後、1928年の「蓼食う虫」、1933年の「春琴抄」の間に入る作品群である。これらは「春琴抄」に至る繋ぎの作品である以上に、大きな役割を果たしている。それは作品の根底に悠久の時を忍ばせて「細雪」に繋がせている。この辺りは「細雪」にて論じたい。無論、「細雪」は現在時制の日常の時間であるが、その背後に含まれている時間の連続性とは、この悠久の時の流れに含まれているものである。従って私は「細雪」が谷崎の一番の代表作品であると思っている。次いでエロシチズムを内在した「春琴抄」、母への思いや女への愛おしさに不浄観など多彩なの思いを重ねた「少将慈幹の母」を三番目に選ぶだろう。
さて、「吉野葛」のあらすじを次に示す。嘗ての同級生で今は商売をしている津村の故郷、吉野に私は歴史小説の題材を求めて取材に行く。この吉野には後醍醐天皇以来わずか五十年であるが吉野朝なる歴史があり、南朝ひいきである。三種の神器を巡る争いもある。また、かの有名な妹背山も眺めることができる。更に義経千本桜もあり義経と静御前が逗留していたこともある。ある時、津村は初音の鼓の話を持ち出す。親狐の皮で張っていて、静御前がその鼓をぽんと鳴らすと忠信狐が姿を現すというのである。ここで初音の鼓について若干説明したい。もともと初音の鼓とは頼朝を討てと言って義経が上皇から承ったいわくつきのものである。義経はこの鼓を身代わりに静御前に渡している。忠信は静御前のお供であり、静御前が鼓を打つと現れる。でも、忠信が二人いる。一人は鼓の皮となった親狐を慕う子狐の化身したものである。この話の詳細は「義経千本桜」を調べるとよい。私は津村の紹介でこの初音の鼓を見る、また熟れた柿の実「ずくし」を食べることができる。甘露のような甘みを持ち柔らかいのである。津村は学校を止めて母の生い立ちを調べている。こうして津村の母についての話が綴られ、津村は母が色町に売られていたのを知る。それが養子縁組を経て結婚できたのである。また、津村の親せきは国栖(くず)で紙すきをしているのを知る。行ってみると紙をすく若い娘の手にはひびやあかぎれがある。そんなに教育も受けていない女中みたいであるが、母の面差しがある女を津村は見出す。この娘を嫁に貰ってもよいか私は津村から相談を受ける。再び津村に会った時、うしろに娘を同行している。そして、下駄の音がコーン、コーンと響いている。
久しぶりに読み返して、この「吉野葛」が吉野の歴史と津村の母の生い立ち調べが中心に記述されていて、それが結構融合している。そして、これを取り持っているのが狐である。初音の鼓が嫁になるお和佐さんなる娘を津村に呼び出したのである。「吉野葛」も次に示す「盲目物語」も先ほど述べたように、悠久に連続する時間を表そうとする谷崎の初期作品になったのは間違いない。ただ、この時間は歴史の内に存在する。史実を取り入れることによって現在の内に過去の時間が流れているのである。まだ、一般化された悠久の時の流れではない。この時間の流れは別の機会にするとして、「盲目物語」のあらすじのみを簡単に記述したい。
「盲目物語」は織田信長の妹、お市の方の悲劇に満ちた話を、傍に仕えていた按摩や三味に謡の芸をする盲目が語るとういう構成になっている。お市の方の生涯を史実に基づいて語っていて、この盲目者はお市の方を好いている。布地を通して伝わってくる肌の柔らかさに心底惚れている。そして、娘の茶々姫にも話は及んでいる。お市の方の悲劇とは浅井備前守長政に嫁いだけれど、信長と諍いを起こして長政は死に、息子や娘たちと共に泣き泣き城を出る。そして、意に反して殺される息子もいる。柴田勝家と羽柴秀吉との話し合いでお市の方は柴田勝家と再婚することになる。それもつかの間、勝家と秀吉との対立によりお市の方は自害する。ただ、娘たちは救い出される。この娘たちの救出劇の影で動いた盲目法師は、その策略ゆえに茶々姫に嫌われ、浮世に身を永らえるのである。布地を通して感じるエロシチズムが歴史という時間に融合している良い作品なのである。
以上
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2019年8月29日(木) |
題:谷崎潤一郎著 「乱菊物語」、「卍」を読んで |
「乱菊物語」は谷崎には珍しい作品である。珍しいとは凡庸である。時代がかった小説に妖しさが潜んでいるが通俗さはまぬかれない。時代小説的な趣がある。「卍」はとても良い作品である。ただ、惜しい、もう少し何とかならなかったのかという思いがある。ただ、この作品の良さをおとしめることにはならないだろう。心理がままならず束縛されている、この稀有な心理を描写する先駆的な作品と言えるのである。日本には珍しいタイプの作品である。これらの作品が作成された年月日は次である。
「卍」 改造 1928年掲載開始 1930年終了
「乱菊物語」 東京朝日新聞 1930年
「乱菊物語」の筋は以下の通りである。なお、出だししか読んでいない。港の女王「室の遊女」なる美女の「かげろう」が契る条件として、張恵卿に二寸四分の入れ物に十六畳の広間に吊れる羅綾の蚊帳を所望する。この贈り物を届けようとするが、途中で油断して奪われてしまう。こうした出だしの話は読めたが、二人の武士それぞれが相互に確執する君主のために美女探しにでかけるころから眺めただけである。蚊帳の贈り物と美女なるものとの関係が波乱に満ちて描かれている娯楽小説とも言ってよいのだろう。こうした筋書きに沿って話は進められながら、谷崎は下巻を中断したまま書いていない。
「卍」の筋は以下の通りである。先生への手紙を柿内園子が書いている、その手紙の内容を先生が紹介するという形式で話は進んでいる。柿内園子は弁護士の夫を持っているが女子技芸学校での絵の勉強に出かけて、羅紗問屋のお嬢さん徳光光子と知り合い同性同士で交際の深みに入って行く。外で会い自らの家でも会うようになる。エロチックな場面は賛美する裸の肉体の描写など少しあるが、それ以上の具体的行為の記述はない。徳光光子は実は園子と会う以前に綿貫栄次郎という近所の色白の男と関係している。ただ、綿貫は男としての機能を果たすことができない。でも光子は好い男として付き合い結婚を迫られている。綿貫は契約書を書いて束縛する口達者な嫌な男でもある。一時光子から遠ざかっていた園子は綿貫と仕組んだ光子の妊娠話からよりを戻す。うまく言われて園子も綿貫と兄弟の契約をする。こうした光子の偽装妊娠はばれて、もはや園子や綿貫は、光子がどちらを愛しているのか分からなくなる。光子はそれほどの姦婦である。園子の夫も巻き込まれて園子と睡眠剤を飲んで寝るようになる。光子が嫉妬するためである。この結果、光子も睡眠剤を飲みようになり、光子も園子の夫は死んでしまう。
谷崎潤一郎と芥川龍之介とに話や筋の組み立てや詩論や文芸論に関する論争がある。この論争に関して芥川龍之介著の「侏儒の言葉 文芸的な、余りに文芸的な」に若干記載がある。あまり関心を引かないが、なぜなら芥川からの主張であり、なにかしら言葉の定義がなくて仲間同士の言い争いで良く分からないためである。ただ、話、筋論で行くと、谷崎が「筋の面白さを除外するのは、小説という形式が持つ特権を捨ててしまう」に対して芥川は「話のない小説を、あるいは話らしい小説を最上のものとは思っていない。しかしこういう小説も存在し得る」と述べている。この論争を載せたのは、谷崎が筋の面白さこそが小説の特権と言っているためである。
話の面白い筋論を主張する谷崎の小説は、この主張に従って筋のみに従って記述すると、「乱菊物語」のように通俗な小説になる。それに加えて谷崎の句読点で句切った長い文章が冗長性をもたらしている。特に心理が反映されていないと、より一層話は凡庸になる。でも、心理が加わっていると言えばそれでよいのでもない。「卍」は執着する心理も加わって、大阪語の特徴を生かして記述しているけれども何かが欠けている。それは心理の機微であり、謎であり不可解性であり、拵えものとしての小説の真実性である。また記述する文章の適合性であり緊迫性である。こうした谷崎の筋と心理と文章と出来事との関連は、別途谷崎潤一郎論にて論じたい。言いたいことは、実は「卍」はお話としての面白さであり、面白い筋に従って記述されているということである。実は、矛盾した言い方になるが、他の作品を読んでいくと、なるほど谷崎は文章ばかりではない筋も優れている作家である。「乱菊物語」のような通俗小説ぽいものは殆どない。
さて、マゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」と「卍」を比べてみたい。「毛皮を着たヴィーナス」は筋以上に心理の混濁性と契約の重要性が記述されている。これは大変興味深い。「毛皮を着たヴィーナス」は1871年に書かれている。この本を谷崎が読んでいたかどうか分からない。でも、綿貫が「契約」を重んじているからには読んでいるのかもしれない。この綿貫と光子の心理、それに加わる園子の心理の深さが不足している。むしろ、本小説は光子と綿貫を主人公にして、男として機能しない男との光子との恋愛を主題にして掘り下げると面白かったと思われる。光子がどちらを愛しているか分からないと綿貫が言うことには真実性がある。彼が契約に固執することも良く分かる。でも、それは主題ではないし、光子の姦婦性の心理は良く分からずに、本小説は筋によって運ばれている。これらが「卍」に欠けている何かである。そして「毛皮を着たヴィーナス」にはこの心理と契約が生々しく描かれているのである。これらの詳細な説明については省きたい。
この当時、谷崎は「卍」、「蓼食う虫」、「乱菊物語」、「吉野葛」、「武州公秘話」などでいろんな文体を試行している。「刺青」を初めとした初期作品からのテーマ探しと文体の試行の時期から、また新たな時期に入っている。無論、こうした試行は続いて、その後作品はまた新たに展開していくのである。こうした総括的な話も別途行いたい。
以上
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2019年8月22日(木) |
題:谷崎潤一郎著 「蓼喰う虫」、「猫と庄造と二人のおんな」を読んで |
「蓼喰う虫」は谷崎の作家として転機になる作品である。「猫と庄造と二人のおんな」は「春琴抄」の妖しい内容は異なって可笑しさが溢れているが、とても良い作品である。それぞれの作成年は次のようになる。
「蓼喰う虫」 1929年 大阪毎日新聞他
「猫と庄造と二人のおんな」 1936年 改造
なお、「春琴抄」は 1933年 中央公論 である。
「蓼喰う虫」のあらすじは次の通りである。斯波要の妻、美佐子は夫の公認の下で他の男阿曾を恋人として肉体関係を持っている。彼ら夫婦には何もがない、形だけの夫婦で律義に暮らしている。要は美佐子に欲望が湧かない。ただ、外人の娼婦とは関係を持てるのである。冷めた夫婦はもはや別れるしかない、離婚の準備を進めている。息子の弘へはまだ知らせていないが感ずいている。親族の高夏へ仲裁や段取りを依頼するが断られる。要は妻の親なる義父と若い妾のお久と浄瑠璃見物、時には遠くの淡路の浄瑠璃見物へとでかける。若いお久に愚鈍ながら魅力を感じている。妻美佐子とともに義父の了承を得るために義父の家行くと、義父と美佐子は料理屋で長話をする。要はお久に魅力を感じながら風呂に入るなど寛いでいる。
「猫と庄造と二人のおんな」のあらすじが次の通りである。庄造は猫リリーを飼っている。鯵の与えようや抱き方など、とてつもない可愛がりようである。以前の妻なる品子が、妻の福子に猫を譲り渡すように手紙をよこす。品子は庄造の母や知り合いの塚本などの結託に寄って財産家の福子に妻の座を奪われたのである。品子は猫を手元におくことでまた庄造に会えるかもしれないという、また身持ちの悪い福子に代わって妻の座に戻ることができるかもしれないという淡い期待を持っている。福子は優柔不断な庄造を説得して猫を品子に譲り渡す。品子は嫌っていた猫がとても可愛くなる。庄造は品子の魂胆を見抜きながらも、猫に会いたさに品子の住んでいる家にまででかける。すると猫は今までなついていたのにすっかり忘れてしまったのか、庄造に見向きもせずに冷たい態度である。
「蓼喰う虫」は夏目漱石の「彼岸過迄」を思い浮かばせる。「彼岸過迄」は従妹なる結婚の約束をしているとも恋人とも言えず、他に嫁ぐともしない若い男女が互いの心理に葛藤しながら何もが生じない。ただ、時だけが経過していく。この点だけが同じで、根底の心理はまったく異なっている。漱石と谷崎の決定的な違いは心理的な緊張感や葛藤の有る無しである。「蓼喰う虫」は夫婦でありながら離婚の決意をしても、「彼岸過迄」と同じように何もが生じない。ただ、時だけが経過しているのである。それでも、この「蓼喰う虫」は「彼岸過迄」と異なって未来を推測することができる。なぜなら、要は他の女に性欲を満たす必要があり若い女に魅力を感じている。と言うより、要は同等の知力を持ち何事にもそつのない美佐子よりも、自らの思いのままに振る舞い関係を結ぶことのできる女こそが必要なのである。義父の若い妾を教育する手管を羨ましがっている。つまり、何ら女を手に入れることに葛藤は生じない。ただ、その決断をしていないだけである。
要と高夏との娼婦談などの会話は一般的で退屈でありながら、女についての論点を整理して未来の予測を可能にする。また、美佐子も恋人の阿曾を知らなければ良かったと後悔しているが、結末は決まっている。もはや夫の要は品位と知性のある美佐子を手放して次の行動に移らなければならない。ただ、時は漠然と経過しているのではない。緊張さや葛藤はないけれど、時は因果の出来事を内包していて、この出来事は必ず現れ出てくる。この作品の良さは人形浄瑠璃の話の味わい深さにある。この浄瑠璃を描いた文章の見事さは感嘆する。女は若くて人形として自在に操れれば良いのである。マゾ的な谷崎には珍しい作品でありながら、これには谷崎の夫婦関係の実話が下敷きになっているのかもしれない。彼の妻の譲渡事件など知らないし調べる気もないため、実話との関係は良く分からない。
「猫と庄造と二人のおんな」はユーモア溢れる作品である。才能がなくて操り人形のような庄造が一番恋する猫に見捨てられるなど、マゾ的な点が下地になっていて何とも言えず愉快である。でもこの作品は「春琴抄」の三年後に発表されている。結局肉体に宿した心理を書いていた谷崎が、「蓼喰う虫」を皮切りに、日常の時間性を軸に小説を書くようになり、「春琴抄」ではより緊迫した男女関係を描いて、そして「猫と庄造と二人のおんな」によってまた日常に戻っている。戯画的な日常とも言えるだろう。こうして日常の内へと小説の奥行きが深まり、この日常の時間軸上に現れる出来事と些末な心理を描き重ねて、壮大な時空間が描かれることになる。この高みに向けて登り詰めつつある途中の作品群が「蓼食う虫」であり、「春琴抄」であり、「猫と庄造と二人のおんな」の作品であると言える。つまり「蓼喰う虫」の日常的時間に「春琴抄」と「猫と庄造と二人のおんな」の日常的な出来事が加わって、「細雪」という日常的時間における出来事の連鎖という、それも永続的で膨大な時空間が生まれるのだと言える。
以上
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2019年8月15日(木) |
題:谷崎潤一郎著 「人魚の嘆き 魔術師」を読んで |
「人魚の嘆き 魔術師」なる作品は怪奇幻想小説の部類に入るだろう。解説の中井英夫によると、ワイルド作「サロメ」と同じ手法を用いた挿絵を用いているとのこと。確かに似ていると思い読んでいたら、ピアズレーを模した水島爾保布(みずしま におう)の作品であるとのこと。「人魚の嘆き」や「魔術師」の作品には似合っている。でも、絵画はイメージを固定化してしまう恐れもある。これらの作品の内容を簡単に紹介したい。なお、それぞれ文庫本で約50頁(挿絵含む)程度の短い作品である。
「人魚の嘆き」は大富豪の男が、七人の妾や酒や女などの豪奢な遊びに飽きて、もっと珍味なものを望む。すると、人魚を売っている者がいる。この異人風の男の口上を聞くと嘘とは思われない。実際人魚は水甕の裡にいて美しくも鮮やかに輝いている。魚の下半身と人間の上半身を持ち、気高い美を持った容貌と肉体の優雅に均整した曲線に思わず惚れた男は人魚を買う。でも、いくら望んでも人魚への恋は遂げることができない。人魚の肌に触れると冷たくて無感覚になるのである。人魚は男を恋していると言い、男が愛を持っているなら解き放って欲しいと願う。人魚の姿をしてまた会うと約束する。こうして男は赤道直下の海に人魚を放つ。すると妖しい姿態を見せて水中に沈んで行く。男は人魚の故郷の地中海にてまた会うことを望んで船を進めている。
「魔術師」はこうである。私と恋人は公園に魔術師がいると知って関心を惹く。恋人の強い誘いを受けて、夜の公園へとたどり着く。妖艶さと豪奢さと異国さが混じった公園に焦がれる恋人の大胆さに、男は嘆息する。魔術師のいる物寂しい一廓に入ると薄暗くて不気味である。誰もが魔法の森と名づけていて妖怪さが満ちている。小屋に入るとどこもが人であふれ返っている。そして魔術師は「人身変形法」と称して人間の姿を変える魔術を行っている。奴隷たちの姿を変えると、今度は客に犠牲者になることを求める。二十人目に私が所望すると女はさめざめと泣く。私は変形し、恋人も変形を望み、こうして半獣となった私と恋人は角と角とが絡んで離れなくなるのである。
これらの作品を読んで思わず、谷崎潤一郎の文章は淡泊でありながら、絢爛豪華であり、エロシチズムを表しながら人の心を秘めてどこともない美しさの匂いがあると嘆息する。文章に魔力的な力があるのである。でも、これらの作品に敢えて苦言を呈したい。「細雪」などの傑作と比べると、どうしても初期の作品のある種の欠点が文書に表れている、文章が安定的に記述されていない、習作に見えるのである。なお、谷崎の怪奇幻想小説はそれほど多くないだろう。それぞれの作品の作成年は次の通りである。
「人魚の嘆き」 中央公論 1917年1月
「魔術師」 新小説 1917年1月
欠点を更に述べると次の通りである。「人魚の嘆き」では絢爛豪奢な文体の過度さと平明な文体との齟齬である。無論、長所と言えるのかもしれない。「魔術師」では公園の輪郭の失せた朦朧とした描写である。最後の角と角の絡みと跳躍との関係性の描写である。でも、これは意識的に行っていて、もしくは癖であって、同じく長所と言えるのかもしれない。でも、これらの短編は怪奇幻想を描くことに成功していながら、どこか不満足になる。読み終えて余韻に浸るとそれっきりであり、深く心に残ることが少ない。これらは独特の情感を表していながら、後半の成功した作品「春琴抄」や「細雪」などの作品と比較すると、どうしても習作に見えてしまうのである。ちなみに谷崎の作品はおおまかに以下のように分類できると思われる。
1) 自伝、空想などを含んだ作品
2) 戯作や怪奇奇譚を含む作品
3) 母を恋うるなど情感やユーモアを含んだ作品
4) 肉体や心のエロチックなありようを描いた作品
5) 日常性や出来事を叙事的に描いた作品
6) 随筆、雑記などその他の作品
1)から4)までは耽美主義、悪魔主義と言われる作品である。5)が日常の瞬間の積み重ねが永続する時間を指し示めしている叙事的な作品である。この5)の作品群が特に優れているのである。後日取り上げ論じたいが、谷崎も意識していないと思われる時間に関する概念、悠久の時の流れがある。
さて、本書の解説中井英夫によると、谷崎の耽美主義が江戸川乱歩や横溝正史に影響を与えたとのこと。中井英夫自身も「虚無への供物」という怪奇小説を書いている。江戸川乱歩が一番谷崎に近い怪奇小説を書いているが、発想も豊かで面白いのであるが、やはりどうしても谷崎の文章力には劣るように思われる。この他にも日本の怪奇奇譚小説には、代表的な夢野久作の「ドグラマグラ」や沼正三の「家畜人ヤプー」などがある。ただ、これらの作品は谷崎の影響を受けていないように思われる。「虚無への供物」、「ドグラマグラ」や「家畜人ヤプー」の感想文を書いているが掲載は差し控える。ワイルド作「サロメ」だけは感想文を示して、若干考察してみたい。
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題:ワイルド著 福田恆存訳「サロメ」を読んで
ずっと以前に、ジュリア・クリステヴァ著「斬首の光景」を読んだことがある。本書では多数のことが述べられているが、テーマは斬首の光景の分析を通した「イメージ論」である。簡単に言えば、可視から不可視の世界への橋渡しとしてのイコン、もしくは極限の恐怖の視覚化の光景からイメージの彼方にある不可視の世界を見る者へ没入させる構造をクリステヴァは指摘していたはずである。ただ、そう言うこととは別に、「斬首の光景」に多数述べられているうちに、斬首された首を所望した女たち、デリラ、ユーデット、サロメに関心を抱いていたが、彼女たちは確か旧約聖書、新約聖書に登場する魅惑的な女たちであり、その物語を知りたかったのである。
特に、このワイルド著 福田恆存訳「サロメ」は挿絵が魅力的である。それ以上に、新約聖書に書かれている原本の物語は思い出せないけれど、サロメを最初は少女っぽく描きながら、美しくも官能的でかつ非情な女として振る舞わせていく小説の描写はとても好い。ワイルドは世紀末文学といわれるようであるが、この戯曲「サロメ」の後半の王様が首を所望したサロメへの翻意を促すセリフ、首を入手したサロメの高ぶる感情を表したセリフは詩情豊かである。世紀末文学的な頽廃という以上に、何か根源的なものを感じさせる。訳者福田恆存は、このサロメの解釈を『スペクタル的官能美の表現と見る従来の定説に与しない。それはあくまでせりふ中心の運命悲劇である』と述べて、自らの解釈を本書の岩波版ではなくて新潮社版に記述していると言っている。残念ながらこの新潮社版は読んでいない。福田恆存の内容を敢えて逆説的にとらえ、幻想の内であっても切り拓こうとする強い意志の力、女なる母性のかつ淫婦がこの世界を動かし得る意志の力を表した物語と推測するのは、あまりにもうがった見方であろうか。新潮社版を読めばすぐに分かることであるが・・。
なお、本書の筋書きは、サロメが預言者ヨカナーンに恋をするが少しも取り合わないために、サロメの魅力に魅せられている王様の望む前で舞踏を踊る代償として、サロメは王様にヨカナーンの首を所望し、その斬首された生々しい首に、サロメが望んでやまなかった首に口づけをするのである。なお、この斬首は王様の弟の妻であった母王妃、ヨカナーンに淫婦とそしられていた母王妃の望み通りに行ったことでもある。なお、デリラ、ユーデットは、機会があれば旧約聖書を読んでみたい。読んだはずであるがどうも記憶にないのである。彼女たちは格好な画題であって多くの魅惑的な絵画が描かれている。その絵画を眺めるのは恐ろしくとも美しい。
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この感想文を読んで思い付いたのであるが、谷崎には残忍な描写がない。無論、サド的なマゾ的な儀式と意識の錯乱もない。法や掟に因襲的な集団即ち群の規律の支配からも免れている。これは稀有なことである。自由闊達に描きながら自らの定めた則を超えることがない。エロシチズムやフェティシズムを書きながらこれらの嗜好を乗り越えている。即ち悪魔的な肉体派というよりも叙事的な物語作家なのである。こうした谷崎の文学的特徴はまた別の機会にしたい。
以上
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2019年8月8日(木) |
題:マゾッホ著 池田信雄/飯吉光夫訳「残酷な女たち」を読んで |
マゾッホの作品は「毛皮を着たヴィーナス」や「魂を漁る女」は読んだことがある。マゾッホはジル・ドゥルーズが再発見した小説家である。無論、彼の「マゾッホとサド」なる評論も読んでいて、何度も日記に引用した記憶がある。もう少しマゾッホの小説を読んで彼の思想など調べてみたいと思っても、文庫本ではこの「残酷な女たち」位しかないのである。厚くて大きな本は嫌いなため致し方ない。
「毛皮を着たヴィーナス」は良い本である。鞭打つ女主人となるように取り交わした女との契約は実行される。男も女も契約を取り交わしたからこそ、鞭が唸りをたてて宙を舞うのか、自らが望んでいるからこそ鞭が空を切って鳴り響くのか分からなくなる。意識が混濁するのである。「魂を漁る女」はドラゴミラなる美少女が恋人を悪魔的な女から救う怪奇冒険恋愛小説でもある。読んでいてはらはらどきどきした記憶がある。
この「残酷な女たち」なる本は、「残酷な女たち」と称した中に、それぞれが題名を持つ八篇の短編からなる。これらは十頁程度と短い。残酷な女もいるが、意志の強い義に富んだ夫への愛に満ちた女もいる。また「残酷な女たち」とは別に「風紀委員会」と「醜の美学」なるやや長めの短編もある。「残酷な女たち」の八つの短編は歯切れのよい文章で、マゾッホの特徴をよく表している。即ち、自らの欲望を成し遂げるために意志の強い女や冷酷な女を描きながら、夫を愛していて敵を殺しさえする女もいる。毛皮を着ることを望む強い女たちを描いていると言えるであろう。
「風紀委員会」は女帝マリア・テレジアの作った風紀維持のための委員会の話である。女帝は愛人を持つ夫を嫉妬から監視する必要があったのである。お針子リーナとその母親の暮らす部屋に結局何組もの男女が隠れることになる喜劇でもある。結局、リーナは恋人と結婚できる、女帝は夫にまた体を委ねることができるハッピーエンドで終わる小説である。「醜の美学」はせむしのこびとの醜い男パウルが恋人を持つ美しい娘ヴェレスカに恋をする。恋人は美しい青年騎士である。男爵でもある。画家でもある醜い男は娘に毛皮を着させて肖像画を作るなどして娘の歓心を買う。娘は得意げになる。ある時、恋人との乗馬の時に娘は垣根を飛び越そうとして倒れる、この娘をせむし男は一心で助ける。それから二人は心を通わせ合う。というよりヴェレスカは醜い男に恋をするようになる。青年騎士とパウルは決闘する。瀕死のパウルを娘は助け、家を出て行こうとするパウルの足元に娘は身を投げ出すのである。
マゾッホの作品を読んだのは実は谷崎潤一郎の作品と比べたいとの思いがあったためである。谷崎と比較できる作家は日本にいるかどうかは知らない。無論谷崎の多彩な側面、伝統文化や愛おしい母への慕情やエキゾッチックな怪奇性などは、日本の作家と比べて論じることができる。ただ、谷崎の場合肉体が主でありマゾ的である。それならばマゾッホに頼る以外にないのである。マゾッホ以外にフランスのロマン小説にそうした種類の作家を見出すのも難しいだろう。他の作家と合わせて論じることで、谷崎の特徴がより露わになるはずなのである。谷崎のマゾ的な肉体性は、伝統文化という覆いを重ね持っていてきめ細やかである。この覆いを取り除けば執着するマゾ的な肉体はどうなるのか。その辺りを他の作家と比較して調べたかったのである。
この目的を達するのは難しい。マゾッホと谷崎の短編と比べると、人情や心理、サドやマド性の強度、文章の特徴、正義や悪など概念的横断性などにおいて違いがある。これらの一つ一つの相違を述べて彼らを論じることはまだしないが、明確に異なる点がある。それは空間に時間である。時の流れであり、空間の偏在性である。時間の永劫性であり空間の異質さへの憧れでもある。これらも今は論じることはしないが、マゾッホの「醜の美学」において気に掛かる点がある。
美しい娘ヴェレスカと醜い男パウルとの会話に出てくる、美しく生まれ出たことの偶然性と人間の内面的な本質との相違である。パウルは美しい女性はそれほど珍重するに値しない散文的なものであるけれど、詩をよびさます力を持っていて男から賛美されていいものと言う。ヴェレスカの美しさを褒めているのである。美しい娘ヴェレスカは、自分と同じくらい平凡で取るに足らない男を相手にするときは懸命に振るわなければならないと言っているのでしょうと言う。恋人にいらいらしているヴェレスカはこの恋人を非難しているのである。あんないかさま伊達男にきみにはもったいないと言うパウルに対して、ヴェレスカは嫉妬しているのでしょうと言う。パウルに心を引かれているヴェレスカは一方ではパウルのみにくさを指摘している。こうした美と醜との会話は、結局内面にたどり着く。パウルの内面は豊かさがある。この確信があるためパウルは騎士より幸福だと言う。
こうして美という観念に移るが、美と内面の話は表層と深部との問題に取り換えることができる。即ち、意味はどちらにあるのか。なお、意味とは心を捕らえられて心が束縛されることである。そして、この心を捕える外部にあるものが、表面に付着しているか深部に隠れているかの問題でもある。まさしく内面は深部に隠されているが、表面に現れ出なければ、行動に移させなければ豊かさなど分からない。つまり内面だけでは意味は現れ出ないのである。つまり、表層と深部との問題としたことが、そもそもどちらも表層を通じて意味が表れるため、間違いだったのである。では、言語表現ではどうなるのか。言語で述べられている表層が深部を覗かせて意味を成しているのか。つまり表層から隠れている深部の何かを探り当てることができるのか。この探り当てた何かが心を打ち、もはや解き放てない深い意味を成しているのか。こう考えていくとある程度の解を予想しているが、表層と深部と意味との関係は難しい。言語の総体的イメージ論を想定しているが、この時は表層と深部の区別がつかなくなる恐れもある。
以上
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2019年8月1日(木) |
題:谷崎潤一郎著 「文章読本」を読んで |
なるほど、これが谷崎の文章に対する考え方を表している。文章の表現そのもの対する記述であり、夏目漱石の哲学的とも言える「文学論」とは根本的に異なっている。漱石の「文学論」も文章の表現に対する考察もあるけれど、小説全体の枠組みとその内容に認識と情緒に関する考察である。さっそく、本書「文章読本」が何を記述しているか、目次から見て行こう。
1 文章とは何か
〇言語と文章 〇実用的な文章と芸術的な文章 〇現代文と古典文
〇西洋の文章と日本の文章
2 文章の上達法
〇文法に囚われないこと 〇感覚を研くこと
3 文章の要素
〇文章の要素に六つあること 〇用語について 〇調子について
〇文体について 〇体裁について 〇品格について 〇含蓄について
この目次を見れば、谷崎の記述しようとすることが容易に分かる。そして谷崎は明晰な文章にて言わんとするところを的確に述べている。言語の表す曖昧性や言語が思想に形態を与える点など、当時としては斬新な発想であったかもしれない。特に、分からせるように書くという点に重きを置いている。更に音楽的効果や視覚効果について述べ、最後には句読点の打ち方などの体裁や文章の礼儀上の品格、そして含蓄に至る。この品格や含蓄については最後にまとめて示したい。谷崎自身の文章の含蓄とも言えるためである。この「文章読本」を読むと、谷崎の文章に対する気配りの周到さ徹底さが際立っている。
細かな点を述べるより、谷崎の考え方は例文としてあげて論じている文章を示せば手っ取り早く理解できるであろう。なお、例文は示さないので、本書などを読んでもらいたい。まず、志賀直哉の「城の崎にて」の蟻の死骸を見て書いた文章を芥川竜之介と同様に、気持ちと様子とを見て取れる、とても優れた文章と言う。また、実用文書と同様に簡単な言葉で明瞭に描き出していると捕らえて高く評価する。実用文章とは私などは普通論文を思い浮かべるため、これを実用文章と同等と捕らえている点が理解できない。また、この文章は寂しさが繰り返されているが簡明であり胸を打つという谷崎の視点も、余韻を好む谷崎がこの文章を好むことがそもそも矛盾している。解説で同様の感想を吉行淳之介が述べていて、心強く思ったものである。この「城の崎にて」の文章はその後も何回も取り上げられているのは、他に取り上げられ褒めるべき文章がなかったのだろうか。如何とも不思議である。
次にテオドール・ドライザー氏の長編小説「アメリカの悲劇」の日本語への直訳文、意訳文示して翻訳の難しさを言う。次に源氏物語の「須磨の巻の一節」の英人アーサー・ウェーレー氏の英訳分を取り上げて、優れているけれども細かく書き過ぎて冗長だと言う。いずれにせよ翻訳はいろいろな意味を含むユトリのある言葉使いをした方が良いと結論づけている。次に谷崎自身の「鮫人」を取り上げ主格の取り扱いを、上田秋成の「雨月物語」の開巻第一の「白峰」の主客の非明示と比較して主格の表現の多さを指摘している。「白峰」が名文なのである。
西鶴の艶隠者巻の三「都のつれ夫婦」の色気に富んでいるが長くて癖のある文章に対して、森鴎外の「即興詩人」を癖のない平明な文章として紹介している。結局、文章は歯切れの悪いだらだらした源氏物語派と簡明な響きのある非源氏物語派に分かれ、文章を上手にするには感覚を研き文章をできるだけ多く読み、できるだけ多く記述するのが良いと結論づけている。さて、文章の六要素(用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄)のうち、用語は分かりやすいものを選び、調子は即ちリズムは当然として、文体は講義体や口上体、会話体などがあるしたうえで、品格と含蓄を述べているそのことが谷崎独特と言える。
品格とは饒舌を慎み言葉使いを粗略にせずに、敬語や尊称を疎かにしないこと、更に『われわれは、生の現実をそのまま語ることを卑しむ風があり、言語とそれが表現する事柄のとの間に薄紙一と重の隔たりがあるのを、品がよいと感じる国民』なのであり、意味のつながりには間隙を置く必要があるとする。間隙があることが重要で、これは表現を内輪にして物事の輪郭をぼやかせる手段を取ることである。この例文として昔の書簡文を示して、谷崎自身が過剰文章に線を引き示している。また、不足文章を補っている例もある。この含蓄や意味の隙間こそが谷崎の文章論の真骨頂なのだろうと思わせる。ただ、文章は感覚を研いてできるだけ多く記述する以外に上手くなる方法がない、また気を配り文章を記述したければならないと主張する。このように谷崎の文章論は、夏目漱石の思いのままに言葉を用いて書く、時には造語を用いるのとは、まるっきり向いている方角が異なっているのである。谷崎の文章論には敬意を表する、ただ格式が高そうで私などは敷居を跨ぐのさえ怖そうに思われる。
以上
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2019年7月25日(木) |
題:谷崎潤一郎著 「お艶殺し」「刺青・秘密」を読んで |
谷崎潤一郎の主要な作品は今までに読んでいる。でも、結構短中編の作品があって少ずつ読んで行きたい。というのは、日本の文学における代表的な文体を知りたいためである。夏目漱石と谷崎潤一郎などが大切である。付け加えるとしたら森鴎外、三島由紀夫に大江健三郎でくらいか。でも、それ以上思いつかない。また、気付いたら当然、新しい作家も加えたい。なお、詩人は省きたい。詩人の文体を論じるのは別の機会にしたい。無論、谷崎潤一郎の作品そのものを読むことも楽しみである。
なお、谷崎潤一郎の読む作品は中央文庫、新潮文庫などの文庫本である。中央文庫から発刊されている「潤一郎ラビリンス」は省きたい。殆どの作品が入っているようだが、今までに読んでいた文庫本と同じものがあり無駄を避けるためである。また、「谷崎源氏」は未定。「源氏物語」をどう訳しているか知りたいけれど、「源氏物語」は古文で読むのが良いのである。でも、少しは眺めてみたい。さて、「お艶殺し」は「お艶殺し」と「金色の死」からなる。「刺青・秘密」は「刺青」、「少年」、「幇間」、「秘密」、「異端者の悲しみ」、「二人の稚児」、「母を恋うる記」の七つからなる。これらの作品の内容を簡単に紹介したい。
「お艶殺し」は駿河屋の生娘、お艶と律義な奉公人新助は恋をしている。舟遊びなどで知り合った船頭清次の手を借りて駆け落ちをする。だが、新助は行きがかり上、清次の手下やその妻を殺す。清次もお艶を物にしようとしていたのである。こうしてお艶はお金がなくなり、徳兵衛の世話で芸者になり女将になる。自首しようとしていた新助はお艶に会いに行くが、お艶に乞われるまま居座る。芸者になってもお艶はまだ貞節を守って新助を好いていると言う。ただ、あこぎに客を騙して金稼ぎをしている。そして新助とお艶はこの徳兵衛も殺してしまう。騙し相手の旗本の芹沢にお艶は会いに行くが、実はもう好いていてお艶は貞節を汚している。騙されていたと知った新助はお艶を殺すのである。
「金色の死」は作者自身がモデルらしいとのことで「異端者の悲しみ」に似ている。ただ、「金色の死」は横文字の記述があり、かつ芸術に関しても述べられている作品である。私の友人岡本君はとてつもないお金持ちである、商売繁盛している店の子である私と二人とも秀才である。ただ岡本君は数学を嫌うなど私を凌駕することができない。この岡本君が大きくなって自らの財産を自由に使えるようになる。すると、自らの芸術を創造する。即ち、広大な敷地に建てられた宮殿などに、多数の彫像や画を披露するのである。ただ、ある日彼は金箔を自らに塗って如来を模すると、体中の毛穴を塞がれて朝方に死体となって発見されるのである。
「刺青」はいわゆる処女作である。清吉は光輝ある美女の肌に己の魂として刺青を掘るのが願望である。ある時見染めた小娘と偶然再会する。娘は芸妓の妹分で使いにやってきたのである。死骸や処刑する男どもを眺める妖艶な妃の巻物を見せて娘の本性を教え口説く。尻込みするけれど娘は自らの本性を認めて刺青を彫ることも認める。清吉は魂を打ち込みことを成すと、娘の肌に浮き上がる女郎蜘蛛は、娘そのもの言葉と心をもはや魔性に変えている。「少年」は私と財産家の塙信一とその腹違いの姉光子、それに貧しくともガキ大将の仙吉との幼き日の話である。信一は外では内気だが、自らの家で遊ぶ時には遠慮なく横暴である。光子さえ手加減しない。ただ、光子の反逆にあい、私や仙吉が光子の手下になると、光子が増長して三人を奴隷のごとく扱う女王となる。私や仙吉が光子に呼び出される西洋館、この館における蛇の描写が印象的である。
「幇間」とはもと兜町の相場師が幇間となって客の御機嫌取りを唯一の楽しみとしている話である。この幇間に惚れた女の梅吉ができる。この梅吉と幇間を取り持つ旦那が一計を案じる。いわゆる催眠術である。果たして幇間は梅吉に催眠術をかけて懇ろになることができるのか。「秘密」とは昔関係のあった女と偶然再会する。この女に会うために目隠しをして幌に乗る。どこをどう走ったか、ある時目隠しを外させて看板を記憶する。この記憶をたどり歩いて女の家を見つけのである。秘密とはこの女の居場所である。「異端者の悲しみ」とは貧しい章三郎なる学生と両親、肺病でもはや死にそうな妹、それの学生の仲間たちとの話である。章三郎は芸術家志向であるが、両親や妹とは諍いを起こす。貧しいが故に仲間には金を借りて不義理をする。卑屈な男でもある。ある時それほど親密でなかった鈴木に五円の金を借りて遊ぶ。その鈴木も体が弱くて死ぬ。章三郎は瓶に詰められた遺骸と共に田舎までは付き添わない。催促されていた五円の金を返さなくとも済むのを悦んでいる。酒に頼る日が続き、そして肺病病みの妹もとうとう死んでしまう。
「二人の稚児」は、比叡山の偉い上人の元で育てられた稚児、そのうちの一人が下界の女人に憧れて逃げ出す。幸いなことに金持ちになり女人の群にかしずかれて暮らしている。こうしたためた手紙を受け取り、残された一人へ抜け出すように誘う。女人に焦がれるけれど肯ぜず、この者は寒風のなかを山の頂上へと登る。一羽の鳥が負傷し血を滴らせて喘ぎ苦しんでいる。この彼女の肌に覆いかぶさるようにしている、この者に粉雪か鳥の羽毛がはらはらと降り落ちてくるのである。「母を恋うる記」は、私はもはや貧しくなった家を飛び出す。明かりの付いた家を見つけて、お母さん何か食べさせてくださいというけれど、婆さんは冷たくて飯を食わせてくれない。そのまま歩いていくと三味線の音を聞く。若い女である。音色が夜に響きわたる。小母さんとか姉さんとか言って附いて行くと女は泣いている。私はお前のお母様じゃないかと女に言われて、目を覚ますのである。
各作品の発表時期を示したい。なお、谷崎潤一郎の生年月日は1886年7月24日である。
刺青(第二次新思潮 1910年11月)
少年(スバル 1911年6月)
幇間(スバル 1911年6月9
秘密(中央公論 1911年11月)
金色の死(東京朝日新聞 1914年12月)
お艶殺し(中央公論1915年1月)
異端者の悲しみ(中央公論 1917年7月)
二人の稚児(中央公論 1918年4月)
母を恋ふる記(東京日日新聞 1919年1月)
結論から言えば、これらの作品群は「春琴抄」や「細雪」に至るまでの習作と言える。文章に苦労していろいろ変えている、また物語としての奥行きが不足しているのは否めない。無論、相当に稀有な才能があることは認める。けれど、「春琴抄」や「細雪」を読むと、これらの初期の作品はまだその才能のすべてを開花させていない。これらの作品の中では「刺青」、「少年」、「異端者の悲しみ」、「母を恋うる記」などが良いと思われる。
「刺青」は恐ろしい才能を感じさせる作品である。ただ、娘の心の記述によどみがある。奇怪な画を見せられて、どうしてこんな恐ろしいものを私に見せるのかと娘は問う、娘は心の底に潜んでいた何ものかを探り当てられた心地がしている。お前の未来の姿を絵に現したものだと言われると、娘は早く画をしまって下さいと要求する。お前さんの側にいるのは恐ろしいからという。でも、立派な器量の女にしてやると言われ、娘はそのまま刺青を入れるのを受け入れるのである。こう記述すると娘の心の筋が通っているように思われるが、そうではない。この描写には、既にそういう性分を持っていると認めても恐ろしがっている娘が、なぜ刺青を彫らせることを許すのか心理的な流れがスムーズではない。刺青を認める娘の心理がとても理解しがたいのである。
普通、立派な器量の女にしてやると言われても、恐ろしければ逃げ出すはずである。ただ、「ああ、美しくなりたい」との娘の言葉が一つ入れば良い。「娘の心の底に潜んでいたものが蠢きだして顔を染めている」などの描写がちょいと入れば良いだけである。無論、事後承認として刺青後、美しくさえなるのなら、風呂に入る苦痛など、どんなにでも辛抱して見せましょうよとの娘の言葉が認めたことを示している。また、女郎蜘蛛を彫られた後の妖艶な女への娘の変貌は分かるけれど、結局、この作品は谷崎が思い描いていた観念を作品化しているのであって、心理は付け足しである。文章が読ませるけれど、この文章に記述された心理には幾分隙間がある。だが、谷崎にとってそれほど重要なことではないのである。作品を読み比べると分かるのであるが、夏目漱石の心理の追求とは違ってと違って、谷崎は筋と文体を重要視しているためである。この辺りは谷崎潤一郎論を書けば、その中で示詳細を示したい。
「お艶殺し」は戯作調の馬鹿々々しい話である。でも、これらの作品の内では一番良いと思われる。移ろいゆく心と行動そのものを描いて人間の馬鹿々々しさが浮き彫りになっている。この粗くて単純に動く心そのものに、文章をより繊細・緻密にして日常生活を描けば「細雪」なる作品ができあがるかもしれない。それには谷崎の文章生活に何十年もの長い時間が必要であったに違いない。「少年」は最後に光子が女王に変貌する他愛もない話である。西洋館における蛇の描写などが淫靡さを含ませていてとても描写力がある。「秘密」と「幇間」は過去形で表現して新たな文体に挑戦している。「幇間」は軽妙さと哀切を含ませようとしている。「異端者の悲しみ」は谷崎自身をモデル化しているとも言われているが、貧乏学生の悲哀が肺病やみの妹と両親との諍い、それに同輩への卑屈さがうまく表されている。金を借りた鈴木君の死、妹の死際の両親の思いやりある看病などが良い。でも、夏目漱石の「行人」の雛子の死んだ日のように悲しみが伝わってこない。それは、谷崎が死を見詰めていないのではなくて、生きている体そのものに関心を持っているためであろう。異端者の悲しみとは、極論すれば貧しくて豪勢に女遊びのできないことにある。
「母を恋うる記」も漱石の「夢十夜」を思い起こさせて、なおかつ色に音など六感を駆使した描写が素晴らしい。ただ女の会話や描写となると冗長気味になる。この女は不可思議さが消えて、そこらのお姉さんに成り代わってしまう危険さを含んでいる。この「母を恋うる記」の文章も谷崎としては簡素簡明で、かつ俗語を用いるなどやはり文体を試行している。こうした谷崎の短中編の作品はもっと読みこなしてから論じるのが良い。ただ、言えることは文章の華麗さとは裏腹に物語としては俗っぽさがあり、読み終わると心に残るものが少なくて、それっきりになる。こうした谷崎の作品を年老いるごとに分類してまとめると特徴が分かってくるはずである。
以上
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2019年7月25日(木) |
日付の変更 |
日記記載日と投稿日に約3ケ月のづれがあるまま掲載していましたが、今後日付は投稿日と致します。
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2019年4月12日(金) |
題:アラン・ロブ=グリエ著 平岡篤頼訳「新しい小説のために 付き−スナップ・ショット」を読んで |
アラン・ロブ=グリエの作品は「消しゴム」や「覗く人」などを読んでいる。視線の文学とも言われる、視線の先の対象の表層を記述する作品群がある。読んだ結果の評価はそれほど良いものではなかった。表層を描く作品は退屈で読むのが疲れてくる。本書はこのアラン・ロブ=グリエの書いた文学論で、かつスナップ・ショットとして短編がいくつか掲載されている。結論から述べると、本書の文学論はそれなりに読めて、また理解もできる。けれど、彼の作品群はあまり評価できない。つまり、新しい小説とはヌーヴォー・ロマンであり、これらの小説は文学論などとは関係なしに生まれ出てきていて、作家によってまったく文体が異なっている。作家のうち成功しているのは、ほんの一握りであろう。本書でも取り上げているサミュエル・ベケットやジョー・ブスケである。ブスケはまだ読んだことはないけれど、サミュエル・ベケットの作品は殆ど読んでいて、感動したものである。
結局、文学理論とは単に生まれでた過去の小説や理想とする文学を理論の枠組みに納めようとするものであろう。文学とは文学理論によって書かれるのではなくて、ロラン・バルトの述べたエクリチュール論における現実を組み込んだ文体によって記述される。例えば夏目漱石における文学理論「認識(F)+情緒(f)」などは、過去の英文学の作品を読んで構築された理論であるが、彼の小説群はこの理論に従って書いているわけではなくて、この理論を生み出させた精神を引き受けただけである。漱石の小説を書く文体は彼の文学理論よって生み出されたのではなくて、彼の独特の感性が自らに最適なエクリチュールをいつしか生み出していたのである。このエクリチュールなる文体こそが文学理論をはるかに超えて、新しく小説を記述させることができる。こうした観点からの考慮がとても重要であろう。アラン・ロブ=グリエの小説理論を紹介して、この観点からの認識こそが重んじられるべきと確認したい。でも、ロブ=グリエもきっとそう認識していたのだろう。ただ、彼は新しいエクリチュールを獲得しても、このエクリチュールが普遍化した本物のエクリチュールでなかったそれだけなのである。
でも、ロブ=グリエの文学理論にも見るべきものがある。紹介は簡単に行いたい。前半は退屈であるが後半に見るべきものがあり、そして文章は彼の小説よりよほど分かり良い。ロブ=グリエは書いた小説が理解されず、酷評されてこの理論を少しずつ書いて発表しているのである。初めに彼は、エクリチュールが明晰な意識を持って考察され、創造するための原動力として働き得ることを認めていることは驚きである。ただ、世界は意味もなければ不条理でもない。ただそこに《ある》だけと述べて、この世界の表面の記述にはいまだ嘗て成功していずに、この厳然として存在する世界を小説的に構築することが必要なのであると強調する。そして作中人物、物語、政治参加、形式と内容などについてフローベールやサミュエル・ベケット、ナタリ・サロート、などの作家を引用して論じる。創出した形式こそが残ることができるとする。こうして論じるロブ=グリエの論点は至極正統なものである。ただ、かれは「もの」に固執する。「もの」とはそこに在るものである。
次の文章が彼の文学観の根底をなすだろう。『ものがそれぞれ、自己だけに限定されたもの以外のなにものでもないことを明確にすることに帰着する。課題はもはや、幸福な和合と不幸な連帯とのいずれを選ぶかではなくなる。その時を境に、あらゆる共犯関係の拒否が存在するのである。それ故にまず、類推的な語彙と伝統的なヒューマニズムとの拒否、悲劇の観念と同時にまた、人間とかものとかの(そして双方にともに通じる)深層の、高次の、本性の信仰にみつびくあらゆる他の観念の拒否、要するにあらゆる予定された秩序の拒否が存在する』こうした展望のもとでは視線だけが特権的な感官となるとロブ=グリエは主張する。こうした主張はそれほど意外なのではなくて、認めても良い。更にこの観点からレーモン・ルーセル、ゼーノ、ジョー・ブスケ、サミュエル・ベケットなどについて詳しく論じている。その後も、新しい小説に間(ま)や時間と描写の関係、写実主義からの現実の見方について、ロブ=グリエは詳しく論じている。なんども言うが、彼の文学論はそれほど異質なものではない。
何度も言うが、文学が小説として成功するのはエクリチュールによる、エクリチュールこそが小説を成功に導くものである。スナップ・ショットとして記述されている「三つの反射的映像(マネキン、代数、間違えた道)」、「帰り道」、「舞台」、「秘密の部屋」などでは、ロブ=グリエの主張するこの世界の表層を視線によって記述しているが成功しているとは思われない。マルグリット・デュラスの「廊下に座っている男」やベケットなどの作品にもこうした視線による手法なのか記述された小説があるが、これらに比較して読みにくい。視線が表面を徘徊してカメラ的なのは良いが、揺らいで移り動いている。文章が句読点にて区切られて続いているために、この表面の徘徊が一層把握しにくくなっている。訳文が一層把握を難しくしているかは分からない。ただ、デュラスの「廊下に座っている男」の描写は安定的で座っている男そのもの作動が伝わってくるのである。視線ではなくてエクリチュールによって記述しているためであろう。
結論としては、ヌーヴォー・ロマンや何の小説であっても、エクリチュールこそが文体そのものが小説を成功に導くものだと確信することができる。
以上
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2019年4月5日(金) |
題:白石かずこ著 「砂族からの手紙」を読んで |
白石かずこの詩を読むと、とても安心する、とても落ち着く。ダイナミックな言葉が波のように押し寄せてきて胸を打ち、高揚とさせては穏やかに消え去っていく。白石かずこの散文は「黒い羊の物語」など何冊か読んでいるが、これまた簡潔でダイナミックである。適度にエロさも含んでいるところが良い。ただ、単に男が好きだと述べているだけの簡単な文章で、その男も美男からは隔離されていて、どころか野生動物的な風貌を持っている、この簡潔な表現に何とはなしにエロさを感じるのである。にっと歯をむき出しにして笑うような男との愛とは、どういったラヴ的な諸行為を表現していのであろうか。
ともかく、この「砂族からの手紙」という散文を買ったのである、もしくは押し入れから見出したのである。読んでいるはずが、もしや読んでいないかもしれない。「風景が唄う」と「ロバの貴重な涙より」も買ったか見出したのである。この二つはたぶん読んでいない。ともかく、この「砂族からの手紙」を読んでみる。砂族たちとの付き合いも含めて18個の短文からなる。短文というよりこれが「砂族からの手紙」である。なるほど、知ってはいたが、砂族とはエジプトに起因するのか。「砂族」なる詩集に表されている詩の、その経験談である。砂族という分身が白石かずこの内に生まれ、砂なるスピリットが生じてくる出会いであり風景が描かれている。でも読んでいくと、砂にもいろんな種類があり、著者はそれらをすべて体験している。黄色はエジプトのカイロの傍らのサハラ砂漠の砂の色。ピンクはそこから遥か南へとナイルをのぼってアスワン、アブシンベルの砂の色。ハワイのビーチの黒い砂。そしてオーストラリア中央部のオレンジの砂、オレンジというより赤茶色の砂。アポリジニとの出会い、女との出会い、男との出会い。
とにかく白石かずこは忙しい。ダイナミックな動力学的な文章と同様に各地を飛び回る。まさに著者が述べるように吟遊詩人である。鯨との出会い、馬車屋たちとの出会い、インディオとの出会い、猿との出会い、人形との出会い、猫と鷹との出会い、黒砂糖やグウバ茶との出会い、美しい女詩人や母親思いの敬虔な詩人との出会いがある。吟遊詩人は出会いに満ちていて、詩を歌い踊って、がさつに飲み食いして、男を愛して、そしてさっと眠るのである。どうしてこんなに簡潔に動力に満ちた文章を書けるんだと感嘆する。修飾語が少なくて、感情など繊細さがなくて単純明快であり、時空間がさっと次の場面の文章へと移るためであろうか。
久しぶりに「砂族」なる詩を読む。十回以上読んだ詩集である。一番好きな詩集である。「聖なる淫者」よりも好きな詩集である。やはり出だしの「手首の丘陵」が良い。懐かしさが溢れてくる。読み終わるとほっと安堵する。少しばかり砂の感触を味わいながらじっと動かない。動かないでいると、可愛らしい砂の粒がこぼれ落ちているような気がする。きっと砂族からの贈り物である。この「砂族」は先に述べたように「砂族からの手紙」に書かれている実体験から記述したものであろう。ただ、文章がより高度に生まれ変わっている。詩を歌い踊ってがさつに飲み食いする詩人が、リズムを持ってダイナミックに内なる砂族を称え緊密さと誇りを持って言葉を疾走させている。
白石かずこの詩の特徴など考えたことはなかったが、また考えてここに書く必要もないのであるが、少し思い巡らせて思いつくままに箇条書きにて示したい。
1) ダイナミックである。行を跨ぐか跨がないうちに時空間を飛び越える。これが詩にダイナミズムを生み出している。また時々同じ文章や単語を繰り返しや、主語と述語を反転させる器用さがありダイナミズムの隠し味になっている。キーワードはとにかく各所に散りばめられていて、律動して脳に焼き付く仕組みになっている。
2) 可愛らしいエロシチズムが含まれている。可愛らしいというより健康的で解放されたなエロシチズムが表現されている。これは彼女が生の肯定者であるからに他ならない。まさしく彼女の詩は生を性としてのみならず命そのものを謳歌しているのである。命を謳歌し賛歌する詩を歌っているのである。
3) 余剰物は含まれない。最低限度の修飾語しか用いない。これが詩の幹を太くして詩の全体を屹立させて、印象深い詩となっているのである。
4) そして何よりもリズムがある。律動する波動が伝わってくる。これは先ほど述べた詩の表現にて行っている繰り返しや反転に倒置の手法に、時空間を飛び越えて表現する手法が関連しているのであろう。
5) 彼女は言葉の意味など面倒なことは考えない。あっけらかんとした解放性を基本としている。つまり表現されている言葉そのものを信じ切っている。信じ切っているというより言葉と一体になっているからこそ、簡明にかつダイナミックな詩になるのである。言葉の意味など考えると、表現に技巧を加え過ぎると、くどくてみみっちくて読むに耐えがたい詩になりがちである。
6) 彼女の詩に思想はない。ただ、男が好きなだけである。ただ、言葉にて表現された詩だけがある。この表現された詩から何かしらの思想を読むのは、読む者の思いが詩から読み取った自らの思想である。
簡単に書いたが、こうしてみると白石かずこの詩とは純粋に読むだけで楽しみ味あうことのできる詩なのであろう。無論、彼女にも思想や感性があり解釈することができる。また、これらの詩から自らの思想を重ねて引き抜いてくることもできる。でも、やはり思想や思考のない詩として、この詩の内に身を委ねて、頭を空っぽにしながら律動する体感に酔い痴れることができる、このことこそが彼女の詩の持つ崇高さなのであろう。そうと言い切りたい。
以上
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2019年3月29日(金) |
題:大森荘蔵著 「知の構築とその呪縛」を読んで |
何かしら本の題名に引かれて読んだ本である。哲学書かと思ったら哲学の周りを記述したエッセイみたいな内容である。ただ、著者の主張はある。著者はいろんな東西の哲学書を読んでいて豊富な知識は持っていて知を論じている。でも、著者が結論として導きだした主張はとても納得できるものではない。論理の流れからすると、結論が突然乖離しているのである。こう書いてしまえばもう記述することはないのであるが、せっかく書き始めたのでこう思わざるを得ない理由を簡単に紹介したい。
なお、哲学の周りを記述したエッセイと述べるのは、本書の記述の仕方に根本的な疑念を感じるためである。つまり、一般の哲学書は自らの思想を述べてその確証を得るために他の哲学書の文章を引用する。ところが本書は初めに他の哲学書の文章を引用して、それから自らの考えを紹介していると思わざるを得ない。どうにも厄介であるが、本書は哲学における知の思想の歴史的遷移を記述しようとしているのかもしれない。解説にもそう書いてあった記憶がある。それなら本書の題名を「知の構築とその呪縛の歴史」と「歴史」を追加すべきである。
さっと本書を読むと、著者はまず日常の常識としての世界の「略画」から始め、自然科学により、より詳しい世界の「密画」を捕らえることができるとする。そして、著者はこの略画から密画に至る過程に根幹に関わる問題が発生したと指摘する。それは感覚や感情を始めとする人間の心に帰属する一切が科学から排除されることになったということである。科学の観点からすると、この世界の進行に人間的な意味はなく、人間自身がたまたま出現した素粒子集団で、我が身を含んで全世界が「死物」の一大集塊なのである。これを脱出するためには、科学の初期段階で心を排除したのだから、それを取り戻して科学の世界像の上に心や知覚を「重ね描き」すればよいのだと言う。著者の言葉を引用すれば『科学の無色無音の死物描写の上に色や音を重ねて描くというただそれだけのことである』と記述している。
こうして著者は略画の世界から密画の世界を、ギリシア哲学や朱子学や伊藤仁斎など、更にガリレイやデカルト、ヒュームなどの思想を元に語る。詳細は省くが、物質即ち死物性であった世界に感覚や感情を引き入れる。人間の意識あるいは精神に感覚的性質を押し込める世界観が登場したと述べる。これが知的革命なのである。ただ、この知的革命には欠陥がある。即ち二元論として取り扱う思想なのである。この欠陥を取り除くためにこそ、最初に述べた「重ね描き」が必要という。物と知覚像との一体性、自然と人間との一体性が必要なのである。原子集団としての物と色あり匂いある知覚像とは実にして同じものというのである。
こうして著者は私と自然との間に何の境界もなく、ただ私の肉体とそれ以外のものに境界があるだけであり、自然のさまざまな立ち現われが「私の心」であると述べる。その意味で私は自然と一心同体である。主観と客観と従来言われてきた分別も、世界と意識という分別もないと述べるに至る。まるで没我なる仏教に似ている唐突な結論となるのである。これらを反論するのは面倒なので、私はフッサールの現象学における現象と、メルロポンティにおける知覚と体の両義性の哲学を信奉するとだけ述べておきたい。
なお、本書の初版は1994年となっており、そんなに古くはない。どうして、他の例えば両義性の哲学を示さないのか良く分からない。「もの」と知覚する「心」を二元論として分けて論じることは、今までなされてきた哲学である。そこまでは納得できるのに、どうして主観と客観、世界と分別もないと述べるのだろう。その思想に過程が良く分からない。もしかしたら、あまりにもさっと素早く読み飛ばしてしまったのかもしれない。何が何であるか何を述べているのか私には良く分からないのである。
以上
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2019年3月22日(金) |
題:マルキド・サド著 澁澤龍彦訳「新ジュスティーヌ」を読んで |
サドによるジュリエットが主人公の「悪徳の栄え」は読んでいるが、では、ジュスティーヌが主人公の美徳はどう描いているのか知りたくて読んだ本である。結論から述べると、主人公に背負わせる「悪徳」と「美徳」は表裏一体のもので、美徳を行うことは悪徳を行うことになる。「悪徳」と「美徳」を混ぜ合わせるとより一層官能的な逸楽が醸し出されるのである。ただ、澁澤龍彦の解説によると、この「新ジュスティーヌ」はジュリエットの物語の三つの異本の最後の決定版ともいうべき稿本で、それ以前の簡潔な「原ジュスティーヌ」に比べると細かいエピソードや哲学論議に登場人物が多いことで錯綜とした印象を与えるとのこと。でも、「悪徳の栄え」の長談義に比べるとその量は減じているし、哲学論議も見るべきものがあるし、凄惨な場面も少ない。ただ、血抜きと脱糞の多さは「悪徳の栄え」にはなかったと記憶している。なお、本書は原書の一部の翻訳で、全体の量からすると約四分の一とのこと。従って、ジュスティーヌは本書の最後に逃亡するが、本当に遭遇するはずの不幸な結末は描かれていない。残念である。
少しばかり感想を書く前に、ジル・ドゥルーズ著「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」を読んで既に書いている感想文を少し紹介したい。『本書はドゥルーズの文章としては複雑な論理の展開は成されずに、訳文は込み入っていて不明な部分もあるが思想の総体としては簡明に分かりやすい。本書はかの有名なサドの文学に比較して、それほど馴染みのないマゾッホの文学作品も、マゾッホがサドの従属物ではなくて二人の作品は異なった二つの芸術であるとドゥルーズは述べて、論証を行っていくのである。即ち「サド=マゾヒスム」という固定化された関係を解きほぐし、それぞれの言語的な機能の果たす役割、善悪や法、自我と超自我関係、更にユーモアとイロニーやエロスとタナトスなどを明晰に論述している』
そしてこのように続けている。『サドにあっての言語的描写は、まずサディストが持つ個人的な嗜好を描写する、これが非個人的な要素に高揚として指令し、非人格的な暴力を純粋理性の観念とする。個人的要素を脱して恐るべき論証性と一体化させるのである。これには、制度を必要とする。制度とは権威と地位との構成要素でもある長期的な法規ことである。一方、マゾッホの言語的な描写は、肉体を宗教的・神学的に捉えてこれを芸術作品から「観念」へと昇華させる弁証法的な精神活動が活力源となっていて、契約を必要とする。契約とは契約者同士の意志を仮定し両者間の権利と義務を明確なものにする一定期間有効なものである。更にサドにあっては、自己の内外の自然を否定し「自我」そのものを否定する快楽なのであり、否定性と否定の概念に基礎を置いていて、これらは高度の論証機能をめざすのである。いわば論証の快楽でもある。なお、否定性とは具体例はあげないが能動的な活動において生じて、否定は純粋理性の観念のことである。一方マゾッホにおいては、例えば女にペニスが欠けてはいないという否認が重要なのである。現実を認識しているがその認識を否認し、世界を否認して、女を吊るすように宙吊りにすること、そしてその宙吊りにされたものに向かって自分を拡げること、いわば現実を超えた錯乱であり、もはや男とも女とも言い切れない中性化でもある。ここでマゾヒストは専制的女性を養成しなければならない、訓育者であることに注意する必要がある。こうしてドゥルーズは、サドは純理論的で分析的な手法をとり、マゾッホは神話的で弁証法的であり、想像力において全く異なっていると述べている』
以下の文章も「悪徳の栄え」の引用文である。―――引用始め―――
ジル・ドゥルーズ著「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」に書かれている制度とは権威と地位との構成要素でもある長期的な法規ことである。この専制君主の制度によって富と人民を得て、非人格的な暴力によってほぼ無尽蔵に消費できることにある。そしてこの消費は、ドゥルーズが述べるように自らの内外の自然は否定され、自我も否定・排除されて超自我がなさせる論証なのである。自我は犠牲者の内にのみある。制度とは、もはや専制君主の制度ばかりではなく、資本主義社会や社会主義社会の制度でも超自我は限りない消費を求めて、限りない消尽を求めている。そのことは、このマルキド・サド著「悪徳の栄え」が制度論の法規を従えて、この制度がもたらす論証の究極の形態を、もしくは制度の究極の様態を描いている。欲望の解放によって人間は自らを取り戻すのではなくて、欲望する自我が論証を実践する超自我の犠牲になるのである。「悪徳の栄え」はこの警鐘であるというより、その赤裸々な在り様を濃密で猥褻な描写の内に示しているのである。
―――引用終わり―――
以降若干の気付いた点を述べたい。ジュスティーヌの主体はジュリエットに比べて弱々しい。悪徳を成す者と成される者には描写上の違いが生じてくる。どうしてもジュスティーヌは受け身であり積極的に行動することができない。強大な悪徳の前では美徳は弱々しい。でも強大な美徳の前では逆に悪徳のほうが弱々しくなるであろう。ジュスティーヌは人殺し宿にたどり着いて、宿泊人を救うために美徳として裁判所に通報するとしようとする。でも悪の宿主に、遠くに通報に出かけている間、六人もの宿泊客が殺されることは、美徳ではなくて悪徳であると説得される。こうして宿に留まってジュスティーヌが人殺しの手伝いを始めることは、ユーモア以外の何物でもない。
否定の観念の到達すべき位置はどこにあるのか。もはや悪徳を成す者たちにも手の届かないところにある。彼らにとって男色や強姦に近親相姦や殺人はささやかな罪悪に過ぎない。そして、自然の意図を妨害し自然の運行を阻害し星々の軌道を停止せしめ、空間をただよう天体を殲滅してやりたいと思っている。自然の否定である。この否定の観念は自然が否定され、自我も否定・排除される超自我がなさせる論証であるとともに、結局この超自我さえ否定される運命にある。「悪徳の栄え」では仲間になった悪人を悪人が裏切る。この裏切りの連鎖は結局この世界にはただ一人の悪人しか存在できないことになる。否定の論理の行き着くところは茫漠とした何人も居ない孤独の原野にただ一人立ちすくんでいることである。そして、この者も論理の性格上否定されるべきである。
まだ本書には、女についての議論、霊魂不滅、近親相姦、自然の意図、肉体の分子状の分解など記述すべきテーマが結構含まれている。更に破壊と創造など哲学的にも関心を寄せることのできる記述もある。でも、長くなるので止めたい。結局、本書を含めてサドの著作物を読むと人間の本質は変わらず、ただ概念だけが変遷している。この生み出され変遷していく概念によって人間たちが変わって行くように見える、ただそれだけと指し示していると言えよう。良くも悪くも人間たちは概念に縛り付けられて生きているのである。一端、縛り付けられるとこの概念からの解放は殆どあり得ない。解放にはコペルニクス的な革命が必要である。逆に概念に縛り付けられていていてこそ、人間は生きていける者なのである。生きていくための信仰が概念そのものであると言えよう。
以上
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2019年3月15日(金) |
題:ウィリアム・ブレイク著 土井光知訳「ブレイク詩集」を読んで |
どこで知ったか記憶がないが、紹介されていた詩を良いなと思い読んだ詩集である。結論から述べると言葉が柔らかくて実感を伴わせた感情が素直に表現されている。日常に張り巡らされている感覚が喜びと悲しみを歌い、柔らかくて優しい言葉が包んでくれる詩である。類似の詩人を選ぶとするなら、エミリー・ディキンソンを思い浮かべるが、ディキンソンのような小さな秘密や神秘性はない。言葉の運び方が似ていないこともないということだけである。ブレイクには霊性に預言性や潜まれている神性への崇拝や恐れなどがある。本書の表題に書かれた文章を紹介しておこう。『「日はのぼり/空はうららか/こころうきたつ 鐘は鳴り・・」「母さんはうめき 父さんは泣いた/私はあぶない世界へとびだした・・」歓喜と絶望を、そして呪縛からの解放を歌う――ブレイク初期の傑作三詩集を収録』したと書いてある。
訳者土井光知による「解説――詩魂とゲニウスについて」では、ウィリアム・ブレイクは1757年にロンドンに生まれる。銅版画の修行を始め、銅版画師として活躍する。彩飾版画による詩と図版との組み合わせがブレイクの詩の特徴となる。ネットで調べると怪奇と幻想に宗教性を加えた見ごたえのある図版である。通常の宗教画とは異質なこの図版だけ見ていても飽きがこない。詩と図版とを共にして再現して欲しいものである。調べれば画集としてあるかもしれない。なお、ゲニウスとは霊魂を目覚めさせる役割を果たす想像力であるが、この訳は確定しておらず文脈によって、天才、守護精霊、精神、詩魂などと異なって訳されているらしい。
ウィリアム・ブレイクはテムズ川南岸のラベンスに住居を移し、この時代が最も充実した時代であったらしい。本書に収録されている「無心の歌」、「経験の歌」、「天国と地獄の結婚」もこの時代に作られたものであるらしい。訳者土井光知によると「無心の歌」は汚れを免れた無垢の世界が主題となり生命の歓びを歌い、「経験の歌」は無垢の状態を喪失した悲しみの世界、絶望と悲しみもがき苦しんでいる歌を歌っているとのこと。「天国と地獄の結婚」はロマン主義のマニュフェストとも呼ばれている散文詩である。ここで短かつ、かつ気に入った詩を紹介したい。原文は読んだことはないが、訳は幾分古典調である。
羊飼
羊飼う身のうれしいなりわい
朝より夕べの岡のふもと
羊のむれのあとを追い
口をもれるは讃え言
聞くは仔羊のあどけない声
母の羊のやさしい答えかた
見まもるは羊飼そばにありと知る故
心安らかな彼らのすべての姿
寸評:「彼らのすべての姿」が全体を引き締め、母と子も含めた羊飼いの歓びが歌われている。
ゆりの花
しとやかなばらは棘を出し、
おとなしい羊は角でおどす、
白ゆりの花はただ愛を喜び
輝く美をそこなう棘もおどしもない
寸評:たぶん一番短い歌である。こういう詩は嫌味になりがちであるが、白ゆりが洒落て静けさに包まれている。
誰かしら詩人の作品を原文で読んで解釈してみたいとしたら、ウィリアム・ブレイクはその一番手になるに違いない。後は、エミリー・デキィンソンか、サッミュエル・テーラ・コーリッジか、それともヘルダーリンか。でも、そこまで手は回らないだろう。
以上
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2019年3月8日(金) |
題:木田元著 「現代の哲学」を読んで |
本書を読んだのは、著者の「哲学の最終講義 哲学としての反哲学」が哲学としての思想に奥行きがあり、とても良かったためである。現代の哲学の抱えている問題も確認したいとの思いもある。ふつう哲学書は厚いので読むのに時間もかかるし、その内容は何回も読まなければ真意が分からないこともある。また何百冊と読みこなさなければ哲学者同士の思想の繋がりや思想の全貌も見えてこない。こういう簡単に横断的に哲学的思想をまとめた本は読まないことにしていたが、読むととても参考になる。それなりに理解していた哲学的思想がやはり奥行きを持って捕らえられていて、自らの捕らえ方と比較ができるしそれ以上のことを教えてくれる。本書を読んでいて記述不足を感じると、やはり著者も気付いていてあとがきに不足分の哲学的思想を列挙している。木田元はきっとたくさんの哲学書を、それも何度も繰り返して読んでいるはずである。本書は1991年に発刊された古い本で、木田元も若々しい文体で記述して若き姿を彷彿させる。
本書で取り上げている現代の哲学の課題について簡単に紹介したい。二十世紀初頭の知的状況としては、非ユークリッド幾何学や不確定性理論、不完全性定理などによって、一つの公理体系や絶対的規定による客観的な世界の捕らえ方が困難となったことがある。またゲシタルト学説によって経験に与えられるものが客観的世界ではないことが明らかになる。つまり哲学的には科学的認識に基づいた世界を貫く理性主義というものが打ち破られるのである。これは人間存在の主体的かつ自然的・感性的な面を同時に捕らえようとする、即ち実存を問う積極哲学を生み出ことになる。
こうして著者は「人間存在の基礎構造」をメルロ=ポンティなどの思想に基づき、世界内存在としての人間を物理的・生物的・人間的な個体と場の関係として論じる。有機体の境界を超えて外に働きかけて、自己の環境を作り上げる考え方が重要性を持ってくるのである。人間は直接的に自然的環境を整えて世界に開かれる、つまり世界内存在という基本構造を持つことになる。こうして著者はフッサールの現象学を取り上げ、フッサールは世界を存在者の全体ではない経験の地平構造との連関として捕らえていると述べ、またハイデガーとサルトルの使う世界という言葉の違いや彼らの存在論について紹介する。シグナルと言う与えられる記号ではなく、創出者の生み出すシンボルを介して自己解釈し行動する人間、その活動が存在論の思想の根底に横たわっているのである。「投企」や自己を超え出る「超越」もこの観点から理解できる。
更に著者は心身の関係について幻影肢などの病理学的観点から述べる。心と体はメルロ=ポンティが述べるように、密に結びついた相対的な両義的なものなのである。こうして著者は「言語と社会」と題して人間の持つ高次のシンボル体系の言語について論じる。言葉は実存的な意味を持っている。即ち、意味が言葉のなかに取り込まれて言葉は思考の身体なのである。メルロ=ポンティによれば言語とは主体が意味の世界のなかで取る、位置の取り方そのものなのである。ソシュールの最大の教示については、記号は一つ一つとしては何の意味をまたないが、それぞれの記号を表すものは一つの意味ではなくて自己自身と他の記号との差異なのである。示唆的な意味と呼ぶこともできる、このとこそが本書を読んで得た最大の知識である。著者によればソシュールは『言語は、言語体系に先立って存在するような観念なり音を含むのではなく、ただこの体系から生ずる概念的差異と音的差異である』と述べているのである。
こうして著者は相互主観主義、間身体性、女性の交換システムなどの思想を展開していくが、交換と構造とを結びつけて著者はレヴィ=ストロースとマルクスを論じている。最後に今日の知的状況と題して、マルクス主義、実存主義、構造主義などを論じている。「あとがき」には本書の記述不足分もきちんと記述している。ドゥルーズやデリダなどのポスト構造主義哲学が本書に書かれていないのである。「哲学の最終講義 哲学としての反哲学」では簡明に分かりやすく記述することを教訓とした著者にとっては幾分難しめの文章である。と言っても正確に自らの思いを伝えようとして幾分込み入った文章になったに違いない。今日のおおよその哲学的状況が分かる良い本である。
以上
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2019年3月29日(金) |
題:ミシュレ著 篠田浩一郎訳「魔女(下)」を読んで |
このミシュレ著「魔女」を上下で別々に感想文を書くことに決めたのは失敗だったと思っている。なぜなら、「魔女(下)」は先に述べたように個別の事例であり、書くことはそれほどないためである。読書としても「魔女(上)」が、女が魔女になっていく過程を歴史的な物語として描いていて生々しくも美しいのに、本書の個別の事例は類型的である。文章の美しさは変わらないが固有名詞が多すぎて、誰が誰であるのか分からなくなる。でも、やはり生々しい出来事はある。こうして書き始めたからには何かを書こう。
本書は魔女の数的増加や卑俗化、魔女への鉄槌やフランスにおける魔女の状況、サタンの聖職者への変貌などを書いた後に、個別の事例について記述している。悪魔が神の復讐者となることも指し示している。ざっと読んでみると次の三点に気付く。サバト(悪魔崇拝の儀式)における近親相姦があり、教導僧と尼僧との肉体関係があり、尼僧の精神的な錯乱がある。無論、女が男よりも虐げられていた状況は変わりない。また魔女なる事件が起こると教会内外での組織的な対立が生じている。
農村などの狭い共同体では他者は排除される。魔女を生み出すための近親相姦は母親が自分の息子から孕むことが典型的である。淫猥な水液で魔法をかけられて妻はもはや何もできない夫の目の前で、悪魔に忍耐強く愛撫にされることもある。他者が排除されているために、何事も近親でしかできないのだ。尼僧院になると多くの女たちに取り囲まれる教導僧は、閉じた生活であるために独占的な影響力を行使して肉体関係を持つことになる。それも当然であろう、女たちと一日中過ごして過ちについての打ち明け話を聞いていたのだから。女たちの間で教導僧の奪い合いも生じる。孕む者もでてくる、精神的な狂乱も生じてくる。こうして事件は外部なる町に伝わってローマ協会などの組織が対処しなければならなくなる。女尼僧院長が女どもを手名付けて自分のものにする事件も生じてくる。
一方、一般的な魔女についてミシュレは上巻で述べたように、科学や医者としての役割を果たして自らの自由な領土を築こうとしていたことを述べ、その魔女は死んだと断言する。ただ、魔女が死んでも妖精が生き残っている。妖精とは役割として医療、慰安、諭しを果たすものであり、女そのものである。「理性」、「正義」、「自然」こそが永遠の礎であり、女はふたたび優しさと人間味と自然の微笑みをもたらすだろうと述べている。「反自然」が青ざめ、「反自然」が消えて、世界に黎明をもたらす日も遠くないと結論づけている。ミシュレは最後に「覚え書と解説」と題して具体的な悪魔の事例や妖術の文学や女の地位などを簡明ながら項目ごとに説明している。
こうしてみるとミシュレ著の「魔女」とは、ミシュレが魔女や悪魔などに関する文献を読んで、何百年もかけて女が魔女になる歴史とも言える物語そのものを綴っていることである。ミシュレは歴史学教授でもある、1798年の生まれである。おおよそ二百年前の人物である。歴史をある種の生き物として綴ることの困難性がいとも簡単に成されていることに感嘆する。ただ、この物語はやはり物語であって、魔女なる者の歴史的な一般化がなされていても、魔女の普遍化にやや欠けている気がする。なぜなら魔女は概念であると同時に数なる量と質を持っていて、各種のあまたの出来事の内に生きている気がするためである。つまり、「覚え書と解説」と題して具体的な悪魔の事例や妖術の文学や女の地位などを記述しているそのもののが物語として記述されていれば、なお分かり良かったとも思われるのである。
以上
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2019年2月22日(金) |
題:ロラン・バルト著 森本和夫 林好雄訳注「エクリチュールの零度」を読んで |
この「エクリチュールの零度」はそんなに長文ではない、本文が230頁程度と短めである。さっと読んでみると、原書かもしくは訳文のせいか読み取れない文章もあるが、論旨はおおよそ明確である。たぶん、バルトは悪文を書いている気がする。本書はサルトルの実存主義的な投企の思想の影響を受けている。エクリチュールの原点を定義して、最後にモーリス・ブランショの「零点への探求」を引用している。ブランショの「文学空間」の中心点への誘いをバルトは自らの思想として捕らえられているのである。最後に掲載されている林好雄の「解説」を読むと良く書かれていて、この辺りの状況が分かる。そして、バルトはこのエクリチュールの零度の地点を指し示すだけで、それ以降この思想を展開することはなかったらしい。
結論から述べると、この「エクリチュールの零度」は良い内容も含んでいる。講義、もしくはゼミにおける文章を対象とする論議のテクストとして使用するのが良いであろう。フランス文学の文体論ともいえるし、哲学的な言語論も含んでいるとも言える。でも何かが欠けている。それはブランショにも言えることであるが、この零度を超えることである。そもそもこの零度なる地点を超えることができるのだろうか。このことから始まって、小説は何を描くことができるかを論じることである。小説ではなくて詩こそが描き切ることができるのだろうか。この辺りはブランショの「文学空間」や「来たるべき書物」にも書かれているが、ブランショは結局マラルメの詩を掲載して最後に若干の結論らしきものを述べていただけのはずである。
ここでは、こうした論点とその後の展開を論じたりはしない。ただ、エクリチュールの零度なる地点は行き止まりの地点であるのか、行き止まりであればその後の展開を図ることができるのか、もし展開できるとすれば何を指し示すことになるのかが大切なこととなる。それには、まず「エクリチュールの零度」が何を述べているのか、理解しなければならない。本書の思想には大いに賛同することは確かである。ただ、他の文章論、無論、哲学的な創造と破壊を通じた文学論、精神病の治癒や内容と形式論も含んだ文学論も加えなければならないだろう。言語論は当然必要であるが、言語の本質や構造論であることが望ましいが、これを加えて論点が発散するのだけは避けなければならない。いずれにせよ、本書はなにかしらの核を含んでいるのは確かなのである。
本書の内容を簡単に紹介したい。文学とは言語の問題となっているのであり、言語体(ラング)を踏襲して、著作家が文体(スタイル)を作り出すことである。言語体とはある時代のすべての著作家に共通の規則や慣習の集合体である。文体は著作家の物であり、彼の栄光にして牢獄であり孤立性でもある。こうした言語体とか文体は時代や個人の自然的な所産である。けれども著作家の形式上の独自性はエクリチュールによってもたらされる。エクリチュールとは、バルトの文章を引用すると『本質的に形式のモラルであり、著作家が自分の言語の自然をそのただなかに位置づけようと決心するところの社会的な領域の選択なのである』つまり著作家が歴史的な連帯の行為によって、自分の形式の選び取るアンガージュなのである。言語体は文学の手前にあり、文体は彼方にあることになる。更にバルトは、エクリチュールとは両義的な現実であり、著作家と彼の社会との対決から生まれるが、自由に消費できる言語を提供できないために、著作家を創造の原点へと送り返すのだとも述べている。以上、簡単に書いたが分かりにくく、本書の末尾に掲載されているモーリス・ブランショが著した短文「零地点の探求」を読むと理解しやすい。また林好雄の「解説」も簡明で分かり良い。なお、エクリチュールはバルトによって見詰める客体であったものが、それが作る客体となり、最後に殺戮の客体となっている。作り上げたものは壊さなければならないのである。こんにち、最終的に変身して、もはや非在に到達しており、エクリチュールの零度なる中性的な地点にいるのである。こうした言い方は格好良いが、先にも述べたように、もっと構造論的なエクリチュールの解明が必要である。
バルトはフローベール、カミュ、マラルメ、プルースト、サルトルなどを引用してエクリチュール論を述べている。このエクリチュール論は政治的、小説、詩的などに分けられている。更に革命や沈黙をテーマにして述べている。印象的な一つの文章を引用すると、『マラルメの努力の全体は、言語の破壊に向けられたのであって、文学というものは、いわばその死骸にほかならないようなものなのだ』と言っている。ただ、本書の著作の後、バルトはこのエクリチュールという思想を放棄したように見えると訳者は述べ、その理由を示している。
言語も含めて文学を論じることはとても難しい。ブランショは文学とは中性的な経験そのものであると述べている。中性的とは、言い話すことを止めることができず、聞き取ることもできないサミュエル・ベケットの著述がこの地点を予感させるという。ただ、私の意見は、言語が文章も含めて明確に何かを指し示すことはできないけれど、それらの集合としての総体は感じ取ることを可能にするということである。連なっている文字の肌に触れて感性的な思いを浮かべることができる。この接触の奥行きに現実があり、歴史が繋がっているのである。エクリチュールは殺戮の対象であり、中性化に陥ろうともまだ生きていて伝えることができる、まさに生き物なのである、この肌との接触感こそが文学である。従って殺戮も中性化も正しい捕らえ方ではなくて、零度の地点とは死骸とは異なった撫で擦することのできる、生きて横たわった女の柔肌の内にあると言えよう。従って、零度ではなくて確かに感じ取れる、生きている地点と言うことができるのである。
以上
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2019年2月8日(金) |
題:ミシュレ著 篠田浩一郎訳「魔女(上)」を読んで |
以前、魔女に関する本を読んだことがある。誰が書いたのかも含めてもう殆ど忘れているが、残忍性を具現する道具と残忍性を渇望する群衆たちとを書いた猟奇的な本だったのかもしれない。本書もこうした本の類いかと思っていたら全然異なっていた。ミシュレは歴史を紐解き何世紀にもわたる魔女の姿を、魔女を生み出した歴史的背景の記述を含めて、一人の名の無き女の具体的な生きざまを魔女として描き切っているのである。どうも「魔女(上)」はこの具象化した女、むしろ抽象化した魔女なる女と呼んだ方が良いのかもしれないが、「魔女(下)」では四つの魔女裁判を通じて魔女の姿を書いているらしい。従って、本書は上下で別個の本として感想文を書くことにする。
この「魔女(上)」は第一の書と呼び、十二章からなる。魔女が生み出された歴史的経緯と魔女なる女の苦悩と思い切って取る行動が書かれている。この描写には不明な文章もあるが、生き生きとした魔女の姿が描かれている。まるでミシュレ自身が歴史を紐解き、魔女に寄り添っているように、リズムよく魔女が本書の内を疾走していくのである。なお、ミシュレは1834年にソルボン大学の正教授となっている。そして歴史学教授から歴史家となる。1789年のフランス革命とは異なった1830年の革命における民衆の力を彼は目の当たりにして、歴史と革命における担い手としての民衆を歴史の主役として語ることになるのである。この辺りは篠田浩一郎の解説に記されている。
本書の十二章は順を追って書かれている。簡単に紹介したい。なお、序の章ではミシュレの魔女を描いた経緯と魔女の効用を、歴史を含み誇り高き詩的な文章で記述している。
さて「自然」という異教の神々はこの世にうんざりして死に、これはギリシアの神々であると思われるが、悪霊として自然の中に薄暗い森の中に住み着いている。キリスト教はこの悪魔どもを神殿や祭壇や家のなかに追求して、祝宴を禁じ家族を疑う。キリスト教はもはや修道僧の支配するところとなっているのである。もはや司祭は領主であり王侯である。民衆は哀れな動物であり、舌など持たないキリストの神の言うことを聞きたいとも思わない。でも教会はふたたび来るように強く要求する。そして協会は野蛮な悪霊を前にしては祭壇を守れぬと言うのである。結局、民衆は農奴にされる。中世おいては自由な人間、即ち身分の定かでない自由に生きる人間は領主の奉公人の家来に、農奴の奉公人にとなって縛り付けられる。そして病原菌なる死の手によって魂になる。この農奴と自由な人間の二つこそが中世を悪魔に身を委ねさせることになるのである。
中世初期には囲炉裏端に小さな悪霊とも言える精霊がいる。自分の家にいるこの女たちに語り伝えられる、もはやこの家にいる精霊たちの物語がある。女たちがローマ教会に非難を浴びせられると、精霊たちが秘密を聞いてくれる。だが、女たちはお城からの自分たちの境遇に対する仕打ちに恐れおののいている。領主たちは他の領土への放火や略奪を楽しみがなくなり、臣下に恐ろしい振る舞いをしている。こうした臣下を鎮めるために解き放つと、家族、特に女たちに凌辱の行為が行われる。そして、初夜権が要求され若い夫は妻をお城に連れて行くのである。また、夫の留守の間にも辱めを受ける。すると悪霊は夫に権勢を持たせ金持ちにすると言い女の魂を誘惑する。すると女は悪霊と一緒になって夫を救いたいと言うのである。
すべての者が絶望している時代に、精霊と言うより悪霊の取り付いた女は小麦を売って金を得ることができる。この金を夫はもはや収納代行人となって領主に納める。女の肉体と魂の悪魔とのやり取りと葛藤、そして領主以上に過酷な奥方の夫への残虐な仕打ちがある。何事にも打ちのめされた女は自然の植物に自らを例えて嘆き、もはや国一帯に君臨できることを約束し悪魔と契約する。女はこの世界の女王となり、自然のもたらす自由の歓びを味わうことができる。サタンは女の手に知識と自然の成果を委ねるのである。人間と自然は再開し、だが、これは恐ろしい鞭打ちである。癩病と梅毒との二つが荒れ狂うのである。人々は女の元に、もはや人里離れた魔女の家に救いを求めてやってくる。魔女は植物を持って処方する。医業を行うのである。野蛮な魔女こそが女に生きる力を与えるのである。
サタンの恋人なる魔女は魔薬と媚薬とを処方する。婦人の色欲と小娘の流産の望みとを叶えてやる。もはや閉ざされていたはずの城の門はサタンのために開かれている。女は村に君臨してお城のものどもがやって来て言いなりになる。農奴とは夜の動物であり、魔女の夜宴として黒ミサが行われる。このサバトに女はいっさいの役割を果たす。司祭職を務め、祭壇そのものであり、聖パンでもある。サバトとは輪舞である。こうして群集は解放される。ただ、群衆は家族単位でやって来て近親相姦が行われる。だが、女たちは肉の快楽を求めて舞踏にやって来るのではなくて、苦痛しか見出さなかった。女たちは何でも受け入れて悲惨であり残酷でもあったのである。
こうして本書の内容を簡単ながら書いてみると、ミシュレの「魔女」なる作品が女を主人公にして歴史と物語とを混ぜた、文章も格調高い、素敵な作品であることが良く分かるのである。
以上
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2019年2月1日(金) |
題:ジェームズ・ジョイス著 柳瀬尚紀訳「ダブリナーズ」を読んで |
ジェームズ・ジョイスには泣かされる。何度挑戦した事か。読みたくても読めないのである。本書は「ダブリン市民」として有名である。最初の老人の死を描いた「姉妹」は暗くて動きが少なくかつ幾分陰鬱であり、どうしても途中で読むのを止めてしまう。本書は文庫本であるが、もっと高価な本も購入している。高松雄一訳「ダブリン市民」である。必ず全編を読み通すと念じて、両者の文章を比較すると幾分高松雄一訳「ダブリン市民」の方が優れている。ただ、ベッドに横になって読むので、「ダブリン市民」の厚いA5版の本は疲れる。そこで、文庫本の「ダブリナーズ」に変える。それほど支障があるわけではない。どちらともジョイスの心理描写を極力排し写実的な、幾分硬直した文章には変わりがない。「ダブリナーズ」と「ダブリン市民」を読んだ感想は、この硬直したダブリンの人間と風景を描くジョイスの文章の特異性である。すると、高松雄一訳「ダブリン市民」では、やはりこの文体に関心を抱いていて解説を行っているのである。感想文を書くにあたって、大いに参考になる。
なぜ、ジェームズ・ジョイスを読みたいかと言うと、同じくダブリンに住み英語で書いていた作家サミュエル・ベケット、彼は後にフランスに移りフランス語にて小説を書くようになるのだが、このベケットへの小説への影響を知るためである。結論から言うと、同じダブリンに住んでいたという以外、ジョイスのアシスタントをしていたという以外、作品についてはベケットの日常生活の描写に多少影響を与えているかもしれないという推測以外何も見当たらなかった。公園やベンチが使用されている、風景の付属物が共通しているだけである。無論、ベケットは極度に現実や風景を歪曲するためにもう少し共通している点があるのかもしれない。文章はまるで異なる。小気味よく繰り返し語り続けるベケットの文章とは全く異なるのである。ジョイスは先に述べたように幾分ぎくしゃくした硬い文章である。ただダブリンへの精神的な感度は似ているかもしれない。もしや、ベケットがダブリンを抜け出したのは、この陰鬱なダブリンから、不条理に胸をナイフで刺されたダブリンから抜け出したいとの思いだけだったのかもしれない。そして、ベケットは英語を捨てフランス語で小説を書くようになる。無論、自ら英語への翻訳も行うのだが。やはり「ユリシーズ」を読んでみないとジョイスのベッケトへの影響は良く分からないのかもしれない。
さて、「ダブリナーズ」であるが、15の短編からなる。この中で印象に残ったのは少年に影響を与える神父の死とその死を話している年老いた姉妹を描いた「姉妹」、船乗りの恋人ができて町を出る約束をするが結局は行かない娘を描いた「エヴリン」、出世した幼なじみと会う「小さな雲」、愛を受け入れるように懇願した女を拒絶した、その女の痛ましい死亡事故を新聞で知る男を描いた「痛ましい事故」などである。叙事的な文体にほんの少しばかり抒情を忍ばせて、ダブリン市民の日常の生活と風景とを描いている作品群である。
高松雄一の解説「ジョイスの両義的リアリズムとダブリン市民」には結構的確にジョイスと彼の作品について述べている。登場人物の年齢の暗示や叙述の欠落からくる曖昧さの両義的な解釈を可能にすること。例えば、「エヴリン」は娘の愛の願いが消えた悲しい話なのか、女たらしの男から逃れた運のよい話なのか、両義的に解釈できると述べている。なるほど、読んでいると娘は男を愛しているかも定かではないし、町から脱出したいと望んでいても絶対的ではないのである。またジョイスの見た市民たちの生態についてそれなりに解説している。「ダブリン市民」とは都会の人々を書いた風俗小説なのである。
高松雄一はジョイスが「ダブリン市民」のリアリズムを通して、ユリシーズで新しい表現方法(意識の流れ、神話的手法)をこなしたと指摘すると同時に、この「ダブリン市民」をジョイスが「細心の卑小な文体」と述べていることを解説している。この文体とはリアリズム作家の信奉だけでなく、写実のしかた技法そのもの対する唯美主義、芸術至上主義なのである。別の言い方をすればジョイスの散文は説明をしないということ。ジョイスのリアリズムは場面の細部描写や人物の心理分析は数多く見受けられるが、何もが明らかになるのではない。欠落を内蔵するリアリズムであると説明している。なるほど細心に描写しながら欠落させる卑小な文体と言っているのだろう。こうして解説は詩人のエズラ・パウンドのモダニズムが言う中核思想としての記述すべき描写と捨てるべき描写の選別の資質をジョイスの内に見出しているのである。「事物を直接に扱うこと」、「知的情緒的融合」、「時空の限界からの解放感」なるパウンドの言葉を用いて文の論理構造を消去し断片の集積に凝縮するパウンドの手法が、ジョイスの手法と類似していると結論づけている。
なるほどそういうことだったのかとおおよそ納得する。ジョイスの読めない理由が分かった。これに付け加えるならば、場面の描写の機械的なぎこちなさや心理描写の希薄な会話も付け加えなければならないだろう。どうにも小説作品には性にあうものとあわないものがある。
以上
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2019年1月25日(金) |
題:最果タヒ著 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を読んで |
著者の小説「星か獣になる季節」はとても良かったと記憶している。本書も映画化になったとのことで読むことにした。ところが、小説ではなくて詩である。なんて馬鹿なんだろう、映画化は小説をもとにして行われるとの先入観に支配されていたのである。それにしても映画の製作者はイマジネーションに富んだ人なのだろう。著者の詩は「グッドモーニング」と「死んでしまう系のぼくらに」を読んでいる。「グッドモーニング」は怒りに満ちていて良かったが、「死んでしまう系のぼくらに」は端的に言うと軽質な詩である。無論、言語感覚は鋭くて良い文章も結構あるのだが、言葉を流した軽さを表層として描いている。詩人の本質は幾分謎に包まれていたけれど、怒りは消失してしまい、軽さの表面から意味のある深部に降りて行かないのである。
本書「夜空はいつでも最高密度の青色だ」も「死んでしまう系のぼくらに」と同じことが言える。ただ、一つ違うことは、縦書きの長めの詩は良い。この長めの詩は稀有な才能を感じさせる。でも、横書きの短めの詩が在り来たりで単に言葉を綴ったとしか言えない。この本を読む前にレヴィナス著の「存在の彼方」へを読んでいることが影響しているのかもしれない。「存在の彼方」は哲学書でありながら、とても長い永遠に続くかと思われる長編詩とも言える。この本を読んで圧倒されているところに、「夜空はいつでも最高密度の青色だ」も読んでも釣り合いは取れない。なお、本書は44編の詩からなり、その中で、7、8編が良かった思う。そのなかでも「夏」、「聖者のとなりにはいつも狂者がいる」が良かったと思う。激しい怒りに満ちているためである。なぜ、こうした激しい怒りの詩を著者は書かないのだろうか。怒りの詩で思い出すのはランボーであるが、著者はもうランボーのような人生の反抗期を過ぎ越してしまったのであろうか。
著者の多く使用する単語「愛」、「孤独」、「きみ」「わたし」、「暴力」、「星」などの単語を拾って「集中化と拡散」、「粘着質と静音化」、「無化作用の意味」、「暴力性の隠ぺい」、「抽象化の変質」、「リリシズムの涙」などと題して論評も可能であるが、著者の表す意味の深部を理解できないために止める。もしや著者は憂愁や悲哀や孤独な潔癖性に、暴力的な残酷さを織り交ぜて意味のある言葉を使用し、意味の表層を語っているだけなのかもしれない。もし無意味の意味を語ろうとするなら、意味のある言葉と文章を、否定し打ち消して抹消する文章も加えて記述しなければならない。この付加されるべき文章がなくて、単に意味を含んだ言葉で綴られているために表層を描いた軽質な詩に見えるのかもしれない。「あとがき」にレンズのような詩、あなたの中にあったものをあなた自らに見せる詩を書きたいと言っていたが、わたしの裸の言葉を見せることであなたに共感して、もしくは拒絶してもらう詩を書きたいと言っているのだろうか。わたしの裸の言葉そのものが鏡になってあなたを映すことができることも確かなのである。
これ以上長く書くことはせずに著者の詩を読んで感じたことを簡単に箇条書きにしたい。そして、レンズのようではない不透明なとても泥臭い即席に作った詩を紹介したい。私はまだ反抗期にいて何事にも反抗したいのである。これは「聖者のとなりにはいつも狂者がいる」をもじったものである。なお、著者の詩を読んだ感想を箇条書きにすると以下のようなものになる。
1) 言語への信頼性がある。言語の全体が意味を持ち伝えることができると信じている。そして、確かに何かしら伝わってくる。
2) この言語は表層を表す静的なものである。白石かずこのような動的なものではない。波動力学的な躍動感を持たない。谷川俊太郎のような軽質な配置転換的な性質を持っている。実はこの表層の静的な言語が深層を覗かせて、谷川俊太郎とは異なって深層があることを指し示している。
3) 静的な詩が逃げるのではなくて生を責めている。生を責めて追い詰めようとする。言語の全体が肉体を失せさせ、魂の内なる形相を表そうとする。でも、魂の内なる形相の意味を表そうと言葉が懸命にもがくほど、著者が意識しているかどうか分からないが無意味性が明らかになる。
4) 魂の内なる時間と空間が歪であり抒情を含んでいても、無意味性が明らかになろうとも、著者の文章はそのためにこそ、むしろ正統な叙事として魂の軌跡を的確に表すことができる能力を持っている。ただ、その能力は秘められたままでまだ表れていない。
5) きっと心の叙事的な叙事詩、それも長編詩が、もしくは小説形式こそが一番著者に適切な表現形式となる。つまり、魂の表層を長い文章で綴れば逆に無意味性が意味を持ち浮き上がってきて、読者により多くの感動と共感をもたらすことができる。
さて、泥臭い詩は次のようなものである。
あなたの背後には人魚がいる
性別も何もない、生きも死ぬもしない、死んでも生きている、亡霊のように格好よくはないが、あなたがまだベッドの上に寝っ転がっていたときに、ぼくは魔法瓶からピンク色の産湯を飲み込んで、溜め込んだ水量を、美しい概念のように、胃の底から搾り出した絵の具のように、意識の底に蠢いている泥水のように、嘔吐する血色のように優しく降り注ぎたいんだ、あなたにそうする夢を見ている。
庭先の木綿色に咲いた花はあなたの化身だろう、聖なるあなたの裸身が目に浮かぶ、どうもベッドは肉色をしてあなたを庭先に放り投げだしている。海の底から人魚が現れてきてあなたになりたいと望んでいる、人魚は庭先のベッドの土の中に眠る、いつも波音を聞きながら、人魚はあなたとなって眠っている。あなたが人魚なのではない、人魚があなたなのである。
ベッドから爽やかに唄う、セーレンのようなあなたは船員たちを虜にする、きっと土の中でも人魚が唄っているだろう。誰がどのように唄おうとも、船員たちは気もそぞろに人魚なるあなたの美しさに焦がれて、遠くから見詰めている。聖なるもの美しさは声の響きとなって水平線を超えて青い宙の彼方を超えて、どこに行くのだろうと考えることもできない遠くの果てへ届くのか、ぼくはただうっとりと聞いている。
どこにも誰もが70億人の人間も含めて庭先に押し寄せてくるのは午後の曳航、愛を捧げるために押し寄せてくるのは単語と数字の列、あなたは真昼の照り返しを受けながら仕分けをしている。肉と数字を土の中に埋めてあなたなる人魚が抱くと、忽ち溶解する粘液がこの地に流れて木綿色に咲いた花の栄養分となる。あなたはますます美しくなり声の響きがますます清廉さをまして、青い宙の彼方からも70億の70乗もの生き物がやって来る。
あなたはベッドに横たわりながら人魚にこれらの生き物を溶解させて青い宙の彼方を眺めている。ますます美しくなってますます清廉な歌声は誰をも魅惑しようとも、いつしかもう一人としてやって来ない日が来る。あなたは白いシーツの上で裸身をくねらせながら蕩けた肉と数字の孤独な列を指で掬っている。舐めると淫猥な味がする、あなたの淫らな指をぼくが舐めてあなたを唄わせたい、けれどあなたはくねって寝返りを打つだけである。
ぼくが居ることに気付いていない、あなたは曳航の終わりの訪れを知ってか、土の中に誂えたベッドの中で眠ろうとする。聖なるあなたを人魚と一緒に抱き締めたい。ぼくは愛しているのである。でも、あなたはもはやこの青い宙には誰も居ないことを知って、ぼくがこの庭から覗いていることも知らない。虫けらやミミズとしてでもベッドの傍にいたい。でもあなたはもはや背後の人魚を抱いて粘液の海に浮かんでいる。
もう眠る時刻であるのだろう、粘質の海は人魚なるあなたを果てのない彼方に運んで、眠りの中に偽りの着衣を身につけさせて、そうして少しずつ剥いでいる。あなたの意味を無意味さも明らかにするために偽りを剥いで素裸にすると、人魚は脚を出すのだろうか。あなたの脚は美しくて、隠しておくのはもったいない。もう唄わずに声は漏れずに静けさだけがあり、白く艶やかな脚が一本ベッドに投げ出されている。
読み直してみると、やはり泥臭いしあまり良くない。あなたと人魚の諸関係が描き切れていないし、生き物の表現も不分明である。反抗とは難しいものである。
以上
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2019年1月18日(金) |
題:E・レヴィナス著 合田正人訳「存在の彼方へ」を読んで |
E・レヴィナスの著作は「全体性と無限」と「実存から実存者」を読んだことがある。「全体性と無限」は、存在論は関心を持たせたが、他者なる者への志向が良く分からず後半はうやむやにして読み終えている。「実存から実存者」は存在を論じていてとても良かったと思っている。今回「存在の彼方へ」へを読んだのはレヴィナスの思想を確かめるためである。結論から先に言うと、本書は存在論から存在の彼方なる他者論を包括的に論じていてとても良い本である。もはや哲学書と言うより長編詩である。ただ、他者に向けた思想は良く分からない。というよりレビィナスが抱えている他者問題の奥底が見えてきても、なぜ一者が他者に責任を負わなければなければならないのか、それなりに理解できても納得はできないのである。無論、これには各個人が背負っている経験に基づいた問題があるのだろう。それはレヴィナスの存在論を受け入れることができるかどうかの問題であり、論理として反駁できるかどうかにかかっている。でも、まあ、無理に反駁などせずに、本書の内容を簡単に紹介したい。他者が私を成り立たせていることは事実であり、この成り立たせている関係性の論理と倫理性の密度や深度が問題となる。なお、できるだけ長くなるのを避けて本書の内容を簡単に紹介したい。
レヴィナスの文章は難解である。一度読んだだけで細部まで分かるはずなどない。ただ、言おうとしていることが論理的と言うよりも詩的に感覚的に響き伝わってくる。このことはまず言っておきたい。また、最近の哲学には他者が自己を成り立たせているなど、他者と自己との関係性を論じているものが多い。それに、存在論としてはサルトルの用いた「即自」、「対自」、「対他」存在と言う言葉が使われることも多い。レヴィナスも用いている。そしてレヴィナスはこの他者の論理、倫理構造にさまざまな観点から深みを入れて探っていくのである。無論、「存在の彼方」とは他者のことであると言っていい。こうしてレヴィナスは「梗概」として、第一章「存在することと内存在性からの超脱」なる序論にて本書の全体を記述している。初めて読むと良く分からない言葉や思想がでてくる。でも、「論述」として、第二章「志向性から感受することへ」、第三章「感受性と近さ」、第四章「身代わり」、第五章「主体性と無限」、「別の仕方で言うなら」として第六章「外へ」を読むと言いたいことがなんとなく分かってくる。レヴィナスは本書を論理的に記述し展開しているのである。
そこで内容の紹介としては、第一章「存在することと内存在性からの超脱」からキーポイントとなる思想を表す言葉を取り上げて示したい。長くなるのを避けるために、第二章以降に記述されている文章内容はできる限り示さずに、また取り上げる言葉は少なくしたい。無論、解釈は私の解釈である。さて、「内存在性」とは存在の内に存在する努力・傾動や利害であり、存在することの固執として遂行される。この内存在性からの超脱こそが求められるものであり、他に向かわせる。著者の存在論に言語は重要な要素である。語ることとは言語を要求し陳述することである。存在、存在の認識、語られたことは、この語ることのうちで意味する。そして語られたことにおいて存在は現出し、かつ存在の認識の誕生と存在からの逸脱の両義性を持つことになる。なお、存在の逸脱とは存在を存在させることとしての主題の外に他なる者の存在があることで、簡単に言い換えれば、語られることによって他も含めて存在が現出できるのである。この語る、語られるは全編を通じて変奏し深みを加えて述べられている。では、語られることがなぜ存在を現出できるのか。それは語ることが一者と他者との接近であり、語られることによってこれらの近接した存在が露わになるためである。
「主体性」とは他のものが存在する故に存在することを拒む自己自身としての主体性である。このため自我は類の共通性や形式の共通性から放逐されて、自我は自己に休らうことも自己と合致することもできない。こうして著者は、私は他者に対して責任を負うと述べている。他人のために「身代わり」になるというのである。他人のために身代わりになる一者はこのことによって意味を持つ。こうして身代わりになる主体は自らに同じくなることができずに、感応性や可傷性としての感受性を持っているのである。こうしてみると、本節の冒頭で述べられていた「存在とは他なるものへ過ぎ越すこと」の曖昧な文章が輪郭を持って浮き彫りになる。他者こそが彼方であり、超越とは他へ向かうのではなくて、もはや他を愛しむ以上に他に責任を背負うことである。
二章以降の「論述」では、もはや記述は簡単にしたいが、時間と想起との絡み、隔時性という隔たりを持ち連続する時間や瞬間との存在との関係性、近さとしての顔、主体性と無限などについて論じている。主体性と無限では、無限者に絡んだ主体について正義なる倫理などを含んで論じられている。こうしてみると、フッサールとハイデガーに学んだレヴィナスの他者論とは倫理的な側面を前面に押し出した思想であると言えよう。何と言っても全体主義的な暴力性の排除である。他者に関する思想内容は納得しがたい面も多々あるが、哲学書としてよりも詩的散文として読むととても面白いしとても良いのである。でも、哲学の思想としての評価は難しいかもしれない。良く分からない。やはり「実存から実存者」の方が分かり良い。でも、実存は他者がいるからこそ成り立っているのも確かなのである。
以上
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2019年1月11日(金) |
題:コレット著 河野万里子訳「青い麦」を読んで |
本書は少年と少女と言っていい、若い二人の恋の物語である。ただ、三島由紀夫の「潮騒」のような純愛小説でありながら、より具体的な肉感性を持たせている。著者の感性豊かな詩的な文章が彩りを添えて、大人へ脱皮しようとする二人の愛と齟齬と葛藤を描いていて読んでいて心が惹かれる良い作品である。ただ心理小説ではない、心理的にはどこか腑に落ちない点があって惜しまれる。フランス文学には珍しい青春の恋物語なのである。
あらすじを紹介したい。裏表紙には『毎年、幼馴染のフィリップとヴァンカは、夏をブルターニュの海辺で過ごす。だが、16歳と15歳になった今年はどこかもどかしい。互いに異性として意識し始めた二人の関係はぎくしゃくしている。そこへ現れた年上の美しい女性の存在が、二人の間に影を落とす・・。』と書いてある。これ以上述べない方が良いのかもしれないが、ヴァンカはフィリップと崖で一緒の時、死のうと意志し落ちようとする。でも、フィリップは救い出し二人はそれまでと同じように仲良く海辺などで遊んでいる。ある時フィリップはマダム・グルレイと知り合い誘惑されるまま関係を結ぶ。こうしてフィリップの苦悩が始まる。彼はグルレイとの関係に魅惑されながらもヴァンカが好きなのである。ヴァンカは何もかも知っていて、二人きりの時、フィリップに関係を迫り、そして二人は結ばれる。次の日ベランダでハミングし歌うヴァンカを見て、その無傷な姿にフィリップは驚く。なぜなら彼は初めて知ったことが、雷みたいな激しさで彼を貫いていたからである。生まれ変わる衝撃を感じたのに、ヴァンカは微笑みを浮かべている。でも、ヴァンカが何週間後に罪の意識に怯えて泣くかもしれないことは誰も知らない。
「解説」で鹿島茂がコレットなる作家の紹介とフランス文学における恋愛小説について書いている。コレットは珍しい経歴を持っているようだが省略する。フランス文学における恋愛小説は不倫小説であるとのこと。この「青い麦」のような青春恋愛小説は初めての作品であるとのこと。なぜなら、フランスの上流社会の夫婦は、妻が若い男を一人前の男として育て、夫は召使の女などを囲うのが多いらしい。日本とは違ってそういう恋愛事情が慣例としてあるらしい。フランスでは若い娘が財産的に値打ちを持ち、修道院に入れて純潔を守ろうとすることが、青春の盛りの男女の恋愛小説を少なくしているとのこと。なお、フランスでは未婚出生率が極端に多かったと何かの作品を読んだ時に記憶しているが、同棲が多いためであるらしい。未婚の出生が手厚く保護されているなど、社会制度が関連している。こうした社会制度と恋愛事情との関連は難しいために記述は省略したい。
今まで読んできた、記憶の薄れた作品もあるが、バルザック「谷間の百合」、スタンダールの「赤と黒」、フローベールの「感情教育」などなどは、こうしたフランスの不倫小説に入る。日本でも不倫小説はたくさんあるはずで、夏目漱石の「それから」、三島由紀夫の「美徳のよろめき」、大岡昇平の「武蔵野夫人」などなど、何と言っても「源氏物語」がある。不倫が小説の題材になるのは人間の境地の境界を示しているためであろう。不倫小説を論じることなど困難を極めるが、若干の感想のみを示したい。フローベールの「ボヴァリー夫人」が不倫の破滅型なら同じくフローベールの「感情教育」は切ない郷愁となっている。これは作者の心境の変化を表している。「美徳のよろめき」は境界のない無害の不倫で、「武蔵野夫人」は無害ながら人間の境界に近づこうとしている。でも、境界は示唆されるだけである。「谷間の百合」や「源氏物語」は不倫を下地にしながら物語そのものの持つ構成力がとてつもなく魅力的である。「それから」は葛藤しながらも生への高揚感が含まれている稀有な作品である。
こうしてみると不倫小説も青春恋愛小説もまず魅力的な文章で、揺れる苦悩と葛藤の心理描写が的を射て描いていなければならない。他の小説に求められるのと同様の質の高さが要求される。なお、不倫の心理に葛藤として罪と悪が含まれていれば凡作になる可能性が高い。結末がどうであれ、ほとばしり出る情熱こそが描かれなければならないだろう。こうしてみると本「青い麦」なる作品は魅力ある文章であるが、どちらかというと無害の部類に入る。最後に言い添えれば、不倫なるものが人間の境地を示しているかには、今日はなはだ疑問がある。違うことの方が境地を示せるはずで、むしろこの違う事柄の方が望ましくもある。もはや不倫は人間の境地を描くにはありきたりになり過ぎている。でも、魅力的な出来事ではある。
以上
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2019年1月4日(金) |
題:ジャン・ジュネ著 朝吹三吉訳「泥棒日記」を読んで |
ジャン・ジュネは読んでいるかどうか分からない。この「泥棒日記」を読んでみるときっと一度も読んでいない。初めての文体のためである。ジャン・ジュネについては結構評論家が論じている。なるほど論じたくなるような魅力的かつ表現力豊かな文章である。他者と多くの交際を持ちながら、その関係性はどこか空疎で痛々しい、というより利害関係が主である。感情や罪に愛などについて語りながらいつも孤独と猜疑心に苛まれている。無論、本書「泥棒日記」と題名されているから、日記であり、思い出話を綴っている。時間軸に沿った他者との軋轢などの関係性が主であり、加えて泥棒なる出来事や男との性的な関係が記述されている。著者は本書の中で泥棒、男色、裏切りを書いていると言っているからその通りなのだろう。ただ、性的行為な描写は殆どなくて、泥棒も付け足しの出来事であり、裏切りもありふれた人間関係の破たんである。
サルトルの「ジャン・ジュネ論」は読んではいない。ジョルジュ・バタイユのジュネ論を少しばかり知っている。その時の感想文を次に示したい。『ここで注目したいのは、文学は霊的交通の戯れであるとする観点である。人類とは孤独ではない諸存在の霊的交通によって成立する。弱い意味での霊的交通とは夜と等価値であり、散文的な意志の伝達がむなしいものとあきらかにされる時に起きる。もう一方、諸客体の世界が対立して不可能的なものとして存在する主体性が万人に共通であると直感すると、自分の態度と行動とを自分の同胞たちのそれとが交通できるのである。この二種類の霊的な交通の判別は難しい。ただ、実存とはさまざまな意識の多様性とそれらの霊的交通の可能性のうちに明らかにされ、至高性とはつねにこの霊的な交通である。この霊的交通もしくは至高性とは、諸禁制によって限界づけられている生の枠内で与えられている。霊的交通とはわたしたちが悪、即ち禁制への侵害に結びついて、侵害へ走るというただひとつの条件でしか実現されない。ジュネの文学は悪を至高性としながらも孤独に身を置き、他者と実在するものが茫漠として無縁なものであるため、霊的交通を拒否している。即ち、自分自身に事物の存在性を付与する、即自的な存在であり、自分の実体を「石化させる」ことを欲したのだとバタイユは指摘する』
少し言い足りないので捕捉するが、霊的交通は禁制への侵害によって実現できる、ただ、この侵害は人間が実存的であることを前提としている。人間は即自的な存在ではない、対自的な存在、対他的な存在である。即ち、即自的な存在が霊的な交流を行うことができるはずがない。ジュネは「石化させる」ことを欲して即自的であり交流を閉じていると主張している。なお、本書の訳者、朝吹三吉の「解説」でサルトルのジュネ論を少し紹介しているが、その論旨は、ジュネは泥棒として語り、社会から除外され自己を奪われた少年ジュネが倫理的悲惨、汚醜そのものを高貴さとすることによって、「悪の中の聖性」によって自己救済を行っていると述べている。そして、訳者はそれを言辞によって実現できて、つまり小説を書くことで救済され、その後劇作家として第二の文学キャリアの道を進むことができたと述べている。
私はバタイユの主張よりもサルトルの主張に共感を覚える。バタイユは悪と禁制を結び付けて自らの思想を礎に論旨を展開している。ジュネは「石化させる」ことを望んだのではない。本書のリュシュアンとの盗みや肉体的接触を描いている時(236頁前後の数十頁)、それまでの無色な行動と感情を表していた文章が感情に波打ち抒情に満ち溢れている。この文章を読むと、ジュネは石化からの脱出を、確かな愛を望んでいたのである。ただ、それができなかった。本書は豊穣とも言える詩的な取り留めもない文章によって、行為と感情が表層を描いて軽質化させている言えよう、ただ、その奥底には秘めた望みが隠されている。その望みとはサルトルが述べる自己救済、自己回復に他ならない。ただ、それは作家ジュネの視点からの見立てであり、作品としては別の意味を持つ。それは心と体の表層を描いていて核心に触れることがない、存在や愛が偽物であると突きつけていることである。本書の価値つけや重みとは、こうした現代にとっても主テーマになっている虚偽、即ち深さのない表層の問題を描いていることにある。
文学作品はきっと自己救済を諦め「石化させる」作品へと、またはその逆の自己の回復へと向かわせる作品との二つの潮流がある。即ち、表層の心を文体にてそのまま描くこと、表層の心の内側を撫でて熱き鼓動に触れる文体で描くこと、この二つが潮流の特徴であり区別である。
以上
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