2016年12月30日(金) |
題:スピノザ著 畠中尚志訳「国家論」を読んで |
スピノザの著作物「知性改善論」、「エチカ」、「神学・政治論」は既に読んでいる。ともかくスピノザの著作物は少ない、残りは本書「国家論」や「デカルトの哲学原理」や「形而上学思想」、それに加えて「往復書簡集」しかない。それなら、全集でも購入して、気長に読み進めるしかない。本書「国家論」は「神学・政治論」にその思想的な礎がある。最初に断っておくが、本書は未完である。民主制を論じ始めたところで、スピノザは肺の病のため44歳で没する。ただ、思想の流れは一貫していて、補い読むことはできるはずである。それにしてもスピノザの文章は、本書において簡明度も素朴な美しさも最高潮に達している。本書は11章からなる。まとめれば、「序論」、「自然権」、「国家の権利」、「最高権力の書簡事項」、「国家の目的」、そして三つの国家体制「君主国家」、「貴族国家」、「民主国家」から構成されている。
「神学・政治論」について記述していた感想文から引用すると、「神学・政治論」は副題に「聖書の批判と言論の自由」とあるように、モーゼを中心にした旧約聖書の徹底的な批判であり、抑圧されている言論の自由に対する徹底した抗議なのである。下巻では初め旧約聖書の具体的な事例について細部にこだわり論じているが、次第に佳境に入っていく。それは神、国家、個人、かつ自由について、最高権力や統治権に基づいて論じているけれど、主張の根幹が一切について自然権に基づき自由に思惟し、かつ判断する能力を他人に委譲すること、またこの委譲を強制されることはできないと強く言い切ることにある。この自然権は人間の力によってのみ決定される。この力の一部を委譲すれば権利も必然的に譲らなければならない力と権利との関係において、社会は形成可能なのである。即ち、各人が持つ力を社会に委譲する、この時、社会が最高の自然権、言い換えれば統治権を持つ民主制となる。即ち、社会が最高権利を有する最高権力となるのである。この「神学・政治論」の自然権、統治権の内容を展開したのが本書「国家論」である。
本書では、まず人間の本性から論じ始める。いかいにもスピノザらしい。「エチカ」に記述していたように人間は諸感情に従属するのである。理性はこの諸感情を抑制・調節できるが、理性のそのものの教える道の峻険さを指摘する。そして、個人の徳とは精神の自由であるが、国家の徳とは安全の確保にあると言い切っている。さて、自然状態において持つ各人の自然権は、共同の権利が認めるものを除くものであり、むしろ共同の意志が命じるところを遂行するように義務づけられるのである。この多数者の意志に規定される権利を通常統治権と呼び、この統治権は会議体によってなされるが、全民衆から成る時この統治を民主政治と呼ぶのである。若干の選ばれた人々からのみ行われる時には貴族政治と呼び、一人の手中にあるとき君主政治と呼ぶのである。そして国家の諸法律は理性の掟によって打ち立てる、国家のみが理性による道義を行うことができるためである。
国家とは最高権力である。この最高権力は、先に述べた多数者の力による自然権に他ならないのである。そして、スピノザの国家論の特徴は、国家が恐怖と尊敬を保持しなければならないことである。恐怖とは他国からの侵略であり、尊敬とは国家に対するものである。ただ、個人は自然状態と国家状態のどちらにおいても自己の本性の諸法則に従って行動し、かつ利益をはかることができる。国家そのものも罪を犯すことがあり、これは国家が国法に属さずに自然法の領域に属するためである。ただ、国家を構成する人間の本性上の諸感情に起因する怒り、妬み、憎しみなどばかりではなくて、贈収賄や縁故者を排除するために、スピノザはこの国家の統治機構の構造について、その階層的な人員構成や人数まで事細かに記述している。即ち、君主制、民主制においても会議体の設置を義務づけている。君主制ではこの会議体は各部族出身の顧問官により構成され、王の代理者としての性格が強いが、国家の権利が無制限に王に委ねられないような、即ち王も臣民も権利の保持と不幸を味会わぬことを礎とした組織である。顧問官の年齢制限や在職期間などについても定めている。貴族国家も最善者からなる会議体に諸基礎を置いている。その他、護法官などや最高会議体、元老院、執政官などについても述べている。また選挙、租税や土地制度など実務的なことも記述している。以下、国家形態の詳細についての記述は省略する。
こうしてみると、スピノザにとって国家とは自然状態と同様に、人間が自己の本性を諸法則によって行動しかつ自己の利益を図れるものとしたことが良く分かる。自己の安全を確保してこそ、自己の利益を図れるのである。自らの身を守ることに辛苦したスピノザにとって、こうした国家論が生まれたのは理想のためだったのだろうか。それとも、エチカにて示された諸感情に従属する人間の理性との兼ね合いにおいて、国家とは必然的に生まれ出るものだったのだろうか。きっと後者である。
以上
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2016年12月23日(金) |
題:鈴木真治著 「巨大数」を読んで |
新聞で紹介されていた本で、題名にひかれて読んでみた、それほど面白いわけではないけれども、相応に知識が得られる。でも、やはり少し説明不足の感がする。つまり、一般向けに面白く巨大数を解説しているわけでもないし、数学的に突っ込んで書いているわけでもない。ただ、歴史的に展開する巨大数の考え方を、簡明化して説明したいとは思っている。無論、相応に逸話なども盛り込み、話を面白くしようと努力している。その努力を買うのである。確かにその効果はある。そうであるけれども、やはり説明が不足していると思われる個所も、まだ加えるべき巨大数の話もあると思われる。やはり、100頁強の本では無理である。もっと、頁数が多いとたくさんのことが書けるはずである。どうしてこう頁数が少なくなったのか甚だ疑問である。だいぶ辛口に書いたが、数学に縁の無いものには、さっと眺めるだけで知らなかったことが、それなりの知識を得ることができたのは幸いである。無論、能力的に理解できないこともあるけれども、なるほど巨大数とはこういうことだと知ることができた本でもある。
本書の内容を事細かに記述するのは良くなくて、いや能力的にできなくて、少しばかり気に入った箇所や気に入らなかった箇所などを簡単に紹介したい。世界各地の古代における巨大数を紹介しているが、アルキメデスの宇宙空間を埋め尽くす砂の数は有名で、8×10^63とのこと。なお、「^」はべき乗を表している。仏教では劫や恒河沙などが有名である。知らなかったが、十万億佛国土や不可説不可転もあるとのこと。劫は囲碁に使われる用語で、本書では記述されていないが、囲碁にて全く同じ対局が現れるのは10^350に一回とのこと、ちなみに、将棋では、10^250、チェスでは10^150と聞いたことがある。即ち、これだけの数の異なった局数があることであり、同一の対局が現れるなど殆ど無い。なお、宇宙における原子の数は、現在、10^80程度と言われており、砂の総数と近いが、これらの対局数は途方もない数を表しているのである。なお、劫とは天人が薄衣で石を払い摩滅してもまだ終わらない時間でもあると述べていて、これは初めて知る。
面白いのは、ポアンカレの回帰定理に基づく回帰期間である。簡単に言えば質点系における運動は最初の運動状態の近い点に戻ってこなければならない。言い換えれば、宇宙の状態が最初の状態に戻ることでもある。永劫回帰時間でもある。これは劫年とも言われるとてもとても長い時間となる。指数表記が発明されても十分ではなくて、↑や→の記号も使われているとのことも初めて知る。なお、これらの記号の意味の説明も、ワープロも難しくて省略する。チューリングマシンそのものを表現する記述数と述べているが、これはマシンのいわば囲碁など同等の表現できる局面数を表しているのだろうか。Wordの実行ファイルの12MBのサイズが、無量大数よりも大きいととは何を意味しているのだろうか。実行過程の局面、いわば計算のバリエーションの数を言っているとも思われる。そして、π計算の記述数がたとえ巨大な有限であっても、πの無限の展開が行えるように、この巨大数が無限表現とも言い得ると述べている。それなら、コラムに加算無限など少、しは無限数について楽しむ記述していても良いとも思われる。
Amazonとのやり取りでの公開鍵方式RSAを著者は紹介していて、確かにRSAは巨大である。でも破られるのである。現在、TCP/IPの上層のSSLはTLSに移行しているが、コラムでこの暗号の脆弱性を、かつ究極の暗号についても触れて欲しいとも思われる。ただ、暗号に関して記述しようとすれば、ページ数の多い本となるため、本書で取り扱うのは難しいかもしれない。グットスタイン数列と酷似しているヒドラゲームは面白い。グットスタイン数列とは累乗の指数部をまた累乗で表すようなものであるらしい。それをヘラクレスとヒドラの戦いを例にして説明しているが、なかなか理解するのは難しい。ヒドラは分岐的に増殖していき、その根元を倒さなければ増殖は抑えられないらしいのである。なおヒドラとはクラゲ科の生き物である。こうしてみると何の分野においても、最初は理解するのに相応の骨折りが必要であり、その壁を越えれば少しは見通しが良くなるのだろうか。数学を理解できているか否かは、文学や哲学と異なってデジタル的に判別可能とも思われるが、きっと専門的には相応に理解した範囲のグレーゾーンがあるに違いない。乗り越えられなくともこのグレーゾーンの領域に入りたいが、即ち、少しは理解したいのである、ただ数学に縁の無いものには、ノンとデジタル的なビットのオンオフで明確に拒絶されるに違いない。そういう意味で本書は眺めているだけで、無理に数学的な根本から理解しようと努めない方が良いはずである。
なお、記述するのを忘れていたが、グーゴルとは10^100の数の単位とのことで、グーグル社の名前の由来になったらしい。
以上
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2016年12月16日(金) |
題:ヴェルター・ベンヤミン著 浅井健次郎編訳 三宅晶子・久保哲司・竹内博信・西村隆一訳「ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想」を読んで |
ベンヤミンの何かしらの著作物をずっと以前に読んで割りと良かったとの記憶があり、三分冊のうちから本書「エッセイの思想」を選んで読んでみることにした。結論を述べると、「エッセイの思想」が良く分からないというより、ベンヤミンの思想そのものになじめない。彼の話は論旨が流れていて軽質である。何を言いたいのか、もっと明確に述べるべきだと思われる。もしかしたら、私の知らない、馴染みのない人物がたくさん記述されていて、ベンヤミンの言うことが良く分からないのかもしれない。なお、文章は上手であると思う。
解説として、浅井健次郎がエッセイの思想について書いており、この感想文より、そちらを読む方が分かり良いはずである。浅井健次郎は、エッセイの思想は遠くの時代から受け継がれていたものとして、多数の人々の名前をあげているが、近年ではジンメル、青年期ルカーチ、エルンスト・ブロッホ、ルドルフ・カスナー、ベンヤミン、アドルノをあげている。最近ジンメルを読んだが、ジンメルの方が分かり良くて、感覚的にもあう。本書は23個のエッセイからなるが、どうも6個のブロックに分別されるらしい。
それにしても知っている作家が少ない。カフカは知っているとして、ドストエフスキーやジッド、ゲーテにポール・ヴァレリーは少し知っている。後は知らないたぶん作家たちである。知らなくとも読むことができるが、何を言いたいのか読んでも分からないために、次第に斜めにさえ読まなくなる。ではカフカについてどう述べているか紹介したいが、カフカの小説の所々を引用して、他の作家や自らの思いを絡めて一緒くたに記述しているだけのように思われる。偽りと罪、淫らな女たち、役所や家庭、一つの劇場としての作品、動物、身振りの詳細な描写などなどをキーワードに軽く流しているだけである。カフカについて評論はたくさん出版されている。結構読んでいるが、まとまりがない評論と思われる。単なる感想にしか過ぎないのである。それがエッセイであるのか、良く分からない。
ただ、「物語作家――ニコライ・レスコフの作品についての考察」の叙事詩と物語の比較や「翻訳者の使命」において、原作のこだまを呼び覚ますこととの主張はなるほどと思わせる。こうしてみると、「エッセイの思想」とは、エッセイそのものなる書き流し、つまり単純な随筆であるのか、少しは思想を含んでいるものか、それぞれ作家によって分かれるのであろう。また、読者それぞれの好みによっても異なるのであろう。本とのめぐり合わせも、とても運が左右していると痛感されられたのである。
以上
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2016年12月9日(金) |
題:ミシェル・フーコー著 中山元訳 「精神疾患とパーソナリティー」を読んで |
ミシェル・フーコーの著作物は「狂気の歴史」や「言葉と物」などを読んでいるがそれほど印象にはない。「狂気の歴史」の感想文では『狂気は広く一般社会に受け入れられていたが、歴史的にみて感化院などに阿呆、癩患者、貧困者などと共に隔離され消えてしまう。そしてそれが長く続くのである。狂気とは非理性の一部なのに理性の隅っこに小さくすわっていて、歴史的にもその意味合いは変遷し異なってくるのである。狂気と狂人の関係、精神や妄想や夢との関係、そして言語活動との関係などなどについてフーコーは語るのである』と簡単に書かれている。最近、精神疾患に関心を持っていて、フーコーにもこうした精神疾患に関する著作物があると知り読んだ本である。
中山元が「フーコーの初期――解説」にて、本書の内容以上を含めてフーコーの精神疾患に関する解説を行っているので、そちらを読んだ方がとても分かり良い。本書はフーコーの処女作であるとのこと。そして本書の第二部を書き直して「精神疾患と心理学」というタイトルで出版したとのこと。ただ、フーコーは本書を否認して「狂気の歴史」を処女作と言い続けていたこと。これら些細なこと以上に、精神疾患の分析を始めとしたフーコー哲学の取り組みとその内容、更にその後の哲学的展開の概略が書かれているためである。フーコーが「精神疾患と心理学」を処女作と認めなかったのは、本書の箇条書きにして柔らかに抒情性を含んだ文章そのものが彼の気に入らなかったのだろう。それほどフーコーの文章は硬くて長くて取り留めがなかった記憶がある。フーコーは良くは分からないが、情感の混じった文章を嫌い、硬質で一見論理性を保った外側だけの論理的な文章に固執しているのかもしれない。即ち、心の内部をさらけ出すのを嫌っているのである。
本書の構成は「序」、第一部「病の心理的学な次元」に三章、第二部「病の条件」に二章と結論がある。「序」では精神病理は、病理学的な思弁にあるのではない、人間自身の思索のうちにしか存在しないと明言している。即ち、後述するように精神疾患はこの世界に実存する人間そのものが世界との関係で引き起こされるものなのである。まず、フーコーは病理学について述べる。精神の病理学は抽象的なかつ人為的な「メタ病理学」から解放され、個人の心的な生において精神的な病が取りうる具体的な形態を探求し、その因果関係の全体を再構成すべきだと主張する。こうして、フロイトなどを取り上げ批判など行いながら、個人史の重要性を示して心的な防衛のメカニズムや不安の意味、葛藤などについての因果関係を述べている。なお、不安は実存のアプリオリとしている。
第四章「病と実存」の章がもっともなじみが湧いて来る内容が記述されている。精神疾患は常に病の意識を伴って、特に自己との関係が二重に展開される、例えば覚醒と夢幻とに、正常と病理学的なものと、特殊と普遍なものなど、二つの対立する関係を争うのである。時間はもはや未来に投じられることも流れることもない。事物の配置は内的な統一性が欠けている。こうして、他者は社会的な意味の元に現れずに、もはや誰もいなくなった宇宙において異邦人となる。主体はもはや自分を屍体として動かない機械として感じるだけである。これが病的な実存の特徴なのである。
第二部「病の条件」では、病とは平均からのずれの統計学的な潜在性であり、人間の本質の文化人類学的な潜在性であり、この病に逸脱という意味を与え、病人を排除される者とした文化と、病のうちに自ら認めることを拒絶しながら自己を表現する社会そのものにフーコーの思考は向かうのである。キリスト教における悪魔に取り付かれた人の人間宇宙からの追放、近代の「百科事典」における能力の喪失した者という見方などについて述べている。そして精神疾患において患者のパーソナリティの混乱や構造の剥奪は、疎外の経験を通じて患者を異邦人にして、人間的なものを奪い去っていると述べるに至る。こうして精神疾患と実存との関係についてフーコーは追求する。社会的関係との矛盾のうちに起源があるとする。更に道徳的な観点、排除と処罰の関係に結び付けて、歴史をたどりながら、収容施設としての「一般施療院」などの監禁について述べている。この施療院は「狂気の歴史」の素案とも言える内容である。
第六章の「葛藤の心理学」では、精神病理のメカニズムについて詳述している点が興味深い。精神疾患の病とは一つの防衛の形態であり、人間が自ら作り上げた実存の条件に、病人が自らを人間として見出せなくなったために生じる精神の錯乱なのである。こうした観点から文化との宗教との社会との関係性を論じている。最後になるが、こうした「精神疾患とパーソナリティー」とう本をフーコーが記述していたとはある種の驚きがある。この精神疾患の探求を始めとして、フーコーの著作物が「狂気の歴史」や「監獄の誕生」などから「性の歴史」にたどり着こうとしたことがよく分かるのである。「生の権力」への抵抗もたぶん理解できるに違いない。ただ、この「生の権力」は良く吟味しなくてはいけない。国家が公共福祉を通じて権力を行使するとしたなら、この権力は君主の権力とは明らかに異なるものである。「知」にしても知の考古学のみで成り立つものとも思われない。「性の歴史」でフーコーは何を理想として見出そうとしたのか。それを調べてみる気力はどうしても起き上がってこない。それは、フーコーの哲学の起源は納得できても、その哲学的に展開された思想は直感的にどこかまずいと思っているためでもある。ただ、本書で述べられている精神疾患は十分に納得できるものであり、フーコーの思想の原点が良く分かるのである。
以上
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2016年12月2日(金) |
題:ゲオルク・ジンメル著 北川東子編訳 鈴木直訳「ジンメル・コレクション」を読んで |
初めて読む思想家である。哲学者と書かないのは「エッセ−の思想家」と裏表紙に記述されているためである。なお、本書の最後に解説として、北川東子の「ゲオルク・ジンメル――エッセ−の思考」と鈴木直の「進化のジレンマ――ジンメルの今日的意義」が掲載されている。ジンメルの紹介と彼の思想、および今日的意義について、簡潔にまとまり良く記述されているので、本感想文よりそちらを読む方が分かり良く、かつ正確である。北川東子が「ひょっとしたらの哲学」と述べて、ジンメルを読むと期待と落胆が混じるとの感想はそうであると思う。現代にも通用するものがあり、もはや陳腐になった思想もある。
なお、ジンメルは1858年にベルリンに生まれ社会学を基本し、絵画や文学にも造詣が深かったとのこと。反ユダヤ主義の犠牲者と知られ、ルカーチやアドルノ、そしてベンヤミンに大きな影響を与えたとのこと。ただ、彼は自らが属していたドイツ・アカデミズムにおいては正当な評価が与えられていなかったとのこと。本著作は当然エッセ−であり、カテゴリとして4部に分かれ、合計19個のエッセ−が掲載されている。読んでみると物質の丹念な描写を行い境界や面を視覚的に描きながらも、どこか明確な線や面をイマージュさせないアナログ的感性の持ち主である。彼の文章もしくは訳が良いためか詩的な文章であり、こうした文章が続くといつのまにか区切りがなくなり物質が曖昧さに包まれて、アナログと思わせるのかもしれない。思想的観点から述べると現実的な思考を行いながら、中庸でありそれほど特色がなくなり、穏健さを保ちデジタル的な区別をなくしてやはりアナログ的な思考なのである。無論、社会的な思想はデジタル的に明確な論旨は持っている。ここで4部の内の気にかかった作品について感想を示したい。
第一部では愛や売春に女性などの社会的な問題を取り扱っている。それほど見るべき点はない。例えば売春については過酷な労働よりも敏感に捕らえ取り上げられているとし、若者の犠牲になる娘たちを救うためにも売春婦は必要と論じている。こうした思想にそれほど新味はないのである。また、例はあげないが、時々文章に思想的に符合しない違和感のある記述がある。第二部では物質や境界に抱合関係を示している「取っ手」、「橋と扉」、「額縁」が良い。「取っ手」を読みながら、「岩成達也詩集」を思い出した。この詩集に「詩と小説・その他についてのメモ」と題して記述されている線と接線の関係である。これは散文詩についての短論文である。その他にも「岩成達也詩集」に掲載されている散文詩を読み直してみると、視線と感覚が混濁しながらも明晰に記述されている。無論社会学や哲学的思想は含まれていない。そこがまた良いのである。もはや文章だけが流れていく感覚に捕らわれる。ジンメルの場合、思想が含まれていて邪魔であるが、同様の感覚に捕らわれてくる。岩成達也よりも幾分物質の機能を明確にして主張する文章なのである。
「取っ手」とは水差しの取っ手を述べている。水差しの本体と取っ手との関係を述べている文章が、線と接線の関係を思い出させたのかもしれない。この「取っ手」は本体と取っては排除しながら互いに混入しているのである。そしてジンメルは、自らの領域に属していながら別な事物の要請も受け入れているとして、共属性なる多様性と内部と外部の同時存在性について述べる。こうした思想は良い。ただ、思想のエッセ−であるために詩的な散文に思想が混入して、純粋な詩文なる作品ではないが、それも致し方ないのかもしれない。「エッセ−の思考」として読まなければならない点が何とも辛いのである。散文詩としてまとめた場合もっと良くなるはずである。そして、この共属性の多様性と内部と外部の同時存在性という思想が、デジタルではなくてアナログ的な混入する水の流れを思い浮かばせるのである。もしやアナログとはデジタルを含み、アナログを裁断したものがデジタルであるのかもしれない。
「橋と扉」では、外界の事物の形象は両義性を帯びて見えると述べている。橋は分離している両岸を結合させるのである。分離していると感じるのは私たちの持つ分離概念であり、結合は現実的用途のためにではなく、視覚の対象として捕らえるためである。こうした両義性について、ジンメルは扉とこの扉を開けた空間との関係を述べる。ただ、扉は無限の空間へと結びつける無限定な形式であり、橋の有限なもの同士を結びつけるのとは異なるのである。ただ扉は境界として可動性を持っており、自由な世界へはばたける可能性を保持している。そして、人間は境界を知らない存在でありながら、境界を一つの形態として捕らえてこの扉のような境界の意味する可能性を持つことによって、意味を得ることができるとする。「額縁」は全体と部分の関係を述べている。額縁は芸術作品のなかから他の環境の全体を締め出して距離を保ち、この芸術作品そのものの美的享受の対象とするのである。
第三部では芸術作品と魂の関係について述べているなど、美学に関して科学に関して記述を行っている。特に魂についての芸術的な美の考えはなるほどと読むこともできるが、「美しい魂」ともなるともはや厄介で、「美しい魂」が自発的な衝動と倫理的な要求とを完璧に満たすと言われると、そうなのかとしか言いようがない。本能の克服と言われると匙を投げ出したくなる、内的な調和と唱えられると古めかしい宗教を思い起こさせる。第四部では社会的な関心事を述べている。それほど関心を引かないけれども、ただ、宗教と魂の関係についてはこうした考え方もあるのだと妙に納得する。人間が課題を乗り越えてより高い飛躍を行うための発展プロセスとしてジンメルは宗教を理解するのである。
「近代文化における貨幣」では、近代の主観と客観、主体と客体、所有と所有者や団体などと貨幣の関係について論じている。貨幣流通は分断や疎外作用をもたらしても、経済圏の成員に強力な結びつきを作り出しているのである。そして、個我の形成の自立を目指すものと機能しながら、貨幣を使用することによってもはや自分自身ではなくなり、内的関係を断ち切らせることにもなるのである。貨幣は最終的な価値の橋渡しに過ぎず、これを獲得するために近代の生活は落ち着きを失い、熱に浮かされて休まる時がないのである。貨幣は自らを傷つけながらも、貨幣経済が文化の繊細な高次元との関係も浮かび上がらせて、自らの傷を癒す能力も持つのである。岩井克人著「貨幣論」を読んでその感想も書いているが、「貨幣論」における主体と客体の考え方は、ジンメルなどの思想の萌芽が発展した結果であるかもしれず、また貨幣の功罪はなるほどと思わせるものがある。ジンメルはマルクスより約50年後に生まれていて「資本論」を知っているはずであるが、こうした分析経済学とは異なった独自の思想を持っているのである。
やはり、ジンメルは、北川東子が「ひょっとしたらの哲学」と述べている、その通りであって、現代にも通用するものと、もはや陳腐になったものが混じっている。両義性の思想の持ち主で境界が混濁するアナログに近い発想を駆使してジンメルは論述している。もし、思想を混ぜない散文詩などを書いていれば、もっと良い作品が生まれたのかもしれないが、それではジンメルはジンメルでなくなるはずで、困ったものである。
以上
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2016年11月25日(金) |
題:アントナン・アルトー著 粟津則雄 清水徹 責任編集「アントナン・アルトー全集 1」を読んで |
結論から述べると本書は期待したほど圧倒されるわけではない。アルトーは純粋なパラノイア、スキゾグラフィーでもない、結構論理的的なためである。端的に言えば、思考を拒絶する強烈な意志を有し、比喩を不確かにした捻じれた文体によって、精神や肉体や器官、思考に関して独特の表現で、思考そのものの拒否、不可能性を的確に述べているためである。本を入れている箱の裏表紙に書かれている文章が端的に示している。『これらのページはすべて、精神の中を氷塊のように徘徊する。わが絶対の自由を許されよ。私は私自身のいずれの十秒をも区別することをみずからに禁じる。私は精神に局面というものを認めない』この文章はとても好きであるが、強い意志の論理的な表現とも受け止めることができる。彼は狂気を装っていながら、矛盾しているが、本当に狂気でもある。狂気とは何か、論理性を持つ持たないに拘わらず、固執して孤立する絶対的な停止でありかつ活動する精神そのもの徘徊と拒絶でも言うべきなのだろうか、アルトーがこのような精神を所有している者であることは確かである。
こう書いても良く分からないために、本書の内容を簡単に紹介したい。本書の内容は章立てに従うと、「ローマ教皇への上奏文」、「ダライ=ラマへの上奏文」、「ジャック・リヴェールとの往復書簡」、詩集「冥府の臍」、詩集「神経の秤」、「初期詩編」、「初期散文作品」、詩集「空の双六」、評論など「ビルボケ」により成り立っている。
興味深いのは「ジャック・リヴェールとの往復書簡」である。ジャック・リヴェールは「ヌヴェル・ルヴュ・フランセーズ」の編集者で、アルトーの詩を掲載できないとの書簡から始まり、アルトーの詩に関心を持ち、往復書簡を取り交わしている。その内容は精神や思考、存在などについて結構深く論じている。アルトーは思考の腐食、思考を破壊するものがあると強調している。精神は一種の癌腫で拡散するのである。そして、生への不適合性に苦しんでいると述べている。ジャック・リヴェールは最後には、健康について述べてこう言い切る。『充溢のとき、あなた自身と等しくなるとき、すでにあなたにはこういうときをのぞむ勇気を持っておられるのだから、結局のところ、それがあなたに禁じられるはずがないではありませんか。おのれを捨て去る者にとってのみ、絶対的な危機がある。死への嗜好を持つものによってのみ、完全な死があるのです』アルトーを力づけようとしているのである。
ジャック・リヴェールの文章で関心を引くのはアルトーの詩への評価である。『あなたは、印象の十分な統一性に達しておられません。・・あなたは、さまざまな方法を何か単一な詩的対象には集中することが気質的にはまったく不可能というわけではなくて、たとえ区々ばらばらなイメージや言い回しを削除するということだけでのことにしても、とにかくもう少ししんぼうすれば、完全な一貫性のある調和のとれた詩が書けるようになるだろうということが』と述べている。これはどうもアルトーの初期詩集「空の双六」の感想・評価であるらしい。「空の双六」に掲載されている最初の詩、ドイツのオルガンでは、こう翻訳されている。『ドイツのオルガンが猿を興奮させる/目のつんだ敷石の広場で/敷石をとり囲む市場は/ひるがえる一本の旗のように 古くからの市はふちどる/尖った街の空地の空を/してオルガンは止まず爆発/空のオルガンの音もいっしょに・・』となっている。
このように、アルトーの詩は修飾語が乖離して複数のイメージが交錯し言語の表現の不可能性を表していて、述べようとしながら述べることのできない強烈な意志と精神を表現している。例を取り上げたいが省略する。これがアルトーの詩の魅力ともなっていて、アルトーの言い知れぬ怒りが露わになっている。無論、イメージの統一された詩もある。こうしたアルトーの強烈な意志の持つ詩について述べるのは止めよう。そんなに分かっているつもりもないし、書けばながくなるためである。清水徹の「解題」では、アルトーの言語と思考、存在の関係についてモーリス・ブランショの「来たるべき書物」やジャック・デリダの「吹き込まれ、吹き飛ばされた言葉」に記述されているとのことであるが、これらアルトーを評した内容の記述も省略したい。思考・精神・肉体、これらの相克と統一に超越、アルトーはこれらの内で闘い苦しんでいるのであるとだけ述べたい。
原書は十巻あるはずなのに、この現代思想社の1971年発行の「アントナン・アルトー全集 1」は続編がない。日本では1996年に何冊か、たぶん五冊かアルトーの著作物が発刊されている。そして、そして2007年に「アルトーの後期集成」が三冊まとめられている。どうもアルトーの著作物の散逸や権利権の争いなどに原因がるようでもあるが、良く分からない。いずれにせよ、アルトーの著作物を全部読む機会がくるかどうか、それだけが気にかかる。つまり絶対に全部読むほど好きなのではなくて、何冊か読んでそれなりのイメージが出来上がっているためである。
以上
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2016年11月18日(金) |
題:J.L.ボルヘス著 土岐恒二訳「永遠の歴史」を読んで |
初めての作家であり、題名にひかれて読んだ本である。哲学的なエッセイでもあり、文学的な内容もあり、その文体の良さと知識の広さには感服し、結構面白かったと思っている。本書は、「永遠の歴史」、「ケニング」、「隠喩」、「循環説」、「円環的時間」、「『千夜一夜』の翻訳者たち」、「覚え書二偏」からなる。たぶん、J.L.ボルヘスの作品を読んだことはないが、その小説作品を想像させるものであり、できれば小説作品も読んでみたい。本書の内容を簡単に紹介したい。
「永遠の歴史」はプロティノスの「エンネアデス」を引用しながら永遠について記述している。なお、プロティノスとはプラトンの約500年後に生まれた新プラトン主義者であるらしい。「エンネアデス」とは彼の遺稿を弟子がまとめたものである。こしてこの「永遠の歴史」はプロティノスなどのギリシアの哲学者、詩人の文章などを引用しながら、自らの時間的な名状し難い体験などを含めて述べている。記述例を取り上げれば、主の永遠は瞬間の内に一切を記録する、この組み合わされる寸刻の永遠は宇宙よりもはるかにぎっしり詰まっているという言い方がとても良い。また、無限数の関係においては個々の獅子の無限の交替よって持続するという表現が関心を引く。ただ、永遠とは願望の形式であり、時間のありとあらゆる分秒とあらゆる多様な空間を求めることなのであると結論づける。
「ケニング」、「隠喩」では隠喩について述べている。なお、ケニングとは代称法とも呼ばれているらしく、「剣の嵐」は「闘い」の「鴉どもの餌食」は「屍体」と定められた同意同語なのである。こうして「ケニング」の章ではこの同意同語をたくさん示している、と同時にその不適切さや効果性について述べている。例えば、「血を好む白鳥」や「死者たちの雄鶏」とは禿鷹のことである。「隠喩」では比喩表現の例の取り上げながらその良し悪しを述べている。「循環説」では、循環説とはニーチェの示す「永劫回帰説」であると述べ、宇宙の原子の数と無限級数との関係を、また「永劫回帰」との関係を書いている。「円環的時間」でも宇宙の物質の無限の組み合わせの変化は許容できずに、同一なものが回帰してくるという考え方について論じている。「『千夜一夜』の翻訳者たち」が一番長く書かれている。バートン訳などとエロチックな訳などとの削除の関係性や翻訳の忠実性や文学性について細かに書いている。「覚え書二偏」は省略する。
本書は、それにしても文体の良さが際立っている。本文が良いのか、翻訳が良いのか分からないがどちらも良いに違いない。
以上
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2016年11月11日(金) |
題:紫式部著 「紫式部日記」を読んで |
「源氏物語」は以前、岩波古典文学大系で読んだことがあるけれども内容は殆ど忘れている。ただ、どちらかと言えば否定的で、あまりその値打ちを認めることのできない印象のみが残っている。ところが、最近「源氏物語」は良い作品ではないかとの思いがするのである。まあ、どちらでも良いが、ともかく紫式部に関心を持ち、この「紫式部日記」を読んでみることにした。すると紫式部なる人物が分かってきたのである。合わせて「枕草紙」も眺めてみる。すると紫式部と清少納言の文章や人物の違いも少しは浮かべることができたのである。感想を全部書くと長くなるので少し間引き、本文をできる限り引用して、簡略化して述べたい。
何年か前、「口座 日本思想3 秩序」の「己の表現としての秩序」なる論文を読んだことがある。その時、感想文を書いているが引用すると、『「伊勢物語」や「源氏物語」などを中心に、人間関係と言語表現の間で屈折する神経を論述していて面白い。多彩な使用例を見ると、やはり日本語は難しいと感じたものである。簡単に言えば「為手」と「受手」の尊敬・謙譲・丁寧が、著者の論述によるともっと複雑な表現になる、これらの言語的表現について著者は論じている。更に言語が対象について述べるなら意義領域としての「対象的意義領域」と「主体的意義領域」に意味が広がるはずだと論じていて、紫式部の日記がこれらの領域の両方を交え表現しているとの解説はなるほどと納得できるのである。例を取り上げたいが省略。なお、日本語は「伝達の言語」であり、西洋の言語は「認識の言語」であるとする。この日本語は主体的意義を富ませて、対象を柔らかく包み込み己との調和と秩序を保つ日本的な精神構造を形成している。この日本語の言語と精神とが表裏一体として作動していると著者が述べる時、日本的な精神の特徴を垣間見た気がする』と記述している。なお、著者は『言語というものは、人が、対象について述べることの形式である』と規定しているが、この対象の意義が主体側にあるのか対象側にあるかに区分される。無論、対象と主体側の意義の割合はアナログ的に変動しているはずなのである。
「己の表現としての秩序」の著者はこの変動の割合を論じることはせずに、「紫式部日記」の冒頭の文章を捕らえて、対象的意義領域に自らの姿勢を交え語っていて魅力的だと述べている。確かに魅力的で美しい文章ある。本短論文では他の古典文学も交えて論じているために、「紫式部日記」に関する記述はこの程度である。ただ、「紫式部日記」の文章はこうした論旨を超えて記述されている。即ち、「主体的意義領域」のみで記述されている部分があり、その主体の主張に圧倒されるのである。まるで夏目漱石の「吾輩は猫である」の文章と同様に主体の途方もない饒舌なのである。紫式部の場合、夏目漱石と異なり、鋭い文明批判ではなくて思うままの人物批評である。そして自らの身の上を嘆息している。文章も出だしの美しさとは異なって、長々と続き思いが混乱しているかのごとくに思われるほど、心情が屈折している箇所もある。まさに現代人と同等に、それ以上に閉鎖的な宮廷世界に悩み苦しんでいたのである。そして人への批評は皮肉を含んで鋭い。ただ、世における身の処し方を覚えていて、外面的にはそうした舌鋒を行うことなどなく穏健に暮らしていたらしい。孤高の精神を持って物語の記述に勤しんでいたのかもしれない。こうした著者が本日記に記述されているように、四季の風景や儀式などを心の底から楽しんでいたならば幸いである。
こうした紫式部の文章や心情について述べる前に、「紫式部日記」の構造について、また紫式部の人と成りを述べておきたい。「紫式部日記」は紫式部の仕えた一条天皇中宮彰子の皇子の出産とその経緯、内裏への戻りや諸行事などの感想を述べると同時に、仲の良い従妹へあてたものか消息文と言われる部分から構成される。無論、現在残っている文書は書き写しの変遷や編纂などを経てまったくの原文とは異なっているらしい。紫式部は文才をかわれて中宮彰子に上臈女房として仕えることになるが、父は受領層の不安な生活を送り、紫式部もこの現実的な重苦しい生活から相当影響を受けている。ただ、文才に恵まれていたために完全に沈鬱な生活からは逃れ出れたに違いない。歳の離れた夫を持つが、すぐに夫は死んでしまう。一子女の子、賢子をもうけて、若くして寡婦になるのである。この子は天皇の乳母となって従三位まで昇る。四十歳前後に亡くなっているらしいが、没年不詳など紫式部については分からないことが多いらしい。「紫式部日記」は六十ページ余りで、「枕草子」の約三百頁に対して少ないけれども、もっと多ければ読みがいがあるとも思うのである。
美しい出だしの文章はこうである。なお、本書は現代語訳がないので文章の表現内容は注を頼りに思い浮かべている。『秋のけはひの立つままに、土御門の有様、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじじ色づきてわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あわれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なむ、夜もすがら聞きまがはさる』土御門の秋の風情を見聞きしている作者が書いている文章である。風景の描写と作者の思いが一体となっている。簡単に我流に一部現代文に訳すと、地の風景も色づいて空も艶ともてはやされて、涼しい風がそよめき、読経の声々や水の音も夜もすがら混然となって聞こえてくるとなる。
次に、他者との交流の難しさを、自らを苛みかつ幾分孤高の心境を交えて述べた文章を引用する。いわゆる主体的意義領域のみの文の一例である。『こころみに物語をとりて見れども、見しやうにもおぼえずあさまく、あわれなりし人の語らひあたりも、われをいかにおもうなく心浅きものと思ひおすらむと、おしはかるに、それさへいとはづかしくて、えおとづれやらず。心にくからむと思ひたる人は、おほぞらにては文や散らすらむなど、うたがはるべかれめば、いかでかは、わが心のうちあるさまをも、深うおしはからむと、ことわりにていとあいなれば、中たゆとなれど、おのづからかき絶ゆるもあまた。住み定まらずなりにたりとも思ひやりつつ、おとなひくる人もかたうなどしつつ、すべて、はかなきことにふれても、あらぬ世に来たる心地ぞ、ここにてしもうちまさり、ものあわれなりけり』本文章の趣旨はこうである。物語を読んでも面白くないし、共に語った人もきっと心浅い人と見なしているだろうから恥ずかしくて訪れることができない。心持の高い人(心に憎からん人)も私の心を推し量ってくれるわけもなく、行き来がなくなる。また、自然との交際が絶える人も多い。私が何処に住んでいるか分からずに訪れる人もなく、ちょっとしたことにつけても別の世に来ている気持ちがする、ここではこうした気持ちが募ってきて、わけもなく悲しい気持ちになる。この文章には少し卑下気味に屈折した心が表れている。他人の紫式部をみる目が式部からすれば自らを軽んじていると推測している点にある。心浅い人と見なしているだろうし、また心持の高い人が紫式部に手紙を送っても文を散らかして見られてしまうと邪推して、式部の心推し量ってくれわけでもないと言い切っている。これがへりくだりのはずはなくて、式部の疑念する心の内をそのまま表していると取るべきなのだろう。
次に、この歌は寂寞を超えて孤独である。女房の局に男たちが訪れている時に歌ったものでもある。『としくれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな』式部に訪れてくる男はいない。単刀直入に直接的にすざまじき心の内が表現されている歌である。
他人を批評した文の一部である。いわゆる消息文の一例である。『和泉式部という人こそ、おもしろう書きかわしける。・・それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりいたらむは、いでやさまで心は得じ』『清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人』など、こうした批評文は個人を特定しなくても結構多い。ただ、この批評は的確とも思われるが、妬みなどが含まれているかは判然としない。
最後の文章は楽人による演奏の描写で終える。それにしても最初にも述べたが、紫式部という人は教養も高いが自尊心も並々ならず高い、一方屈折して荒涼とした心の持ちながらも表に出すことは無い。自らの分際をわきまえていたのである。文章はやはりとても上手だと思う。そして、どうしても夏目漱石と比較してしまう、疾走する筆の具合と寂寞とした心と悩み苦しむ思いである。ただ漱石の筆は走り過ぎて狂気じみてくることがある。ただ、人の批評はあまりしなかったし、いや、むしろ結構批評している。付き合うべき友人や弟子も結構いても、孤独の内に生きていたのである。こうしてみると平安時代と明治時代と今現在でも心の内はそうは変わらずに、自らの生きる時代の自らの思いを汲み取り感じて表現する人間そのものに変わりはないはずである。
少し長くなったが、清少納言の「枕草紙」について少し触れたい。なお、清少納言は一条天皇中宮定子の中上臈の女房である。天皇の中宮への寵愛を勝ち取る点からすると紫式部とは敵味方の関係にある。「枕草紙」は三百を超える段からからなり、短い段も長い段もある。文章を眺めた感じでは「をかし」、「めでたし」、「うれし」、「にくし」などの簡明な感情の表現で終わる文もあり、また長い文も心理的に屈折する表現も少なくて、案外あっさりした淡泊な性格であるのかもしれない。清少納言はある種の連想力が得意だったのかもしれない。長文での文書力は紫式部と同等と思わせるが、対象物へ表現の違いが表れて、その表現の質は紫式部に方が高い。紫式部は対象の中に入りながら、対象と主体を混然とさせて、一方清少納言は主体をあからさまに表現していると思われる。ただ、「枕草紙」をきちんと読まなければ分かるはずはない。両者ともに服装などの色彩感覚に優れている。なお「枕草紙」は随筆ものとして「徒然草」などの先駆け手本となったらしい。なお清少納言は皇后となった定子が先に死に、晩年はわびしく落ちぶれていたとの説もある。
冒頭の『春はあけぼの』は有名なので、「枕草子」の最後の文章の一部のみ紹介したい。『おほかたこれは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なお、選り出でて、歌などをも、木・草・鳥・虫をも、いひ出したらこそ、「思ふほどよりはわろし。心見えない」とそしらめ、ただ心ひとつに、おのずから思ふ事を、たわぶれに書きつけたれば、ものに立ちまじり、人なみなみなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「はずかしき」なんどもぞ、見る人はし給ふなれば、いとあやしうあるや。げに、そもことわりなり、人のにくむをよしといひ、ほむるをもあしといふ人は、心のほどこそおしはからるれ。ただ、人に見えけんぞねたき』清少納言の本書に書いてある内容と、自らのこの内容への評価、他者の批評に関する点について述べている。本書によって自らの心を見透かされる、そのことがくやしいと述べているのである。率直なかつ純な思いでもあるのだろう。
以上
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2016年11月4日(金) |
題:夢野久作著 「少女地獄」を読んで |
夢野久作著「ドグラ・マグラ」を読んだ後、彼の短編がどういう表現をしているか知りたくて、まずこの「少女地獄」を読んでみた。実は夢野久作という作家をもっと知りたかったためである。彼は探偵小説作家と称されているが、そこからはみ出ている何かがあるのである。一般的に純文学とか大衆小説として区別することは好きではないが、夏目漱石や三島由紀夫に谷崎純一郎は純文学でありありながら、一方大衆小説家でもある。夢野久作はやはり大衆向けの探偵小説家なのかと思いながら、では、これらの作家と異なっている点は、また江戸川乱歩などとはどう違うのか知りたかったためである。
たぶん、夢野久作はマゾッホに似ているところがあると思っている。ドゥルーズのようにマゾッホ論を書くためには夢野久作の作品を切り裂くための概念を必要とする。この概念を見出したかったために読んだことも理由の一つである。この概念を得ることは容易ではないし、夢野久作論を書くつもりもない。ただ、彼の内に流れる血流の何かしらの真実の成分を捕らえたいと思っている。この真実なる神髄は「徹底された肯定の論理」と推測しているが、この肯定は非現実的な夢の世界のみで展開されるのではない、現実的に適応される欲望を孕んでいて、まさに現実に移行し実行されようとしているが、できるはずもなくて、マゾッホのように宙吊りにされているのである。むしろ、現実的には不可能であって夢の中でのみ許されるべき道徳であって、眠りの中に居てこの眠りの夢の中で現実的に処理している自慰行為そのものであるかもしれない。こうした概念的な話は推測でしかないが、ただ一つ言えるのは夢野久作の文体の独自性である。厚みを削り、薄く軽めに流していく魅力的な文体が現実であっても夢を呼び込むのか、夢の中でさえ現実と錯覚させるのか、夢の中そのものを出来事と表しているのか、この文体と肯定の論理の関係性に注目したい。
もう結論を書いてしまったので簡単に本書の内容を簡単に紹介したい。本書は「少女疑獄」、「童貞」、「けむりを吐かぬ煙突」、「女坑主」の四つの短編からなる。「少女疑獄」は手紙を形式にとり、三つの作品からなる。嘘つきながら誰からも好かれる美しい看護婦の話「何でも無い」、殺人鬼運転手を恐れながら愛している女車掌の話「殺人リレー」、高等女学校での校長などの不道徳を暴き立てるため、かつ自らを弄ばれて怨念にかられた女生徒自身が黒焦げ死体になる話「火星の女」の三つである。「童貞」はもはや貧窮して衰弱死しそうな男が外娼の体に触れると、ダイヤモンドのではなくて女を欲しがっていると間違われる話である。「けむりを吐かぬ煙突」は伯爵未亡人の正体は慈善家ではなくて少年を連れ込み弄び地下室の井戸に捨てる、その発酵する悪臭は煙突から抜け出る構造になっている、この伯爵未亡人を調査し対峙する新聞屋の話である。「女坑主」は外国にて爆発させる爆薬を所望するいい男と一夜を楽しみながらも、この虚無主義者の一党を警察に通報する巨大な権力を持つ女坑主の話である。
一番良いと思ったのは、女車掌の話「殺人リレー」である。短いながらも殺される恐怖を感じながらも殺人鬼運転手を愛している女が簡明に真実味を持って書かれている。後は「けむりを吐かぬ煙突」である。もっと心理描写を入れれば良い作品になり得たかもしれない。ただ、このように伯爵と名が付けば夫人は自らの底知れぬ欲望を常に満たす必要があり、陰湿で残忍な行為を成しているのであり、この点で夢野久作の視点は正当性を持つ。「童貞」も男に外娼の体を一部であっても触らせたい。夢野久作には強く特異な倫理観を持っていたのかもしれない。本書の主作品である「何でも無い」は、少女の行為を納得させながらも内容はそれほどでもない。看護婦なる少女の特異な嘘をつく性格がもう少し心理的に浮き彫りにされるべきであると思うが、これは「ドフラ・マグラ」にも通じる夢野久作独特の作品に心理を込み入らせない作風に通じているのかもしれない。その他の作品は荒唐無稽であったりして良く分からない。ただ、「女坑主」の山全体が光線に輝くそのことが、警察に知らせる暗号であるという発想には感嘆する。こうしてみると夢野久作の作家たる所以は心理描写と文体の淡泊なる点にある。淡泊であるからこそ過酷で残忍な筋であっても、現実ではない非現実な夢の世界として、むしろ徹底的な現実の欲望を実現する肯定の論理を描いた作品として捕らえることができるのかもしれない。なお、「少女」という言葉には混合したイメージを含まさせているが、これについては別の機会に書きたい。
以上
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2017年10月27日(金) |
題:ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳「神秘学概論」を読んで |
本書は分かったようでもあり、分からなないとも言える不思議な本である。つまり、記述している内容は分かるが、その記述を行っている著者の真意、その意図が分からないのである。著作物以外に何らかの手段で著者の思想の真理・背景を知らなければ決して分からないだろう。なお、本書は題名の通りに「神秘学」つまり「霊学」について「魂」について述べている。もしや、私が柳田国男の霊魂の思想の影響を受けていて、本書の論理的な哲学的とも言える大胆な奇抜とも言える、霊魂なる思想体系を受け入れ難いのかも知れない。
本書はおおまかに「神秘学の性格」、「人間性の性格」、「眠りと死」、「宇宙の進化と人間」、「高次の諸世界の認識」、「宇宙の進化と人類の進化との現在と未来」、「霊学で用いられる諸概念」の章によって構成される450頁程度の本である。簡単に内容を紹介したい。本書は『超感覚的世界の体験に至る内なる魂の経過を明らかにしようと務めた』(23頁)のであり、「超感覚認識」が基礎となる「霊学」なのである。なお、本書を読むと霊とは魂であり、魂と肉体は分離している。日本ではカラ(体)とタマ(霊)という思想があるが同じである。ただ、本書はこの魂と肉体を、先に述べたように体系的に哲学的に記述している大著なのである。そして、死んで魂になるのではなくて、無論そうした記述もあるが、生きて魂と肉体が同居している時の「超感覚認識」に基づいた世界認識や人間の生き方を問うているのである。これは科学的には解明できない不可視な世界があるが、知覚によって認識できて、この隠された世界に参入することが可能であり、このことによって生きるうえでの強さと確かさが得られるとする思想でもある。
人間は生きている間、身体器官のすべては「エーテル体」または「生命体」として維持されている。これに対して「アストラル体」は意識を目覚めさせるものなのである。いわば「エーテル体」が植物と共有しているならば、「アストラル体」は動物と共有しているのである。こうして著者は「私」(自我)や魂について論じる。さらにこれらの「眠りと死」の関係についても論じる。『死後の人間は、霊的本性たちからなる環境世界に取り巻かれている』のであり、人間たちはこの霊界の本性たちと共同作業によって霊的存在となることができる。つまり、人間存在は肉体、生命体、アストラル体、自我の四つの本性部分から構成され、そして「自我」から悟性魂と意識魂が生じて、高次の段階に移行すると霊我と生命霊と霊人とが形成されると著者は述べている。そして、霊学は人類の生成過程を過去に遡って追求し、太古の地球や遊星物体化としての土星紀、太陽紀、月紀、地球紀について人間の進化を詳細に記述しているが、あまり関心を引かない。
なお、地球紀において、キリスト教やインドの「叡智の書」(ヴェーダ)やツアラトゥストラやゾロアスターなどやギリシア・ラテン文化について述べている。キリストの魂はあの霊界にも表れてくるのである。こうした遊星物と人間の進化に関する文章は冗長である。それよりも「高次の諸世界の認識」の方が面白い。魂の高次の能力によって低次の衝動や情熱が生まれ変わるのである。魂を内的に沈潜させ身体的な感覚器官による印象が意味を失い、内的な能力が目覚めてくる。自らを意識している内面を見詰めて、自分と並ぶもう一つの自分、もはや別の自我を見出すのである。いわば高次の自我である。この辺りを読むと宗教における悟りの境地などを思い浮かべるが、関連は良く分からない。そして思考内容がさらに思考内容を求めて、思考の世界が内なる生命のいとなみとなる。魂的な器官「蓮華」や「開梧」や「浄化」に「閃光」などの言葉は高次における魂と関連して意味付けられている。そして霊聴まで進むと、霊的な合一性を求める修行者には、仮象と現実が区別できるようになるのである。
宇宙の進化と人類の進化の関係において『「叡智の宇宙」は「愛の宇宙」にまで進化を遂げなければならない』これが本書の結論の文章であると思われるとも、著者の主張は超感覚認識においてまず霊界を見出して、内なる自己を見出して見詰める必要性を説いているように思われる。
以上
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2016年10月21日(金) |
題:木村敏著 「時間と自己」を読んで |
本書は、分裂病者や鬱病者などの時間感覚を哲学的な論理性を持って、特に日本的な「ものとこと」の概念とハイデガーの存在論に基づき明晰にかつ簡潔に描いた本である。ただ、200頁あまりの薄い本であるためか言葉が足りずに、著者のさまざまな西洋哲学者対する簡潔な批評が正しいかどうかは調べないと分からない。つまり本書の哲学的な彩りが論理を成り立たせるために勝手に解釈している可能性もあるが、きっと本書の主テーマの論理は見事に展開され成立しているはずである。ただ、残念なことに「ものとこと」との日本的な思想を最初に記述しているのは、「こと」を表す適切な西洋哲学の言葉が無いとのことであるが、首尾一貫を欠いているとも思われる。精神病理学との関連も触れられていない。けれども、こうした点は私の欲張りであって、本書の価値をいささかも減ずるものではない。私が最初に望んでいた分裂病者や鬱病者などの時間感覚が、最初の述べたように明晰に簡潔に記述されているためである。
本書の内容を簡単に「ものとこと」から紹介したい。日本語の存在論的差異において「もの」は物質であり、「こと」は私があることそのものが、はっきりとした形や所在を持たない不安定なものである、あえて言えば「こと」とは客観と主観のあいだにある日本的心性の心髄であると著者は述べる。日本語には事(こと)と言(こと)との区別が元来なかったのであり、私の今はさまざまな「こと」に立ち会って私を構成しているけれども、意識して対象化しない限り、「こと」とは「もの」とはならないのである。見ることによって意識化することで「こと」は「もの」となる。重要なのは、我々は「もの」を感じていても同時にこの背後に「こと」の世界を感じ取っていることである。この「もの」的ではなく「こと」的な時間はどういうものであるか、著者は考慮していくのである。
「こと」としてのいまが未来と過去とのあいだの切れ目を作らないが、いまからといままでと広がせる時、このあいだとしてのいまが、未来と過去を作り出すのであり、時間の流れの源泉となる。こうすると、離人症においては自己を失って、存在感も失っていて、この時間のいまを失っているのである。更に著者の思考を詳しく述べると、ベルグソンの純粋持続を純粋であるがゆえに「もの」と「こと」の共生を認めることができずに、時間があることができないと断言する。著者は「もの」と「こと」とがハイデガーの述べる、存在があるという出来事と存在する対象を語りうるとは異なっている「存在論的差異」と同じ構造であると指摘する。この「もの」と「こと」とのあいだの「存在論的差異」こそが時間を生み出す源泉であると主張するのである。つまり時間とは現実的な「もの」と「こと」なる意識との関わりそのものに立ち会っていなければ生み出されないものなのである。なお、やはり著者の不可思議さは、本書の構成においてのこのハイデガーの「存在論的差異」をまずは初めに論じるべきであって、西洋哲学で統一される方が良くて、日本的な「ものとこと」は思想の背骨として背後に記述する方が良い。無論、著者は西洋に適切な言葉がないというより、日本的な「ものとこと」に思い入れが強いためにそうしていると思われる。浅学であるが私には西洋哲学でのみ記述できると思われる。こうして著者はベルグソンやハイデガーについて論じていくのである。本書の最後の章「時間と自己――結びにかえて」でサルトルの「即自」と「対自」との関連なども述べている。
こうして分裂者の時間とは、分裂症患者が他者を未知なる化身として恐れているためなど、自己性に不安を感じており、自己の自己性なる自己自身による自己認知がうまく行われていないのである。事態がまだ現前していないことを恐れるのであり、現在の内に安住することができない、つねに他者性が影を落としており、自己を実現する代わりに他者性を実現しているためなのである。これは非自己ならず反自己にもなる。つまり分裂者には将来的な未来が訪れる確かな自己が無いために、現前しない未来を先取りする時間構造を持ち、かつ積み残された過去しか持ちえないのである。分裂者には現在が過去と未来とで両方向に引き裂かれていると言えるのである。鬱病者では対人関係は未知性を排除した世間的な役割的な関係であり、この役割が失われない限りいわゆる共同体的な時間が重要になる。つまり個々のいまを別々のいまとして分離できないのである。この共同体的な日常が祝祭日や記念日によって非日常になる可能性がある時、危険な時間ともなる。これに対して躁病は共同体の日常からの非日常の噴出となる時間である。こうした著者の精神病患者の時間の感覚を述べた文章は祭りとも絡めて読み応えがある。詳細は本書を読むと良く分かる。
もう長くなったので記述は止めるが、本書は精神病患者の時間と自己との関係を述べている良い本であることは再度述べたい。ただ、ベルグソンがアインシュタインの示した多様な時間に対して、持続という唯一実在的な時間のみがあると主張したのは正しい。それは本書のテーマ「時間と自己」において、自己にとっての実在的な時間、生命体にとっての唯一の意識的な時間があるという意味に取るべきなのである。持続とは生命体を生かし維持させる瞬間という連続性を持った時間の概念であること、そして『そこに実在的な時間、わたしのいう知覚された、体験された時間がある』とベルグソンが述べていることは留意しておきたい。なお、純粋持続は意識の流れなる感覚であり、持続と合わせて新たな時間概念に置き換えることもまた可能である。つまり、余計なことであるが、哲学的なものとは概念の創造であり、修正であり、引用であり、自らの立場を自らの言葉に言い換えることであることを、言い添えて置きたい。
以上
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2016年10月14日(金) |
題:岩井克人著 「二十一世紀の資本主義論」を読んで |
著者の「貨幣論」は良かったと記憶している。その続きとして「二十一世紀の資本主義論」では資本主義について「貨幣論」と同様に論じていると思ったが、最初に「二十一世紀の資本主義論」が100頁ほどあるが、その後はエッセイなのである。その内容も「貨幣論」を読んでいれば、殆どわかるものである。ただ、軽妙なエッセイを含まれていて感心した作品もある。エッセイは短いのも長いのも経済学なども含めて全部で21作品ある。
「二十一世紀の資本主義論」での趣旨は簡単である。「貨幣論」では資本主義社会で一番恐ろしいのはハイパーインフレーションにより、人々が貨幣を受け取らない時と述べていたが、「二十一世紀の資本主義論」では「ドル危機」と指摘しているだけである。貨幣の発行者は余剰価値を手に入れることができるが、基軸通貨としてのアメリカは債務国に拘わらず、このドルを発行することによって余剰価値を入手し国を成り立たせているのである。そうすると、簡単に推論すれば純債権国の日本はドルが崩壊すれば債権など失ってしまうはずである。それ以上にこの世界の秩序の崩壊である。唯一感心したのは資本主義を市場化の運動と捕らえている点である。では運動の到着点はどうなるのか。一千億年後の宇宙の運動の最後は良く論じられているのに、この資本主義の最後があまり論じられていないのは奇妙な感じがする。身近な最終到着点は知らない方が安心して暮らせるからだろうか。それとも過去にも例がなく、理論式もなくて推論不可能なのだろうか、と言うより簡単に考えれば、もし人間が生きていれば「物々交換」の原始状態に戻るだけなのだろう。そして宇宙がバングバングにより甦生するように、人間とって好都合な欠かすことのできない新たな貨幣が生まれてくるだけなのだろうと思われる。
21個のエッセイの内面白いのが何点かあり紹介したいが、内容をそのまま記述するのは無理があり、題材だけを示したい。著者の博識と経済学者としての思想がうまく絡み合っているのである。「資本主義と人間」では差異という概念がうまく使われている。「マルージャの知恵」では情報が差異を持ってこそ価値を生むのである。「西鶴の大晦日」では大晦日の人間と金銭もようが書かれている。でも何と言っても一番良いのは「美しきヘレネ―の話」である。ギリシア神話のなかの「パリスの審判」の話である。三人の内で投げられた黄金のリンゴを受け取れる美女は誰なのかについて論じている。「資本主義理念の敗北」では、アダムスミスの「見えざる手」は働かず、たえず破壊し創造せざるを得ない資本主義のシステム的構造を簡単に紹介している。といより、資本主義を一つの閉じたシステムとみなす理念が敗北するのである。「憲法九条とおよび皇室典範改正私案」などでは著者の先見性が目を引く。
結局、貨幣は発行することによって余剰価値を産み出し、かつ余剰価値を求めて運動する。つまり資本は無限の増殖を求めて運動するのであるというのが私の理解である。そして、アダムスミスの「見えざる手」は働かず、たえず破壊し創造せざるを得ない資本主義の本質が資本主義を破壊するのである。この破壊は新たな資本主義の創造であるのか、本当の破壊につながるかはまだ分からない。資本主義の最終到着点というより、さまざまなに資本主義を修正しても機能しなくなった時に、カタストロフィックなことが起こるのである。先に資本主義の最後があまり論じられていないと述べたが、昨今それなりに論じられてきているのは幸いである。これは資本主義が根本理念とする概念そのものが安定性を持つと信じていたのに、この確かな概念が修正や破壊を通じて問われ続けていることでもある。これはなぜ生じてくるのか、きっと解説している本も出版されているであろうとも、解は人間と共同体そのもの、そして資本主義や社会主義へと社会の体制が移行していくこと、この移行された体制における富と数、蓄積される量と質の均一化がなされずに、逆に広がることにあるに違いないと睨んでいる。
以上
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2016年10月7日(金) |
題:岩井克人著 「貨幣論」を読んで」 |
なぜ貨幣は自己増殖しようとするのか、そうした本を探していて偶然見出した本である。貨幣の自己増殖については書かれていなかったが、マルクスなどの貨幣論を批判し、独自の貨幣論を平明に論じている分かり良い本である。貨幣の謎が少なからず解き明かされている。結論を簡単に述べると、貨幣は商品との交換可能な流動性であり、リスクなのである。本書は、第一章「価値形態論」、第二章「交換過程論」、第三章「貨幣系譜論」、第四章「恐慌論」、第五章「危機論」からなる。内容を簡単に紹介したい。
まず、マルクスの「価値形態論」について著者は論じる。マルクスは資本主義社会における商品の「価値形態」を分析することにより、「貨幣の謎」を明らかにしようとしたのである。そして、マルクスにとって財貨が価値を持つのは人間労働が対象化または物質化されているためであり、この価値の量は価値を示す実体の量、即ち労働の量によって測られるとしたのである。即ちマルクスは実体論を述べたのであり、この「実体」は超歴史的であり、変化するとしたなら現実に表現される「形態」だけだと著者は述べて、本書を通じてこの「労働価値論」を批判することによって、貨幣論を展開していくのである。なお、マルクスの資本論の目的はこの超歴史的な価値の「実体」が商品の交換価値という「形態」に表現されるか記述しているものなのである。そして資本主義社会における商品世界に固有の価値の形態が「貨幣形態」なのである。なお「実体」とそれ自身によって存在するものであり「形態」とはその表現様式と理解すれば良い。
こうして著者は価値形態に関してついて話を進めていく。即ち、マルクスの例を使いながら、リンネル(麻の織物)を介して「単純な価値形態」、「全体的な価値形態」、「一般的な価値形態」の主体と客体論を論じて、「貨幣形態」を示していくのである。この過程において示す価値形態論にマルクスの「労働価値論」は入る余地はないものとして排除される。なお、「単純な価値形態」とはいわばリンネルと一つの物との等価交換である。「全体的な価値形態」とは「単純な価値形態」を並べた、即ち一つの物との等価交換が複数並んでいる状態である。これらはリンネルとの直接的な等価交換性を示すものである。ところが「一般的な価値形態」なるとリンネルを除いた商品世界の中で、この除かれたリンネルとの直接的な交換可能性によって相互の商品の交換可能性が示されるのである。即ち、リンネルが「全体的な価値形態」を取りながら、商品の背後に隠れてしまい相対的な価値形態を取る時、「一般的な価値形態」を取ることができるのである。言葉で表現するのは難しいが、本書には図が入っており分かりやすく、参照のこと。
ここで著者の主張を再度述べると、このリンネルの全体的な相対的等価価値形態と一般的な等価価値との形態がお互いの成立のための根拠になっていることである。即ち、貨幣とはこの相対的等価価値形態と一般的な等価価値との形態というふたつの役割を商品世界で演じており、これらのあいだでの「循環論法」そのものを指し示しているものである。すべての商品から直接的な交換可能性を与えられることによって、すべての商品に直接的な交換可能性を与えている、この貨幣とは全体的な相対的価値形態(社会化する主体)と一般的な等価価値形態(社会化される客体)との形態を同時に演じている。まさに自らの存在の根拠を自らで「宙づり」的に作り出している存在なのである。この辺の文章は文学的であり、かつ分かりにくい文章でもある。更に重要な点へと話を進める。貨幣は金貨でなくとも、安価な金属や紙幣となっても、共同体として貨幣が永続的に使用されると確信を持つ限り、使用されるものである。また、金を含む貨幣の場合は金の含量を減らすことよって剰余価値を生み出すことができる。即ち、永続性を確信していれば、紙幣を増殖してもなんら問題は生じずに剰余価値を生み出すだけなのである。
なお、著者は貨幣がそれ自体として価値を持つ「貨幣商品説」と申し合わせや勅命などによって貨幣が存在する「貨幣法制説」について論じている。結論だけ述べれば、相対的等価価値形態と一般的な等価価値との形態とが循環しさえすれば貨幣は存在し始めるという著者の主張は歯切れが良い。こうして、著者は「価値記号論」から「価値形態論」へと話を移していく。即ち金の単なる記号としての鋳貨や紙幣という記号論は棄却され、先ほど述べた「循環論法」によって貨幣は成立するのである。簡単に言えば、貨幣によって商品を買うことができ、この結果得た貨幣によってまた商品を買うことができる循環運動そのものが貨幣を成り立たせているのである。つまり、貨幣という流動性は資本主義社会の永続性を信じていることなのである。
こうして著者は「恐慌」と「インフレーション」を論じる。著者によると「恐慌」は恐ろしくない、貨幣は富としての価値を持っているからである。一方、商品の買い手は、つねに危機の中に置かれている。共同体の中には貨幣を受け取らない「異邦人」が現れるからでる。それがハイパーインフレーションであり、貨幣を受け取ってくれる人がいなくなるのである。物の寄せ集めでしかない状態へと引き戻されて、「巨大な商品の集まり」としての資本主義社会が解体するのである。まさに貨幣とは「剰余価値」を生み出す原罪として始まり、貨幣としての価値の拡大を経て、価値の縮小へと向かうのである。この著者の主張は正しいと思われる。それにしても「貨幣」の謎解きは自己増殖を含めて難しくて、貨幣の領域的な偏在や流動性の臨界点なども含まなければならないかもしれず、その赤裸々な容姿を見出すことは困難であるのかもしれない。ただ、本書は貨幣の姿の一面を見せてくれる分かり良い本である。
以上
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2016年9月30日(金) |
題:蓮見重彦著 「伯爵夫人」を読んで |
図書館に貸し出しを依頼し、もう半年もして忘れたころ入手した本である。最初は修飾語句の多さに文章が氾濫してリズムを失い、説明的すぎて読むのを止めようと思ったが、真ん中辺の文章を斜めに読み飛ばしていると、伯爵夫人の身の上話が記述されている最後の50頁位からリズミカルであり描写が真に迫ってくる良い文章なのである。ポルノ小説とか言われているけれども、ポルノ小説ではない、むしろ知性に基づき観念化した小説の部類に入るであろう。ただ、観念と言っても阿部公房のような現実的な状況を観念化したのではない、空想であり恐れであり警告なのである。本書の内容は簡単に述べると、主人公二郎はいつの間にか住み着いた伯爵夫人と猥雑な関係性を持つようになる、また従妹の蓬子を始めとして魅力的な女たちになにかしら性的に関心を持って弄ばれる。こうして伯爵夫人は英国における戦争中に高級娼婦だったことなどの経歴を、どこでもないどこかの場所で語るのである。無論、戦争中の伯爵との結婚なども含まれる。本書は約200頁の中作品と短い。
本書を読んで最初に指摘したいのが、夏目漱石の小説作品の引用や著者自身による評価である。「門」で解説者が、蓮實重彦の文を引用して『漱石の文学世界を支える言葉の群は、〈認識(F)に基づく現実〉への視線を詩的映像に転化した、純粋に「現在であることしか知らぬ言葉たちの戯れの場』とし、「門」も純粋に言葉によって喚起させる「戯れの場」として理解することの必要性を述べている。この蓮實重彦の指摘は、本書「伯爵夫人」にそのままあてはまる、自らが自らを語っているのである。この言葉が戯れて現在の場を成した小説が本書なのである。漱石は言葉を戯れさせながらも物質的にも精神的にも追い詰められて必死に書いていた、これは「伯爵夫人」の余裕に満ち満ちた記述と本質的に違う点である。即ち、本書は戯れる言葉が戯れるままに書かしめたのであり、そのため漱石の緊迫感あふれる文章と異なるある種の緩慢さを生じさせている。また伯爵夫人の居た倫敦も漱石の英文学に苦悶した狂気の場所である。そうすると、伯爵夫人とは「行人」の直とも、「それから」の三千代であるとも推測できるのである。女たちの情念や色っぽさをポルノ的に転換させたのであろうか。もしや「行人」の一郎の狂気がポルノに転換されて記述されているのかもしれない。本書にも数か月年上の兄、一郎がいるのは偶然とは思われない。何らかの作為があるはずである。また『「近代」への絶望』(142頁)という文章がはっきり自覚し記述されているのは、著者が漱石作品を少なからず下敷きにしているのに間違いはないだろう。
本書で二郎は、自分とか二郎はと記述されている。また伯爵夫人は他者として語ると同時に自らが語っている。著者の人称への厳格さはなくて、むしろ故意にルーズに書いている。また時間は反転したり先に進んだりして、空間にしてもどこか知れぬ場所へと導き出される。二郎の部屋にしても小物の記述などはほとんどない。ただ、無限数に近づく限りなく小さく並んでいるココア缶に描かれたの尼僧などある種の小物は魅力的である。こうした記述はどこか得体の知れない現実、もしくは現実以上に虚構の世界に入り込ませるはずである。人間と時間や空間の不確定性が増大し、確定性を少しずつ消し去りあらぬ場所に運ばれて、最後に一切の説明なしに『宣戦布告』に至る。著者は世界の問題を思案し、世界の均衡の崩壊を恐れているのである。著者のこうした思いは心理の微細な襞をつくような文章を必要としない。漱石は世界の崩壊を心配しない代わりに、心理の襞を、意識の流れと言っても良いけれども、細かなミミズのような字で尽き果てるまで書かなければならないのである。そこに葛藤と緊迫感が生じてくる。つまり本書が認識(F)に基づいた観念だけの文章であるとするなら、漱石は当然、認識(F)+情緒(f)と、ある種の情緒が加わっている人情味が加わった文章なのである。著者は情緒(f)を不必要とする、なぜなら認識(F)だけを、観念で捕らえたこの世界だけを問題にするからである。というより、情緒(f)を書くことが苦手であるためである。
なお、ジル・ドゥルーズの「マゾッホとサド」では、サドは制度を必要とし、マゾッホは契約を必要とする。ところで著者に必要なのは自由なのである。自由、何と心地よく響く言葉であるのか。そして、本書ではサドと同様に男女の礼儀を失した者には金玉つぶしなど罰を与えなければならない。著者はサドに近い考え方を持つのだろうか。ここで本書の内容をまとめるならば、戦争における侯爵夫人の人生を描くことによって、もろくも崩れそうな現実をポルノチックに書いたものである。いや、むしろ、青臭いまんこを持つ蓬子は子を産むことによって、歴史的な経験を積むことによって、侯爵夫人のように熟れたまんこを持つようになる。即ち未来に向けてたとえ戦争が生じても女たちは多様な可能性を持つものなのである。こうした未来への可能性、生命の連続性や自由への信奉持つ著者は楽観主義者である。未来を恐れながらも未来に澱んでいた時間を著者は言葉の戯れによって楽観的に開示し、可能性に満ちた出来事が生成されることを許容したのである。自由と楽観主義をこの世界に気ままに踊り出させたのである。この著者の言葉の戯れは、子細な点にも気を配っているのは述べたとおりであり、その他の箇所の辻褄も整合させて相当に気配りしている。ただ、知性が優れすぎていて、多方面の知的な思いが込められていて、純粋なポルノ小説にも観念小説にもなりきっていない半端な作品である。私はルイ・アラゴンの「イレーヌのおまんこ」のような単純さと真摯さと空虚さが好きである。でも、本書は何のかんの言っても、どこか秀作であり、賞味期限が来ない限り読み続けられるに違いない。
以上
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2016年9月23日(金) |
題:夢野久作著 「ドグラ・マグラ」を読んで |
良い本である。読んでいて面白い。発刊当時の本書の宣伝文句は<日本一幻魔怪奇の本格探偵小説><日本探偵小説界の最高峰><幻怪、妖麗、グロテスク、エロテシズムの極>と裏表紙に書いているが、その通りなのであるが、それ以上に何かを感じさせる文学作品である。だいぶ以前に読んでいるはずであるが、すっかり忘れていた。途中でさまざまな文体の論文が書かれている、きっとそこで冗長で挫折したに違いない。上下巻であるけれども、下巻の方が文体の走りも良く謎が解き明かされていく過程が面白い。でも本当に謎が解き明かせたのかどうかは定かではない。
探偵小説の筋を書くの難しい。でも、おおざっぱな筋だけ書いてみたい。胎児は夢を見る。数十億年の生命の進化の歴史の夢を見る。そして心理遺伝していくのである。主人公は精神病患者として自らが誰であるか知らない。精神病院に閉じ込められている。隣の部屋のお兄さんと言って壁を叩く美しい許嫁である少女を殺し、母親を殺している。でも誰なるかを思い出さなければならない。若林法医学者は殺した少女を甦らせて、正木精神医学者は主人公に誰であるかを思い出させることによって、彼らは壮絶に心理遺伝の研究の成果の奪い合いしているのである。でも、もはや正木精神医学者は自殺する決心をしている。精神の解放治療場における大悲惨事ばかりのせいではない。師と仰ぐ医学者の因縁の命日でもあるためである。こうして正木精神医学者は遺書を主人公に見せて自らを思い出させようとす。なお、主人公の狂気の源は絵巻物にある。正木精神医学者は若林法医学者から母親を奪い関係することによって既にこの絵巻物を手に入れている。この絵巻物は千年前に書かれた狂気の画家の筆による六美人図なる死から腐乱していく遷移図である。ただ、本当に誰が主人公にこの絵巻物を見せて発狂させたのか、誰が母を殺したのか、主人公は自らを思い出すことによってしか解決できないのである。・・ブ―――ン・・という音が出だしと同様に最後も主人公に聞こえてくる。
「ドグラ・マグラ」という言葉の意味は本書の中に説明があるが、方言のようでもある。詳細は本書を参照のこと。さて、本書の感想であるが難しい。読んでいる最中にはマゾッホの作品を思い浮かべたが、マゾッホ以上に、<幻怪、妖麗、グロテスク、エロテシズム>が優れているのである。特に絵巻物、絵巻物を再現させる少女のエロテシズには圧巻される。フーコーの「狂気の歴史」やジル・ドウルーズの「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」に、資本主義社会においては誰もが狂人であると記述されている、この先駆けの作品とも捕らえられる。即ち、ポスト構造主義哲学の先駆的な文学作品とも言えるのである。夢野久作は1889年(明治22年)生まれである、ジル・ドウルーズは1925年生まれであるから十分成り立つ話である。ただ、そう言い切るには無理があるだろう。当時の日本での政治や文学状況はどうであったかとも関連つける必要もある。なお、本書を読み解いた本が数冊あるらしい。探さば見出すことができるかもしれないが、夢野久作の他の小説を読む方が良い。いずれにせよ日本の探偵小説の三大奇書の一つであるとのことであるが、確かにそうである。なお、三大奇書とは中井英夫の「虚無への供物」、夢野久作の「ドグラ・マグラ」、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」である。これらに加わる作品もあり、すると四大奇書、五大奇書とも呼ぶようである。最近この作品と同等な質を持つ「QJKJQ」という奇書が発刊されたとの新聞記事もあったと記憶している。
この「ドグラ・マグラ」について、ただ一つ言えることは、精神は不確定性を備えている脳髄によって実現されているということである。そして自発性ではなくて他発性によっても、夢を見ることができるということである。ただ、遺伝子などが絡むと自発性と他発性との区別はなくなり、夢を見ること、かつ精神における狂気の発現とは不確定性を確定させるある種の秩序を示しており、もはや因果律に従って脳髄が支配される以外の何物でもない。自発性も他発性も含めて、必ず原因があってこの精神に何らかの結果が生じてくるということでもある、こうした不確定性ではない因果律に基づいた精神の構造があるという思いが強まってくるのである。
以上
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2016年9月16日(金) |
題:中井英夫著 「虚無への供物」を読んで |
近代の日本の小説として純文学より、、中井英夫の「虚無への供物」や夢野久作の「ドグラ・マグラ」などの推理小説、幻想小説の方が面白いと思い、まず中井英夫の「虚無への供物」を選んでみた。結論から述べると、確かに面白いけれども、この「虚無への供物」は難しいのである。それは論理的な難しさではなくて、犯人と推定される人間の事件ごとに変わっていく移り気の多さであり、多彩に論じられる密室殺人の謎解きの複雑さである。密室殺人の謎解きは理解する気も起らなくなってくるけれども、本書は推理小説というより文学的な下地もあり、相応に読むことはできる。
新聞広告に三島由紀夫の評が「推理小説を本道に戻すもの、徹底的人工世界に、人間の情念の闇に引き戻すもの」と掲載されているが、その通りであって当たっている。推理小説を本筋に戻すものであって、小説の質に関しては述べていないところが良いのである。こうした紹介文を読むと三島由紀夫は正直な人だと思う。質的には文学的な下地がありながらも、それが生かされているとは思われない、良く分からないけれども物足りないと感じている。情念の闇に引き戻しながら幕切れは中途半端な結果に終わっている。例えば「家畜人ヤプー」は、内容は殆ど忘れたけれども感嘆したことだけは記憶している。三島の評はこのヤプーに絶賛しているけれども、そうした評ではなくて冷静な評であり、結局作者の闇に立ち向かう作者の姿勢を認めて称賛しているのだろう。三島由紀夫の好きそうな情念の闇である。なお、中井英夫は文体を作家の第一条件として重んじているとのこと。日本では、鴎外、龍之介、太宰治、久世十蘭、梶井基次郎(はちょっと落ちる)を文章の質の高い作家と述べているが、彼の心的な嗜好性が見えてくるのである。
推理小説のあらすじを述べるのは難しい。簡単に述べたい。氷室家は呪われている。祖父の代の北海道農学校での事件、洞爺丸の沈没、広島への原爆などが関係しているのか、氷室家の兄弟や親族等に密室殺人事件が次々に起こる。関係した者たちやワトソンめいた探偵らしい者たちの推理が延々と述べられる。こうして殺人と推理が繰り返らせて、登場人物も多くなり物語は発展する。そして最後に推測ではない本当の犯人が分かる。現実に耐えられないために非現実に潜ろうとするけれども潜り損ねた結果であり、供物とは死人なる捧げ物である。なお、「虚無への供物」とは詩人ヴァレリイの詩の題名である。
本書は「サロメ」などの文学的な下地がある、推理小説独特の部屋の色彩へのこだわり、名前や色そのものへのこだわり、品種改良されたバラなのか、ダイヤモンドなどの小物も織り交ぜた、また数式や経文も含まれている約700頁の長編である。推理小説の最後は暗いのが良いのか、明るいのが良いのか、静かに終わるのが良いのか、本書を読むと分からくなってくる。事件が陰惨な情念の発現であればあるほど、このように静かに終えるのが良いのかもしれない。それにしてももう少し会話文を少なくして謎解きを抑え事件性の出来事を主に記述していけば相当に良い作品になったように思われる。最後に「虚無への供物」の詩の一部を掲載したい。
『虚無』へ捧ぐる供物にと
美酒をすこし 海に流しぬ
いと少しを
―――ヴァレリイ
以上
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2016年9月9日(金) |
題:志賀直哉著 「暗夜行路」を読んで |
夏目漱石の小説などは読み終えたので、近代の日本の小説を読むことにする。だいぶ前に結構読んでいるはずであるけれども、殆ど記憶に無いのである。ただ、有島武雄の「ある女」などの作品は面白かったかったとの印象がある。こうして選んだこの「暗夜行路」を読んで驚いてしまう。読めないのである。夏目漱石の文体に慣れたせいであるのかもしれない。少なくとも一冊は読まなければならないという気持ちから、仕方がないので何頁か飛ばして一応読んで、感想文を書こうにも感想が無いのである。困ったことであると思いながら、なぜ読めないのかを思いつくままに記述してみたい。なお、本書は文庫本で約500頁である。そして感想文は夏目漱石との相対的な比較論であり、志賀直哉の近代日本文学上の位置づけ等、絶対的なものではないという点は断っておきたい。
あらすじを示すと、時任謙作なる主人公は祖父が母に産ませた子である。謙作はお栄という祖父の愛人の住む祖父の家に一緒に住むことになる。こうして多数の女や男が登場して吉原などで放蕩する。そして謙作は求婚に失敗などするが、結局直子なる妻を得る。この妻、直子が子を産むが丹毒で死ぬ。また妻直子はいとこの要と関係を結んでしまうのである。謙作は寺にこもる。そして山の中かどこかをさ迷って死にそうになる。謙作の傍で直子はこの男にどこまでもついて行こうと決心をする。なお、謙作は既に直子が憎めないからと許しているのである。
結局、志賀直哉の文章は心や感情ではなくて筋を書いている。これに対して漱石は意識の流れを書いているのである。志賀直哉の文章は結局作文であり漱石は詩文なのである。本書の解説に「志賀直哉の生活と芸術」と題して阿川弘之が、志賀直哉のような文章を書きたいのに書けない、どうしたらああいう文章が書けるかとの芥川龍之介の問に対して、漱石が「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああ言う風に書けるんだろう。俺もああいうのは書けない」と漱石が述べていると記述している。漱石の言葉には少しばかり棘が含まれている。文章は意識の流れを、観念と情緒の結びついた文章を書かなければならないのである。つまり志賀直哉の文章は思うままに浮かんだことを書いているために、意識に断絶が生じてちぐはぐな説明文になる。情景の描写にしてもそうである。会話文にしても筋の一部を担う文としてあり、会話文が独自に心情を表すものとして活きていないのである。こうした例を挙げたいが省略する。
文章は力を含んでいる。力のある文章には活き活きとして納得させる何かがある。その一つがメタファー(比喩、隠喩)の使い方にある。志賀直哉の文章にはこのメタファーが極端に少ない。更に文章には謎を含ませて、読み進めたいと思いが募るように記述しなければならない。また、誰かが、現代の小説には「〜た」で続く小説ばかりで、古語では八種類もある過去形の使い方ができずに面白くない。従って現代文ではこの「〜た」から抜け出す方法を、つまり説明文から抜け出す方法を考えなければならないのである。更に、小説の中で自らの思想を述べる場合は、古くならずに今もって課題になっているものを選ばなければならない。と言っても無理なことであるが、それは作者がどれほど根源的に思考したかにかかっている。これだけ述べても具体的には良く分からないために、漱石の文章「彼岸過迄」の冒頭と「道草」の赤ん坊の描写とを並べ比較してみたい。なお、「彼岸過迄」は病み上がりの弱弱しい文章であり、この小説での須永は、実の母の子ではなくて、父が下女に産ませた子なのである。
「暗夜行路」の冒頭文:『私が自分に祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後二月程経って、不意に祖父が私の前に現れて来た、その時であった。私の六歳の時であった。ある夕方、私は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人がそこへ来て立った。眼の落ち窪んだ、猫背の何となくみすぼらしい老人だった。私は何ということなくそれに反感を持った』
「彼岸過迄」の冒頭文:『敬太郎ははそれ程見えないこの間からの運動と奔走に少し嫌気がさしてきた。元々頑丈にできた身体だから単に駆け歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいと自分でも承知しているが、思う事が引っ掛かったなり居座って動かなかったり、又は引っ掛かろうとして手を出す途端にすぽりと外れたりするへまが度重なるに連れて、身体よりも頭の方が段々言うことをきかなくなってきた』
志賀直哉の文章はある意味で、魅力的でもある。それはメタファーを欠いた事実のみを書いていて、書き手なる作者が私と不分明であるためである。漱石の文章は筆が動いて能動的に書いている。書き手が見えるのである。こうして、書き手の存在の違いが読み進めるとどうなるのか。事実のみを書いているのであれば、叙事詩などでもない限り飽いてくる。一方、書き手の見えていた文章が、書き手を意識しなくなり主人公に心を移すことができる。こうした違いをもう少しうまく表現したいのであるが、もしや文章の力とでも言うべきものなのか、もう少し言語論などを調べないとたぶん分からずにうまく記述できない。
「暗夜行路」の赤ん坊の描写:『真赤な変に毛深い顔で、頭の先がいやに尖り、それに長い真黒な毛がピッタリとかぶさっていた。眠った眼の丸く腫れ上がっているのも気味悪かった。謙作はこんな赤子を初めてみるように思い、一寸失望した』
「道草」の赤ん坊の描写:『彼はやむを得ず暗中に模索した。彼の右手はたちまち一種異様な触角を持って、今まで経験したことのないある物に触れた。そのある物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪郭からいっても格好の判然としない何かの塊に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫でてみた。塊は動きもしなければ泣きもしなかった。(以下省略)』
この文章は志賀直哉が赤ん坊の顔かたちを書いているのに対して、漱石は生命そのものを嫌悪感を持ち、物質的に根源的に捕らえている。
なお、小説にはそれぞれ好き嫌いがあり、特に文章や筋には好みがある。私は筋の殆どない、文章だけが記述されている小説、言葉だけが流れている小説が一番好きである。なお、志賀直哉は白樺派であり、自然主義派とは異なっているとのこと。自然主義とは、例えば田山花袋の「布団」のように赤裸々に自己の感情を表すもので、白樺派とは理想主義や人道主義であるらしい。花袋の「布団」はずっと昔に読んだが記憶に残っていて、去って行った女の布団に残した匂い、残り香をかいで泣くが、こちらの方が面白そうである。こう最初からつまずくと、近代の日本の小説をどこまで読めるかは甚だ疑問である。
以上
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2016年9月2日(金) |
題:ジル・ドゥルーズ著 蓮實重彦訳「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」を読んで |
本書は4年前に読んだ本であり感想文も書いているが、古本を購入したため再読したものである。ドゥルーズ作品はほぼ読んでいるが、機会があればどの作品も再読したいと思っている。何を述べていたか殆ど忘れてしまっているためである。ただ、感想文は書いているために読み返せば相応に思い出せるはずである。本書はドゥルーズの文章としては複雑な論理の展開は成されずに、訳文は込み入っていて不明な部分もあるが思想の総体としては簡明に分かりやすい。本書はかの有名なサドの文学に比較して、それほど馴染みのないマゾッホの文学作品も、マゾッホがサドの従属物ではなくて二人の作品は異なった二つの芸術であるとドゥルーズは述べて、論証を行っていくのである。即ち「サド=マゾヒスム」という固定化された関係を解きほぐし、それぞれの言語的な機能の果たす役割、善悪や法、自我と超自我関係、更にユーモアとイロニーやエロスとタナトスなどを明晰に論述している。訳者の蓮實重彦の「解説」を読むと良く書かれている。1973年に初版が発刊された当時の哲学や思想の状況を始めとして、この状況とドゥルーズとの関係、ドゥルーズの思想的居場所、更に本書の要約を約15頁に押し込めて簡潔明瞭に記述しているためである。本書の内容を手軽に知りたければこの「解説」を読む方が分かり良い。ただ、現在はもっと研究がなされているに違いない。
サドにあっての言語的描写は、まずサディストが持つ個人的な嗜好を描写する、これが非個人的な要素に高揚として指令し、非人格的な暴力を純粋理性の観念とする。個人的要素を脱して恐るべき論証性と一体化させるのである。これには、制度を必要とする。制度とは権威と地位との構成要素でもある長期的な法規ことである。一方、マゾッホの言語的な描写は、肉体を宗教的・神学的に捉えてこれを芸術作品から「観念」へと昇華させる弁証法的な精神活動が活力源となっていて、契約を必要とする。契約とは契約者同士の意志を仮定し両者間の権利と義務を明確なものにする一定期間有効なものである。更にサドにあっては、自己の内外の自然を否定し「自我」そのものを否定する快楽なのであり、否定性と否定の概念に基礎を置いていて、これらは高度の論証機能をめざすのである。いわば論証の快楽でもある。なお、否定性とは具体例はあげないが能動的な活動において生じて、否定は純粋理性の観念のことである。一方マゾッホにおいては、例えば女にペニスが欠けてはいないという否認が重要なのである。現実を認識しているがその認識を否認し、世界を否認して、女を吊るすように宙吊りにすること、そしてその宙吊りにされたものに向かって自分を拡げること、いわば現実を超えた錯乱であり、もはや男とも女とも言い切れない中性化でもある。ここでマゾヒストは専制的女性を養成しなければならない、訓育者であることに注意する必要がある。こうしてドゥルーズは、サドは純理論的で分析的な手法をとり、マゾッホは神話的で弁証法的であり、想像力において全く異なっていると述べている。
ここではマゾッホに描かれる三人の女性像をまとめて記しておきたい。1)異教徒の女であり、古代ギリシアの女性であって、娼妓か多淫な女、つまりは無秩序の母体となるアフロディアである。2)サディストである。他人に苦痛を負わせ責め苛むことを好む女である。3)「自然」とはそれじたい冷淡で、母性的で過酷なものである。マゾッホ的夢想をかたちつくる三要素の関係は、冷淡−母性−過酷であり、氷ついたもの−感傷的なもの−残酷なもの、なのである。即ち1)と2)の中間にマゾッホの理想の女性像がある。そして母親に関し、ドゥルーズは1)原始的で子宮としてあり古代ギリシアの娼妓を思わせる子宮的な母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親、2)それから愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになる女がある、3)その中間に口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧するものだからである。彼女は最終的な勝利者となる。すなわちマゾヒスムに固有な要素は、口唇的な母親――子宮的母親とエディプス的母親の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死ももたらしもする女が理想像なのである。結局、マゾッホにおいては冷淡さを介して女は残酷さと感情を生み出し、男に対応する者と成るのである。
ここで、カントの善と法、これに関連したイロニーとユーモアを論じた箇所も面白いが、エディプスに関連した精神分析についてのみ記述したい。「アンチ・オイデップス 資本主義と分裂症」を再読する場合に少しばかり必要な思想となるためである。フロイトのサディスムの超自我とマゾヒスムの自我に関する解釈からドゥルーズは論じる。フロイトのサディスムは超自我に欠け、逆にマゾヒスムはサディスムへと変換可能な超自我に苦しんでいるということ、即ちサド=マゾヒスム的実体が自我に対する攻撃性=反転を行うという観点から考察すると、攻撃性を超自我へ転移させることで、サディスムのマゾヒスムへの推移が可能となる考え方である。ただ、これは結局サド=マゾヒスム的な単位としての見方にしかすぎない。マゾヒストに欠けているものがあるとするなら超自我が欠けており、サディストは超自我のみが備わっているのである。そして、サディストには犠牲者たるものの自我以外には自我を持たない。一方マゾヒスムにおいては、超自我は能力を失っていないけれども、鞭を振るう女性が超自我を具現化し象徴しているのは、もはや否認の影響によって死んでいる超自我なのである。この超自我を鞭の対象としてまたとない被害者に仕立て上げているのである。
こうしてマゾヒスムにおける父親と対立する母親の自我との関係が明確になる。フロイト批判など詳細は省くが、結局母親のイメージと自我が共犯性を持ち、さまざまな苦痛の帰結として単性生殖を肯定することになる。サディスムに偽マゾヒスム性があるように、マゾヒスムにも固有なサディスムがあるが、なんらの関係も持たない。サディスムとマゾヒスムはその違いを明確にしている、もはや異質な構造であって相互に変換可能な機能ではないのである。こうしてドゥルーズはマゾヒスムにおける超自我の破壊の物語とサディスムにおける自我の排除の物語について語るが、結局サド=マゾヒスムという単位性は精神分析上の固有の論拠ではなくて、前フロイト的な伝統に基盤を持っていると主張するのである。
マゾッホとサドは小説技法としても異なっている。マゾッホが冷淡さのうちに美学的宙吊りを発生させる否認の手法を用いて自己表現を行う幻影とサスペンスの巨匠であるなら、サドは猥雑性と論証の無感動な厳密性とを併合することに自己を表現する論証力の巨匠でもあるとドゥルーズは述べている。何点か、マゾッホの作品は読んだが、子供の時に横溝正史の小説を読んだ時のように胸躍らせわくわくさせる小説である。ドゥルーズが埋もれていたマゾッホの小説作品を見出したのは彼の思想の根幹に触れる記述があるためであるに違いない。即ち、否認を通じた美しい宙吊り、冷淡さを通じて残酷さを生み出す女にドゥルーズは哲学思想を見出しているはずで、それはドゥルーズの思想の核心に迫るものであるはずである。ドゥルーズの著書が大幅に記述量を増やしても、思考は宙吊りへと向かい、冷淡さを通じてこの世界を描いているためである。ただ、相応に割り引かなければならないかもしれない。なぜなら、宙吊りの内に可能性を夥しく見出しているためである。まるで水が溢れ出るように生への肯定もほとばしり出している。結局、この世界の可能性とは、宙吊りの呪縛を解きほどくことのできる概念の創造であるはずである。ただ、こうした結論は単なる推測でしかない。
以上
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2016年8月26日(金) |
題:藤村由加著 「古事記の暗号」を読んで |
古本屋で偶然見つけた本である。表題の通りに古事記についてその筋書きを読み解き書いた本である。思いもかけず、こじつけではなくて古事記に記述されている物語の本当の謎が解けたようなような気持ちになる。無論、解き過ぎの感もするところもある。よくは分からないが結構本書の謎解きは正しいと思われるが、本書の内容を感想として説明することは越権行為でありできないだろう、謎解きの手法とその手法を用いて解いた古事記の筋のみを紹介したい。なお、学会には黙殺されているとのこと、そのうちには一部認められるかもしれない。なぜなら、日本国の正統な建国を記述しようとした古事記などを、これらの書物が記述されたその趣旨に沿って明快に謎解きを行っているためである。
著者はこの本以前にも記紀万葉の世界の謎解きの本を出版しているとのこと。そして、トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックス(通称トラカレ)の女性筆者四人の一文字ずつ取ったペンネームであること、それ以外はよく分からない。暗号の解読法は<易>と<陰陽五行>の思想に則っている。これは以前「蛇 日本の蛇信仰」の感想文を書いたが、著者の吉野裕子が詳しく説明した本を発刊しているとのこと。これらの思想の概要は分かってもその内容は難しくてきっと理解できていない。重要なのは、謎解きにはこの思想に加えて、中国の漢字は無論、韓国語なども習い、多言語の音を重要視した点である。なお<陰陽五行>とは、そのうちの木・火は陽に、金・水は陰に属し、土はその中間にあるとして、天地の変異や人事の吉凶を判断する哲理である。
解いた物語とは主に大国主神についてである。大国主神が主人公と言ってよいだろう。「いなばのしろうさぎ」の島に渡ろうとしたその意図から、大国主神の担いでいた袋の中身まで多岐にわたる。そして、スサノオによる「やまたのおろち」、高天原と葦原中国や黄泉の国との関係について、なお根の堅洲国も含まれている。大国主神に襲い掛かる蛇の部屋や百足や蜂の部屋で寝るなどの四つの試練、更に大国主神と嫡妻なる須勢理毘売、沼河姫、八上姫、つまり三人の女との関係が記述されていて、この箇所が一番面白い。実はずっと以前から、岩波の古典文学全集の「古代歌謡集」の最初に出てくる歌謡「むばたまの 黒き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 ははたぎも これは適はず・・」がどうして謡われたのかずっと分からなかったのである。そのままずっと放っておいたが、なるほど、こういうことだったのかと理解できる。
こうして本書は、小人の神である、少名毘古那神と大国主神との関係による国作り、そして作った国なる葦原中国を高天原へ国譲りする話へと進ませ終える。なお、高天原は天つ神のいるところであり、葦原中国は地下の黄泉の国との中間にあるいわば地上の世界である。葦原中国は、結局天照大御神に治められることになるのである。大国主神は国譲りをした後、潔く出雲大社に身を潜めて、国つ神たちをまとめている。大和まだ現れていないが、この二大勢力の間で何らかの争いがあったのである。ただ古事記には詳しく書かれていないと著者は述べている。本書は一部小説形式にもなっていて、容易に読める。無論、<陰陽五行>に基づく説明は省いてではあるが、それにしても古事記などがこうした<陰陽五行>の思想に基づいていたとは新鮮である。ただ、古事記は漢文で書かれているのを思い出して、この漢文の読みにくかったのではなくて、殆ど読めなかったことを懐かしく思い出している。
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2016年8月19日(金) |
題:ジル・ドゥルーズ著 宇波彰訳「プルーストとシーニュ 文学機械としての『失われた時を求めて』」を読んで |
久しぶりにジル・ドゥルーズを読んだら難しい。『失われた時を求めて』は二回読もうとしたけれども二回とも挫折している。その影響があるのかもしれない。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットは殆ど読んでいるために、『カフカ――マイナー文学のために』や『消尽したもの』はそれほど難しくなかったと記憶している。そこで、本書の中からの引用文を多用して感想文としたい。シーニュ、真実、本質などの言葉が何を意味しているのかが一番難しいのである。そしてこれらを表現している文章の表現が、特に修飾関係がよく見えないが致し方ない。なお、文学機械などの概念はさほど難しくはなく、分かり良い。本書は1964年に発刊されている、「ニーチェと哲学」や「カントの批判哲学」の発刊と同じ年で、ドゥルーズには初期の著作物である。なお、日本版は1974年に発刊されている。
「第二版の序」が端的に本書の内容を表している。『プルーストの作品全体が、無意志的なものと無意識的なものを動かす、シーニュの経験によって支配されているように見える。これが本書の立場である。そこから解釈としての『失われた時を求めて』という見方が生まれる。しかし、解釈は、シーニュそのものの生産の裏側である。芸術作品は、単に解釈するものではなく、また、解釈のために、シーニュを発するだけのものではない。芸術作品は、規定できるプロセスでシーニュを生産する。プルースト自身も、彼の作品を、読者に効果を与えるはずの、さまざまな系列のシーニュを生産する、効果的に機能できる装置または機械と考えている。第二版で追加された第八章で、私が分析を試みたのは、このような視点にほかならない』これで感想としては十分なのであるが、ドゥルーズの思考の後を少し追いたい。
なお、シーニュについては訳者あとがきで宇波彰が、『<シーニュ>とは、<意味を持っているもの>のことであり、記号・しるし・合図・兆候など、さまざまな訳語を与えることができるが、いずれも原語の持つ意味を完全にカバーできないので、<シーニュ>のままにしておいた』とのことである。ドゥルーズはまず『失われた時を求めて』の統一性は無意志的な記憶の提示ではなくて、ひとつの習得の物語であるとする。習得とはひとつの物質・対象・存在を、あたかもそれらが解読・解釈を求めるシーニュを発するように考えることなのである。『プルーストの作品の基礎は、記憶のはたらきの提示ではなく、シーニュの習得である』とする。こうしてドゥルーズは、社交界のシーニュ、愛のシーニュ、印象または感覚的世界のシーニュを見出し、さまざまな世界を構成する芸術世界のシーニュにたどり着くのである。これらのシーニュについては全編にわたって詳しく述べている。
そして、『真実を探求するとは、解釈し、展開(説明)することだとし』では『失われた時を求めて』では真実は常に時間の真実であるとし、「失われた時間」と「見出された時間」の区分の必要性を指摘し、過ぎ去る時間ではなくて、ひとが恋するなどによって失うところの時間、そしてこの失われた時間の中に見出された時間に、絶対的に根源的な時間があり、これらの時間の線がいくつもシーニュを混合させていると述べている。なお習得の主観的な解釈が観念連合の全体を再構成し、この主体の主観的な観念連合の中にシーニュは具体化されているとする。なお、観念連合とは観念と観念の結びつきであり結びついたものである。こうして習得の最後の段階が言葉であり最終的な啓示が本質なのである。この本質は芸術作品や文学などによってのみもたらされる。なぜなら、本質はシーニュと意味との真の統一を構成させるためである。このため社交界や愛、感覚的シーニュのどれもが本質を与えることはできないのである。ただこれらも本質を追求できる。こうしてドゥルーズは本質と差異と反復について論じる。本質は差異なのであり、愛のシーニュで本質はセリー的なかたちでなら具体化される。セリーとは一般的には音列を意味し、綴りで言うなら章の列とでもいうべきであろう。愛は無意識のうちに対象の内に音列のようなわずかな差異を見出すのである。
なお、本質は無意志的な記憶の中にも実在化または具体化される。なぜなら本質は現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である、この潜在的なもののうちに芸術の場合と同じく本質は宿っているのである。本質的なものは内的なものとなった、内在化された差異性であり、芸術が想起と類似的であるように、無意志的記憶が隠喩と類似的であるためである。なぜなら本質は主体の心における究極的な性質であり、この世界を視点によって表現するけれども、この視点とは内的な差異そのものであり、主体は絶対的に差異のある一つの世界を表現する。また、本質の持つふたつの力として差異と反復が留まっているなど、結構、差異と反復の思想を繰り返し述べている。本質は常に差異とも言っている。この本質がなぜ芸術作品に具体化されるかも語っている。これらは1968年発刊の「差異と反復」の思想につながっているのであろう。なお、知性だけがシーニュを解釈できるとする。
ソドムとゴモラ述べる際の植物的隠喩の多用や同性愛、両性具有性を愛の本質と関連つけてドゥルーズは述べている。虚は真実であり、愛の真実であり、愛のセリーの連続性にソドムとゴモラのシーニュを産み出すのである。虚とは何か、男と女が交わるのは外見上であり、同性愛のセリーを絶えず産み出し、それぞれ男女の役割を多重に担っているのである。『失われた時を求めて』の部分と全体に関して述べるにあたり、「閉じられた壺」と「半ば開かれた箱」という概念を提示している。「閉じられた壺」とは『ひとつの部分と、連絡のないそれに隣接したものとのものとの対立を示す』のであり、「半ば開かれた箱」とは『含むものと共通の尺度を持たない踏まれるものの位置を示している』のである。『失われた時を求めて』の構造を「閉じられた壺」と「半ば開かれた箱」によって構成されていて全体の機能を持っていずに、細分化や断片化されたままでありながら、その部分にはなにも欠けたものはないと論じている。
こうしてドゥルーズは『『失われた時を求めて』は単に道具だけではなくて、ひとつの機械である』と断言する。『現代の芸術作品は、ひとつの機械であり、機械として機能する』なぜなら『なぜ機械なのか。このように理解された芸術作品は、本質的に生産的であり、それも真実を生産するものだからである』と言い、『芸術作品は、生産であるために、意味という特殊な問題ではなく、使用とという特殊な問題を提起するのである』そして『すべての生産はひとつのシーニュから出発し、無意志的なものの深さとあいまいさを前提とする』と述べている。つまり、芸術作品は意味ではなくシーニュから発する機能的真実の生産物とういう見方の重要性を主張しているが、この辺りは結構詳しく論じられている。なお、作品の理解は作品の構造によって条件付けられ、『新しい言語上の約束によってのみ、新しい意味においての一つの全体なのである』と言い切っている。こうした考えはプルーストの文体にまで及んでいる。そして『・・それらの部分を全体化しないままで、それらの全体であり、統一しないままで、それらすべての部分の統一性であるという力を持っているのである』と結んでいる。
最後に『思考を強制するものはシーニュである』『思考するとは、常にひとつのシーニュを解釈すること、つまりそれを、説明・展開・解読・翻訳することである』と述べていることは大切である。このジル・ドゥルーズ著「プルーストとシーニュ」は文学作品の解釈上の技法として応用できる以上に、その後のドゥルーズの思想的な展開に、特に差異と反復、さらには機械論、生産論、本質論などばかりではなく細かな用語も含めて重要な概念を含んでいる。これは『カフカ――マイナー文学のために』や『消尽したもの』には無かったものであり、本書は細部まで良く理解しておいたほうが良さそうであるが、他の文書にてドゥルーズの思想を確認するのも良いはずである。
以上
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2016年8月12日(金) |
題:マシュー・バロウズ著 藤原朝子訳「シフト 2035年 米国最高情報機関が予測する驚愕の未来」を読んで |
こうした硬い本は苦手なのであるが、題名に引かれて読んでみた。硬いとは文章がぱさぱさして詩文とはかけ離れていることを言うけれども、やはり硬くて読みにくかったけれども、内容には考えさせるものがある。ただ、この本の中身をそのまま紹介することは著作権上たぶんできず、そこでこの本で扱っているテーマを示し、この本の記述時点からの状況の変化を含めて少しばかりの感想を述べたい。この本が書かれた年月日が分からないが、マシュー・バロウズがCIAを辞めたのが2013年、訳者あとがきが書かれたのが2015年10月となっているため、2014年後半か2015年初めと推測される。
なお、マシュー・バロウズはCIAに勤めていて、NIC(国家情報会議)という方が正しいようだが、アメリカの情報機関が集めてきた情報を整理し、大統領選にあわせて4年ごとに未来の予測する報告書を作成し、大統領にこの報告書を通じて15〜20年先を見据えたシナリオの提言を行っていたとのこと。本書の構成は、序章「分裂する21世紀の世界」、第1部 メガトレンドーー未来への大転換はすでに始まっている、第1章「個人」へのパワーシフト、第2章台頭する新興国と多極化する世界、第3章人類は神を越えるか、第4章人口爆発と気候変動、第2部 ゲーム・チェンジャーーー世界を変える四つの波乱要因、第5章もし中国の成長が止まったら、第6章テクノロジーの進歩が人間の制御を越える、第7章第3次世界大戦を誘発するいくつかの不安要因、第8章さまようアメリカ、第3部2025年の世界、第9章核の未来、第10章生物兵器テロの恐怖、第11章シリコンバレーを占拠せよ、終章新たな世界は目前に迫っている、との構成になっている。なお、第3部は短編小説形式である。
私が関心を持ったのは、第1章「個人」へのパワーシフトであり、ゲーム・チェンジャーーー世界を変える四つの波乱要因、それに若干、第2章台頭する新興国と多極化する世界、第4章人口爆発と気候変動、、第8章さまようアメリカである。なお、私は、制度や法に安定性はなくて、常に変動するものである、かつ差異を伴い反復するものである、そして時にはカタストロフィが生じるとの基本的な考え方を持っている。まだ完全な思想とはなっていないが、ジル・ドゥルーズなどの影響を受けて、現在はそう考えている。なお、感想は面倒な点は避け簡単に示したい。
一番関心を持ったのが、第1章「個人」へのパワーシフトである。民主主義国家での個のパワー、社会主義国での個のパワーである。減少する中間層のパワーが民主主義の悪夢を生み出し、中進国の罠に陥って貧困層のパワーが増大する社会主義国の危機である。インターネットの普及によって「個人」の意見は拡大しており、かつ民主主義国では中間層は貧しくなり極端な意見に走りやすくなる。社会主義国では狂信的な信者が暴走する。どちらも国家体制に影響を与えずにはいられない。確かデリダは、来るべき民主主義とはまだ来ない民主主義であると言っていたはずであるが、これは民主主義の脱構築の必要性を述べていたと記憶いている、これは民主主義なる空間に極度に気ままに散乱する個人の粒子を置けるかとという問題でもある。同様に社会主義国家という統制された空間に存在できる個人という粒子はどういう性質を持ちどう変化していくかということである。こうしてみるとハンナ・アーレントの個々に繋がりを持たない熱狂的な集団の恐ろしさを指摘していることは今なお生きていると思われる。インターネットなどの興隆によって現代社会では個と個の直接的な結びつきは減少しており、また一方向に走りやすい狂信的な群集心理も生じやすい。また、それは操る者を生み出して民衆を容易に操ることができることでもある。ハンナ・アーレントの指摘は組織化されていない個々人の集団が事を引き起こすのであり、それが情報を操る者によって逆に監視下の体制に組み込まれ、恐怖の組織体制の元に生き続けなければならないことである。これは極端な例であるが、こうした「個人」へのパワーシフトが少なからず、社会体制・社会制度そのものに多大な影響を与えることには注意しなければならない。というより、現に生じていることでもある。
人口と生産高、そして生産による所得の分配と人間の生活水準との間に何らかの関係があるはずなのである。技術が進歩して少人数で生産高が増えると多くの人を養えるが、多くの失業者も生まれるはずである。生活水準の向上によって必要かつ高品質な生活用具や希少価値な物品を生産する労働者の必要性は増えるが、それ以上に職の無いものが増えることでもある。つまり高い生活水準の恩恵に服せる者の数よりも貧困者が増えることになる。私にはこの人口と生産高、それに生活水準の相互の諸関係がこの世界を成り立たせている根本であるとの思いがある。これに人口の増加と資本による利潤の追求が追い打ちをかけているる。これを解きほぐすことは、簡単なように見えて、結構変数が多くて難しいのである。確かに中間層の疲弊が生じている、と言うことはより一層富める者と貧しき者との差が広がって、貧しき人々の不満が増大する。人口の増大による生産高の偏在が原因とも思われるが、人口が高止まりから減少し始めている先進国では、技術の一層の進歩による生産高の向上なども関連している。これらの諸現象をどう理解するのか。第1章「個人」へのパワーシフトの原因は、主に資本による利潤の追求にこの人口の問題が関連していているはずなのである。これらの諸関係に基づいて経済環境がどのように変貌していくか、示してくれる本があると良いと思っている。
世界を変える四つの波乱要因として、「もし中国の成長が止まったら」、「テクノロジーの制御が人類の制御を越える」、「第三次世界大戦を誘発するいくつかの不安要因」、「さまようアメリカ」の四つをあげている。「テクノロジーの制御が人類の制御を越える」以外はすべて政治的、経済的、軍事的な問題として関連している。本書では波乱要因の地域として、東アジアや南アジアばかりではなくて、中東、ロシア、更に欧米経済圏とアジア経済圏の貿易体制にまで言及しているのが注目に値する。「もし中国の成長が止まったら」と「さまようアメリカ」とは、結局、経済ばかりではなくて、政治的な中国の覇権主義とアメリカの内向き姿勢が関連している。この問題だけを若干取り上げたい。昨今中国には悪いニュースばかりが出てくる。アメリカによる輸入する中国製鉄鋼への高関税の実施、ドイツのメルケル首相による中国が求める世界貿易機関(WTO)における「市場経済国」への認定の不明確な言動、それに南シナ海における国際司法裁判所による違法性の指摘である。更に中国内部の権力闘争がある。簡単に結論を言うなら、中国経済が円滑に消費経済へと移行でき、国際社会のリーダーの一員として的確に行動できるかにかかっている。だがそれは無理というもので、中国経済の成長は中進国の罠に陥り高齢化の影響もあって下降する、もう高成長は望めない構造になっている。それに、まだ、消費型へ経済移行しようとしている過渡期にある。むしろ消費型へ経済移行は無理であって、これからは社会的な混乱・波乱も含んで推移するのかもしれない。内向きのアメリカが中国にどう対処するかも今後の展開を左右するはずである。即ち、政治的、経済的、軍事的な問題がアメリカや中国の二国間のみならず世界の国々を巻き込んで、国家間を多様な構造として保持していくのか、単純に世界を二分割へと向かわせるかにかかっている。無論、世界は多様な国家の構造体として抽象的な目標を定めながらも明確な目標を持たずに、内部的な混乱を抱えながら、自らの国家の利害関係を中心に据えて推移していくはずである。
最後に重要な点を述べたい。世の中は良く分からないもので、ひび割れたレールの上を曲がりなりも安定的に走行していた列車が、一気に脱線することもあり得る。ひび割れは表面上は正常と見えていたのに、内在化していたのである。この脱線を本書はどうみているか、視点の確かさを感じさせながらも、その根拠はもう一つ説得力に欠けるとも思われる。それは取り上げているテーマの多さである以上に、報告書ではもっと異なったシナリオも含めて膨大にかつ緻密に記述されていると思われるためである。つまり、容易に開示できないまだ異なったシナリオを持っているはずである。脱線した列車を、重機を使い埋めることは簡単である。ただ重機を操作させ埋める命令を下せる国家が脱線後もありえるのかどうか、脱線をまさにカタストロフィを実現する危機的レベルとして把握する必要がある。本報告書に記述されていないが、たぶん原書もしくは実際の予測報告書には記述されているはずのカタストロフィ危機群が、本来の報告書の一番重要な点であるはずである。直接的に言うなら、それは未来の国家群の形態と力のバランスとの微妙な均衡がどうなっているかである。
以上
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2016年8月5日(金) |
題:夏目漱石著「文学論」を読んで |
夏目漱石の読書もこの「文学論」にて終りにしたい。漱石の書簡集など読んでも、彼の感情の推移を知ることはできるが研究者で無い者にはそんなに面白いものではない。短編も長編も文学論や講演も読み終わったのである、読むとしたらこの「文学論」などの再読である。それにしてもこの「文学論」は、旧字体と英文とが混じり読みにくい。抜き書きした英文の小説の感想を漱石が述べていたとしても、すぐさま分かるものではない。とにかく全部の文章を読み下すのには時間を必要とする。そのためこの感想文は、「文学論」をさっと斜め読みしたものである。また、これよりずっと後に講演した「文芸の哲学的基礎」がこの「文学論」の枠組みを概説していて、かつ更なる文学論を含んでいて分かり良いはずである。この「文芸の哲学的基礎」については、既に短いけれども感想文を書いている。『 』は引用文である。
漱石がこの「文学論」を書いたのは、「私の個人主義ほか」にも書いているが、英文学に裏切られたような気持ちに煩悶した結果、文学を科学的に解明しようとした結果である。ロンドン留学中から記述を始め、帰国後十年計画で記述しようとしたが、小説を書く面白さなどで時間を取られ、記述を放棄せざるを得なくなったのである。結局、この「文学論」は帰国後も書き続けて講義も行っているが、友人中川芳一郎に編纂その他の一切の整理を委託して出版している。この辺りは「文学論」の解説を読むといろんな経緯があるようである。『向後、この「文学論」のごとき学理的閑文字を弄するの余裕を与えざるに至るやも計りがたし』と述べて今後の記述修正を行う意志のないことを示している。また『この一遍は余がこの種の著作に指を染めた唯一の記念として、価値の乏しきにも関せず、著作者たる余にとっては活版屋を煩わすに足る仕事成るべし』と述べていて、価値を認めていない。なお、友人中川芳一郎とは講義を聞いていた学生であって、彼の講義ノートを基にした記述に漱石は不満を持っていて、時間を割いて自らが修正も行っているのである。
この「文学論」の内容も大切であるが、それ以上に大切なのはなぜ漱石はこの「文学論」を精魂尽き果てるまでに記述しようとしたかである。結論を簡単に言うなら、漱石は道徳学、倫理学者である、いやむしろ生の哲学者であったのである。英文学に裏切られながらも科学的論理によってこの英文学を極めようとするのは、さまざまな軋轢によって経験した人生の乖離そのもの、文明開化に邁進する日本に生じている亀裂そのもの、加藤典洋の書いているように、明治以前と以後の世界に身体を裂かれ、先の過去を切断された「根無し草」として生きざるを得ない日本人そのものの解決策を必要としたのである。こうして、漱石はW.ジェームズやベルグソン哲学などを読破し自らの思想とすべく咀嚼し、かつ自らの思想も加えて哲学を構築しようとしたのである。この哲学が「文学論」して表されているのであるが、哲学と文学とを同時に論じることはあまりにも広範囲であり、境界が曖昧となり手広くなる、結局構成的な観点からすると収拾がつかなくなっている。漱石自身の言葉によると「文学論」は記念と言うより失敗の亡骸であり、しかも畸形児の亡骸である。ただ、とても切なく愛おしい亡骸である。ただ、この亡骸によって漱石は作家としての思想的礎を築いて、その後の小説作品を展開している点は見逃せない。
本書には中川芳一郎の原稿に漱石が朱書きを入れた写真が掲載されているが、殆ど真っ赤であり気違いじみている。つまり、「行人」に記述されている学者なる一郎のみみずのようのように小さな字が、漱石のロンドンにて記述したノートの字そのものであり、一郎の疑惑する精神は漱石の経験したこの人間や人生に対する、この日本に対する、この世界の在り方そのものに対する猜疑心そのものに他ならない。こうしてみるとベルクソンが「生の哲学」の系列に入っているとするなら、漱石も「生の哲学」の系列に入れなければならない。江藤淳が言うように漱石の深淵はその通りにありながら、ただ単に暗いイメージにあるのではなくて、「生の意味」そのものを求めている表徴であり、サルトルを代表とする「実存主義」哲学の先駆者とも言えるのである。いわば「生の意味」を深め追求して行くのが漱石の作品群であり、「道草」にて初めて妻の御住は、お父様は何も分かっていない、と言って赤ん坊の赤い頬に幾度か優しく接吻するのである。生まれたてのぶよぶよとした寒天のような赤ん坊のイメージはここで初めて生きた人間の赤ん坊に転換しているかに見える。結局漱石は論理と観念を超えた生きている生そのもの内に、意味を見出していると言っても過言ではない。また「明暗」では相対的な愛と絶対的な愛とを観念として闘わせているけれど絶筆となって残念であるが、両方の観念とも敗北するはずである。お延は絶対的な愛という観念を持つのではなくて、愛という情緒を持たなければならなかったのである。お秀は相対的な愛という観念をもって攻撃するのではなくて、相対的な愛の内に生きて、どの愛も認めなければならなかったのである。ただ、清子との関係はどうなるのか、この結末が何も起こらないという悲惨さで終わるなら、それはいずれにせよ観念の敗北である、と同時に切ない愛という情緒が要求される表現で終わるはずである。
ここで「文学論」の内容について簡単に触れたい。ここで、目次をざっと紹介しておきたい。第一遍 文学的内容の分類、第二編 文学的内容の数量的変化、第三篇 文学的内容特質、第四編 文学的内容の相互関係、第五編 集合的F である。
出だしが『凡そ文学的な内容の形式は(F+f)なることを要す』と記述されている。『Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに付着する情緒を意味す』なのである。こうして「文学論」は科学的方法を持って、心理的な説明や意識に感覚を論じることから始まる。まるでベルクソンの意識や感覚論やスピノザの精神や感情論を彷彿させる。確かに彼らの影響を受けて漱石はこれらの思想を自らの思想の内に咀嚼し、自らの思想として展開している。意識について詳しく論じていることが、文学論というより哲学論に近い印象を持たせる。おおざっぱに言うと、これが、第一遍 文学的内容の分類、第二編 文学的内容の数量的変化 における記述内容である。ただ、観念Fと情緒fの割合が変化するものとしていることに注意されたい。これは文学的な内容というよりも意識そのものに対する記述でもある。ベルクソンの持続なる瞬間、漱石より後になるがレヴィナスの瞬間に似て、漱石が「われわれの生命は意識の連続であります」と述べているのと同等な意識の連続性を構成する瞬間がその内容を変動させていくことでもある。なお、「文芸の哲学的基礎」で述べている空間と時間については、章を設けて特にこれらの概念を記述していない。なぜか、漱石には難しかったこともあるが、これらを入れると拡散して行く文学論がさらに収拾つかなくなるためであろう。ともかく、意識や感覚は連続でありながらその内容は移り動くというより、その割合を変動・変化するものと漱石が捕えていることがとても重要である。
第三篇 文学的内容特質、第四編 文学的内容の相互関係 では、言語や文学と科学上の真などを述べて、更に文学的技法、投出語や投入語、対置法や写実法、調和法などについて記述している。言語についてはこの無限の意識連鎖のうちに意識的と無意識に辿り歩く伝達器と捕えていることが関心を引く。つまり漱石においては、語られる言語も記述される言語も瞬間のうちに発せられるものなのである。そして文芸家は意識の連続の、この終わりなき連鎖の内から随意に切り取って表出できる権利を有するものである。そして文学者の手腕は『物の本性が如何なく発揮せられて一種の情緒を含むに至る時は、即ち文学者の成功せる時なりとす。従って文学者があらはさんとする力むる所は物の幻惑にして、躍如として生あるが如くこれを移し出すを持って手腕とす』ことなのである。
第五編 集合的F では、まずFの差異について『Fの差異とは時間の差異を含み、空間の差異を含み、個人と個人との間に起こる差異を含み、一国民と他国民との間に起こる差異を含み、又は古代と今代と、もしくは今代と予想せられたる後代との差異をも含む』ものなのである。そして一時代の意識である集合意識について論じている。漱石はこの意識が推移していくとの考え方をしている。こうして振り返ると、漱石は「文学論」にて哲学的な思想を含めた文学論を記述していて、それを「文学論」を発刊した後に結実させていることが分かる。即ち、個々の差異を認めることが大切であり、愛と道義を重んじる倫理的な思想家であることが良く分かるのである。漱石は個人と国家の自由度は時の状況に置いて変動すると言いながら、強制する国家が嫌いなのであり、あくまでも個人主義的な思いに重きを置く思想の持ち主だったのである。
もし英文学を目指すなら、漱石を詳細に調べたいのなら、この「文学論」に引用されている英語の文章を読み解き、漱石の感想がどういうものか味わい調べるのが良いと思っている。それ以上に、この「文学論」が一番貴重な漱石自身が自らの思考をさらけ出した内部資料なのである。漱石がこの思想の礎に基づきかつ実践しようとしていたことが分かる。なお、漱石が小説の技法を重んじていたことは重要である。この技法が作品の内に謎が秘めることもあるはずである。ただ、この謎は技法上の謎であってその背後に何かあるかと考慮することはさして意味がない。谷崎潤一郎が小説技法として重要視する余白と同等に、小説に余韻と深みを与える効果を生み出しているだけである。従って個々の漱石作品の謎解きを行うのが漱石評論の目的ではなくて、漱石の作品全体を哲学的概念で切り開かなければならない。個々の作品を証拠として、この哲学的な解釈のみが評論と成り得て漱石を称えるはずである。最後に、万が一私が漱石論を書く場合があるかもしれず、「決して訪れない漱石の破局」、「漱石の女たち」または「百合の花の匂いに酔う漱石」や「作家漱石と登場人物漱石」、「生の哲学者漱石」、「実存思想の先駆者漱石」の論文題名はリザーブしておきたい。
以上
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2016年7月29日(金) |
題:夏目漱石著 「私の個人主義ほか」を読んで |
夏目漱石の講演などをまとめた本である。初めに加藤典洋が「近代の日本のリベラリズム」として、夏目漱石を論じているがうまくまとめていて分かり良い。さらに「『文学論』序」、「文芸の哲学的基礎」、「道楽と職業」、「現代日本の開花」、「文芸と道徳」、「文展と芸術」、「素人と黒人」、「私の個人主義」、「思い出すこと」と九個の講演や論文などが掲載されている。重要なのは「『文学論』序」、「文芸の哲学的基礎」と「私の個人主義」である。そのため、他のものを初めに簡単に説明して、その後重要な三つについて少しは詳しく紹介したい。
加藤典洋の書いた「近代の日本のリベラリズム」が良いと言ったのは、ふうっと始まる漱石の講演の特徴をうまく捕えていること、ロンドン留学を漱石の思想の核心と捕えていること、そして明治以前と以後の世界に身体を裂かれ、過去を切断された「根無し草」として生まれ出たこと、更に本書の要約も兼ねているためである。特にロンドン留学を中心にして、英語ではなくて英文学に固執した漱石の思いが「文学とは何か」との自らの問いに「文学論」として記述し把握しとうとしたとの指摘である。漱石自身はこの「文学論」を失敗の亡骸、奇形児の亡骸と述べている、この経験を積んで、漱石は西洋から移入されたのではない「自己本位」などの内発的な独自の個人主義的な思想を生み出している。即ちリベラリズムの内発性が漱石にはあり、この「根無し草」が漱石の創作の礎になっていることを加藤典洋は端的に捕えている。漱石を論じるに当たって、個々の作品の論評も大切であるが、これらの作品を生み出させる原点を捕えなければならない。もっと哲学的に漱石を論じなければならない。加藤典洋はその一端を確かに捕えていると思われる。
ふうっと何気なく始まる漱石の講演が次第に難解になっていくこともある。漱石の律義さでもあり生真面目さでもあるのだろう。聞いている者が眠くならないかと心配にもなるが、魅力ある講演でもあるに違いない。さて、「道楽と職業」では芸術家とか学者はわがままにおいて彼らの道において成功する、彼等にとって道楽がすなわち本職なのであると述べている。「現代日本の開花」では、西洋の開花は内発的であるが日本の現代の開花は外発的であると述べている。更に、意識と一般社会の集合意識について述べている。「文芸と道徳」では自然主義と浪漫主義の文学における道徳を述べている。これらは偽りを書いていて、非芸術的な点を指摘する。即ち人間を書いていなければ漱石にとって不道徳なのである。「文展と芸術」では文展に絵画を鑑賞してその絵画のいくつかについて感想を述べている。「素人と黒人」では歌舞伎座に関しながら素人と黒人(くろうと)の特徴について論じている。なお、漱石は日本の歌舞伎芝居を容赦なく攻撃したと書いている。なるほどと納得する。「思い出すこと」は一般の文庫でも発刊されている、修善寺大患後に思い出として記述した本である。
「『文学論』序」で、漱石は卒業時に英文学に欺かれたごとき不安ありと述べている。英文学は漢籍と同様にはいかず、異質なものであり全く趣の異なった文学なのである。異国の人に英文学を英国人と同等に理解することは不可能に近い。従って、漱石はロンドンでは根本的に文学とは何かを答えんと務めたのである。生活費を切り詰め本を読んでこの時には周りから神経衰弱や狂気と言われながらも勉強に邁進し続けたのである。実際、神経衰弱であったらしい。この「文学論」は帰国後も書き続け講義も行っている、そして友人中川芳一郎に編纂その他の一切の整理を委託して出版している。この辺りは「文学論」の解説を読むといろんな経緯があるようである。『向後、この「文学論」のごとき学理的閑文字を弄するの余裕を与えざるに至るやも計りがたし』と述べて今後の記述修正を行う意志のないことを示している。また『この一遍は余がこの種の著作に指を染めた唯一の記念として、価値の乏しきにも関せず、著作者たる余にとっては活版屋を煩わすに足る仕事成るべし』と述べていて、価値を認めていない。この文学論については別途感想を書きたい。
「文芸の哲学的基礎」では、明らかにベルクソン哲学の影響を受けている。どうもW.ジェームズからベルクソンを知ったらしい。生命は意識の連続から始まると述べ、この意識、記憶、そして時間と空間について語る。意識現象に付着しない因果はから(空っぽのこと)の因果であるとまで言い切る。そして我に対する物を空間に放射して、分化作用にてこれを区分する、即ち我を体と精神に分化する。そして精神を知、情、意の更に三つに分けて論じている。文芸家の理想とは、感覚物そのものに対する情緒、そして感覚物を通じて得る知、情、意なのである。ここで重要なのは、文芸家の理想は、感覚物を感覚物として見た時のその関係から生じるくる、即ち物を道具に使って知を働かしその関係を明らかにして情の満足を得ることなのである。吾人文芸家の理想は感覚的なるある物を通じて一種の情をあらわすものだと言い切っている。なお、感覚物とは絵画であり、詩であり小説である。情緒とは、徳義的に理想と合するように意志が発現させるヒロイズムが引き起す情操なのである。そして、文学の理想は真であると言い切っている。文芸家の四つの理想をまとめると、1)感覚物そのものに対する情緒、2)感覚物を通じて知(代表は真)が働く場合、3) 感覚物を通じて情(代表は愛と道義)が働く場合、4)感覚物を通じて意志(代表は荘厳)が働く場合である。作家の理想の実現は人生に触れることであり、更に作家には人格が必要であると強調している。漱石によれば文芸の聖人となるのはこのように完全に技巧を加えることのできる人であり、いかにして生存すべきかの問題を解き明かすことが最大の課題なのである。
「私の個人主義」では、過去の英文学については三年勉強して分からずに、これが漱石の煩悶になっていたと述べている。『この時私ははじめて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです』と述べている。そして「自己本位」という概念を考え出し、この裏付けを行うために哲学的思索にふけり出している。これが途を切り開く手段だったのである。ただ、この「文学論」は記念と言うより失敗の亡骸であり、しかも畸形児の亡骸なのである。こうして漱石は自らの経験を踏まえて、学習院の学生に権力、金力について戒めを述べる。それはそれらの行使には義務が伴うとし、かつ個性の発展を望む個人主義を述べて推奨する。国家と個人の自由はその時の国家の安危に従って寒暖計のように上下するが、決して相いれない矛盾するものではない。ただ、『国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見えることです』と述べて、漱石の権力嫌いがはっきりと分かる。
最後に「文学論」を読んで漱石の読書は終えたい。実はこの「文学論」は既に読んでいるんであるが、とても難解というより、漱石が言うように畸形児の亡骸である。なぜ亡骸になったのか、記述されている内容からその理由を少しは分かったつもりでいる。
以上
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2016年7月22日(金) |
題:フィッツジェラルド著 野崎孝訳「フィッツジェラルド短編集」を読んで |
結論から言うとそれほど面白いわけではない。フィッツジェラルドはアメリカの作家であり、短編を含めてたくさんの小説作品を記述してきたらしい。雑文も結構書いていたようであるが、本書は訳者が選りすぐったものである。それにしても、アメリカ的なシニズム(冷笑的)というより、リリカル(抒情的)、いやむしろアメリカ的ペシミステック(悲観的)と言うべきなのか良く分からない。そもそも文体が大雑把である。思いや情感も表現されていると思われるが良く分からない。ヴァージニア・ウルフのような繊細さに欠けていて、アメリカ的に大雑把であって、いずれにせよ良く分からない。とういより、なぜドゥルーズがこうした作家を気に入っていたか良く分からないのである。無論、文章表現の内には引用に耐えうる表現が結構含まれているのは確かである。でも、ドゥルーズが同じく好む「白鯨」などの現実的な鯨との壮絶な闘いを描く作品とは明らかに傾向が異なっている。
本短編集の簡単に内容を紹介すると、「氷の宮殿」、「冬の夢」、「金持ちの御曹司」、「乗り継ぎのための三時間」、「泳ぐ人たい」、「バビロン再訪」の六つの短編から成る。「氷の宮殿」では南部の退屈さに飽きた女が男に誘われて北部に行く。ただ、北部の寒さに震えて、もはや陰鬱な町としか思われない。氷の洞窟に入ると魂たちがいるためかこれらに閉じ込められそうになる。嫌気がして女は金色の光の輝く南部に戻るのである。「金持ちの御曹司」では金持ちになった男が女に熱をあげるが、酔っぱらうせいか振られる。一方好かれた女は遠ざけてしまい結局振ってしまう、男はクラブに出入りするなど遊ぶのである。思いのままにぞんぶんに酒を飲み遊び呆けて暮らしている。ただ、職はきちんとこなしている。そして気が付いた時には仲間たちは皆結婚して居ない。昔の女たちも結婚して子供をもうけている。彼は孤独のうちに職を辞し、何ひとつすることがなくなる。彼は、人に愛されているというそのことによって、共に時を費やしてくれる女がいることによって、自らの人生を成り立たせていたことに気付くのである。
裏表紙にフィッツジェラルドは「人生は崩壊の過程である」と述べたと書かれている。最初は面白い言葉と思っていたが、酔っぱらうことと遊ぶことによって崩壊するのである。こうしたことは常にあり得て面白いと思うけれども、突飛な発想にもなるが、崩壊過程に素粒子のようにガンマ線を放出するのだろうかと考えさせられた、即ち崩壊する過程の証拠を人生に残すかどうかである。これらの粒子と同様に人間も証拠を残すだろうけれども、証拠は霧散しそして人生は崩壊したまま消え失せるであろう。ドゥルーズは「ディアローグ」の「第二章 英米文学の優位について」において、フィッツジェラルドの逃走線はアルコールなのであり、その逃走線に関わるフィッツジェラルド自身の言葉を引用している。ただ、フィッツジェラルドの逃走線は理解し得ても、彼自身の描く小説作品は最初に述べたようにそれほど面白くない。つまりメルヴィルの「白鯨」のような真に迫った物語でもないし、ドゥルーズの嫌ったフランスの小説のように微細にもしくは慄きに似て精神内部を照らすのでもない、ありきたりのものである。
ドゥルーズは『逃走するとは必ず旅をすることではないし、移動することではない。その理由としては、フランス風の、あまりにも歴史や文化に隔った、お仕着せの旅があるということが挙げられる。そこでは自らの「自我」を移送するだけで満足が得られる』(69頁)と述べているが、そうではあるまい。お仕着せの旅とは言い切れない「自我」の移送も含まれているはずである。無論、ドゥルーズの認めているフランス文学の一部は「自我」の張り詰めた狂おしさであるけれども、「自我」の移送とはこの狂おしさそのものでもあるはずである。ドクルーズの嫌っているある種のフランス文学の傾向は分かっているが、この種のお仕着せの旅をして自我を移送させるフランス文学をそれほど毛嫌いすることはないのではないかと言いたいだけである。即ち「人生は崩壊」とは自我の移送の過程でもあるはずなのである。これが正しければ、ドゥルーズはフィッツジェラルドを嫌わなければならないし、私はフィッツジェラルドを認めなければならなくなる。ただ、「自我の移送」と同様に「歴史や文化に隔った、お仕着せ」とは何かなどの意味が、私自身にも良く分かっていない。一度「批評と臨床」、「デァローグ」を詳しく読み直す必要がある。なお、フィッツジェラルドの逃走線がアルコールであることが、ドゥルーズにはとても重要な意味を持っているはずである。
以上
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2016年7月15日(金) |
題:谷崎潤一郎著 「細雪」を読んで |
谷崎潤一郎の小説作品はそれほど読んでいない。でも、この「細雪」はぜひとも一度は読んでみたかったのである。簡単に感想を述べると、日本の文学史上における名作の一つである。日本文化の紹介として海外で評価が高いとドナルド・キーンが言っていたと思うが、また、田辺聖子の解説「女の文化の根の堅州国」にて、初めて女の文化を小説によって広めたと述べているが、そうした一面だけではない豊かな内容を持っている。これは「根の堅州国」の「王朝文化」に行き当たるだけではない。女たちの日常生活を語るだけで、源氏物語を彷彿とさせる、澱みのない緩やかに流れる文体が、日常を語ると同時にその日常に隠された背後も透かして見させて、かつこの日常が連続していることを確固として示しているためである。花見や蛍狩りなどの優雅な風俗と日常の微細な心理を語りながら、これらの情景が時間軸の連続性の上に生じていることを鮮やかに表現しているためである。まずは、簡単に小説のあらすじを紹介したい。なお、本書は、上、中、下に分かれているが、中央文庫では一冊であり約900頁と厚い。
御大家であったが、父が死に今は没落している蒔岡家の美しい着物が似合う四姉妹の物語である。長女の鶴子は養子の辰雄を迎え、本家として大阪船場に暮らしているが、銀行員なる辰雄の転勤で東京に移っていく。格式を重んじるけれど子たくさんで次第に窮する暮らしを送らざるを得ない。次女の幸子は阪急蘆屋に夫貞之助と住んでいて、娘の悦子もいる。三女雪子は婚期を逸して三十才を過ぎても縁談がなかなかまとまらない。四女妙子は奥畑家の倅との恋愛が新聞沙汰事件を起こすなど奔放である。人形つくりや洋裁で独立しようとしているが、その本心は良く分からない。こうして、話は次女の幸子の阪急蘆屋の分家を中心にして展開する。本家の辰雄はまだ嫁に行かない義妹の雪子や妙子を東京にて暮らすべきと主張し、雪子はいやいやながら東京に行きながら、口実をもうけてもしくは、かつ幸子に口実をもうけさせて蘆屋の分家に戻ってくる。妙子は仕事のためとアパートを借りる、東京には行かない。燐家のシュトルツ家との交流、妙子の弟子のカタリナの家族との付き合いが暖かい交情と同時に、暗く推移していく世界の情勢の背後を描き出している。
「上」では雪子の二、三の見合いが書かれている。雪子は線が細くて人見知りであるが、年齢以上に若く見える。ただ、縁が無いのか、この縁談は一つもまとまらない。「中」では奔放な妙子を中心に描かれている。妙子は暴風雨の災難から救い出してくれた写真屋、板倉の奮闘で奇跡的に救助される。板倉は暴風雨のさなか妙子を救い出せるように相当の準備をしていたのである。こうして奥畑の放蕩に愛を見出せない妙子は、奥畑が紹介してくれた板倉と親しくなり、結局結婚まで考えるようになる。ただ、その板倉も耳の手術からなぜか黴菌が転移して足を切断し結局は死ぬ。「下」では妙子との奥畑との交際の復活、雪子の見合いを主に描いている。初めて雪子は見合いの相手から断られる。電話での受け答えができずに相手を怒らせたのである。妙子は鯖鮨のせいで赤痢にかかる。奥畑に豪華な贈り物を貢がせながら嫌いで、赤痢からの回復後妙子はバアテン三好と付き合い妊娠する。同時に雪子には御牧子爵の庶子、実との縁談が持ち上がる。何とかこの縁談をまとめようと、幸子と貞之助は不品行な妙子を入院させ隠してしまう。幸子と貞之助の努力が実ったのか、幸運なことに雪子は実と結婚することになる。ただ、妙子はさまざまな無理がたたって赤ん坊は逆子になっており、医師の手違いで生まれ出た子は窒息し死んでいる。そして、嫁ぐために上京する雪子は嬉しいことも何ともないと言って、下痢が治らずにそのまま上京するのである。
本書の最大の良い点は、最初にも少し触れたが日常は瞬間から構成されているのではなくて、隙間なく連続して時間軸上を流れていると示している点にある。これは先ほど述べた澱みのない緩やかに流れる文体がそうと錯覚させるのか、ヴァージニア・ウルフの日常が各瞬間の積み重ねであるのと比較し、鴨川の水の流れのように本小説における日常は出来事を伴いながら緩やかに連続性を保っているのである。それは、現在ばかりではない、過去からも文化の継承があるためか悠然と繋がり時間が隙間なく連続している。更に意識も日常的な疑念と思いやりを丹念に描いて連続している。こうしてみると、「痴人の愛」なる小説にある種の冗長さを感じていたが、その原因が分かったのである。それは、「痴人の愛」が妙に偏在した意識のみを描いて、その意識を正当化しようと長々と書いているためである。従って、「痴人の愛」よりも「細雪」の方が作品としては、断然に成功していると言える。こうした谷崎の意識の流れは「吉野葛」などの短編に表れていると言える。
中編小説「春琴抄」の成功はこうした「細雪」のような意識の流れではない、意識を排した出来事の連鎖、それに基づいて反応する心理のみを描いていることによる、即ち叙事詩的な形式にある。当然、文章の緊密さが礎として確固としてある。この手法は端的に処女作「刺青」にも表れている。なお、「痴人の愛」などにおける谷崎の肉体への拘泥は本書にも散りばめられているけれども、ただ、少しばかりの彩を添えているだけである。脚気の予防のための「B足らん」や結婚すれば治るはずの雪子の眼の淵にできる隈、悦子の黄疸、幸子の流産など。ただ、幸子の流産と妙子の死産は同一には論じられない。経験豊かな産婦人科医が妙子の逆子を死産させて謝るのは恣意的である。死産させようとする作者のある種の強い意志が働いている。それは生の否定でも肯定でもない、道徳的にも無関係である。生けるものを死なせることへの痛烈な批判であり抵抗である。このため生きるものを産ませないのである。「細雪」は1994年に「上」を作り、1948年に完成させたとのことで、そうした時代的な影響もあるに違いない。この辺りは何かしらの解説書を読めば分かるはずである。
「細雪」と「明暗」のどちらの作品が優れているかなんてちらっと思ったが、また、どちらも優れているに違いない。これに並ぶ作品は「豊饒の海」のみか。明治以降の小説作品において、もっと思い浮かべようとしたけれども、読んでいる作品が少ないためか少しも浮かんでこない。阿部公房の観念的な小説が浮かび上がってこないのは意外な感もする。そういえば忘れていたが、大江健三郎の「燃え上がる緑の木」も良かったと記憶している。「水死」などは完全に質が落ちるけれども、「燃え上がる緑の木」は緑の木の生命を燃え上がらせる力強い文章であったはずである。こうしてみると谷崎純一郎には二面性があると思われる。即ち芥川雄之助に悪魔と呼ばせた肉体への拘泥と、意識を時間軸上に連綿とさせる永劫性である。これらが谷崎純一郎の心理の内にどのように絡んでいるのかは作品を読み解き詳しく調べないと分からない。それにしても上質な香りのする良い作品である。
以上
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2016年7月8日(金) |
題:ジャック・ラカン著 宮本忠雄・関忠盛訳 「二人であることの病 パラノイアと言語」を読んで |
一度はラカンの著作物を読んでみたいと思い、簡単な論文集を編纂した本書を選んでみた。本書には五つの論文が掲載されているが、結局、ラカンの文章が悪いのか、翻訳が硬くて悪いのか、読み手の読解力がないためか、結局良く分からずに失望してしまった。ただ、言わんとすることはなんとなく分かるけれども、やはりもっと詳細な記述が欲しい。ラカンの記述が説明不足なのは確かである。「訳者まえがき」が最初にあって、本書の内容を簡単に説明している。五つの論文は初期論文であり、即ち、「症例エメ」、「《吹き込まれた》手記 スキグラフィー」、「パラノイア性犯罪の動機 パパン姉妹の犯罪」、「様式の問題 およびパラノイア性体験形式についての精神医学幻想」、「家族の病理」である。また、パラノイア、統合失調症(スキゾフレニー)、言語障害(スキゾグラフィー)、パラノイゾ、パラフレニーなどの言葉を使っているが良く分からない。パラノイアとはきっと妄想症のことだろう。それにしても精神分析を理解するためには、その他の分野と同等に専門用語の理解が前提となるのである。
「症例エメ」、「《吹き込まれた》手記」では患者の記述した文章を掲載し、この文章表現を分析している。この分析に基づく障害内容については本書を参照のこと。ずっと以前に精神病患者の詩を読んだことがあるが、それと同等以上に主体が分裂し炸裂し発狂している。ただ、こうした精神病患者の文章には強く惹かれる何ものかがある。それは障害によって生じる現実把握の困難性というより、歪曲性であり支離滅裂さであり妄想性にあるのだろう。「パラノイア性犯罪の動機」で記述されている、殺人衝動や同性愛、サドーマゾヒズム的倒錯に迫害されているとの確信に基づく解析は、フロイトの影響に基づくものか、ラカン自身の発想によるかは定かではない。ただ、患者自らが迫害されていると確信を持ち、愛の対象をこの迫害者の内に見出しているのである。迫害者は憎悪の対象であると同時に自らの理想でもある。ただ、患者は愛する者を自らの心象としてしか捕えることができない、そして愛すると同時に憎むべき対象なのである。《二人であることの病》とはこうした自我の持ち方にあるのだろう。訳者の前書きでは、「二人妄想病」や「二人精神病」の既存の考え方で解釈可能であるが、ラカンは「兄弟複合」の延長線上で《二人であることの病》を捕えなおしたと述べている。なお、「兄弟複合」とは兄弟それぞれに発する病であり、後に述べる「家族複合の病理」に関係しているはずである。
「様式の問題」では、パラノイアの妄想体験から観察結果から明白になった点について述べている。「家族複合の病理」は一番長い掲載論文で、家族との関係いう観点から起因する、さまざまな精神病的症例に対して論じている。なお、この家族間の関係とは、全能の「父」や子の「いけにえ」などを例として取り上げている。こうして読み終えると、精神病患者の手記を読むのは面白くて良いが、精神病理の解析本の理解は難しいということである。というより、読解力不測のためか、もしくは論文そのものが自らの主張を良く説明していないと思われる。なお、著者の学位論文は「人格との関係からみたパラノイア性精神病」で結構長い論文とのことである。それにしても、精神病患者と文章表現との関連をもっと分かりやすく論述して欲しいものである。なお、ラカンはフロイト主義者であり、彼の著作物の理解には、フロイトの超自我などの基本的な知識が必要とされると思われる。
以上
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2016年7月1日(金) |
題:ヴァージニア・ウルフ著 中村佐喜子訳 「燈台へ」を読んで |
ヴァージニア・ウルフとフィッツジェラルドとに関心を持って、まずヴァージニア・ウルフの「燈台へ」を読んでみる。彼らは、ジル・ドゥルーズやモーリス・ブランショにて紹介されていたためでもある。「燈台へ」を読んだ感想は、「赤と黒」や「谷間の百合」のような大小説ではない、シュールリアリズムやヌーボーロマンの新しい技法で書いた作品とも異なっていている、些細な日常を詩的にリズミカルに書いた作品である。訳者による「解説」で、ヴァージニア・ウルフの略歴と主要作品、更に本書の文章とその内容について詳しく書いているのでそちらを読んだ方が、本感想文より分かりやすいはずである。
本書は300頁弱の作品で、「窓」、「時は逝く」、「燈台」の三章からなる。主人公はラムジイ夫人である。いや、むしろ、燈台に行くことそのものが主題になっている。ラムジイ夫妻の別荘にはたくさんの友人たちと夫妻の子供たちが居る。燈台に行くことになるが、ラムジイ氏は、明日の天気は駄目だと言って、喜ぶ息子を傷つける。この燈台行きの話から始まって、ラムジイ夫人と友人たちや子供たちとのやり取りが日常の恋模様や子細な出来事、それに生活上に生じる感情の動きに、また晩さん会も開かれて相互の思惑の齟齬や交流に、かつ簡単な会話に時々詩句も挟み、繊細な比喩も加えたリズムある文章によって巧みに書かれている。結局、ラムジイ夫人は明日は雨になるはずと、気難しくて思いやりのないラムジイ氏を見やりながら思う、たぶん半日程度の話を描いているのが「窓」である。
「時は逝く」では、その十年後のことが語られている。ラムジイ夫人は亡くなっている。家は古びて見捨てられている。絵を描くリリー・ブリコウなるラムジイ夫人の友人が過ぎ去り日のことを思い出して懐かしんでいる。ただ、また人が集まってくるのか、婆さんたちが掃除している。それにしても、この十年の間にラムジイ夫人の息子が戦死するなど、婚姻や離別が生じているのである。リリー・ブリコウは鳥の囀りと暁の白さに目を覚ましベッドから起き上がろうとする。「燈台」ではラムジイ氏が子供たち二人と帆を張ったボートに乗って、燈台のある島に出掛ける。リリー・ブリコウは芝生の上で絵を描きながらその船を眺めている。その船の中からは逆にラムジイ氏が古びた別荘を眺める。子たちの父への憎悪、それはその昔に燈台へ行けないと傷つけられたことではない、横暴な独裁のためである。こうして帆船は島にたどり着き燈台に行けそうである。もはやリリー・ブリコウには船は見えない。彼女の漠然とした絵の真ん中に、確信をもって幻影を捕えたと一本の線を描くのである。
本小説を一言でいえば、日常の雑多に混沌とした世界を瞬間として輪切りにし、詩的な比喩を用いた繊細な文章にて表現した小説と言うことができよう。世界とは日常の生活そのものであり、その日常に揺らめく人間の言葉であり感情であり心理であり行動なのである。これらは瞬間として断絶しながら連続性を保って継続し日常を構築している。こうして、どの人間にも世界は繊細に揺らめいている、その揺らぎの中で人間は生活している。横暴な夫を持ち怒っている、かつ子供たちや友人たちを憐れみ気遣っているラムジイ夫人はこの日常の中で揺らぎながら、美しい夫人として友人や子供たちに接し、その瞬間瞬間を生きている。従って「燈台」は象徴でしかない。ただ「燈台」は時間なる枠を超えて在り続ける、瞬間を超えて在り続ける象徴とも捕えることができる。
ここで本小説の描き方を述べるなら、画家セザンヌの描くような多視点法を採用していることであろう。『何かを見るには五十人分の眼が必要だ、とリリーは思う。五十組の眼でも、あの一人の女性を十分見るには足りないのだ』(258頁)が端的に示している。ただ、これはラムジイ夫人の揺らぎの多様さを示しているが、作者はラムジイ夫人の多様な思いを述べると同時に、リリーへと視点を移して行く。更に住人や子供たちへと視点を移して行くのである。この手法が日常の多様な揺らぎを、混とんとした日常のあまたの瞬間性を浮き彫りにさせることに成功させている。
残念ながらドゥルーズは、フィッツジェラルドについては結構記述しているが、ヴァージニア・ウルフについては少ないようである。ただ、クレール・パルネとの対話「ディアローグ」の「英米文学優位について」と「諸々の政治」の章にて記述を見つけることができた。『ヴァージニア・ウルフは「女性らしく話すこと」を自らに禁じていた。彼女はそうすることでいっそうよくエクリチュールの女性への生成を捕えていたのである』(78頁)『ヴァージニア・ウルフと彼女の失踪』(234頁)である。女性なること、動物になることを通じたエクリチュール論なのか、ヴァージニア・ウルフの恋愛沙汰なのか、ヴァージニア・ウルフの私生活を知らないために、ドゥルーズが何を論じようとしたのか良く分からない。日本人文学者がドゥルーズの文学について論じた「千の文学」では、ヴァージニア・ウルフについての記述がなかったはずで残念である。なお「千の文学」はドゥルーズが読んだ作家と作家論を日本人の文学者が論じた本でる。結構、大勢の作家が取り上げられていたと記憶している。モーリス・ブランショがヴァージニア・ウルフについて少しは論じているかもしれない。
以上
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2016年6月24日(金) |
題:メルロ=ポンティ著 中山元訳 「メルロ=ポンティ コレクション」を読んで |
感覚と知覚のメルロ=ポンティなる哲学者は気になっていた。アンリ・ベルグソンとどう違うか気になるのであって、かつ新しさが見つかることもあり期待して本書を読んだのである。やはり哲学者それぞれに異なった文章にて異なった内容を記述するものであり、最初簡単な考え方だと思って読んでいたが、しだいに主張が曖昧になり良く分からなくなる。それでも最後まで読み、それなりにメルロ=ポンティの主張は理解し得たと思っている。訳者の中山元がメルロ=ポンティの文章を、よどみ、回り道をし、ときに口ごもる、この口ごもりにこそメルロ=ポンティが語ろうとしたものがあると「メルロ=ポンティの〈身体〉の思想」と題した解説で述べていたのを読み、なるほどと思ったものである。なお、この解説は結構丁寧に記述されていて、こちらの解説を読むほうがメルロ=ポンティについては分かりやすい。
一言でいえば、メルロ=ポンティの思想は、身体の感覚を出発点とする。この身体は受肉したものであり、この肉を通して他者なるものとの関係、言語や思想、それに自然との関係を語るのである。自己と他者とのまなざしはサルトルの言うように相克するものではなくて、溶け込み相互に理解するものである。ただ、レヴィナスのように他者を歓待する行動まではいかない、感覚と知覚の構造を示すだけである。無論、ベルグソンのように知覚から運動へと繋がることもない、メルロ=ポンティ独自の思想である。こう述べても、良く分からないために本書の章題を示したい。なお、本書は論文のコレクションであることは注意する必要があるが、きっとメルロ=ポンティの思想の核を記述していると思われる。まず「言語について」、次に「身体について」、「自然について」、「政治と歴史について」、最後にセザンヌについて論じた「芸術について」である。
「言語について」では、簡単に述べれば主知主義も経験主義も『意味を所有するのは思考であり、語はその空虚な外皮にすぎないのである』(13頁)という文章が端的に示しているが、語は意味を持たないとまず述べる。ただ、著者は『語は意味をもつという』とすることで、これら主知主義も経験主義も乗り越えることができると指摘する。そして思考が自分のものになるのは、表現によってであると主張するに至る。つまり、言語は思考を成就するものなのである。更に『言葉を聞く者が、言葉そのものから思考を受け取ることは、明らかだろう』と述べ他者との関連や『語と言葉が、対象や思考を指示するための方法であることをやめ、知覚される世界における思考の現前そのものになる必要がある。語は思考の衣装ではなく、その象徴であり、その身体でなければならない』(23頁)と強調し、言語的な身振りや世界との関連、「運動性」や「知性」について追及していくのである。重要なのは身体と言語との関係である。『身体は自らのうちに「意味」を分泌し、身体はこの「意味」をその物質的な環境に投影し、受肉した他の主体に伝達するからである。・・身体が示すのは、身体そのものであり、語るのも身体そのものである』(51頁)との文章がメルロ=ポンティの思想を、つまり感覚と身体性に他者との言語的な関連を明確に簡潔に表現しているはずである。「言語について」では、ソシュールの言語論について述べている。
「身体について」では、哲学の〈問い掛け〉から存在論、世界に自己、そしてまなざしや経験へと話が移って行く。重要なのは〈肉〉という概念である。『わたしが、・・それ自体の場において見ているからである。それを見る者であるわたしそのものも〈見えるもの〉である。それぞれの音、それぞれの手触りの肌理、現在と世界の重さ、厚み、〈肉〉が生まれるのは、それを感受する者が、ある種の〈巻き込み〉や〈二重化〉によって、それらのもののうちから自分が生まれると感じるからであり、・・それを感受する者は、自らに到来した感受的なそのものと感じ、逆に感受的なものは、自分の〈肉〉を二重にし、延長したものと感じられるからでらる』(86頁)の記述にあるように、感受する者が感受的なものを知覚することによって生じる主体でありかつ客体でもある。ベルグソンの知覚論や言語論も踏まえ、存在について語っているが、重要と思われる文章を二つ引用しておきたい。『見る者と見られる物体の間にある〈肉〉の厚みが、見る者の身体性を構成すると同時に、見られる事物の可視性を構成する。この厚みは見る者と見られる事物の間の障害物ではなく、その交通手段である』(124頁)と見る見られるものとの関係を示している。『身体の厚みは、世界の厚みと競うものではなく、逆にわたしを世界とし、事物を〈肉〉とすることで、私が事物の核心に歩みいる唯一の手段である』(125頁)つまり、身体こそが事物そのものに導いてくれるのである。
「自然について」ではデカルト等の自然に関する概念や科学と自然の概念について述べている。「政治と歴史について」はマルクス主義について、プロレタリアや暴力性の観点から論じている。また「歴史」や「制度」について論じている。「芸術について」は最初に述べたようにセザンヌについて論じた芸術論である。こうしてメルロ=ポンティの論文を読むと、面白そうでもあり、それほどでもない気もするが、機会があればまた挑戦してみたい。
以上
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2016年6月17日(金) |
題:モーリス・ブランショ著 粟津則雄訳 「来るべき書物」を読んで |
期待して読んだが、内容は著者の「文学空間」に少し継ぎ足した内容であり、重複している部分もある、なぜか物足りない。訳者のあとがきに短論文を集めたものであるとの記述があって、なるほどと思う。ただ、文章は良くなっている。改訳したらしく「文学空間」よりもブランショの詩的な文章が豊かに緻密に表現されている、一方この詩的な文章は長くて同じ文章が堂々巡りをしていて、冗長である。単論文の寄せ集めであるためにしかたがないのかもしれない。「来るべき書物」の概念はもっと斬新であって欲しいとの思いがよぎる。既に「文学空間」にて示されていた概念であるためである。
「来るべき書物」は書くことについて書いている、作家論でありかつ書物論である。「セイレーンの歌」、「文学的な問い」、「未来なき芸術について」、「文学はどこに行くか?」の四章からなる。取り上げられている作家は二十人いるかどうか、それも繰り返されて各章の内に散りばめられ引用されている。本書は1959年に発刊されている。同様に文学論を論じたドゥルーズの「批評と臨床」は1990年以発刊されている。両者を取り上げて論じることはしないが、思想には確かな違いがある。また、本書に選ばれ論じられている作家もカフカ、ジュネ、ベッケットなどもいたかもしれないが、「批評と臨床」と同じ作家は少数である。「来るべき書物」は当時のフランス文学を色濃く反映している。ドゥルーズの「批評と臨床」は英米文学を好み、書くことのみならず書物の役割を論じている。ここではただ単に、少しばかりブランショの「来るべき書物」の内容について紹介したい。
「セイレーンの歌」ではセイレーンは彼女たちの墓となったオデュッセウスのなかに身を隠して、不幸な歌の航海に、物語れる航海に引き込むという話から始まる。なお、セイレーンは上半身が人間の女で、下半身が鳥の姿をした人魚の原型である。オデュッセウスはホメーロスの叙事詩「オデュッセイア」の主人公である。そして、小説とは物語とセイレーンとが出会い、隠密な戦いおいて生まれ出たとする。こうした言い方は分かりにくいため書き直すと、物語とは作り話を捨て去った出来事そのものであり、「オレーリア」、「地獄の季節」、「ナジャ」は何事かが起き、それを生きて、この出来事を物語っているのであると述べているがこちらの方が分かり良い。こうして、物語と変身、時間との関係について述べる。ベルグソンが述べるような持続する、瞬間の時間こそが真に語らせるものなのであると言うのである。
「文学的な問い」では、ゲーテ、アルトー、ルソー、ジュベールやマラルメ、クローデル、ヴァージニア・ウルフなどの作家を取り上げて、書くことの意義を含めて基本的には個別に論じている。書くことの意義については『生じるままの文体を使い、・・感じるままに、・・無遠慮に、・・文体のそのものが私の物語の一部をなすであろう』とのルソーの言葉を取り上げて、このように書くルソーをブランショは語り方と呼んでいるが、文学は方を通して語る語り方であり、この形式が語に逆らって伝達させる意味と内容があると述べている。即ち、こうした文体形式こそが意味を伝達できるとの考え方である。また、ジュベールの書物は書かずに「日記」のみを記述することに関して、芸術が『危険でもあるような運動であることを、それについて何か真実の事柄を口にすることさえ適当でないような運動であることを・・幻覚的な部分を想像的なものが作る周辺部分を問題にしている』とブランショが述べていることに、文学なる芸術の書くことの意義を見出すこともできる。こうした芸術に対する運動を知りながら、ジュベールは自らの日記を芸術とみなしているのである。この点に関してブランショは、きっとこの日記は本質的な何かに結びついており、この何かとは空虚こそが価値あるものであり、空虚な空間を開けておくことにあると述べている。この他マラルメに関する「骰子一擲」や「予言者の言葉」、「ゴーレムに基づいた象徴」という言葉の意味などについても論じているが長くなるので省略する。
「未来なき芸術について」では、芸術はその終末に触れているのだろうかと問い、『世界の終末の作品であり、もはや芸術はなく芸術の諸条件も欠如しているところでのみおのれの端緒を見出す芸術なのである』(225頁)と答える。『芸術は例外的な欠如をその根源としており、このような根源の欠如の活動化なのだ』とする。こうした欠如の概念は、中心部への限りなき接近と同様に著者の「文学空間」では大切な用語となってたことを思い出すのである。こうして著者はヘルマン・ブロッホの「ウェルギリウスの死」やヘンリー・ジェイムズの主題への問い、話の中心部へねじまげ入り込もうとする、いわゆる文学的な概念としての「ねじの廻転」について指し示めしている。更にローベルト・ムジールの「特性のない男」や対話の方法として三つの方向、マルロー、H.ジェームズ、カフカの作中人物について取り上げる。さらにロブ=グリエの「覗く人」、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」や「荒野の狼」などについて論じている。これらの内容についても省略する。
「文学はどこに行くか?」では、『文学は、それ自身に向かうのだ、消滅というその本質に向かうのだ』(403頁)だとする。「欠如」と同時にブランショは「消滅」、そして「空間」という言葉をとても気に入っている。芸術を自らの内に閉じ込めることで救う者たちが居る一方で、マラルメやセザンヌの場合、隠れ家を求めたりせず、芸術のうちにその根源を有する作品を示すのである。そして詩人を例に取りながら『作品から、作品の根源へ、おのれの源泉への不安な限りない探求と化した作品そのものへ向かう、奇怪な運動なのである』と述べ『作品へ通じる運動とは、作品を可能にしているものへの接近なのである』と結論付ける。こうしてブランショは文学を逃れ去り文学を無視する作品の矛盾や言語、文体、文章表現、更に誰が語るのかとサミュエル・ベケットなどについて論述する。
こうして遂に「来るべき書物」について述べる。『書物は、作者なしに存在する。なぜなら、それは、作者が語りながら消え失せてのち初めて語られるからである』(474頁)こうして文学と存在の確立とのあいだの関係性、作品内部の時間についてブランショは問う。現在からの現実性の除去が時間のさまざまな変化を起こして、『作品内部の時間は、現在を持たぬ時間である。また、同様に、書物は、けっして、真にそこにあるものとして見なされるべきではない』のである。では来るべき書物とは何なのか。ブランショはマラルメの「骰子一擲」を来るべき書物であるとする。なぜなら『文学は、それから可能性の日常的な諸条件をのぞき去るような経験ののちに初めてその本質的な完全さにおいて抱懐されるだろう』だからである。この「骰子一擲」の書物での「骰子の一擲は、けっして偶然を排除すまい」という詩句が、この新しい形式の特質を表しているからである。即ち、偶然と必然的なものが崩れ去ったときに、初めて偶然を支える一般的な規則が存在し得て、かつ彼方にあるものと一致した場合、未だ知られざる作品そのものが空間を生み出して現存できるからである。なお「骰子一擲」に示されている「星座」を含めた詳細な論述は本書を参照のこと。
こうして、マラルメにおいては空間を存在するものではなくて、時間との関係で「節奏され」「内面化され」散り散りにされて休まされるのであり、通常の時間を締め出すものだとし、この空間そのものが「書物の空間」であるとブランショは述べる。そして、『ただ詩だけが――この未来の書物だけが――この空間の持つ運動と時間の多様性を確立することが出きる』と述べるに至る。もしや「来たるべき書物」の概念とは、これだけなのか、この結論を知るために費やした時間をなんだか損したような気分に陥ってくる。ただ、速読したためにそれほどの時間ではない、ブランショの発散しがちな文章はやはり速読が良いのである。本書にて、ドゥルーズと違った作品群を見出したのは幸いである。
以上
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2016年6月10日(金) |
題:宇野邦一編 「ドゥルーズ横断」を読んで |
本書は約五年前に哲学書を読み始めた時になぜか最初に読んだ本であるが、さっぱり分からずに挫折した、その再挑戦である。その後ドゥルーズの著作物の殆どに目を通しているためにか、それなりには理解することができたと思っている。本書は、1994年に出版されていて16編から成るが、ドゥルーズは1995年に亡くなっているために、ドゥルーズ横断と言っても、ドゥルーズの著作物や思想全体の一部のみが記述されている。無論、各編にはそれぞれ異なった著者がおり、記述内容は無論、内容も文章も異なっているが、相応に読み応えがある。ただ、現在においては相当研究も進んでいると思われ、より深く横断した作品・論文群が示されているに違いない。ここでは印象に残った7編について簡単に記述されている内容のみを紹介したい。詳細は本書を参考のこと。『 』は本書からの引用である。
「言語の存在論的基礎について」では、著者によると、ドゥルーズはベルグソンが記憶の存在と言語の存在を同じやり方で捕えているが、ただ、ドゥルーズによると、この言語は記憶の領域と意味とが連絡し合うベルグソンが探求し続けた存在の領域にはないものなのである。こうして著者は、ドゥルーズは「出来事」こそが言語ないし記号的なものの真の領域である述べていると言う。「出来事」は「表現の形式」としての非身体的な言語の純粋な流れであり、「内容の形式」の身体、運動、記憶のがわにある存在のしかたと独立しているけれども、存在のがわに言語が挿入されて身体側のありかたと結びつけるのである。と言うより、どのようなアレンジメントが、どのような言表としての行為(言表―行為)が「表現の形式」から「内容の形式」へと挿入されて、言語、意味、出来事が存在とともに現働化するのかを説明してくれるのであると著者は述べている。更に著者はドゥルーズの思想を読み解き、この世界には直角に交差するアレンジメントがあると述べる。水平軸は表現と内容から成り立っていて、行為―言表、事物の運動=存在の二本のアレンジメントが、そして垂直の軸方向には、現実に作動させアレンジメントを静止化させる領土化、これを上回り新しさに赴く脱領土化がある。こうして互いの本性を交差させ、他方を侵入させながら、アレンジメントの全体において連結した多様体となるかを示してくれるのである。このドゥルーズの言語が存在側に無いとする思考に基づいた「言語の存在論的基礎」を更に詳しく述べながら、著者はその問題がいまだ解かれていないと主張するのである。なお、アレンジメントについては「千のプラトー 下」の結論の章における「アレンジメント」の用語説明を参照のこと。
「操り人形の声――ドゥルーズ=ガタリの明るさと暗さ」では、『反復されるのは反復の秘めやかな主体である。反復の主体は反復の「自身」である。「私」もいなければ「主体」も無いのだが、そこには反復の「自分」があるのである』とし、『「自分」という差異と反復があり、それがさまざまな「私」を呼びいれるのだ』と述べている。そして、近代は人間を「主体」としたけれども、「主体」を欠いて「受動態」であるもの、「主体」の統御を欠いて荒れ狂うものを同時に生み出しているとする。こうして人間のモデルが反転して、いまや人間性のほうが「機械」の表象によって測れているとする。さらに著者はドゥルーズ=ガタリは心理学的な解析を行っているとして、その機械と主体との絡みを、群衆や権力との関係をなどについて述べている。カフカの物語を引用している点が関心を引きつける。
「造成居住区の午後へ」は結構文学的でもあって、読んでいて面白い。著者はドゥルーズが大文字で「生La Vie」と書く時は『「自然」と「人間」との間に、「自然」と「人間」の双方の組織―秩序が破綻する場所がある』として、都市郊外の造成住区の午後を取り上げる。ここにはなにはしかの「狂気」や「錯乱」があるとする。「女たち」「子供たち」「老人たち」そして「男たち」でさえもが、『錯乱と消滅の切迫において、そこを経緯するたびごとに、別の生成変移と転遷を要請する』のだとする。著者は知覚の観点やドゥルーズの著作物を紐解きながらこの造成居住区の午後を記述していくのである。この場所が『人間にかかわるものであっても、それについて語るべき「人間の影」などない』と述べているのが印象に残る。
「ジル・ドゥルーズ「襞――ライプニッツとバロック」」では、ドゥルーズのライプニッツ論を取り上げている。襞の概念を説明し、一と多をさまざまに折り曲げられる襞を踏まえて、更に出来事と特異性、主体と内部性、自然と真理を論じていくのである。詩人マラルメの手法が襞だとドゥルーズが示している点が関心深い。こうして著者は差異や、反復や欲望や分子的などドゥルーズが示した概念の中でも、襞はもっとも重要だと述べている。
「デリダからドゥルーズへーー存在論的差異を経由して」は一番関心を引いて、かつ一番好きな論文である。簡単に述べると、ドゥルーズの「差異」とデリダの「差延」という運動は、ハイデガーの存在論「存在論的差異」の思想を受けて、ドゥルーズは痛烈に批判することにより、デリダは肯定しながらも踏み越えることによって、関係性を指し示しているのである。また「差異」と「差延」は通底しているのは明らかであると述べている。詳細は省き結論を示している文章を抜き書きすると、デリダの述べる『差延とは、現前的な存在者を成立させる非現実的な運動であり、しかも反復である』とし、かつ差異については『(一義的)存在が差異と言われると言う意味で、存在こそが差異である』と述べている。なお、ここで一義的存在とは、差異たちが自由に跳梁する共通の場、根源的自然としての神なのである。一義的存在は、非空間的な「場」でもある。そして著者は、一義的存在は創造の場としての「内在平面」とドゥルーズは言い換え、著者はこの純粋な運動でありながら場でもあるという反復を「非対称的関係性」と捉えかえすのである。そして『この非対称的関係性のなかには、時間的―空間的に個体を構成したり破壊したりする個体の諸差異が折り畳まれている』とする。存在こそが差異であり、差異は反復であるということは、「非対称的関係性」のなかでわれわれは生まれ死ぬのである。こうして著者は「非対称的関係性」と捉えかえすことによって、無意識と生命を論じなければならないとする。
「哲学とイメージから」はエッセイ風でありながら読み応えがある。混沌とふるいととの関係、とくに「ふるい」による「混沌=現実」の仕分け、関係付けのし直しがシステムであると述べる点は「ふるい」の概念を浮き彫りにして感心させられてしまう。そして著者はこの「ふるい」を可能にするものを問う哲学、翻訳について、主体から主体化の作用へについて述べる。主体化作用の主体とわたしについて述べる柔らかな文体は心地よいものがある。「思考と国家」では、結論だけ述べると「千のプラトー」は国家について考え抜いた書物と言うことができるとして、「キリストからブルジョアジ―へ」、「情念的な記号の体制と主体化について」、「すべてを捕獲する国家」の項などを通じて、ドゥルーズの記述物からまたフーコーの思想とともに国家、国家からの離脱方法、そして権力について述べている。
以上、簡単に説明したが、最後にドゥルーズがデッサンした「七つのデッサン」が掲載されている。ドゥルーズに絵画のセンスも感じさせる良いデッサンである。
以上
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2016年6月3日(金) |
題:ユンゲル・ハーバマス著 「イデオロギーとしての技術と科学」を読んで |
ハーバマスによるコミュニュケーション理論に関心を持っており、その導入として選んだ本である。技術と科学を論じながら、コミュニュケーション理論も記述しており、それなりに目的を達しているけれども、彼の主要著書である「コミュニュケーション的行為の理論」を読むかどうかは未定である。訳者もあとがきで記述しているが、文章が生硬である。読んでいて面白くなければ、理論がいくら優れていても少し腰が引ける。ホルクハイマー・アドルノの「啓蒙の弁証学」も途中で挫折した記憶がある。どうも社会政治哲学者というのは、難しいものであるらしい。難しく生硬に文章を書くものらしい。そして、本書は各種の思想が交錯して難解さを含んでいるがおおざっぱには理解できるのである。
本書は五つの短論文から構成される。「労働と相互行為――ヘーゲルの「イエナ精神哲学」への註」、「〈イデオロギー〉としての技術と科学」、「技術の進歩と社会的生活世界」、「政治と科学化と世論」、「認識と関心」である。内容を理解できた範囲で簡単に紹介したい。
「労働と相互行為――ヘーゲルの「イエナ精神哲学」への註」では、ヘーゲルの「イエナ精神哲学」を読み解き、精神の形成過程を記号表現、労働、相互行為の関係にうちに求めて論じている。精神において記号表現としての言語は特定の文化的体系として実在し、一民族の言語となる時、はじめて本当の言語となり、他者に目を向けることができ、相互行為のコミュニュケーションとして利用できるようになると著者は述べている。そして、労働生産物が交換される制度が確立されるに従って、相互行為をささえる相互の承認も行われるのである。ただ、重要な点は労働と相互行為との関連が自動的に成されるのではないことでる。即ち、技術力による生産の拡大は共同体的な相互行為とはもはや同じものではない。ただ、この労働と相互行為との関連は精神の形成過程、人類の形成過程に本質的に依存していて、これらの関連性は「イエナ精神哲学」などを読めば解明はなされていないけれども、重要性は分かはずであると著者は述べている。なお、ハーバマスの主要概念の一つは、国家が市場へ介入することである。ハーバマスなどが述べる後期資本主義においては国家が市場や市民社会に介入するという概念モデルを持っているが、それが労働と相互行為との関連にどう影響しているかについては記述されていない。
「〈イデオロギー〉としての技術と科学」が一番長い論文である。まず、マックス・ヴェーバーは資本主義経済活動、官僚支配などの形式を確定するために合理性という概念を導入したと紹介する。即ち、この合理性に基づく合理的な決定によって、支配する社会的領域を拡大するのが合理化である。この合理化は目的合理的行為によって実現される。そして、この社会の合理化は科学技術の進歩が制度化されるに応じて、技術と科学が社会の諸制度に浸透していき、制度そのものを改変していくのである。こうした考えをマルクーゼは合理性に名を借りた隠微な政治支配形態が貫徹しているとして批判している。こうしてハーバマスはマルクーゼの批判を正当なものとして紹介すると同時に、一つ批判を呈する。それは『科学と技術の合理的形式が、したがって、目的合理的行為の体系のうちに具体化された合理性が、生活様式へと、生活世界の〈歴史的全体〉へとひろがっていく、という事実である』こうして著者は、自らの労働と相互行為という言葉を用いて、マックス・ヴェーバーを批判すると同時に、自らの考えを展開していくのである。即ち、伝統的権力や現実の権力の意識化を通じてイデオロギーが発生することである。イデオロギーは『近代科学の要求とともに登場し、イデオロギー批判によって自らを正当化することで、伝統的な支配正当化の形式にとってかわるのだ』とする。こうしてイデオロギー概念やマルクスの階級理論にしても、生産力や生産関係という概念の代わりに、労働と相互行為の観点から見直さなければならならないと述べている。もはや技術と科学そのものがイデオロギー的になる後期資本主義の現状やその不当性が新たな政治的な力を生み出して、この後期資本主義の基盤を倒壊させることができると主張するのである。
「技術の進歩と社会的生活世界」では、『社会に潜伏する技術的な知識と能力を、実践的な知識と能力に合理的に結合する、政治的に有効な討論を巻き起こすこと』が必要であると述べている。「政治と科学化と世論」では、『住民大衆の脱政治化と政治的公共世界の崩壊は、支配体制が実践的問題を公開討論からしめだそうとするところから生じてきたものだ』として、『科学化された社会が成熟するためには、科学と技術が人間の頭脳を通じて生活実践と媒介されるほかない』とする。「認識と関心」では、偏狭な科学主義的学問意識は認識と関心の連関を立証することによってのみ打破できるとする。
最初に述べたように、どうも社会政治哲学者というのは、難しいものであるらしい。ただ、近代科学によって新たなイデオロギーが目的合理性を追求し、市場や市民などへも介入する、政治支配体制としての後期資本主義に警鐘を鳴らしているそのことは良く分かる。解決策としての有効な政治的な公開討論、生活実践との媒介と言うのも分かる。その延長上にコミュニケーション論があることも分かる。ただ、最初の技術と科学そのものがイデオロギー的になり政治体制に合理性を求めると言うのは、科学というよりも経済そのものが、資本こそが科学技術に合理性を追求させている結果であるという思いがどうしてもある。すると後期資本主義なる政治体制の合理性は科学でから生じていても、その根源は経済なのである。資本、即ち貨幣の運動の解明こそが、この科学―政治―経済の関係を解き明かす最初に行われなければならない必要な作業と思われてしかたがないのである。
以上
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2016年5月27日(金) |
題:エマニュエル・レヴィナス著 西谷修一訳 「実存から実存者へ」を読んで |
レヴィナスの大著「全体性と無限」は読んだけれども、あまりすっきりとは理解できなかった。というより、すべての思想を残らず納得できるものではなかったのである。ただ、初期の著作物である本書「実存から実存者へ」は存在のみを取り扱っていて、詩的にも思われる文章も素敵であり、とても納得できる。ただ、内容そのものの理解は詩的である文も混じっていて結構難しい。注釈が充実しているので精読すればそれなりに理解できるのかもしれない。本書は「ある」と言うこと「存在者」について、「存在者」から分離された「存在する」ことについて、「善」や「時間」に「他者との関係」について論じていて、ハイデカーの存在論を乗り越えていると思われる。なお、レヴィナスにおいては「存在」と「実存」との言葉は同等に使われている。本書の内容を簡単に紹介したい。
本書の構成は「序章」、「実存の関係と瞬間」、「世界」、「世界なき実存」、「実詞化」、「結論」の六章からなる。「序章」で重要な点は、ハイデガーの実存の解釈では、実存を脱自とみなした結果、徐々に無に身を投じると位置付ける考え方であり、悪はあいかわらず欠陥つまり欠乏している。こうした欠如が無であると述べて、レヴィナスはハイデッガーの存在論を存在と無の弁証法と見なしていることである。こうしてレヴィナスは『私たちが問い質してみようと思うのは、悪を欠如だとするこの観念である。存在はみずからの限界と無以外に悪性を抱えていないだろうか』と問いかける。即ち、存在には禍悪があり、無や死を前にして私たちが身震いするのは、存在にとっての恐怖である以上に、存在することの自体への恐怖が根源的にあり、「ある」が私たちを全面的に捉えているためであると述べている。
「実存の関係と瞬間」では、世界と実存の関係において、実存は世界より先にあると述べる。この第一の関係により、存在する人はすでに実存しているという事実によってこの実存を引き受けているのである。存在するとは、存在するという禍いである、存在の異様さを体験することでもあると述べる言葉は、とても詩的に響いてくる。また、「人は存在する」のではなくて、たわみ、ぬかるみにはまるなどの実存の運動を伴い「人はみずからを存在する」のである。なお、瞬間は音楽を例にとり説明しているが、音楽の瞬間は自己を所有せず立ち止まらず現在とならないが、実存の無名のただなかに停止と定位があり、これこそが瞬間を成就できるとする。なお、定位の言葉の説明は後述する。こうして『現在という原初的なできごとから、存在論的冒険の諸契機として、行為の概念も、抵抗の概念も、物質の概念も生まれるのである』とし、主体の実現について述べる。こうした観点を「怠惰」や「疲労」、「行為」に先ほど述べた「瞬間」からレヴィナスは詳述している。ここで重要なのは実詞である。行為の開始によってみずからに帰属しみずからを保持するものとして、ひとつの実詞になり、ひとつの存在となるのである。
「世界」では、世界は私たちに与えられるものだとする。世界内に存在するとは、諸々の事物に結ばれてあることなのである。意識とはひとつの「真摯さ」であり、無意識とはその本来の役割を世界に先立って演じているのだとする。こうしてレヴィナスの論点は他者に移る。そうして対象という概念、光という概念、志向という概念により「知」の概念にたどりつけると言う。知とは自由な行動の条件であり、光ある世界の内にある実存は、諸々の対象に結び付き存在の内に入って行き、無名の状態から逃走することができるとする。「世界なき実存」では、知覚のなかにひとつの世界が与えられ対象を指示していると述べる。即ち、外在性は内面性に準拠しており、事物それ自体が外在性ではないのである。こうして、知覚から感覚の運動としての芸術について述べる。そして、「ある」という人称形態をとるのを拒む「存在一般」を元に「ある」について、夜や無、白昼の夜、吐き気、恐怖などの観点から述べる。どうも、固有名詞は記述していないが、マラルメの「イジチュール」を思い浮かべさせる。その他引用している文学作品が多い。
「実詞化」では、先に述べた実詞化について、「不眠」、「定位」、「時間へ」と三つの項を取り、その項を更に細分化するなどして、本書の中では際立って精力的に記述している。不眠の止めには主体の定位が必要であるとする。意識が意識自身に訪れるにも定位が必要であり、この定位とは不動性のことなのである。まさに土台としての場所を持っていることなのである。そして『主体が主体として措定されるのは、土台の上に身を支えるその事実によってなのだといい』と断言している。主体を破壊、実詞化の崩壊は、情動のうちに兆しているし、身体性と感覚について述べる。現在と時間との実詞化や実存との絡みや〈私〉との関連も述べる。こうしてレヴィナスは実存者とは意識であるとする。『現在とは、・・〈私〉という存在者による実存の我有化なのである。意識や定位、現在、〈私〉は・・はじめから実存者なのではない。それらは、〈存在する〉というなづけえぬ動詞が実詞に変容するその出来事なのである。それらすべてが実詞化なのだ』とする。こうして〈私〉や思考との時間との関係から、最後には他者との〈対面〉へと話が移っていくのである。「結論」では瞬間が現在であり、現在は実存者がいるという事実そのものであり、実存者の形成を、主体の定位を示しているとの文章が結論とも思われる。
こうして読んでみると、哲学書でありながら詩文なる文学書を読んでいるような感覚に襲われてくる。
以上
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2016年5月20日(金) |
題:佐藤勝彦著 「宇宙論入門――誕生から未来へ」を読んで |
者の宇宙に関する本は結構読んでいけれども、本書は「ビッククランチからの脱出」という小説があるのを知って読んだ本である。小説は5頁程度の短いプロローグとして示されている。太陽は、もはやかつての輝きを失い黒色矮星となり、宇宙全体がどす黒い赤色に輝いている。宇宙は宇宙創成の瞬間と同じ灼熱の地獄に向かって急速に崩壊しているのである。今はビックバン歴おおよそ2000億年で、クランチまで500万年を切っている。宇宙生命体であるシリコンシップにコピーされた脳は、インフレーションにより子どもの宇宙が誕生するようスイッチを押す。こうしたお話しはなかなか面白い、どす黒い赤色の宇宙の色がとても印象に残る。
本書(2008発行)の内容にさっと目を通すと、この新書版は文庫本よりも少し程度をあげた一般向けの本である。インフレーションの理論がそれなりに詳しく書いているので理解した範囲で簡単に紹介したい。もしもっと詳しく知りたければ本書を読んで欲しい。著者は「力の統一理論」を学ぶことによって、宇宙初期に「真空の相転移」が起き、それによって「力の進化」即ち、力の枝分かれが起こることを知る。そしてこの「力の統一理論」と宇宙論との関係に気付いて研究を始めたのである。この結果、相転移が起こると「真空のエネルギー」が宇宙の主エネルギーとなり、アインシュタインの方程式を解くと宇宙が急激な加速度的膨張(インフレーション)を起こすことが分かったのである。
なお、フリードマンが示す宇宙は物質を入力として与えた時のアインシュタイン方程式の解であり、物質や時空の起源については何も言わないのである。そして時空の「特異点」から宇宙は始まる。即ちビックバンであり、これは特異点であるが故に「平坦性問題」や「地平線問題」を抱えるが、インフレーションモデルはこれらの問題を解決してくれるのである。「平坦性問題」とはフリードマンが示す曲率において、曲率0の膨張も収縮もない宇宙が平坦であり、その時のエネルギー密度に近い密度をこの宇宙が実際に実現している問題である。「地平線問題」とは宇宙が物質やエネルギーを一様に有らしめてことの問題である。なお、ビックバン理論では宇宙のエネルギー密度はどんな値を取っても構わない。
こうして著者は「力の統一理論」を説明する。なお、力には四種類あり、重力、電磁力、弱い力、強い力である。弱い力とは原子核のベータ崩壊時に、ベータ線と言う放射線を発するときに働く力である。強い力は陽子と中性子が結びつている原子核内部で働いている力である。こうした力は宇宙が生まれた時にはまだ一つしかなかった力(重力)が宇宙の誕生とほぼ同時に枝分かれしたためである。この枝分かれは先の述べたように真空の相転移によって生じたのである。著者はこの相転移に着目し、特に相転移が始まらずに遅れて二つの相が重なっている一次の相転移が、真空のエネルギーを高めたままであり、このエネルギーが空間を押し広げる斥力の働きをして宇宙は急激に膨張がしたと考えたのである。
この真空のエネルギーは宇宙の体積に拘わらずエネルギー密度は薄まることはない。空間内部にエネルギーを満たしている。ただ重力ポテンシャルのエネルギーは減少して「エネルギー保存則」は成り立っている。こうして、真空の相転移の終了とともに増大した真空のエネルギーは僭熱として解放され、火の玉宇宙、即ちビックバン宇宙が到来したのである。なお、真空の相転移とは真空の常伝導状態から超電導状態と変わる超電導の相転移であると著者は述べている。ただ現在、宇宙の構造の「種」は相転移によって作られる揺らぎではなくて、量子論的密度ゆらぎであるとの考えが通説になっていると述べている。なお、真空とは量子論ではエネルギーの一番低い状態のことをさしている。更に、二次の相転移では滑らかに相転移は進行して遅れることはなく、熱が発生することもない。
では、なぜ宇宙は無から生まれたのか。無とは単に物質が存在しないという意味ではなくて、その入れ物である時空の大きさがゼロ、エネルギーもゼロの状態である。この状態を量子論に基づき無と定義するのである。この無も量子論的に考えると揺らぎが存在している。そして、特有のポテンシャルエネルギーの山を突き抜けるトンネル効果によって、この山を潜り抜けて、有限の大きさを持つごく小さな宇宙の「種」が生まれるのである。この山の内部でトンネルをくぐり宇宙が現れる様子は見ることはできない。これをわかりやすく表示する方法として、虚数の時間(虚時間)を用いるのである。著者は『虚時間の世界で最大半径となった時点で、宇宙は今度は実時間へとつながると考えるのである』(99頁)と述べている。こうして著者は引き続き、暗黒物質や、超ひも理論、暗黒エネルギー、それに生命体としての宇宙の未来やマルチバースなどについて述べている。
それにしても、無からの宇宙創成とは分かりにくい。時空の大きさがゼロ、エネルギーもゼロの状態である状態をビレンケンは「無」と呼んだと著者は述べているが、この「無」とは物理量の発散はなくポテンシャルエネルギーがゼロの状態のことである。真空のエネルギーは持つとも、空間はないためにゼロである。ただ、量子論的な無なのであり、量子重力理論から作られる宇宙のシュレディンガー方程式(量子力学で波動関数の時間的・空間的発展を記述する基礎方程式)と呼ばれるホィーラー・ドィット方程式に基づいて、この大きさを持たない宇宙は波動関数としてポテンシャルから記述することができ、「無」の状態で揺らいでいる。揺らぎとは量子の揺らぎである。そして時としてポテンシャルの壁を擦り抜けて、ある大きさを持った実時間、実空間の宇宙が真空エネルギーを持ってひょいと姿を現すのである。
本書が発刊されたのは、2008年であり、それからヒッグス粒子も重力波も見つかっている。著者の示すインフレーション理論も結構理論的には解明も進みバリエーションもあるようである。これからもこのように、この宇宙分野の理論的な解明は更に進むに違いない。なお、著者は「無」について哲学的な「無」とは異なっていると述べているが、ベルグソンの「無」は在るべきものが無くなった状態を示しており、ここでは古典的な「真空」の概念に相当する。ニーチェでは「無への意志」が有名であるが、無はニヒリズムとして使用されている。ドゥルーズは思い出せないが探せば何らかの記述があるに違いない。宗教的な「空」などの思想との違いを調べれば面白いはずである。著者の宇宙論に関するもっと難しい本を読んでみたい気も起きるが、理解は無理に違いない。次はいつになるか分からないが簡単な超弦理論の本を読んでみたい。
以上
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2016年5月13日(金) |
題:最果タヒ著 「死んでしまう系のぼくらに」などを読んで |
もう、何か月も前のことであるが、新聞の両面いっぱいに広告かもしくは特集が載っていて、驚いた。紹介されていた詩文がとても素敵だったためである。こういう詩の表現は好きである。「死んでしまう系のぼくらに」の題名も良い。早速読んでみたのであるが、とても良いのであるが、やはり新聞で紹介されていたようにポップなスタイルであって、言語感覚の新鮮味はあるが、少し奥行きが短くて半端な感じがする。つまり、言葉を手のひらに乗せて行う言葉遊びは、手毬みたいに優雅に、楽しく、笑いながら、かつ叫び、狂おしく続けて行うことに面白みがあるのであるが、手毬が手から逃れる時があるように言葉が逸脱する、それはとても良い逸脱であって文法とは無関係なことであって、感覚を体の内から酔わせるが、手毬が突然動かなくなってしまう時があって、言葉が流れずに急ブレーキをかけたように停止してしまう、時の流れそのものが停止する、この強制的な停止が気に掛かるのである。こうした感想文は何か月か前に書いていたが、別な詩集などを読み、加筆修正した感想文であることに注意されたい。
簡単に言うと、最初は言葉が流れてリズミカルに酔わせるが、次第にリズムがテンポを落として、最後は思いもかけず停止してしまうのである。せっかく夜の獣になったのに人間へと強制送還されるみたいで、悲しくも愕然とする。もっと夜の獣でいたいのに、そうと願っているのに人間へと有無を言わさずに連れ戻される悲しさでもある。つまり余韻を持たせないのである、というよりそれは表面的な不細工な言い方で、この系にて人間に戻っても戻らなくとも無理やり突き放たれるのである、それまで言葉のリズムに心地よく酔わせながらも冷淡に無理に停止させて言葉から切り離して突き放している。せっかくの心地よさが急に色あせてむしろ怒りたくなる、この詩の終わりの余白に言葉を継ぎ足したい、読んでいる私を冷淡に扱う著者から救うために拙くとも短くとも、読めない言葉を描く歪んだ線であっても死に損ないの掠れた線であっても言葉をつぎ足して自ら慰めたくなる。この停止は著者が意識的に行っているようにも思われるが、それまでの心地良さを最後にすべて吐き出される切なさでもある。無論、全部の詩ではない過半であるけれども、この終末の悲しさは著者の言葉に酔っているその酔いを一気に醒まさせて、書かれている詩ではなくて、この私だけをこの宇宙の銀河ではない半端な位置に置き去りにして捨ててしまうのである。
でも、出だしからの言葉の流れはすごく良くて、味わいがある。言葉への感性と表現内容は深みを含んで素敵である。詩人たちはあまり知らなくて、でもきっと似たような詩人と思われる、今は年寄りながら伊藤比呂美の「青梅」も好きで、今回何十年かぶりに読んでみたが、やはり本書より伊藤比呂美の「青梅」の方が感覚的には合う。若い時の伊藤比呂美はすごく素敵な詩を描いていたのである。コペルニクス的な転回は詩の世界でも訪れるはずで、この「死んでしまう系のぼくらに」が転回点なのかは判断つかない。俵万智の「さらだ記念日」が短歌の転回点であるなら、この詩集も転回点になる可能性はある。ただ、それは表現の様式の多様性を認めることでもある。多様性としてポップという一つの表現形式を追加し認めることでもある。ただ、このポップはポップであってポップコーンのように永く美味しい食べ物になるかは定かではない。ポップからラップに変身しようとしてもラップはもはやポップが飲み込んでいて、ラップではない別の何かになる以外にない。無論、正統的なスタイルの良い詩人の詩は永久にスタイルが良くて美しくて見惚れてしまう、切り離して捨てることのない美しいの詩を提供してくれるけれども、当然ながら正統的な詩人はほんの稀に、何十年に数人程度しか現れ出ない。ラップではない何かとは正統的な詩であってもいいし、反語的な言葉の言い回しの決まり切ったパターンから脱却すること、そしてラップの言葉の軽さに質量を加えることである。つまり何度も詩集を読み返したくなるように言葉に強度を加えること、ハートを捕まえるように鼓動を響かせるように、言い換えれば血を流させる心臓に直に手を触れさせ真実に鼓動が脈打っていると伝えることでもある。
本詩集の中で一番好きなのが「あとがき」である。散文詩と思ったが初出一覧に掲載されていないために、本当の「あとがき」であるのかとも思って、こうした散文詩を書いていればもっと良い詩集になったと思われる。高橋源一郎の横帯の紹介分は良くない、不正確というより、ダサいと言うより侮蔑的である。「多くの詩人たちは、宇宙や未来や自分の本棚を見つめて詩を作ってきた」そういう詩と、最果タヒが「みんなとみんなが住んでいるこの世界を見詰めて詩を作る」、そういう詩との違いは何であるのか、良く分からない。というより、好意的に解釈すれば、良く分からない表現をして、今までの詩文とは異なった詩の世界が広がっていることを暗示しようとしたのかのかもしれない。無論、高橋源一郎その人が書いた文章ではない。でも、こんな意味の欠いた横帯の紹介文など誰も気に掛けないはずである。きっと、伊藤比呂美の「青梅」は良いはずで、本書「死んでしまう系のぼくらに」の詩集も素敵に良いはずである、そう思いたいけれども言葉のポップさに終わり方に問題があるのである。
次に「グットモーニング」を読んだ感想を示したい。この処女作は「死んでしまう系のぼくらに」のよりも各段に良い、こちらの方がとても好きである。言葉がダイナミックに動き走っている。生身の言葉で声を出し叫び怒っている。詩の記述としても突然に停止することなどなくて自然に終わらせている。子ども、妊娠や吐き気、死人や光に世界などの鍵になる言葉も結構示されているけれども、ありきたりな解釈などせずに詩そのものを楽しむほうが大切である。彼女がこんなにもダイナミックに怒っているのか分かるような気がする、いや他人の心など結局分かるはずなどない。難点を言えば著者自身が気付いているが、憤怒の勢いが言葉の流れに渦巻いて絡みついて強すぎるのである。こうして比較すると「死んでしまう系のぼくらに」は「グットモーニング」を超えた内容や表現形式を獲得してなどいない、むしろ退化している。より静かに怒りを静めて深化しているのではない、「グットモーニング」に比べ、言語の表層を徘徊しているだけと言っても良い。何も語っていない言葉をただバナナのたたき売りみたいに並べている詩なのであるとは言い過ぎであるが、「グットモーニング」とは格段の質的な落差がある。こう言うのは「グットモーニング」の怒りが、言い知れない怒りがとても好きと言うことでもある。こうして考えてみると「グットモーニング」の怒りと「死んでしまう系のぼくらに」の静謐さとのバランスが必要とされるのかもしれない。表現と形式は常に変動する。この均衡点を見出した時に彼女は自らの最高の詩集を書くことができると思われる。ただ、怒りは含んでいて欲しい。もしや、もっと激しい怒りを含んだ詩が良いのではないだろうか。この怒りが言語やぼくらに向けられて知や感情をなぎ倒して剥奪して、死んでしまう系にぼくらを置き去りにするのではない、埋めて欲しいのである。
「星が獣になる季節」はライトノベルとのことであるが、筋を追い過ぎて会話がありきたりで数頁読んで挫折してしまった。どうしてこうした小説を書くのかと思う。きっと素敵な散文詩を書けるはずなのに、筋などいらないのに、なぜライトに流れてしまうのか、とても惜しまれる。持続させて書くことはできる、ただ、書く内容のレベルを保ちむしろ深化させて記述することはとても難しいことである。ただ、どういう詩をどういうライトな小説を書こうともそれは各詩人の自由であることは言うまでもない。「夜空はいつでも最高密度の青空だ」はまだ読んでいない。時々、ぼくらの系はいつ死んでしまうのかとの思いに捕らわれながら、ベッドに横になり宇宙について記述した本を読むのもまた良いものである。
以上
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2016年5月6日(金) |
題:マラルメ著 渡辺守彰訳「マラルメ詩集」、マラルメ著 秋山澄夫訳「イジチュールまたはエルベノンの狂気」を読んで |
マラルメの詩集は加藤美雄訳「マラルメ詩集 世界の詩31」を持っていたが、難しくて読まなかった記憶がある。読んでいて怖くなったことにも起因している。今回新しくマラルメ詩集が発刊されたと知って意を決し読んでみた。なお本書に「イジチュールまたはエルベノンの狂気」が無いと知り、別途この著作物も入手して読んでみた。これらを読んだ第一印象は難解であるが、沈潜する暗黒の内に虚無をも内包して、狂おしさに裂かれた思索が半獣神となって処女に付き纏うとも、付き纏われるのは処女ではない半獣神なる精神を生み出す言語そのであって、極度に怯えて存続と墜落を望んでいても思索を生み出さずにはいられないこの言語思考の鏡像が黒々とした闇の内に反射している。終わり尽きることもないこの夜が、自らの思索が、闇を黒く照らして、終わることのできない徘徊を続けて、清廉な処女を獣神の生贄として捕獲しするために執拗に追い駆け続けている、黒々として沈潜するこの夜の闇への深い信仰を描いているのである。信仰とは進行であると共に停止であり、静寂でありながら蠢く闇であり、もはや望んでもいない終焉を、最後の期待の到来を、もはや無垢を奪われ純粋に言語の亡骸となった処女の到来を椅子に座りながら待っていることである。ここまで書いて読み返したが、こうした文章がマラルメを理解したことになるはずはない。そこで、ブランショとドゥルーズの文章を引用して、理解に役立たせて感想文としたい。
モーリス・ブランショの「文学空間」にて論じていたマラルメ論では、『言語が、全体の持つ現実性しか持たぬことを意味する。つまり、言語は全体であり――それ以外の何物でもなく、常に全体から無へ移行しようとしている。本質的移行、言語の本質に属する移行だ。なぜなら、語においては、まさしく、無が活動しているからだ。周知のごとく、語には事物を消し去る能力がある、消え去ったものとして出現させる能力がある、・・語が消え去るという事実によって語から光を引き出すあの動きを通して、結局は不在へ立ち戻る現存だ。暗さを通しての明るさなのだ』ただ、これはマラルメについて論じたほんの一部にしか過ぎないことに注意されたい。ブランショのマラルメ論はとても長くて読み応えがあるけれども、詩文で良く分からない箇所もある。
ドゥルーズの著作物も探したところ「ニーチェと哲学」においてマラルメを論じている。ニーチェとマラルメの類似点として骰子論を記述しているのである。結局『偶然は、否定されるべき存在の如きものであり、必然は純粋な観念や永遠の本質という特徴をもつ。従って、骰子ふりの最後の望みは、自分の叡知的モデルを彼岸の世界の中に見出すということであって、この世界は、必然を「或る空虚でより高次の表面に」引受ける一つの星座であり、その世界には偶然の存在する余地はない。結局、星座は骰子ふりの産物というよりは、骰子ふりが極限へと、つまり彼岸の世界へと移り行くことである』と述べている。なお、ドゥルーズやガタリにとってアントナン・アルトーからは思想の源泉を得ているのに比較し、マラルメの果たしている役割は少ないはずで、あくまでニーチェ論の一部としての記述なのである。アントナン・アルトーはマラルメの半獣神の思想から、即ちエロディアードから相当影響を受けたようである。そういえば「ヘリオガバス または載冠せるアーキー」もマラルメから影響を受けた著作物であるのかもしれない。彼等の著作物を読むと、マラルメが沈鬱に沈潜して知的な人物であるなら、アルトーは狂気を発症した病的な人物であるに違いないと思われる。
渡辺守彰訳「マラルメ詩集」を読んで訳文の難しさを感じた。本文に忠実であるほど分かりにくくなるのである。主語+動詞+目的語などに修飾語なども加わって複雑な文章を、渡辺守彰訳「マラルメ詩集」ではたぶん忠実に訳しているのだろう。目的語や補語が後ろに記述されていて瞬時に何が書かれているか判断できないことがある、というより過半が読んで言葉の関係性を見失ってしまうのである。そして主体が薄れている。こうした詩集は初めてである。秋山澄夫は『わたしの訳文に、主語・述語・補語関係が文明を欠く個所がままあるが、原文にてまさにそうなのであり、あながちに訳者の未熟とのみ断定されないようにおねがいしておく』と述べている。加藤美雄訳「マラルメ詩集 世界の詩31」では通常の文体で書かれていて、主体を明確した文章は理解しやすいけれども、少し物足りない。また、鈴木信太朗訳「マラルメ詩集」はこれらの本の中間であると思われる。ただ、文章は古文調である。無論、渡辺守彰訳「マラルメ詩集」が一番良いはずであるが厚くてかつ理解しにくいため、鈴木信太朗訳「マラルメ詩集」を現代文に変えいれば一番良いと思われる。次は渡辺守彰訳「マラルメ詩集」の(注を)割愛した本、かつ「イジチュールまたはエルベノンの狂気」追加して欲しいと思う、主語に目的語や補語などが倒置されていたとしても慣れれば読むことができるのである。(注)は一般読者には、私にはそれほど必要ない。詩集はランボーの「地獄の季節」のように薄いのが良いのである。
なお、何年か前、マラルメ全集が出版されているはずであるが、この全集には目を通していない。また、「イジチュールまたはエルベノンの狂気」は散文詩であり、草稿であったものをなんとか筋道を立てて出版したものである。イジチュールとは内部が悉く鏡でできた城、『マラルメの<城>』と秋山澄夫は述べている。それにしても詩を訳文に頼り、原文で読めないとはつらいものがある。
以上
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2016年4月29日(金) |
題:三島由紀夫著「近代能楽集」を読んで |
三島由紀夫の戯曲は一つも読んだことがない。一つくらい読もうと思って選んだのが、この「近代能楽集」である。八つの作品がある。題名から分かる通りに、能のシナリオから選んだものであるが、当然三島由紀夫によって、現代風にかつ戯曲風に大幅に変奏されている。能のシナリオは200くらいあるはずである、ただ、この八つを選んだのは三島らしい選択であると思う。即ち、美的、知的にかつ女の情念を適度に含んでいる。そして、そのように大胆に筋や文章を自らの好みに変奏しているのである。解説のドナルド・キーンは『三島氏は自分が書きたいような筋のある謡曲を探して室町時代の現作家と自分の趣味が一致するものばかりを選んだ』と指摘している、その通りである。簡単に能における原シナリオを紹介したい。なお、三島の原シナリオからの変奏については本書を参照のこと。
1) 邯鄲(かんたん)・・夢を見る枕。栄達・栄華を極めるが、結局は世のむなしさ・儚さを知る。
2) 綾の鼓・・庭掃き老人が一目見た女御に恋をする。鼓を打てば会えるとのことであるが、鳴ることのない鼓を渡されている。鳴らない鼓に絶望して老人は池に身を投げる。この後は、女御を呪う筋と女御の守護神となる筋とがあるらしい。一般的には前者の筋にて演じられる。
3) 卒塔婆小町・・才色兼備な小野小町が老女となって、四位の少将の霊に取り付かれる。
4) 葵上・・「源氏物語」における六条御息所が生霊になって葵上を苦しめる。
5) 班女・・遊女である班女が扇を介して、恋人でありながら別れたままの吉田の少将に会うことができる。
6) 道成寺・・若い僧侶に懸想した女が、鐘の中に逃げ込んだ僧侶を大蛇となって焼き殺す安珍・清姫伝説をもとに、白拍子が寺の供養の場に現れ梵鐘に入ると鐘が落ちる。鐘を引き上げると蛇体に変身しており、嘗ての怒りに火を噴いて暴れる。
7) 熊野(ゆや)・・愛妾なる熊野は母の病気のために里に帰ることを望んでいるが、花見の席で歌を歌い主人宗盛に帰郷を許される。
8) 弱法師・・説教節の「俊徳丸」を元にした話。継母の讒言によって父に追放された弱法師(俊徳丸)は盲目にもなるが、讒言を虚と知って哀れに思っている父に、父の名乗り出によって旅先の夜更けに再会することができる。
まずこの「近代能楽集」を読んで思ったことは、百という数字である。この能楽集では百と言う数字は結構使われているが、一番強く印象に残るのは「綾の鼓」の数字を数え、最後の百である。鼓は百回打ってもならずに老人はさよならを告げるが、女は切なくも、もう一回打てば聞こえたのにと呟くのである。「卒塔婆小町」でも百は重要な数字である。九十九年生きていて百日目に会う約束など。この「百」は夏目漱石の「夢十夜」などに表れる「百」年などと同じ意味に使われている気がしてならない。その意味とは無限数としての、かつ区切りとしても百である。ただ、三島由紀夫が夏目漱石を論じている文章は読んだことがないので、漱石の影響を受けたのか、自ら好んで使用したのかは分からない。
次に、この「近代能楽集」は能のシナリオを少なからず打ち壊しているとの思いがある。能のシナリオは古く昔に記述されたシナリオをそのまま使用している。即ち、到来する者が居て自己開示を行い、出来事が生じるのである。過半の能のシナリオは「祈り」と称して、最後に蛇や悪霊との戦いや極楽浄土への往生などのドタバタ劇を演じさせる。三島の能では到来する者が居て自己開示は行うが、ドタバタ劇は一切ない。無論、三島が自らの美的な感性に従えば、このドタバタ劇を好むはずもない。自らの好きな類いまれな落ちを付けて終わらせるのである。現代的な戯曲では、旧来からの能のシナリオ形式は受け入れられないはずである。ドナルド・キーンによる三島の言葉は『能楽の自由な空間と時間の処理や、露わな形而上学的主題などを、そのまま生かすために、シチュエーションのほうを現代化したのである』と述べているが、現代的には能に含まれる一般的な祈りなどの形式は必要ないことでもある。また、言葉も現代語でなければならない。ただ、同じ現代語を使用したスーパー能では、現代語に古来の能のシナリオ形式を選んだために失敗したはずである。
一番好きなのは、熊野(ゆや)の前半である。心情と風景のみが綴られていて良い。ただ、後半になると母親が登場して、熊野は元の恋人に会うため帰郷すると暴露させるなど台無しである。私なら母親の危篤や切ない母の思いを綴った手紙、または打ち響く雷や雨などによる啓示を契機にして熊野の帰郷を許したい。そういう穏やかな筋書きにしたい思いがある。三島は熊野に愛人が居たとの異話を強調したかったのかもしれない。次には「綾の鼓」の二重に裏切られたとの老人の思いである。この二重の裏切りは本書を参照のこと。更に形而上学的な「卒塔婆小町」。大部分が良いのであるが、一番感嘆するのは最後の落ちである。三島由紀夫の良い所は、文章は美しいし、それに出だしと最後の落ちのうまさである。なお、本書では見ているようで見ていない架空のもしくは自らの思いを結実させた三島の華麗な文章は陰を潜め、簡明に現実的に心境を語った文章である。もっとも、こうした文章でなければ戯曲を演じることができないであろう。
この戯曲を演じた舞台を見てみたいと思って調べてみると、結構何年かおきに演じられていて、機会があれば見られそうである。ただ、能の良さは視覚よりも、むしろ視覚と同等以上に聴覚にある。笛、鼓、太鼓、地歌などなど、これらがどうなっているかは良く分からない。まあ、戯曲として芝居として見れば特に問題はない。
以上
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2016年4月29日(金) |
題:柳田国男著「先祖の話」を読んで |
柳田国男こそが日本的な霊の話を論じている。この「先祖の話」では、日本の霊について、先祖の霊の観点から、かつ神道を含み仏教の勢力拡大のために活用された事例を若干含めて論じている。即ち、日本古来の「みたま」と「神」が霊の中心であり、「仏」は外から入り込んできた思想なのである。日本の宗教はたぶん仏教を信仰する人が多いはずであるが、その観点からすると、鈴木大拙の著書「日本的霊性」が分かり良いはずであるけれども、本書は鈴木大拙の霊性論とは全く異なっていることに注意されたい。本書は八十一の短編からなり、順を追って読んで行くうちに柳田国男の霊に関する主張が分かってくる。また、彼の主張する「先祖」として祀る「家」の消滅への危機感も伝わってくるのである。ここでは彼の論じる先祖の霊の話を簡単に紹介したい。彼は「自序」にて『死後の世界、霊魂はあるか無いかの疑問、さては生者のこれに対する心の奥の感じ方と考え方』と述べているが、これこそが私の最大の関心事なのである。ただ、もはやこの霊論は主流なる仏教や日常慣習的に行われる儀式からみれば遠く離れた異端な思想なのかもしれない。『 』は本書からの引用である。
先祖は遠い昔の人なのではなくて、祀るべき者なのである。最初に「先祖になる」という心がけは、祀られるべき者になろうとする心意気であると述べている。こうして、家について「長子家督法」や「分割相続法」、分家、家門などの話が続くが、重要なのは正月と盆の話である。『正月も盆と同じように、家へ先祖の霊の戻って来る嬉しい再会の日であった』とする。なお、『霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわない』のであり、そして『人は亡くなってある年限を過ぎると、それから後は御先祖さま、またはみたま様という一つの尊い霊体に溶け込んでしまうもの』なのである。なお仏教については『最後は成仏であり、出て来るのは心得違いででもあるかごとく、遠くへ送りつけようとする・・民族の感情に反した話』と仏教の考え方を批判している。なお、正月も盆も日付が大切であり、これらの日付に関する詳細は本書を参照のこと。
家の成立には土地が唯一の基礎であった時代があり、稲を君と神との供御(くご)として必ず奉るのである。そして先祖の霊が御田の神または農神とも呼ばれる家ごとの神かもしれず、『春は山の神が里に降って田の神にとなり、秋の終わりにはまた田から上って、山に還って山の神になるという言い伝え』もあるのである。こうして、柳田国男は「みたま」について詳しく述べる。あら年のみたまは「あらみたま」であり、盆はこの「あらみたま」を祀ると同時に先祖祭も行う混同であると述べている。なお、死者を皆ホトケというのは、本来はホトキという器物に食膳を入れて祀る霊とも考えられるとも言っている。なお、『盆は家から外へ送り出される食物であったに反して、祭りは一家の裡において、遠い親々と子孫との間に行われる、歓会であり交感であった』とも述べている。
祀られる先祖の霊に対して、祀るものがいない外精霊がこの世に害をなすなどの俗信が広まり、これを祀りもして、かつ追い払いもするのが盆の踊りの目的であったとも述べている。この無縁の遊魂と共に、我が家のほとけも歓待しなければならないという気持ちが祭りには入り混じっているのである。なお、最初に述べた「先祖になる」のは、死者の霊がある程度の年月を経た法事によって、喪の汚れから清まり、時には神になることさえできたのである。神とみたまが異なるものと考えられているのは、神道の発達したある時期に、霊であったものを神としてたたえ拝むようになったためである。
墓所は祭場であり、荒忌の「みたま」を先祖霊とは別に祀ろうとしたのである。元々日本人の墓所は埋葬の地とは異なっていたのである。この両墓制は墓所を参り墓・祭り墓、埋葬の地をいけ墓・捨て墓とも言っている。遺骸は捨てられ樹を植えたり石を置いたりしているが、それを記憶する者が居なくなる頃には、自然にその場所も忘れ去られてしまう。他方、寺に託すなど参拝に都合のよい墓も持っていたのである。そして、触穢の制限を超越した法師が、まだ現生に心残りを持つ新精霊の供養を引き受け、死んだ者を浄土に送り込み生死を隔離させている。ただ、この隔離は仏教との折り合いによって三十三回忌に先祖という霊体に溶け込み、家のため国家のために活躍すると考えられ、これが氏神信仰の元であるらしいとのこと。なお、死んだ亡者は山に行くとのこと。霊山の信仰は仏教の伝来よりも古いと著者は述べている。
こうして柳田国男は黄泉思想などについて語るが、重要なのは『日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持ちを抱いていた』と言うことである。これには四つの理由をあげているが、『我々が先祖の加護を信じ、その自発の恩沢に身を打ち任せ、特に救われんと欲する苦しみを、表白する必要もないように感じて、祭はただ謝恩と満悦とが心の奥底から流露するに止まるかのごとく見えるのは、その原因は全く歴史の知見、すなわち先祖にその志がありまたその力』があると経験によって覚えていたためなのである。更に幽界の道理や生まれ変わりなどを述べているが省略する。本書を読んで日本における霊魂の考え方とはこういうものだったのかと初めて知り、感慨深いものがある。とても霊魂を身近なものに感じて、宇宙から飛来して貫通する放射線のように、見えることのないまま周囲を浮遊しているとも思われるのである。
以上
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2016年4月15日(金) |
題:九鬼周造著「「いき」の構造」を読んで |
本書は約200頁の短い本であり、「「いき」の構造」、「風流に関する一考察」、「情緒の系譜――歌を手引として」の三篇からなる。無論、「「いき」の構造」が一番長い。九鬼周造とは初めて知る人物である。西田幾多郎の弟子とも言われているが、確かではなくて、当時の日本の哲学界の主流からは外れていたらしい。解説の多田道太郎によると、ヨーロッパに滞在したことがあり、ハイデッガーに高く評価され、ベルグソンにも認められ、サルトルとも関係していたらしい。こうなると、当時の世界の著名な哲学者と知り合いであったとも言え、相当な人物とも思われるが、日本的な美意識なる「いき(粋)」が代表作となると、西洋的な哲学を表すことがなかったのは残念である。ただ、本書には西洋的な思考をもとに、随所に西洋的な単語も頻発し、ベルグソンなどが図示する以上に、精密な図を作成し説明している。
簡単に言うと、「いき(粋)」とは日本の民族的な色彩の著しい語であり、異性に対する「媚態」であるとする。なお、『媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったもの』(23頁)であるとする。この媚態が第一の徴表とするなら、「意気地」、「諦め」が次の徴表として加わる。なお、「意気地」は理想主義の武士道に基づく自由の擁護と言うべきものであり、「諦め」は自由への帰依が運命によって強要されている仏教的の非現実性を背景にしている。こうして、「いき(粋)」の結論としては『運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのがいきである』(107頁)と述べている。なお、この結論に達するまでには、こうした内延的な徴表から、外延的な徴表、即ち「上品」、「派手」、「地味」へと話は移っていき、更に客観的表現としての湯上りの姿やほっそりとした柳腰、首筋や素足、芸術的表現としての縦縞、色としての褐色や茶色、音楽や五感へと話は移っていくのである。無論、これらは反対語とともに図示され、西洋には見出されない日本独自の民族的な色彩を帯びた意識現象であるとする。
「風流に関する一考察では、「風流」と「風雅」などを、芭蕉の例などを取って説明している。「情緒の系譜――歌を手引として」では、短歌に基づいた「嬉しい」や「悲しい」、「愛」や「増」、「恐」や「怒」などの情緒の感情について短歌を引用しながら説明している。当然、この二つの短論文とも図示して解説している。ただ、一番力の入った論文はやはり「「いき」の構造」である。この「いき」の構造では、『「いき」は安価なる現実の提立を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。一言にしていえば、媚態のための媚態である』(30頁)が妙に言い得ている表現である。また、『「いき」は恋の束縛を超越した自由な浮気心である』(30頁)とも著者は述べている。これらは先の記述から相反するような表現であるが、媚態そのものが目的の実現とともに消滅する運命を持ったもので、目的に対して「諦め」を有しているためであり、この「諦め」に対して強力に自由に生きることでもあるはずなのである。
きっと心中して死に損なった女が表している「渋み」に移行する「いき」が、妙に迫ってなるほどと納得させる。『運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉』こそが「渋み」に移行できるのあろう。「媚態」に関する説明はさっとしか読まなかったが、しっかりと熟読しなければ十分に理解できないと思われる。即ち、媚態が諦めを内的な構造として含んでいるというより、その諦めを既に結果として経験しているために媚態が生じてくるとの思いがある。また、目的が挫折するたびに「媚態」は増幅して「いき」を増すのである。これは「渋み」を増すとは異なった様態であることに注意されたい。この反復を考慮に入れた「いき」を考える必要があるのかどうかは、ただ良く分からない。この辺の「媚態」については精読する必要があるのである、野暮な者には再読して理解する気力はないけれども、本書は日本語に対する鋭敏な感覚を覚醒させて、考えさせてくれる良い本である。
以上
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2016年4月8日(金) |
題:夏目漱石著 「坊ちゃん」を読んで |
最後に読むことになった長編小説が「坊ちゃん」とは自分ながら意外の感がするが、これまで読んでいなかったために致し方ない。これで、夏目漱石の長編小説は全部、短編もたぶん全部読んだことになり、残されたのは、評論や講演に俳句などだけになる。文学論だけは読みたいが他は分からない。そもそも夏目漱石論など書くか分からないのである。それにしても「坊ちゃん」はとても良い小説である。「吾輩は猫である」よりも小説作品として成功している。
「坊ちゃん」のあらすじはこうである。親譲りの無鉄砲な坊ちゃんは、母の死後、お前はダメだと言う父やずるい兄とは仲が良くない、ただ坊ちゃんを真っ直ぐで良い気性だと褒める清なる婆やの一途な思いやりを受けて物理学校を卒業し、四国辺の中学校の先生になる。清は共に連れていけない。この中学校で坊ちゃんは校長の狸、教頭の赤シャツ、数学の教科主任の山嵐、英語のうらなり、画学ののだいこなどといざこざを起こすのである。無論、生徒も一筋縄ではいかない。坊ちゃんが食べた天麩羅蕎麦やだんごなどを黒板に書いて次の日に笑う。宿直の布団にはバッタを入れるなど悪さの限りをするのである。清からは時々手紙がくるけれども坊ちゃんはあまり返事を書かない。赤シャツはうらなり君の嫁にもらう約束をしているマドンナを手に入れたがっている。一方芸者通いもしている。そしてうらなり君の母の月給をあげて欲しいという要望を聞き入れて、狸と共謀しうらなり君を遠方に転勤させる。その一方坊ちゃんには月給をあげると言って仲間に引き入れようとする。無論、坊ちゃんは赤シャツの言いなりにはならず、ただ、うらなり君を可哀想に思う。こうした小競り合いが続くとも、もう気性を知って仲間となっている山嵐と坊ちゃんは共謀して、うらなり君の送別会や戦争の祝勝会後の師範学校と中学校の生徒たちの争いに対処する。ただ生徒たちの争いは新聞沙汰になり山嵐は辞表を出す。こうして坊ちゃんと山嵐は策略を練り赤シャツに仕返しを企てるのである。芸者遊びをして出てくる赤シャツとのだいこに卵をぶつけるなど乱暴の限りを尽くす。彼らは警察には訴えない。そして坊ちゃんはこの不浄の地を離れるのである。東京で清が喜んで迎えてくれる。清と家を持つんだと坊ちゃんは決意する。ただ、その清ももう居ない。坊ちゃんと同じ墓に入れて下さい、坊ちゃんが来るのを楽しみに待っていますと言った清の墓は小日向の養源寺にある。
この「坊ちゃん」なる小説にはとても感動した。本を読んで感動したのはドゥルーズの「フーコー」以来であるから三、四年ぶりである。「解説」で平岡敏夫が述べているが、本小説の真の筋は清なる婆やとの物語で、赤シャツなど学校での出来事は表層の物語とする説に賛成である。あまり感想を長く書いても意味がないので、簡単に本書の内容の感想と漱石の文体について箇条書きにて示したい。本書の感想は次の通りである。
1) 清なる婆やの絶対的な愛、漱石の示すこの絶対的な愛はその後の小説で形を変えて変奏するのである。愛が信じられなくなり疑心暗儀する登場人物が多くなり、「行人」で一郎は妻の直の貞操を試そうとする。「明暗」では絶対的な愛を求めるお延と相対的な愛を主張するお秀とが戦う。この愛をめぐる心の葛藤が漱石にこびり付て離れない、常に問わずにはいられない問題であったのだろう、と同時に書き出したら止めにくいテーマでもある。この絶対的な愛とは全幅の信頼である、他者との合一である。ただ、無理である。メルロ=ポンティが言う「他者の身体とわたしの身体の間の一致によるよるわたしの見ているものが相手に移行し相手の視覚に入り込む」ことで、「他我問題は存在しない」のではなくて、常に見ているものは異なるのであり、他我と自我は衝突せざるを得ないのである。当然この見ているものが異なるため猜疑心を生み出すことになる。もしメルロ=ポンティが正しいのなら、自我と他我の間に共通の観念があることが必要とされる。少なくとも漱石に取って、共通の観念は存在しなかったと言える。
2) こうした漱石の心持は「坊ちゃん」にても明確に記述されている。『食いたい団子を食えないのは情けない。しかし自分の許嫁が他人に心を移したのは、なお情けないだろう。・・うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断ができない。・・本当に人間ほど宛にならないものはない。・・こんなことを書いてやったら定めて驚くだろう。箱根の向だから化物は寄り合ってるんだというかも知れない』(87頁)古賀さんとはうらなり君である。そうすると「坊ちゃん」における中学校での騒ぎは、絶対的な愛には到底及ばない、人情など知らない油断できない化物たちとの人情を巡る騒ぎを描いているとも取ることができる。
3) 「坊ちゃん」は「吾輩は猫である」の次に書かれた二作目の作品であるらしいが、その後の漱石の作品群における処女作と位置付けることができる。猫が苦沙弥先生なる狂人を描いた自画像でかつ風刺作品なら、「坊ちゃん」は人間相互の他者性を戯画的に書いている漱石作品の原型であるためである。それにしても感動する作品である。
次に、漱石の文体について簡単に示したい。それは漱石が表現しようとした内容を、文体を変えて記述していたということである。もしくは表現内容が自ずと漱石に文体を呼び寄せたかとのことでもある。それぞれの文体の例やその背後に潜む漱石の心の状態などについては記述しない。もう少し文体論を学ばなければならないからである。
1)「坊ちゃん−猫」文体―――思うままの自由闊達な文体。
2)「夢十夜」文体―――短文で迫力のある詩的な文体。
3)「野分−草枕」文体―――戯作調、もしくは俳諧趣味の文体。
4)「硝子戸」文体―――冷静に静謐な文体。
5)「三四郎−それから」文体―――小説として落ち着きのある客観的な文体
6)「坑夫−明暗」文体―――心理や意識の流れを克明に描く文体。
もしやこれに、7)評論・俳句文体を加えて、「漱石文体の七変化」と題して漱石論を書いても面白いかもしれない。ドゥルーズを真似して「七変化する文体のこころ」という概念らしきものを導入して漱石を論じることができる。ただ、このためには、まだ漱石の講演集や文学論を読まなければならない。認識的要素(F)と情緒的要素(f)を分析しなければならない。直線や三角形なる非ユークリッド幾何学も調べなければならない。また女たちを拾い集めて解釈しなければならない。加えて、たぶん文体には人称や時空間、心理の屈折に古語や漢語なども含まれるだろう。それほどの作業が必要ならば、いつか何かしらの漱石論を書くという希望だけを持っていることにしたい。なお漱石は結構哲学書なども読んでいたようだが、これらは既に読んでいることだけは幸いしている。でも、漱石論を書くのは難しいのである。
以上
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2016年4月1日(金) |
題:小松光彦 樽井正義 谷寿美編 「倫理学案内――理論と課題」を読んで |
倫理学の本を読んでいると、歴史上常に問われている倫理に関する問題の全体がどうなっているのか良く分からなくなる、というより哲学書を個々に読んでいても倫理学の全体の流れが分からない。本書はそういう意味では、簡潔な記述であるけれども、倫理的な問題を取り扱う「理論」を示し、かつ倫理学が直面している諸「課題」を示すという、二部構成で初心者にも分かるように記述されている。なお、本書は編者が三人、著者が十三人もいて、いかに倫理の問題が広範囲であるか示している。項目ごとに、私が関心を持つ若干の記述を加えて紹介したい。詳細は本書を参照のこと。また、本書では読むと良い本を紹介している。ともかく、倫理学とは何が善いことであり、正しいことなのか、善い、正しいとはどういうことなのかが倫理学なる学問領域を形成していると述べている。
第T部
第1章 義務論
人としての義務論である義務的倫理学。ソクラテス、キケロ、カント
第2章 功利主義
望ましいことが「善い」、この実現が「正しい」を前面にして社会的実践活動と結び付ける倫理学。アリストテレス、ベンサム、J.S.ミル、シジウィック、ムーア、ヘア
第3章 社会主義
自然観、社会主義による。マルクス、エンゲルス
第4章 生の哲学
生きることの意味を考える。ショ−ペンハウアー、ニーチェ、ベルクソン
第5章 実存主義
他人にとっては代理されない私の実存を基にする。キルケゴール、ヤスパース、ハイデガー、サルトル、マルセル
第6章 メタ倫理学
言語哲学の影響のもと、道徳的規範を批判的に基礎づける。自然主義、直観主義、情動主義。指令主義。ムーア、ロス、エイヤー、ステーヴンソン、ヘア、ハーマン、ノーマン、戸田山和久、大森荘蔵など
第7章 討議倫理学
理性への限界、社会の合理化による不条理など近代啓蒙への批判、近代への不信、コミュニケーションによる価値条件の提示。マックス・ヴェーバー、ユルゲン・ハーバーマス
第8章 正義論
正義論を通じての倫理学。ただ、自由至上主義(リバタリアニズム)や共同体主義(コミュニタリアニズム)からの批判がある。ロールズの社会正義論。
第9章 徳倫理学
徳が問われる倫理。ソクラテス、アリストテレス、マッキンタイア、ウィリアムス、ハーストハウス
第10章 ポストモダニズム
ポストモダンの思想家たち。フーコー、デリダ、ドゥルーズ、リオタール
第U部
第1章 世代間倫理
未来への世代への倫理。ヨナス
第2章 自然中心主義、動物の権利
人間中心主義から動物の福祉や権利を主張
第3章 生命の始まりと終わり
生殖補助医療、ヒト胚の利用、安楽死
第4章 福祉と優生学
人間らしさついての尊厳、生きることを支える制度、自由を守る制度、優生学
第5章 科学技術
科学技術の倫理学的な諸問題
第6章 情報
情報化社会の光と影、モラル、倫理
第7章 経済活動
経済活動の目的、労働契約、企業における意思決定
第8章 貧困と飢餓
困窮者を助ける根拠、飢餓の問題、
第9章 戦争と平和
戦争と平和に対する基本的な立場
こうしてみると、最初に述べたようにいかに倫理の問題が広範囲であるか示している。「理論」において示されている「生の哲学」、「実存主義」、「ポストモダニズム」を中心にして、少しばかり「義務論」、「功利主義」、「徳倫理学」などを読んでいるが、「メタ倫理学」や「討議論理学」に強い関心を持つ。特にハーバーマスによるコミュニュケーション理論はぜひ読みたい。「課題」では「科学技術」、「情報」や「経済活動」に関心を持つ。
以上
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2016年3月25日(金) |
題:夏目漱石著 「二百十日・野分」、「抗夫」を読んで |
夏目漱石の作品「二百十日・野分」、「抗夫」との感想文である。
「二百十日」は碌さんと圭さんの阿蘇の山登りについて記述した、百頁に満たない小作品である。穴の中なのか底に落ちる、霧や灰が降りかかってくるなど不可思議なことが記述されているが、「漾虚集」のように謎めいて解読を強いるような作品ではない。もう一方の「野分」はとても重要な漱石の初期作品である。漱石の原点が描かれているのである。江藤淳は何も指摘していないけれども、作家になった漱石のその後の作品にて展開されるべき問題が多々含まれている。「二百十日・野分」は職業作家漱石が誕生して「虞美人草」を記述する、その前年とその年に書かれている。この時にもはや漱石は、「虞美人草」の描く表層や「漾虚集」の描く暗く沈鬱な世界とはもはや異なった他者性を問題として含み内在面へと下り、深耕しなければならいように運命的に定められていたのである。なお、両作品とも多少戯作調の文章である。なお「野分」なるこの表題は謡に出てくる言葉である。
「抗夫」は「解説」で三好行雄が述べているが、島崎藤村の小説が出来上がらない。ただ、新聞小説に穴をあけることができずに、漱石が代わりに埋めることになる。こうして漱石はある青年の経験談を元に、抗夫の生活のところをのみ引用して小説に脚色したとのこと。なお、小説に出てくる二人の少女とは「虞美人草」の藤尾と小夜子であるとのこと。こうして三好行雄は「虞美人草」でも描かれている「道義」について論じている。また意味以前の心理と行動の軌跡を追跡して分析する意識を設定し、時間の恩寵なしに不可能な自己省察に小説の重心を移していると述べている。分かりやすく言えば、過去を振り返りその当時の心理と行動を分析的に自己省察する手法で小説を書いていると言っているのだろう。かつ中村真一郎は「意識の流れ」の実験小説だと評価しているとのこと。確かに実験小説である、そして、これは「明暗」に繋がっているはずなのである。これについては後で述べるとし、それぞれの小説の筋を示したい。
「野分」のあらすじはこうである。白井道也は英語の先生である。地方の学校にていじめられ東京に戻ってくる。文筆家になろうとしている。ただ、金がなく金策をするように妻、お政に責め立てられている。高柳は地方で道也を虐めた生徒である。彼も小説を書いている。道也を先生とあがめるようになる。高柳の友人なる中野は裕福であり、ある女と結婚する。その結婚式に高柳はみすぼらしい姿で現れてすぐさま退散する。中野はその妻なる女も高柳を心配している。道也の求める金は兄が保証人になって得ることができるが、返済するあてはない。道也は裕福な人々を攻撃する新聞記事などを書いて非難を受けている、道也の妻と兄は共謀し道也の「現代の青年異に告ぐ」なる演説を中止させようとするが、道也はみごとにやり抜ける。一方、高柳は肺病やみになりかけており、中野の療養の勧めを初めは断るが、療養費を受け取る代わりに高等な小説を渡す約束をして承諾する。こうして、高柳は先生なる道也のところに転地療養を知らせに行くのであるが、金の催促をされている先生を見て、先生が記述している「人格論」なる原稿を、貰った金のすべて百円を渡して買い取るのである。かつ、先生をいじめて追い出したのは私ですと告げる。
「抗夫」のあらすじは、二人の少女との関係に苦しんだ自分は裕福に暮らしていながら、自らを煙にしてしまおうと家出する。掛茶屋にて、ポン引きの長蔵さんに誘われて抗夫になることにし、途中得体の知れない赤毛布や小僧も加わって山の奥深くの飯場にたどり着く。獰猛なる抗夫たちに虐められ、南京虫や喉を通らない壁土なる南京米に苦しめられ、ジャンボーなる葬式を眺めても、飯場の頭の原駒吉さんの帰りなさいと言う忠告を聞かない。駒吉さんの指示に従った初さんの案内で、もはや地獄の入り口とも言うべき、シキなる坑内の坑道をカンテラを照らしながら奥深く進んで行くのである。狭い個所や水溜りやがあり、道はますます狭くなり、梯子を降り、水につかり、ダイナマイトに驚かされながらも尚も進んで行き、そしてこうも落ちぶれたかと涙を流すのである。帰りは初さんに置いてきぼりにされるけれど、安さんに出会う、安さんは教育のある男で、自分に帰ることを勧める。そして親切に出口まで送ってくれる。販場に戻った後、飯場の頭は抗夫になるためには健康証明が必要だと言う。証明書を受け取る病院の前で、最初飯場に入った時、病人であった金さんがジャンボーになって担がれている。気管支炎と証明され抗夫になれずに、こうして自分は帳簿付けの仕事をこの五か月間行うのである。
「野分」はとても重要な漱石の初期作品であると述べたが、簡単に箇条書きにて示したい。
1) 世の中、国家などへの痛烈な批判は「吾輩は猫である」を引き継ぎ、「虞美人草」へと繋がるものである。
2) 「現代の青年異に告ぐ」は倫理論であり、哲学であり、また文学に対する考えが、その精神や心構えとして明確に示されている。
3) 夫婦の会話は、一足飛びに「道草」へと引き継がれている。
4) 漱石の経歴が引用されている。漱石の小説がテクスト論だけで済ますことのできない困難性を示している。
5) 文学に対する考えに含まれるかもしれないが、文学者になることの意味を語っている。
6) 愛について、結婚について、その意義について語っている。
7) 文体が多少戯作調であり、漱石の文体の経年変化、もしくは文体の多様性を知ることができる。
8) 生や孤独について語っている、簡素な感情が露わになっている。
9) まとめると、この「野分」は、「行人」、「こころ」や「道草」、「明暗」へと繋がっているのである。即ち、後期三部作以降の作品の原点となっている。これは漱石が作家となった以降、前期三部作までは定めた筋に従って小説を書くために小説を書いていたのであって、表層を描いている。ただ、後期三部作以降はもはや表層ではあり得ずに、心の内に溜まっている諸課題へと深く沈潜していくのである。
「抗夫」は実験小説と述べられていて、かつ「明暗」に繋がるものであると述べたが、簡単にその内容を箇条書きにて示したい。
1) 「抗夫」は意識の流れと言うか、心理描写と言うべきなのか、確かに実験小説の趣がある。「抗夫」で描かれている心理描写の形式は「明暗」にのみ繋がっている。それは作品の内で推移していく心理であり、流れながらも変わらずに中心核を持っている心理である。こう言うと矛盾しているようであるけれど、核は変えようなどなくてあるのであり、その周りの表層的な心理のみが流れていくのである、そうした作品群と言い切りたい。この核を観念と呼ぶことができるが、「抗夫」で表現されている観念はなにか、その具体例を挙げたいけれども、省略する。
2) こうしてみると、漱石にはさまざまの小説形式があり、それは文体として明確に表れている。なお、長編小説ではまだ「坊ちゃん」を読んでいないので、「坊ちゃん」を読後漱石の具体的な文体を示したいが、たぶん、5,6種類程度あるはずである。
3) 坑内の奥深くに進んで行く様は、まさに漱石がその後の小説で展開していく心理の闇の奥深くに進行していくメタファーとも捕えることができる。「抗夫」は五か月で飯場から逃れ出るが、漱石は坑道の奥深くに、更に地獄の底の深くへと突き進んでいくのである。
以上
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2016年3月18日(金) |
題:夏目漱石著 「道草」、「明暗」を読んで |
漱石の人生の終盤に書かれた小説「道草」、それに絶筆となった「明暗」である。「道草」は漱石の人生を色濃く反映し、「明暗」では本格的な近代小説として評価が高い。
「道草」のあらすじはこうである。遠い所から帰って来た健三は教師として勤めているが、遠い過去から亡霊の如く養父の島田が現れ出てきて金をせびる。またその離縁した島田の妻お常も同様に現れてくる。健三は仕方なく彼らに金を渡す。彼等に裕福であると思われている家計は、実は火の車なのである。更に妻御住の実父さえも事業に失敗し没落して無心してくる。健三は新たに講師のバイトも始め、家計の足しにする。これらの人物に病弱な姉や小役人をしている兄が加わって話が進んで行くのである。無論、本書でも金の絡みが問題となっているが、妻である御住との互いに理解できない関係が浮き彫りにされている。御住はたびたびヒステリーを起こし、健三はたびたび言葉で言い負かす。ただ、御住は非論理的な反論もするし、そして子を産むなどして強いのである。本作品の最後の言葉が象徴している。世の中に一遍起こったことは何時までも続くと主張する健三に対し、御住は、お父様は何も分かっていない、と言って赤ん坊の赤い頬に幾度か優しく接吻するのである。
「明暗」のあらすじはこうである。津田は痔の手術をすることになる。津田は働いているけれども不足分の金を父から貰って生活しているが、その金が送られてこずに、金策しなければならない。実は、津田はお延に好かれて、上司たる吉川夫妻の仲介で結婚している。ただ、吉川夫妻は、以前に清子と津田とを結婚させようとして失敗している、清子に逃げられたのである。妻なるお延は夫に対して絶対的な愛を要求しており、津田との夫婦関係はぎくしゃくした心理的な戦いにある。お延は美しくはない、ただ鋭利に知的で情熱的である。これに対して、津田の妹なるお秀は夫に愛されていれば良いとする相対的な愛しかないと確信している。お秀は子を持たないお延に対して、ほぼ同じ年ながら子を持ち、美しい容姿を乞われて堀と結婚して実際的な考えに基づき暮らしている。津田には、お秀が両親、特に父を巻き込み意地悪をして金を送らせないようにしているとしか思えない。そして、お延とお秀はそれぞれ金を都合する。病院のベッドでの互いの金を差し出して津田に受け取るように迫る場面は、彼女たちが愛について論争する場面と同様に読み応えがある。こうした女たちの心理合戦は、それぞれの叔父なる岡本や藤井そして吉川夫人と巻き込み話は進んで行く。そして遂に、吉川夫人たちはお延に対してある種の罰を与えようとして画策をする。それは津田と昔の恋人清子とを会わせることである。退院後の療養と称して清子が湯治して居る温泉に津田を行かせる。突然の再会に清子は驚くけれども部屋に入れて会ってくれる。清子は一寸の余裕も与えないお延に比べると寛げる女である。こうして温泉での津田と清子の行動が始まった途端、本書は絶筆する。なお、小林という記者になるため朝鮮に行くという、津田を含めた余裕ある上流階級を非難する男の存在が唐辛子のように描かれている。
書きたいことがたくさん浮かんだけれども、思いつくままに箇条書きにする。
1) 「道草」と「明暗」は今までの漱石の小説の系列とは異なっている。つまり、小説を作ることで追及してきた作者漱石の存在論的な問いが、「道草」では自身の生い立ちを多分に含めることによって自らの存在を問う自伝ともなり、「明暗」では各人の相互の心理的な葛藤や論争を通じて幾分重々しい文章ながら、他者なる存在との不理解性に相克などが客観的に丁寧に書かれている。個人的には少し観念的な「明暗」よりも、「硝子戸の中」のような簡明な短文で書かれている「道草」の方が好きである。
2) こうした違いは描く女たちにも表れている。女たちは活き活きとして感情や知力を駆使して迫ってくる。「道草」の御住も「明暗」におけるお延も主人公の男たちに対等に対峙している。というより、御住は生活者として子を生み出すことのできる女として頑強に、論争に強い健三を圧倒し上回って生きている。お延も理知的な理論家たる津田と対等であるし、在る時には彼を上回わっている。つまり、主人公なる男たちは結局もはや落伍者でしかない。ただ、理論武装して神経過敏になって体裁と名誉のために、女たちと争っているだけである。こうした男と女のある種の立場の逆転、存在論的強度の反転は漱石の小説のなかでは初めて描かれていると言っても良いであろう。それまでは女に悩まされながらも男は優位性を保っていたし、神経衰弱に陥っていてもその内面的な葛藤が描かれて男たちは正当化され肯定的に描かれていたのである。
3) ただ、「明暗」は本当に本格的な近代小説なのかという疑問がある。解説の桐谷行人は本書にドストエフスキーの影響をあげているが、確かにそうと思われるけれども、本書の登場人物も筋書きも重厚ではあるけれども、どうしても疑問が残る。これはそれまでの作品技法とまるで異なっているために生じている、読み手の不慣れからきているのだろうか、ただ他の日本文学などを精査しなければ分からないので、しばらくは放って置きたい。きっと会話の多さや観念的な色濃さが馴染めず、また小林という唐辛子がもっと悪意に満ちて行動せずに、少し物足りないために生じているのかもしれない。それまでの作品技法を転換させた、まだ試験的な小説であって、漱石はこの「明暗」の後の小説に表現形式の本格的な展開を考えていたのかもしれない。
4) いずれにせよ、この「明暗」は「道草」よりも、他者性を切実に含んだ存在論的哲学の概念を含んでいるのである。でも、ドストエフスキーの作品が読むのに熱意が必要であると同様に、この作品も味わい深いけれども、「道草」のように心に迫りくることが少なくて、確かに面白く読めるけれども、なぜか堅苦しくてどこか面白みに欠いているとも思われるのである。それは本書で描こうとする観念がもはや古びているためか、熟せずに広がりを見せていないためなのかは精査しなければ分からない。ただ、この描かれている観念の内容と本格的な近代小説であるかどうかの評価とは別問題でもあることは留意しておきたい。
5) 「明暗」では、津田は優柔不断で自尊心のみが強いけれども、この男を通じて人間そのものの底に根付いている生の意味、自身の存在性と他者性を、客観的に描こうとしていることは確かな事実なのである。女たちも活き活きとして心理的にも行動的にも実存性を保って実存している。こうなると、漱石は小説の背後に居て登場人物を操るのではない、もはや登場人物そのものが質量を持ち独立な人間として行動し運動しているとも思われる。すると、漱石は黒子のようにものの見事に作品の背後に隠れてしまっているこの作品の手法は画期的なことである。初期作品からは考えられない小説技法の変貌なのである。すると、やはり「明暗」は本格的な近代小説と評すべきなのだろうか。やはり、良く分からなくなってくるので、しばらくは放って置きたい。
6) 「明暗」が絶筆なのは惜しいことである。ただ、清子に会ってその結末は相応に暗示されている。風呂に入りに行く清子を待ち伏せしていたと、清子に誤解されて、「ただ貴方はそういう事をなさる方なのよ」(643頁)と断言されている。そうして梯子段の上で清子が蒼くなった事実を問おうとする津田に「何もかももう忘れているんだ、この人は」と言わしめながら、清子の指には美しい二つの宝石で飾られている。ただ、本書の結末は暗示されながらも、清子の態度が曖昧さも匂わせていて結局分からなくさせている。なお、二つの指輪は「それから」において、三千代が大助に借金を申し込む時にも大助に見せつけている。漱石は何作品の内でも指輪を描いていて、この二つの指輪が示す象徴が好きなのである。
7) 一方、お延は清子との関係を知ってこう述べて予言している。「何でも可いから、今に見てらっしゃい」「いいえ、生涯のうちで何時か一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらの何時かの一度なの」「いいえ、貴方のためによ。だから先刻から言っているじゃないの、夫のために出す勇気だって」(518頁)と述べさせている。つまり、お延と清子は対決するのである。いや、お延がお秀や吉川夫人と対決するのである。そうすると、津田はこの対決を導くために清子からは拒絶されなければならない。敢えて推測するなら、清子は津田になびこうとしながらも夫に呼び出されて無理に去って行くのであり、何事も起こりはしない。ただ、帰った途端、津田はお秀や吉川夫人にこの無事件性を非難される。この非難される夫をお延は必死になって守ろうとする。また自らへの非難にも反撃する。ただ、無理がたたって津田の病状は再び悪化する。彼は危篤状態に陥りもしくは病状を極度に悪化させて、呼び寄せたお延の耳元に、掠れた声で「おまえを愛しているんだ」と告げる。この愛していると言う言葉は嘘であり、本当のことでもある。お延は津田の手を握りながら大粒の涙を落とす、この涙は敗北ではない勝利の涙である。津田の死に直面して、もしくはもはや先の見通せない状況において、遂にお延は絶対的な愛を手に入れることができたのである。
8) 「道草」と「明暗」を読んでいる最中に、サルトルの「嘔吐」と「出口なし」が浮かんできた。まさしく「道草」に登場する健三に取って、ぷよぷよして寒天のような生まれたての赤ん坊は、マロニエの根を見て実存の醜悪さを見出したロカンタン以上に、存在を物事体と見なしている。そして、妻との尽きることのない諍いは神経を過敏にするばかりの「出口なし」の状態なのである。漱石のこの生き物や他者への感性的な思いは、サルトルより遙か以前に存在の醜悪性を見出している。意識に取り付いている過敏な意識は常に終わることがなくて、醜悪さを増すばかりである。ただ、そうした意識を持とうとも「道草」に出てくる健三は「行人」の一郎よりも気を使い優しく親切であり暖かい、「道草」そのものも「それから」の最後に述べる大助の暗い言葉に比べ、明るく澄んでいる。ただ、両作品の主人公とも実存主義で言う「投企」することがない、投企とは無縁である。清子と会うのは決して投企ではない。
9) 現在に寄り添って来る過去、過去の記憶が現在に想起されて現在を成り立たせせるのは、生けるものの意識の構造とベルグソンは捕えている。ただ、ベルグソンが明らかにする「持続」という概念は意識の構造として捕えながらも、結局は生の肯定であり、生の躍動である。ところが「道草」や「明暗」の主人公に、過去から出現する人間たちは記憶の亡霊にも似て、この現在を混沌とさせ生を否定へと向かわせている。否定が言い過ぎならば、現在を掻き乱す無秩序なある種の力の過去からの出現にしか過ぎない邪魔なものであり、生へと肯定されるべき転換点へと決して向かわないのである。無論それぞれの作品の亡霊には違いがあり、また「明暗」は結末が分からないけれど、肯定に向かわないだろう。そこに漱石の生涯における悲劇がある。ただ、「道草」にて、御住がお父様は何も分かっていないと言って赤ん坊の赤い頬に幾度か接吻する描写は重要である。漱石はこの問題の所在をはっきりと認識し、この生の肯定への転換点を、そこからの離脱方法を観念的には把握していたのである。
10) 「それから」で大助は三千代を捨てたのではなくて、三千代に捨てられたのであると感想文に書いていたが、「明暗」では津田が清子に捨てられた筋であって驚いている。この男が女に捨てられる筋は漱石が書かなければならなかった筋であり、どうしても捨てられた理由を尋ねなければならなかったのである。いわば「明暗」は「それから」の裏返しの作品とみることができる。ただ、小説の枠組みなどを立派にして、本来的な意図を隠している。いわば漱石自身の経験を調べることなどせず、テクストのみで著者のこの意図を解くことができるかどうかの試金石となる作品でもある。
11) 日常は日常であってその背後も日常である。異界も他界も含んでいない、含んでいたとしてもそれらも日常の内にある。このありきたりの日常を住処にして漱石の描く女たちを切り開く概念はドゥルーズの「マゾッホとサド」にて、女と母親をそれぞれ三種類の典型にて示す論述は参考にはなり得ても、その応用は容易ではない。それは子供を産出する、また自らの感情や知に強い女の生へ粘着質的な執念と、生を嫌悪して猜疑する主人公たちの諍いの無意味さからくる。諍いは無意味ながら常に意味を持って起こるべくこの生に構造化されているのである。ただ、これらの女たちばかりではなくて、諍いの平面上を区分けすれば多種類の女たちが居るのであり、女たちの胸の内を切り裂けば露わにされる感情があり、胎内にて捕える感覚もあり、臓腑の並びの清冽さや流れる血の色の濃度の違いもあるはずなのある。極端に言えば諍いとは全く無縁に愛を降り注ぐ「清」なる婆やも居る。文章が少し逸れてしまったが言いたいことは、漱石の描く女たちはこの「道草」と「明暗」にて活き活きとしているが、一般的な女の像から抜け出して、典型的な観念を象徴した活人劇を演じているとも取れるのである。「虞美人草」の藤尾もそうであった。この観念を象徴した女たちを論じることは難しいこと、また「漱石の女たち」なる評論を書きたいと思っていたが、書くことの途方もない困難性を言いたかっただけである。
以上
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2016年3月11日(金) |
題:モーリス・ブランショ著 粟津則雄 出口裕弘訳「文学空間」を読んで |
ガストン・パシュラールの「空間の詩学」が後半良くなってくるのに対し、本書「文学空間」は前半が良くて後半が少し冗長となる。全体的には独自の視点から記述した内容は良いのであるが、その記述内容は少し特異であって、かついくらか分かりにくい。原文が悪いのか、それとも訳文が良くないのか、いや単なる理解不足のせいなのかもしれない。なお、独自の視点とは、文学空間の接近は到達不可能な中心地点へ限りなく近づこうとすることである。こうして言語論や孤独論を語り、死の空間との結びつきを強調し、昼―夜論や芸術論を展開するのである。こう言っても良く分からないであろうゆえに、まず本書の構成を述べると次のようになっている。T「本質的孤独」、U「文学空間の接近」、V「作品の空間と作品の要請」、W「作品と死の空間」、X「霊感」、Y「作品と伝達」、Z「文学と本源的体験」、「補遺」と章立てされている。
本書で論じられるのは詩人が多いが、マラルメ、カフカ、ランボー、ヘルダーリン、リルケなどなどである。まず初めに、作品の孤独について、また書くことについて述べる、次に、作家が日記という備忘録を付けるのは、生きている自らを確かめるために事実を必要とするためと述べている、なるほど多くの作家が日記をつけている理由を納得させられる。こうして作者が孤独であるこの「空間」は時間が不在であり、錯乱と狂気に従わせるものであり、また隔たりによる眩暈であり幻惑が君臨するとブランショは断言する。こうして本書は作家が「本質的孤独」のうちに書くことの意義について論じることから始まるのである。
文学は、特に詩は『くりかえしのあの全くの無力性、何ひとつ生み出すことのない長々しさに耐えている』であり、書く人とは『終わりなきものの絶えざるものを「了解」した人間』なのである。こう述べてブランショはマラルメについて現実性に関わる「なまの言葉」と事物を遠ざけ消し去る「本質的な言葉」の二つの言葉から論じる。そして、言語には無が活動しているのであり、この言語は己を無化することで呼び戻される全体そのものであり、この全体のなかで己を不在化する能力を持っていると言う。簡単に言い換えれば、作品の全体において言葉は無化することで表わすことをせずに、自らは不在となるのである。この能力は自己破壊行為でありながら、これこそがマラルメ作「イジチュール」の至高の瞬間に立ち会わせ、真理性を与えていると言う。マラルメの空間的な中心地点であり、彼の文学的な経験はこの地点に絶えず立ち戻させるのである。こうしたマラルメ論や書くことと絶望の観点から論じたカフカ論は読み応えがある。なお、カフカの場合、絶望によって書き始めるが絶望は極限を持たずに、書くことは真の絶望に届かないのである。カフカの日記や作品を丹念に読み解いたこのカフカ論はとても良い。なお、カフカの空間とは砂漠であり、追放され荒野を彷徨することである。
続いて「作品と死の空間」にては、特にリルケについて、己を無化することにさえ満足することのない、芸術と死の関係を論じている。ブランショにとって、死の無の空虚の終わりなき、無名の存在たる、私の死が主テーマとなってくるのである。話は変わるが、先日、ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」を読み始めると、初めに死について論じられている。ただ、どうして読むことができずに放置してある。「宗教の理論」は文章がまずいこともあるが、彼の論じる死とは投げ捨てておくべきことであり、ブランショの死もきっと打ち捨てておくべきであり、それほど関心は引かないのである。シュールリアリズム的な死とエロスにあまり共感を呼び起こさないのは意外な感もするが、たぶん時代や年代に相応した感性を携えた概念や思想が関心を引くのであり仕方がない。ただ、ブランショの死の考え方には、不在化と虚無や夜が結びついていて、一度丁寧にその内容を調べ直す必要があるかもしれない。きっとシュールリアリズムに拘わらず、二度の世界大戦を目の当たりに経験した者と経験の無い者とでは、死に対して太陽系と銀河系の渦巻く中心ほどに途方もなく隔絶した感覚や思想を持つのかもしれない。ただ、衛生兵として出兵したトラークルの死に迫った狂乱の散文詩はとても良かったと記憶している。もしや、表現される文体そのものに起因しているのかもしれず、書いていて良く分からなくなってくるために死については放置しておきたい。
夜と昼の関係については注意しておく必要がある。絶対的な現実性が欠けている真夜中こそが過去が未来の極限に触れて到達している時刻であるとブランショは言う。即ち死の瞬間そのものでありながら、この瞬間は現存せずに、もはや絶対的な未来の祝祭になると、マラルメの作品「イジチュール」を引用しブランショは主張する。この真夜中とは夜の体験そのものでもある。そして、昼は夜に結び付けられていて、すべてが夜の中で終始するのである。一方昼は夜を一掃し自らの支配権を確立し、昼のさなかに夜は経過しなければならないとも述べている。昼は昼と夜との総体となり、昼のものでもある夜は夜の掟を持つために真の夜でもある。また昼に対抗する夜の掟を持たないもうひとつの夜は昼の中でのみ体験できる、破られるかもしれない秘密であり暴かれるのを待っている暗黒の夜なのである。このもうひとつの夜についてブランショはカフカの小説を例にとり、獣に危険の本質が姿を現す夜ではなくて、獣に聞こえるこぼれ出る音が止むことがない、聞こえてくる夜と説明している。この昼と夜との関係を簡単に言い換えることはしないし、できない。正確に知りたければ本書を参考のこと。
「霊感」の章は冥界に妻を迎えに行き振り返るオルフェイスの話を終えると、文章が冗長になってくる。『飛躍は霊感の形式、あるいはその運動である』とし、『今なおアンドレ・ブルドンが、自働記述の価値を一貫して肯定しながら主張しているものこそ、霊感のこうした様相である』と述べているが、彼の主張する「霊感」とは、涸れることのない呟きなのである。「霊感」とは、欲望を頼りとして、自身の源泉に立ち返ろうとする言葉なの運動なのである。また、作品による伝達とは読むことによる作品の歓待であり、「諾(ウィ)」なのである。「文学と本源的体験」では、芸術の現況について、存在論と追放の観点などから述べているけれども、なんとなくしっくり理解することができない。
モーリス・ブランショについては「来るべき書物」を読んでもう少し理解に努めたい。基本的にはシューリアリズムやヌーボーロマンの脇に聳え立っている、少し古びた巨大な評論家といった位置づけになるのだろうと思われる。ただ、到達不可能な中心地点へ限りなく近づこうとする文学的空間や言語や死に不在論を熱く語る文章は読み取りにくいが、まどろこしくて読み飛ばしたくなるが、批判したくなるが、その心情は実に熱く読者に接近してくるはずである。
以上
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2016年3月4日(金) |
題:アンドレ・ブルトン著 稲田三吉訳「ナジャ」を読んで |
とうとうシュールリアリズムの大家、アンドレ・ブルトンの著作物を読むことにした。表題の通りに「ナジャ」である。ずっと昔に読んだ本であり、精神病の少女の話と思い込んでいたが、内容が大幅に異なっていたのには驚いた。記憶ほどあてにならないものはない。読後の感想として、シュールリアリズムの小説としてブルドンはとても優れているという思いは、今回読んでも変わらない。
本書「ナジャ」が実際にナジャという女との出会いを描いていることにも少なからず驚かされた。このナジャという名の女と街中を徘徊した、ブルドンを虜にした現実の女の話なのである。きれいさっぱりと忘れていたに違いない。この出会いをシュールに描くためにか、導入部としてブルドンがユイスマンなどの話をしていることも、また、ナジャとの奇妙なやりとりや情景に続いて、彼女と別れたその後の感想も加わっている。それに多数の写真も添えられているのである。本当に記憶ほど当てにならないものはない。
本書の出だしにブルドンが述べている、「私はいったい何者だろうか」といった言葉や本書の意義などについては、またュールリアリズムやブルドンの経歴などについては、訳者なる稲田三吉が結構詳しく記述しているので省略したい。即ち本書は精神病患者、ブルドンは狂気と呼んでいるが、狂気と狂気でない状態との間に境目がなくて、即ちシームレスに連続しているこの精神の現実的な相貌を描いているのである。この精神的疾患はナジャを通じてブルドンにも侵入してくる。こうして、もはやすでに狂気が侵入した精神が表現する、歪みつつも滑らかさを持つ文体が本書を魅力的なことにしているのは確かである。稲田三吉が本書「ナジャ」にシュールリアリズムの概念を含み記述しいることも解説しているが省略したい。
私はジル・ドウルーズがアンドレ・ブルトンを取り上げないことに注目したい。ドウルーズの著作物はほぼ読んだが、記憶は当てにできないとしても、ドゥルーズの書物にブルトンやシュールリアリズムの記述は無いはずである。ドゥルーズは文学とは錯乱とみなしている、かつ病であり、錯乱から健康の創造を、生の可能性を解き放つことが文学を書くことだとしている。即ち、ブルドンの述べる狂気は本当の精神疾患である分裂症とは異なっている、ドウルーズは狂気ではなくて錯乱たる分裂症に執着するのである。この狂気と分裂症との違いは良く分からないけれども、仮に狂気を、常軌を逸している精神状態でありそれによって引き起こされる行動である、また分裂症を幻覚や幻想を見てまとまりのない思考と奇異な行動を伴うとしよう。こう表現してもまだ良く分からないが、確かにこれらの言葉は異なる。
敢えて間違いを恐れずに言えば、狂気はまだ主体が残されている正統的な精神的疾患であるのに対して、分裂症は主体を失っている気違いなのである。ブルドンがフロイト的な精神分析を好むのであれば、ドウルーズはフロイトを否定し、アントナン・アルトー的な詩文を好む。即ち、ドウルーズにとってシュールリアリズムとは表層的な表現と精神の把握しかできていない文学なのである。例えば、「批評と臨床」でドゥルーズは何と言っていたか。宇野邦一が編集した「千の文学」で宇野邦一はまえがきで何と述べていたか。ドゥルーズは人間の境界を描いている小説を好み、この当時のフランス文学を、サミュエル・ベケットなどは除いて確かに批判している。それはひとえにドゥルーズにとって何度も言うが、表層的な狂気を描いているとしか見えないためであろう。
ただ、ブルドンとアルトーは仲間であり、かつ仲間外れの敵になるなど、混濁した友人関係を持っていたようである。こうした人間的な関係から狂気と分裂症とを語るのは止めよう。正にドウルーズは自らの思想を紡ぐのに、自らの好む著作物を選択できる。そして、たぶん、ドゥルーズは狂気と分裂症の違いを認めている。ただ、アンドレ・ブルトンはこれらの違いを述べはしない、彼は分裂症ではない、精神的な軽度の錯乱を患っているだけなのである。こうした精神病に関する話は面白いのであるが、難しく混乱する以上に精神病の知識が無いためにこれにて止めにしたい。
結論として、シュールリアリズムやヌーボーロマンの小説などをそれなりに読んできたが、やはりアンドレ・ブルトンとモーリス・ブランショが良さそうである。ブルドンは文章が滑らかであり、無意識を装った意識が、意味と無意味を混濁させてシュールな文体にて描いている小説は卓越している。ブランショの小説も良いのであるが、意識されている明晰な論理性が少し邪魔をしている。ブルドンの小説がその構成を肌触りの良いものにしているのに対して、ブランショの小説は少しごつごつした肌触りをしている。ただ、推測するに、きっとブランショは卓越な論理性でもって評論を書いている違いない。なお、ブルドンを述べないドゥルーズが、確かブランショについて述べていたと記憶している。調べてみると「意味の論理学」でブランショの二つに区別された死について論じている。ブランショにとって死は最大のテーマでもある。トリスタン・ツァラも気に掛かるが彼の詩はあまり理解できなかったと記憶している。いずれにせよ、ある種の文化的な特性は高揚すると同時に去って行く、浜辺に残された足跡の内高貴に痕跡として残されるものは、どうしても少なくなってしまう。浜辺に打ち寄せる波にさらわれて、陽に照らし出されるくっきりとした輪郭を持つ足跡の痕跡はとても少ないのである。
以上
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2016年2月26日(金) |
題:アラン・ロブ=グリエ著 若林真訳「快楽の館」、ナタリー・サロート著 平岡篤頼訳「黄金の果実」を読んで |
シュールリアリズムやヌーボーロマンの小説を少し読んできたが、その評価を巡ってはさまざまに論争が行われてきたようである。私見では、既成概念を打ち破って、伝統的なロマン小説の枠から脱出しようと新しい形式の小説が次々と作成されてきたけれども、ごく少数の小説家しかその目的を達成してはいないと思われる。ここで紹介するアラン・ロブ=グリエ著の「快楽の館」やナタリー・サロートの平岡篤頼訳「黄金の果実」も、この少数の成功した例に入っているとは思われない作品である。つまり、試行的な失敗作品と思われるのであるが、少し論じてみたい。
アラン・ロブ=グリエ著「覗く人」でも述べたはずであるが、視線が文学を形成することの困難性がある。視線が描く小説の物質的な表面に意味を見出すには、主体の位置が定かでなければならない。視線が彷徨するにつれて描き出す物質の表面に意味があるのではない、主体なるものの堅牢な視線の位置が物質の表面に意味を見出し確かにするはずなのである。空無や疎らや蜜な主体であっても、この主体の堅牢さが揺らぐことがなく物質を徘徊し、嘗め回すようにして意味を見出す、もしくは無意味を見出すか、意味を廃棄するのである。成功した作品群にはこうした確かな主体が存在するのである。この確かな主体とはどのようなものかについて論じるのは難しい、この堅牢さが何を意味するのかもはっきりしない、きっと成功したと思われる作家をあげれば分かるかもしれない。サミュエル・ベケット、デユラス、ブルドン、ブュランショなどなど。ただ、ブランショなどはアラン・ロブ=グリエ著「覗く人」を擁護しているとのことで、やはりヌーボーロマンの小説などには多様な評価があると思われる。また、文章の行間や描く対象や観念的な思いなどに加えて、作家の文章の特質が多大に影響しているのかもしれない。
それにしても本の横表紙に描かれている文章のなんと刺激的なことか、過大に祭り上げようとしている。アラン・ロブ=グリエ著「快楽の館」では次のようになっている。『女の肉体に憑りつかれた男のエロチックな夢想を描き現代人の生の虚妄を衝く新しい文学』『驚くべき文学的冒険――中村真一郎 奇妙なことに、この小説は相変わらず視覚的でありながら、一方でそれは一遍の夢となっている。これは驚くべき文学的冒険だといわざるをえないだろう。この小説では彼は夢を非人間化することに成功してしまったのだ。これは作家で、誰ひとり試みることのなかった気違いじみた仕事である。そして、新しい認識というものは、ネルヴァールの例によっても明らかなように、いつも狂気から始まるのである・・』
ナタリー・サロート著「黄金の果実」の横帯では『意識下にうごめく他者への不気味な嫉妬、憎悪、恐怖の感情・・・。内面に深い虚無と空白をいだいた現代人の魂! 動脈硬化の症状を呈する既成の小説美学に反抗し、独自の革新性にかがやくヌーボーロマンの新作』と記述されている。なお、「黄金の果実」の筋を簡単に述べると、ブレイユなる小説家の「黄金の果実」という作品に対する評価を会話文、および会話文もどきから成り立たせた小説である。ナタリー・サロートの作品をどの程度読んでいたかはもう記憶にないが、もう読むことはできなさそうである。
ヌーボーロマンには入るとは思われ無いのであるが、それにしても好作品であるサミュエル・ベケットの作品群、特に「マーフィー」や「モロイ」などが懐かしい。ただ、この二作品は全集ではなくて単行本で持っており、「モロイ」などは引っ越しの時になぜか水を浴びたのかよれよれになっている。きちんと読むためには新しく購入しなければならないに違いない。なお、小説作品は読み継がれてこそ値打ちが生まれてくるのである。ただ、膨大に埋もれている作品や膨大に廃棄される作品、これらが甦ってくるには恐ろしいほどの困難性がある。つまり、ドウルーズがマゾッホなどを見出したのは稀有な例で、絶滅種よりあっさりと生み出された作品はすぐに消滅してしまうのであり、すぐさま廃棄されてしまうのである。今さらながら、聖書や古事記に叙事詩などの趣向など凝らさずに簡単な文章で記述された本が、何千年も生き続けているのは相応のわけがあるはずなのである。
以上
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2016年2月19日(金) |
題:モーリス・ブランショ著 篠澤秀夫訳「至高者」を読んで |
モーリス・ブランショは「文学空間」で有名である。ただ、この「文学空間」を読んだのかどうかは記憶がない。きっと読んでいないのだろう。本書「至高者」はブランショが記述した小説の中の一冊であり、彼がどういう小説を書くのか気になって読んだ本である。なお、訳者の「あとがき」では、ブランショはナタリー・サロートやジャン=ポール・サルトルと同世代である。バタイユやロラン・バルトなどとは友人であったらしい。フーコーの「ことばともの」が世に出て、フーコーが有名になり、そのフーコーがブランショの重要性について語り見出された人物らしい。訳者である篠澤秀夫の言葉を借りると、『ロラン・バルトが・・構造主義を打ち出していくことの根底には、・・ブランショの評論のみごとな輝きが、先駆者としてあったに違いない。1940年以後のフランス文学一般は、“ブランショの時代”なのかも知れないのだ』と褒めたたえている。
結論からいうと本小説はとても良い。会話文は哲学的な響きがあって、地の文章は詩的に卓越している。訳文も良いのである。ベルナール・ノエル著の「聖餐城」のような、それ以上に筋書きと登場人物は謎を秘め、散文は精緻を極めている。ただ、400頁を超える文章には冗長性が、会話文には澱みがみられるが、本書の価値を減じるものではない。なお、本書は1973年に発刊されている古い本である。本書の内容についてであるが、篠澤秀夫の文章を借りると『彼の小説の構造は、《死んでいる》――死を抱き死の中に維持されている生――ということへの明晰な意識が、日常生活の生の見かけの中で見失われ、また発見され、そして再び見失なれる、その永遠の循環である』とのこと。この文章にて語られていることは基本的に正しいと思われる。ただ、本書を読んだ限り、生と死が、私や私たちばかりではなくて、この社会や現実を含む広範なものであることをブランショが意識していることを指摘しておきたい。法と役所に国家という言葉がよく出てくるためではなくて、現実そのものの比喩的な小説とも捕らえることもできるのである。
本書の筋は良く分からない。敢えて言えば、主人公は妹に虐められ、役所に勤め、アパートの住み、同じアパートに住む写真屋の女と関係し、住人と論争する、そして知らないうちにきっと伝染性の疾病に罹り、疾病は拡散してアパートや監獄が隔離所となる。どこにも火災に破壊や処刑が生じているにちがいない。こうして筋合いにて登場人物たちの関わりが続いて、最後は看護婦の女との、病人と女とが部屋なる空間でのやりとりをする。二人の緊迫したやりとりのまま小説は終わる。この女とは妹の身代わりか、狂乱しているのか、神の位置づけに近いのかもしれない。良く分からないのである。
本小説の始まる前に書いてある文章を紹介したい。『《わたしはあなたにとってのわななのです。あなたにすべてを話してもむだです。わたしが公正になればなるだけ、あなたをだますことになります。あなたをわなにかけるのはわたしの率直さなのです》《お願いですから、このことをわかって下さい。あなたにとってわたしから来るものはすべて虚偽でしかないのです。なぜならわたしは真実そのものなのですから》』これだけだと意味不明である。本文中に二か所同じ文章が出てくる。そのうちの一か所が結構明瞭に描いている。あなたは深淵に向かって走り、敵の列中にて戦っているのである。『もしわたしが真実を告げれば、あなたは戦いを放棄するでしょう。希望を残しておいてあげれば、あなたは、闘争上誤りをおかすことになります』(287頁)文章を論理学的に解析したくなるが、結局、論理など無駄である。あなたは戦い続けて深淵に向かって走り続けるかないのである。わたしが真実を述べても、それは虚偽であり闘争を放棄する原因となることができない。また、わたしが真実を言い換えても、あなたはこの言い換えた真実によって虚偽の闘争を続けるしかない。つまりわたしの真実は常に真実であり、あなたはこの真実を虚偽と認識して闘争を、また虚偽の闘争を含めて続けなければならないのである。なお、虚偽の闘争とはわたしの言い換えた真実を虚偽と認識することができずに行っている闘争のことである。なお、わたしとは主人公であり、あなたとは闘っている登場人物の一人である。詩人フェルナンド・ペソアの確か『詩人は真実を言うことによって嘘を言う』と述べていたと記憶しているが、この表現と同等とも思われる。ただ、小説ゆえにかもっと切迫した印象を持つ。
何だか分かりにくい面倒な言い方になって、間違っているかもしれず、真実と虚偽についてはさっと流して次に「至高者」の意味について調べてみたい。さっと眺めると何か所かある。『「今、あなたがだれかわかったわ、見つけたのよ。・・」・・あまりにもきっぱりとしているのでわたしを無に帰させてしまったほどの声で女は叫んだ。――そうです、あなたが見えます。あなたの声が聞こえます。そしてわたしにはわかるのです、至高者が実在するのが。わたしはそれを褒めたたえ愛することができます』(370頁)『突如、わたしは眠りから引き出されたようになり、奇妙な印象に貫かれた。一種の光輝の印象、荘厳で凛然とした陶酔、まるでその日のできごと、ことばがその真の領域において場所を見つけたかのようだった』(372頁)『女はためらい、何か激しく一種の力をこめて考え、ついで顔を伏せ、一種の笑い声を立てた。ワカッレイルワ。アナタハ唯一、最高ナノデス。ダレガその前デ立ッテイラレマショウカ?』(374頁)『「・・あのかたは来た、わたしの前で生身で暮らした、そこに居る、狂気の沙汰だわ、そこにいる」女は包みを眺めた。「こうしなければならないのよ」女は静かに言った。「あなたを生きたまま自分のものにしておくことはできないのです」』(405頁)
こうしてみると、至高者とは女が見る幻覚なのか、あなたが居ることで見る幻覚なのか、あなた自身のことを指しているに違いない。この時のあなたは主人公なる私であるのだろう。『・・女の中にそこにいるのとは別のだれかが隠れているのを感じるのだった。・・もうわたしの部屋を離れないと言い放ち、・・《かわいがってあげる、守ってあげる、あなたしかない》』(360頁)と述べる文章は、私を虐待した妹を彷彿とさせるが、隠れているその誰かが妹であるかは定かではない。でも、きっと至高者とは虐待されるものであり、生きたまま自分のものとすることができないものなのである。そして前に述べたように至高者はきっと神のように真実そのものなのであろう。言い換えれば、女はその至高者のためだけに生きている生命なのである。あなたなる至高者が女の生命を取り上げると言うと、女は殺すと言う。この至高者とは何かしら世俗的な何者かでもある。
それにしても、モーリス・ブランショの小説を読むのは初めてではないものの、もうすべて忘れていて、特に本小説は多岐に渡り謎が多すぎる。ブランショの他の著作物を読まなければ早急な理解は難しいだろう。
以上
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2016年2月12日(金) |
題:夏目漱石著 「彼岸過迄」、「行人」を読んで |
漱石の後期三部作、「彼岸過迄」、「行人」、「こころ」のうちの二冊である。「こころ」は以前、それなりに感想文を書いているので省略する。
「彼岸過迄」のあらすじは、田川敬太郎の探偵趣味から始まる。彼は人間の異常なる絡繰りが深い闇夜に運転するさまを眺めていたいのである。彼には友人須永市蔵がいる。この須永が本書の主人公であり、彼の解き明かす自らの人生の謎が本書のハイライトである。須永の母は、妹の嫁ぎ先の子供、田口千代子を生まれた途端、市蔵の嫁に貰うと約束をする。こうして、千代子の父なる実業家であり、いたずら好きな田口や、須永の母の弟なる、哲学者然たる松本が絡んで話が進んで行く。須永はいわば高等遊民であり、松本の影響を受けて自らにさえ懐疑的である。ある時、田口一家が避暑に行く鎌倉へ誘われ、そこで千代子と仲良くしている彼女の友人の兄たる高木を見て須永は嫉妬する。千代子を嫁にもらう気が無いのに嫉妬するのである。鎌倉から帰った途端、千代子にこの言われなき嫉妬心を鋭く指摘され答えに窮する。こうして、須永は常日頃の疑問を松本に問い詰め自らの出生の秘密を聞き出す。須永は既に亡くなっている父が小間使いに産ませた子だったのである。このため母は同族の血を繋がせるために千代子を嫁にもらおうとしたのである。出生の秘密を知り須永は旅に出かける。そして心に渦巻いていた恐れを取り除いたようなはがきを松本へ送る。千代子は結婚しない、須永との関係もそのままのまま小説は終わる。なお、話の初めに敬太郎が冒険家なる森本から貰う蛇の頭を彫った洋杖(ステッキ)が象徴的な意味を持つ、かつ松本の末娘宵子が雨の降る日に死んで行う葬式の悲しい描写が印象的である。
「行人」のあらすじは、長野次郎には、兄の一郎がいる。その兄の孤独、愛されたいと思いながらも他者に疑念を感じずにはいられない、過敏なかつ刺々しい精神が記述されている。無論、父母も、次郎も血筋ゆえに信頼されていたが、もはや信頼に足りずと見捨てられる。次郎の嫂になる、即ち一郎の嫁なる直の態度に疑念がますます強まってくる。こうした猜疑心の主テーマが、次郎のお貞、欲が少なくて善良で人間であると兄が評するお貞の結婚話を次郎がまとめようと大阪で活動するところから本小説が始まるのは筋書としては絶妙である。その後、家族で旅行に出かけることになり、次郎と嫂が暴風雨のために足止めになり二人きりで泊まらなければならない時に緊迫した場面を迎える。実は、次郎は一郎から嫂の貞操を試して欲しいと言われ、断っていたのである。旅行後、次第に兄の精神状態が良くなくなる。次郎は友人三沢を通じて兄の友人なるHさんに一緒に旅行に行ってもらい、兄におかしな点があれば知らせて欲しいと頼む。こうしてHさんから、兄の猜疑する精神の思想的な背景を知らせてくる長い手紙がきて詳らかになり小説は終わる。こうした、メインのあらすじに、離婚したためか狂った女の早く帰ってきて欲しいと出掛けに三沢に懇願する話、この女の死んだ体に接吻する話や、入院している痩せた芸者に三沢が見舞いに行く話、下女に手を付け何十年かぶりに会うけれども知らぬままに盲目になっている女の話などが加わっていて、本小説全体の筋書きの狂おしさを盛り上げている。
後期三部作、「彼岸過迄」、「行人」、「こころ」をまとめると次のようになる。「彼岸過迄」が、猜疑する自らにいたたまれない人間を描いているなら、「行人」はその猜疑心を正面から受け止め、解決策を死ぬか、気違いになるか、宗教に入るかなどと模索し、そして「こころ」では、知らぬうちに自らのこころを偽って生きている先生を描いて、結局死の道を選ばせることになる。「彼岸過迄」は漱石大病後の最初の小説で、慣らし運転みたいに軽めに書いているのに対し、「行人」はその解決策を模索している大作である。この「行人」は、前半は淡々と描いているいて良い作品であると思っていたが、後半のHさんの手紙によって知らされる一郎の精神は分かり良いけれども、ある種気の抜けた凡作に見えてしまう。なぜならこの猜疑する精神そのものの記述はそう簡単に通常の小説形式では書き表せないと思うからである。たぶん「こころ」が一番良い作品である。なぜなら、一切の理由が省かれているからである。明治の精神に殉死するなど言い訳に過ぎない。「こころ」の感想文に少しは詳しく書いたが、猜疑する精神の最高の解決策として、死ぬか、気違いになるか、宗教に入るかの他に、無意識のうちに自らを偽るある種の精神的な病を示しているためである。先生は自結婚前の猜疑心を失わせ、自らが自らを偽っていることを知らずに、妻なる静への思いやりを深めて心から愛しているのである。
こうした漱石の猜疑心は明治の文明から生まれ出てくる以上に、他者によって生じてくる。金の問題より生じてくる他者、そして痛烈に分かり得ぬ心を持つ女から生み出されるものである。無論、漱石は高等学問を受けているために明治の文明や社会について憤慨して論じることもあるであろう。その言い張ることも正しい批判であることもあるであろう。ただ、これらの批評を優先して取り上げることは愚の骨頂である。漱石の根本的な問題は、誰をも悩ませている宿命的な自らの生の意味と他者問題について苦悩していることに尽きる。これは女を通じて激烈となる。もう少し言葉を加えれば、漱石は、自己と他者と社会にうちに引き裂かれているのである。無論解決策など近代社会にない、この問題は近代の構造、かつ人間の個別性そのものに起因しているためである。この近代社会は道徳的な規範を押し付けて自由を奪い、かつ留まることを知らずに進歩し続けて漱石の精神を急き立てている。こうした社会における個の問題はもはや救い出す手立ては容易に見つかるはずはない。そういう意味で「彼岸過迄」は病み上がりの簡素な表現ながら、最終的な決着など示さない筋書きは漱石の抱えている問題に結論などあり得ないと暗示している貴重な作品である。素顔の漱石の心の内を表しているとも言える。かつ出生の秘密は、漱石にも秘密があることを暗示しているとも取れる。この秘密が何であるが読者には分かるはずはない。無論、漱石も手を変え品を変え念入りに筋書きを化粧させて正体を表すことなどない。ただ、漱石の全文章を調べればきっと何らかの手掛かりが見つかるはずである。
漱石の秘密はきっと女のうちにある。そして、漱石の女のあるものは我を立て自由に振る舞おうとする。また女はこの社会の規範や道徳的規制のうちには押し潰されてしまうののではない、女は常に無抵抗のうちにも逸脱を秘めて存在している。「行人」の直は次郎と二人っきりの夜に、『何時の間にか薄く化粧を施したという艶めかしい事実』(160頁)があり、かつ次郎は嫂を『彼女は男子さえ超越する事の出来ないあるものを嫁に来たそのから既に超越していた。――始めから囚われない自由な女であった』(284頁)なのである。そして、嫂を打っても『抵抗しないでも好いから、何故一言でも言い争ってくらなかったと思う』(354頁)と一郎は腕力をふるう男よりも女を残酷なものだと言い知らしめる。こうした女性に対する見方は、漱石の女性観の一端を如実に示している。自由に振る舞い逸脱を誘う女は白い百合の花が象徴する女とは対極に位置していて、常に妖しく逸脱を誘い魅惑するのである。そして、男はこの女に心ならずとも惑わされる。女は妻となった途端に別の女になるのではなくて、変わらずに魅惑して男を自由に選ぶことができる、そういう女を「行人」では描いている。
この妻を誘惑して欲しいとの夫の依頼を読んでいると、セルバンテスの短編集に同様の作品があるのを思い出して、調べてみたら、感想文があったので次の文章に掲載しておく。―――マゾッホや夏目漱石の作品にどこか似ていると思いながら読み続けると、「解説」に「愚かな物好きの話」と漱石の「行人」との類似を指摘している論文があるとのこと。訳者はこの短編を「心理的リアリズム」とでも呼ぶべきと言っている。つまりひとつの行為が本人のみならず周囲の人間の心もゆさぶり、彼らを時として意志を超えた行為へと駆り立てられるさまを、その時の心理の微細なさまをリアリステックに記述していると述べている。まさしくそうであって、マゾッホや夏目漱石の作品と似ているはずである。マゾッホの作品は冒険小説的でもあるけれども、「毛皮を着たヴィーナス」では、愛人を作りその愛人が主人公をいたぶるのが愛であるのか、契約故に生じさせる愛の行為であるのか、もはや心理そのものが交差して分からなくなる。それに比べてセルバンテスは筋の中に心理描写をうまく取り込んで、「愚かな物好きの話」などでは、まるで本当に生じたとみえる出来事の世界へと読者を導いている。―――なお、「愚かな物好きの話」では、友人から誘惑を頼まれた妻は遂には誘惑される。そして、誘惑した男と共に逃げ去っていく。「毛皮を着たヴィーナス」における混沌とした心理の記述はたぶん「行人」よりも秀逸である。「こころ」みたいに時空間は緊密に構築されていないけれども、一切の理由が省かれて、女と男が精神的に猜疑しながらも混とんとし融合している。「行人」における『物を所有するという言葉は、畢竟物に所有される』(379頁)のであり『自分を忘れるのさ。自分と対象がぴたりと合えば』(378頁)との記述と同等ではなくとも、愛を猜疑しながらも融合している世界の不可思議さを描いている。だが、「毛皮を着たヴィーナス」でも、女はこの男を捨て別の男を愛するようになる。
なお、男二人に女一人の三角形を基本の構図に示しながら、前期三部作も、後期三部作も未来において運動を引き起こすものではない。ただ、現実の諸葛藤を生み出す基本形でしかないのである。それも、三角形を示す線そのものが薄れている。「彼岸過迄」では敢えて三角形の構図をこしらえて自らへの疑念や嫌悪を生じさせる手法として用いている。「行人」での三角形も無理強いに作った三角形で、最後にはもはや三角形は関係なく、一郎の過敏な神経の内側が記述されていて三角形は消え去っている。「こころ」では、唯一三角形の私なる若い男が加わって、遺書を読みながら帰京するが、未来に向けて運動を約束するものではない。運動すると解釈が可能であるにすぎず、運動する三角形と無理に解釈しなくとも良いのである。それより大切なのは、頂点を占めずとも明確に正反対に位置する性格の女や母なる者に悠然たる哲学者然とした者の記述が加わっている点である。「彼岸過迄」では須永の母、「行人」ではお重さん、「こころ」ではしっかりとした戦争未亡人なるお嬢さんの母である。「三四郎」ではよし子はわがままな女で該当しないが、哲学然とした広田、「それから」では、おとなしい佐川の娘や如才ない嫂、「門」では心の広い坂井である。こうした多人数が描く多角形の内の際立つ形が三角形を描かれている、その他の頂点の人物も含めて広義に三角形をまたそれを支える多角形を解釈しなければならないのである。無論、主は三角形であるが、この構図そのものが消え去る気がしてならない。なぜなら、他者は無数の粒子状から成るためである。
「行人」のHさんの手紙における、一郎の哲学的な話については省略したい。例えば、マラルメの自らの椅子を奪われる話や絶対と相対の話、蟹を見詰めて我を忘れる話、石を取って除けると一つが竹藪にあたって鳴り響き悟りを開く話などは、漱石が加えた恣意的な解決策であると思われるからである。哲学の本を読むとこうした存在論や精神病の諸問題を詳しく取り扱っている。小説とは問題があることを示すものである、と誰かが書いていたと記憶しているが、その通りであって、解決策はそれほど必要とはされない。小説は読んで問題があることを追体験できれば良いのである。後、読んでいない長編が「明暗」、「道草」などがあるが、いつ読むのか今のところ分からない。近いうちに読みたいけれども。
以上
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2016年2月5日(金) |
題:西田幾多郎著 「善の研究」を読んで |
西田幾多郎の「善の研究」は何年もほったらかしにして読んでいない、ただ彼の作品をせめて一冊だけでも実際に目に触れ読んでみたかったのである。西田幾多郎のこの初期作品は難解と言われていて、最初は読みにくいが、すぐさまW.ジェームズやカント、スピノザなどの影響を受けて記述されてと知り、分かり良いというより、彼らの思想にもろに影響を受けて記述されていて、それほど新味はない。というより、西田幾多郎の考え方に納得できない点が多々出てくるのである。ただ、いわば表紙に記述されているように、『日本人の手による最初の哲学書といわれている』が、そのような価値であるのだろう。坪内逍遥の「小説神髄」は読んだことはないが、日本における小説の源泉を示している。本書は日本の哲学における同様な位置を占めていると思われる。
本書は、第一遍「純粋経験」、第二編「実在」、第三編「善」、第四編「宗教」から成り立っている。つまり、W.ジェームズの「純粋経験の哲学」などの影響を受けて哲学したことは確かであろう。W.ジェームズが「純粋経験」と述べた言葉を、西田幾多郎は『純粋経験とは意志の要求と実現の間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活発な状態である』(19頁)と述べていて、ただ、その後に展開される定義の文章は、W.ジェームズとは少し思想が異なっている。ここで、W.ジェイムズ著 伊藤邦武編訳「純粋経験の哲学」を以前読んだ感想文を引用したい。少しでも違いを浮き彫りにしたいためである。
―――――以下、引用文(修正あり)―――――
本書「純粋経験の哲学」は、まず、「純粋経験」へと至るために、「意識」について詳しく論じていることである。ジェイムズは「思考」と「物」とを元に、「思考」や「経験」や「認識」を踏まえて意識を論じている。即ち意識は出来事に役割を果たすことのない、それ自身としては無時間的なものであり、単なる経験の「内容」の相関者なのである。即ち経験こそが他の経験と結びついて認識者の役割、意識という役割を演じて、また別の経験に結びついて認識されるもの、客観的な「内容」の役割を演じるということである。言い換えれば、ジェイムズにとって経験こそが主の概念であり、経験は異なったグループのもとで「思考」として、また別のグループでは「物」として現れてくるとジェイムズは主張するのである。ジェームズは絵画に使う絵の具に例えてこの経験を説明している。絵の具は売り物であり店に並んでいる物質的な物でありながら、他の絵の具と共にカンバスに塗られると絵画の一部分として精神的な機能を構成できる。このように経験は他の経験と結びついて、意識とも「内容」ともなるのである。このため意識は存在者の第一原理から外される。即ち具体的な「思考」だけが完全な実在であり、この思考は「物」と同等なのである。
こうして本書の初めにジェームズがテーゼとして、『世界の内のただ一つの原初的な素材を「純粋経験」と呼ぶのであれば、認識の作用はこの「純粋経験」の特定の部分同士の互いの関係として説明できる』(12頁)と述べていることが分かってくる。即ち、経験は他の経験との結びつきによって、認識者の役割や意識という役割と「内容」とに分離され演じることにある。では、単なる経験ではない「純粋経験」とは何なのか。それは『あれからできている。つまり、まさに現れるとおりのものからできており、空間から、強度から、平坦さから、茶色さから、重さから、等々からできている』(33頁)のである。こうしてジェームズは論述を重ねていき「純粋経験」の説明とその展開を詳細に行っている。なお、ジェームズは自らの世界観に「根本的経験」と名付けている。即ち、経験論は全体を二次的な存在者とみなし、部分、要素、個体を重要視する。本質的にはモザイク的な哲学であり、複数の事実から成る哲学であって、『ヒュームたちはそれら複数の事実を、それらが内属する実体にも、それらを対象とする絶対精神にも関係づけなかったのである』(49頁)ため異なっており、『わたしは根本的という修飾語をつけるのである』とする。即ちモザイク的な要素を重視する哲学なのである。
―――――以上、引用文は終り―――――
西田幾多郎が『純粋経験とは意志の要求と実現の間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活発な状態である』(19頁)と述べたことはそのまま受け止めて、取り立ててW.ジェームズとの違いについて論じる気はない。もう殆ど忘れてしまったのである。西田幾多郎の思想では、特に「善」と「無」の思想に関心を持つ。ただ、「善」の関してはカントの影響を受けている。例えば『善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である』(189頁)などなど、善とは幸福であり、要求を満足するのであり、人格の実現、真の自己を知ることなのである。カントの善、最高善に関する感想文を引用したいが、長くなるので省略する。つまり、善は暗黙のうちに善が内在することを、善があり善を求めることを前提にしているのである。「無」の記述は少ない。『無というのを単に語ではなくこれに何か具体的意味を与えて見ると、一方では或性質の欠乏ということであるが、一方には何らかの積極的性質を持っている。・・物質界にて無より有を生ずると思われることも、意識の事実として見れば無は真の無ではなく、意識発展の或一契機であると見ることができる』(72頁)『神は全く無である。然らば神は単に無であるかというに決してそうではない』(124頁)だけである。「無」の思想はまだこの書物では熟成していなかったようである。
西田幾多郎が思想を語る時、なぜ「絶対的」とか「統一」という言葉を使うのか。ものごとは常に「相対的」と「分裂」を含んでいて、西田幾多郎はそうした状況を克服したかったためなのだろうか。ただ、「相対的」と「分裂」の意識があれば、「絶対的」と「統一」を求めるのは宗教であり、宗教的となる。『ただ世界的表現は神の本質に属すべきものであって決してその偶然的作用ではない』(225頁)と述べているように、偶然的ではない必然である世界的表現は、「絶対的」とか「統一」という言葉を絶対的に要求してくるためであるのだろう。この偶然と必然の考え方は哲学上の大きな問題でもある。最後に、西田幾多郎の随筆集に記述されている『私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで尽きるのである』という言葉が、一番心地よく響いて聞こえてくる、彼の最高の人生哲学的な言葉である。
以上
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2016年1月29日(金) |
題:鈴木大拙著 「日本的霊性」を読んで |
「霊性」とは何か、「日本的霊性」とはいったい何かと思い読んだ本である。結論から言えば、本書で述べている「霊性」とはある種の宗教的な覚醒を示している。日本的とは仏教思想が日本において自らの思想を加えて広く展開しているためである。つまり日本では、仏教思想とは浄土系思想と禅とに表れている思想を示している、「霊性」とは霊魂ではなくて、簡単に言えば精神を示していると言ってよい。本書はそれほど難しくはない、むしろ冗長な記述であって簡単である、もしくは簡単に見える。なお、本書は、緒言、第一遍「鎌倉時代と日本的霊性」、第二編「日本的霊性の顕現」、第三篇「法然上人と念仏沙弥」、第四編「妙好人」からなる、約260頁の薄めの本である。
「日本的霊性」の定義が少し言い換えられ、また別の観点から本書の中には多数記述されている。でも、すべての記述は省略したい。この霊性を主導したのが、法然上人と親鸞の他力思想なのである。『日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである。・・絶対者の大悲は悪によりても遮られず、善によりても拓かざるほどに、絶対の無縁――即ち分別を超越しているということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである』(25頁)という文章に端的に示されている。他力思想とは念仏を唱えれば救済される、絶対者の無縁の大悲による絶対的な救済なのである。
なお「日本的霊性」は鎌倉時代に武士と農民、即ち大地に直接、接する者から生まれたとする。霊性とは生命であり、個体を根拠として生成する。『個体は大地の連続である、大地に根をもって、大地から出て、また大地に還る』(49頁)のためである。決して平安文化の貴族趣味や女性的情緒からは生まれなかったとする。平安文化は霊性の深みを知らない通過点であり、鎌倉時代になって初めて霊性の生活に目覚めたのである。なお、武家とは大地に根差した腕力を持ち、生命の霊が宿っていたものと著者は述べている。
こうして、著者は霊性の動きは、現生の事相に対しての深い反省から始まり、『遂には因果の世界から離脱して永遠常住のものをつかみたいという願いに進む。業の重圧をなるものを感じて、これから逃れたいとの願いに昂まる』(84頁)のであり、自分の力ではできぬと、絶対の大悲者を求めることになると言う。そして、個己から超個の人へ、この超個の人が本当の個己の人であり、嘆異鈔に書かれている、親鸞一人がためなりけりこそが、超個即個己かつ個己即超個であり、これが一人一人の往生へと繋がっていくのである。結局、平安時代の「物のあわれ」の情緒は鎌倉時代に「念仏のまこと」に深められたとする。
その他、著者は「日本的霊性」との関連において、神道、法然上人、信仰に熱く徳行に富んでいる人を指す「妙好人」なる蓮如、才市他について述べているが省略。私は霊魂を期待していたので落胆するけれども、柳田国男はきっと霊魂と解釈しているはずで柳田国男の著書を読んでみるのが良いであろう。そもそも、霊性とは何であるか。著者が「緒言」にて霊性と精神について記述しているが、まず霊について、そして霊魂を含めて検討・熟慮しなければならない。霊性と大悲との関係性は薄いはずである。本書の表題は「日本的霊性」というより、「日本的覚醒」もしくは「日本的救済」、「日本的な大悲」などと題したほうが、内容を端的に示しているに違いないと思うけれども、本の題名は必ずしも内容を正確に表すものではないのである。
以上
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2016年1月22日(金) |
題:夏目漱石著 「三四郎」、「門」を読んで |
漱石の前期三部作「三四郎」、「それから」、「門」のうちの残りの「三四郎」、「門」である。
「三四郎」のあらすじは、熊本から上京して帝国大学に入学した三四郎の大学生活を描いている。郷里の先輩で光の圧力を研究する野々宮宗八とその妹のよし子、よし子と友人の英語を話せる里見美禰子、その兄の里見恭介、同級生であって動き回るのが好きな佐々木与次郎、その先生とも言える高等学校で英語を教えている、悠然たる哲学的思考を持つ広田、更に画家の原口などが主な登場人物である。列車で知り合った女との同宿の件、更に美禰子と知り合った池が三四郎の池と呼ばれていて、本書の内容としては有名である。三四郎は美禰子が好きになる、でも美禰子は野々宮が好きのようであるが、三四郎にもstray sheep(迷える羊)の言葉の意味を聞き、子羊を描いたはがきを送っているなどして好意を抱いているようにも見える。ただ、本心は分からない。佐々木与次郎が広田を大学教授にしようとする画策や団扇をかざした美禰子をモデルに絵を描く件などに、主テーマの恋模様を通じて話が進んで行く。田舎の母からの手紙とその手紙に書いている幼馴染のお光さんが三四郎の背後にはいる。美禰子のヴァイオリン購入の金の行き来が面白い。美禰子は野々宮を振って嫁ぎ、自らの絵を夫とともに見に来る。この絵は「森の女」と名付けられるが、三四郎は何も感想を述べずに、ただ、stray sheep(迷える羊)と呟くのである。
「門」のあらすじは、友人であった安井の妻を奪い妻とした野中宗助とその妻お米の話である。物語の筋の流れは、宗助とお米は崖の下の奥まった薄暗く寒い家につつましく暮らしているけれども、伯父なる佐伯との金の貸し借りの交渉をしなければならない件から始まる。伯父の所で世話になっている弟、野中子六の大学生活が頓挫しそうになる。即ち、もはや伯父は死んでいて、叔母とその息子の佐伯安之助が交渉相手になるが、子六の世話はもう金銭的にもできないと突きつけているのである。宗助は学生時代に相当に裕福に暮らしていて、父が死んだときに財産の処分をこの佐伯なる伯父に頼んでいて、その処置がうやむやになっている。宗助も金に余裕などなく、こうして子六は宗助の所に転がり込んでくる。一方、宗助は家主の坂井と崖に転げ落ちた泥棒の件以来親しくなる。宗助の売った屏風も坂井の手に渡っている。坂井はさまざま物事に通じていて裕福である。そして坂井の弟が満州からやって来た時に、友人であった安井も一緒に来る、その席に招かれるのである。罪の意識に苛まれている宗助はこの席に出席などできずに、禅宗の門をくぐる。でも悟りなど開けるはずはない。禅宗から帰って来た宗助に坂井は何事もなかったように接し、子六を書生として雇ってくれることになり、子六は大学を続けることができるようになる。また宗助も役所の首切りを免れて、しかも少ないながら昇給する。こうして、子六が転がり込んできて息苦しい生活をしていた宗助とお米の生活は元のつつましいながらも落ち着いた仲の良い生活を送れるようになる。なお、お米を恨んでいたはずの子六がこの家に少しずつ馴染んでくることと、お米が死産などで三度子を失うことが印象的である。また、親族との金のもめごとは「こころ」にもでてくる話である。
こうしてみると、「三四郎」が恋に悩む青春の物語であるなら、「それから」は友人の妻を世間的な制裁を受けようとも奪い取ろうとする物語であり、「門」はその奪った後の罪の意識に苛まれながらひっそりと暮らす、仲の良い夫婦の物語である。江藤淳の「夏目漱石論」には「三四郎」が何も書かれていず、また「門」についても、谷崎潤一郎が罪からの回避であると主張すると紹介しているだけであまり役には立たない。「三四郎」はきっとstray sheep(迷える羊)と美禰子の無意識の偽善がテーマであるに違いない。美禰子が最後に三四郎に聞き取れない声で「われはわが咎を知る。わが罪は常にわが前にあり」と言うのが印象的である。この言葉は美禰子が意識的に三四郎を翻弄していたことを意味するのではなくて、彼らが迷える羊であり、罪を背負っているとの漱石の認識である。そうすると、これら前期三部作が罪を負うとのテーマで一致する。美禰子の言葉は罪を背負うとの予言であり、大助は進んで罪を背負おうとする、そして宗助は背負った罪から逃れ出ようとする。罪とは何か、西洋的な生の原罪では無論なくて、結婚である。罪とは世間一般の倫理を逸脱する略奪婚によって成立する。即ち、自らが罪を作り出すのである。もしくは結婚をメタファーとして、既に生を受けることにより罪を作り出しているとの作者の意識があり、こうしたテーマによって話を進めさせ、掘り下げられていくのが前期三部作の作品内容である。
「三四郎」は「虞美人草」後に漱石がどういう風に小説を書こうと意図したのか、その試行の結果生み出された作品なのかもしれない。「抗夫」は読んでいないので分からないが、「虞美人草」の観念的な筋の運びに対して、「三四郎」は自然である。意識的に故意に小説を作り出しているとの印象が薄い。それは「それから」や「門」にも引き継がれている。「門」の筋は推理小説みたいに過去の出来事が後半に記述され謎が解き明かされる。漱石は推理小説が好きだったようである。ただ、宗助が突然参禅するなど不自然な流れもある。けれど罪を背負った夫婦の細やかな互いへの思いやりに満ちた愛が苦しい生活のうちにも、例えば穴の開いた靴が買えない、屏風を売らなければならないといった貧窮生活の内にも現れ出ていて味わい深い。財産家の坂井の存在が際立っている。坂井は財産家として傲慢でもなく、家族などとの賑やかな暮らしに付き合いながらも、自らの隠れ家を持ち、趣味道楽に興じているのである。宗助にも押し付けようとするのではない、感受性に富んで宗助に自然に接し話題も豊富なのである。こうした人物を漱石の作品の内に見出すのは初めてである。今後の作品における坂井の役割に期待したい、漱石も何らかの期待を込めているはずである。
辻邦夫が「門」の解説を行っているが、貴重な解説である。その主な論点を簡単に紹介して感想文を終りにしたい。漱石の文学論は認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合であり、この簡明な(F+f)が漱石の全作品の実践プロセスとして見ていいのである、と言い切っている。結構詳しく書いている本書の解説を読んで欲しいが、『漱石は突然、認識の果てに情緒がくるのではなく、認識が知的水準から感情的水準に転移することによって――「知ること」から「感じること」へ身を躍らせることによって、情緒化された認識が一挙に生まれることであることを直覚したに違いない』と述べている。即ち、(F+f)こそが文学空間を現出させるものなのである。これは認識(F)に基づく現実を超えることを意味し、この現実超脱は漱石に幸福という感情を与えたはずなのである。ただ、別の言い方をすれば、これは現実の中にいた漱石が、現実を超出して巨大な自我となり、全現実を抱えてしまい、その結果絶対的な孤独のなかに立つのである。即ち、蓮實重彦の文を引用して『漱石の文学世界を支える言葉の群は、〈認識(F)に基づく現実〉への視線を詩的映像に転化した、純粋に「現在であることしか知らぬ言葉たちの戯れの場』とし、「門」も純粋に言葉によって喚起させる「戯れの場」として理解することの必要性を述べている。そうして、宗助、お米、小六の三角形がこの狭い崖下の家に形づくられることも指摘している。この男女の三角形は漱石の作品間で受け継がれていくのである。
ただ、この説明では言葉の戯れの場に生み出される三角形が、男二人と女一人の常に変わらぬ三つの頂点を持っていることを何も説明していない。三角形は男一人に女二人にも成り得る。また、端点を二つ持った直線でも良いのである。ユークリッドに非ユークリッドに湾曲させることもできる。谷崎潤一郎の「痴人の愛」や「春琴抄」などでは男一人に女一人の基本的に直線である。三島由紀夫でも基本的に直線であるが、「金閣寺」や「仮面の告白」などの基本は線を持たない単なる点である。もしや「鏡子の家」は四角錐を描こうと試みたのであろうか。また、男たちによる四つの点でもある。太宰治も基本は点であり、直線である。こうしてみると漱石が男二人と女一人の一番の緊張関係を生み出すはずの三角形を描くことにはなんらかの意味を認めざるを得ない。そしてそれは緊張であると同時に頂点を入れ替え運動する三角形ともなっている、この三角形をなぜ漱石は書き続けるのだろうか。それは簡単に言えば、三角形は漱石にとって基本的な必然たる形状なのである。そして、三角形の頂点同士の関係を屈折する力を作動させて現実を歪めて、言葉を戯れさせ詩的映像に転化する必要があったのである。この力こそが情緒(f)となる。
こうして、言い換えると「漱石の文学世界を支える言葉の群は、〈認識(F)に基づく現実〉を情緒(f)の力が歪めて屈折させ、新たな現実を生み出し詩的映像に転化する、現在であることを拒否する言葉が戯れる場」と言うことができよう。自らの思うままに書いてこの思わぬ結果に驚いているが、もし正しければ、辻邦夫の考え方に修正が必要なことを意味する。即ち、漱石の文学は文学理論の通りに〈認識+情緒〉によって実現されているが、そしてそれは絶対的な孤独になるけれども、書くことによって至福の時を過ごすことができるはずで、この指摘の通りなのであるが、ただ、全現実を抱え込んでしまうのではなくて、情緒的に現実の一部を抱え歪める力が働くことによって成されているのである。即ち、認識(F)が情緒(f)に歪められ屈折されて「それから」や「門」の作品が生み出されているということである。ドゥルーズが「批評と臨床」で述べているように作家自らの治癒の過程の痕跡なのである。
この時、情緒と言う言葉が曲者で、漱石が通常の情緒と言う意味に使っていれば、漱石は自らの文学理論通り書いているのではなくて、漱石の情緒とは別の情緒の力が加わって作品を書いている。即ち情緒とは情緒(感性的な感情や気分)でありながら、力を保有して認識を歪め戯れさせる意識的なもしくは無意識的な力である。ここまで書いて読み返してみると、辻邦夫等の文章は私と同じことを述べているとも理解できて、機会があれば、また考えてみる必要がある。考えると言うより、漱石の文学理論などを読んで結構調べる必要が生じてくる。ただ、長編小説の全部と文学理論を読むだけでも良いとも思われる。結論を述べれば、漱石なる作家にとって書いているその最中に作品は新たな現実を描いているのである。現在を知っている言葉が屈折し戯れて新たな現実へと転換させた詩的イメージを描いているというのが私の考えである。描き終えると、無論、戯れた言葉は現実を消し去り、痕跡としてのみ残っている。そして、現実としての今現在の現実が怒涛の勢いで押し寄せてくるのである。三島由紀夫の「鏡子の家」の最後の記述が象徴的である。鏡子が自らの家に戻ると懐かしの犬が勢いよく鏡子に飛び込んでくる、その匂い、その体毛にむせ返りながらも鏡子は満足げである。ただ、漱石は鏡子と違って、新たな現実を求めて死ぬまで再出発しなければならない。
以上
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2016年1月15日(金) |
題:夏目漱石著 「それから」を読んで |
漱石の前期三部作「三四郎」、「それから」、「門」を読んでみようと思い、まず手始めに読んだ本である。できればまとめて感想を書きたいと思っていたが、今回だけはこの「それから」だけとする。つまり、漱石についての評論の書き方を言及したかったためである。「それから」の簡単な筋は以下の通りである。
親元から貰う金で暮らしている大助はいわば芸術と自然を尊ぶ高等遊民である。この大助に三年前に結婚を世話した平岡夫婦が遠くから転居してくる。その昔、平岡の妻の三千代とは浅からぬ縁がある。亡くなった兄と三人で楽しく過ごしていた、愛していたのである。それが平岡からの依頼を受けて大助は三千代を世話したのである。再会した三千代と大助の間合いは次第に狭まってくる。一方、大助は父から地方の土地を保有する資産家の娘との結婚を迫られている。見合いもしている。父には浮き沈みのある実業に確実な土地資産をこの結婚によって加えたい思いがある。結局大助は三千代の略奪を決意し、三千代の承諾も得て平岡に伝える。父には迫られていた結婚を断る。ところが平岡は父にこの不義を手紙にて知らせ、大助は父からも兄からも絶縁される。もはや金はもらえない。容態の良くなくなった三千代とは病気が治るまで遣れないとの平岡との約束があり会えない。そうして最後は、生きていくために高等遊民ではいられずに、大助は職業を探しに出かける。赤い郵便筒が見え世の中が真っ赤になって大助の頭を中心に炎の息を吹いて回転する。大助は自分の頭が焼け付けるまで電車に乗って行こうと決心する、そういう筋書きの小説である。
漱石の文章が「吾輩は猫である」に比べて非常に落ち着いている。挙動、立ち振る舞いと心理描写が一体となって迫ってくる、この描写力には感嘆してしまう。特に男と女が一緒に居る時の緊迫感がとても良い。それに女が艶めかしく描写される。「硝子戸の中」では吉永秀との女の生き死についての筋書きの話、大塚楠緒との道での出会いや訪問されたのに会えずに、結局漱石自身がわざわざ謝りに出かけた話などが記載されている。漱石は現実にも女との出会いが結構生じていたのである。特に大塚楠緒と結婚できずに、「吾輩が猫である」では周りが失恋、失恋と騒いでいると記述しているなど、漱石はこれらの経験を元に小説を書いていると思われる。この「それから」では三千代と書斎にて二人で会う場面は、特に「あなたが必要なのです」と迫る場面など緊迫感がみなぎっていてとても良い。特に三千代が水を飲みたくなって、構わずに花瓶の水をコップに注いで飲む場面などには驚いてしまう。コップの水は大助の飲みかけが入っていて三千代はそれでも良いと言うが、捨てていたのである。
こうした男女間の緊迫し場面に比較し、その関係性に対しての記述はあまりにもなおざりである。なお、関係性とは精神的なものではなくて肉体的なことである。漱石は決してこの関係性を書いていない、曖昧にしか書かないのである。ただ「それから」では『大助は二人の過去を順次に遡って見て、いずれの断面にも、二人の間に燃える愛の炎を見出さない事はなかった。畢竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでいたのも同じ事だと考え詰めた時、彼は絶えがたき重きものを、胸の中に投げ込まれた』(207頁)との記述がある。この文章は「こころ」にて示されたKと奥さんとの関係以上に具体的ではある。ただ、明治時代において関係性の確実さは保証されないだろう。『何故棄ててしまったんです』と三千代が問い詰める言葉は、現代では肉体的関係性を否定できない。ただ、当時の状況としてあり得たのかどうかの疑いは残る。いずれにせよ、何らかの身体的な接触は確かにあったはずなのである。
男女の関係あったのかどうかは置いておくとしても、大助が平岡へ三千代を貰いたいと述べた時の会話ほど不可解なものはない。『「君は・・なんだって、僕のために三千代を周旋しようと誓ったのだ。今日のような事を引き起こす位なら、何故あの時、ふんといったなり放って置いてくれなかったのだ」・・「その時の僕は、今の僕ではなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶えるのが、友達の本文だと思った。それが悪かった。・・僕が君に対して真に済まないと思うのは、今度の事件よりむしろあの時僕がやり遂げた義侠心だ』(288頁)なぜ、愛していたはずの三千代を義侠心によって簡単に手放せるのか、現在においては、作品発表当時においてさえ誰をも納得させるのは難しいに違いない。嫁いだも同じ事だと思う女を、単ある義侠心によって簡単に周旋などすることができるはずはないのである。何故棄てたのかと三千代も疑問に思い厳しく問うている。ただ、この時の大助の心境について作者は義侠心以外にも説明している。『あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち来すものと断定した。・・感受性のもっとも発達した、または接触点のもっとも自由な、都会人の代表者として、芸者を選んだ』(176頁)つまり、大助は愛していても結婚する気がなかったと言える。それは芸者を選んだばかりではない、実家から金を貰い高等遊民の生活を送るために、自らの都合によって三千代を捨てたのである。この欺瞞な三年前の行動が、平岡夫婦が東京に出てくることによって、如実に心臓を、その鼓動を苦しめているのである。
漱石はこの大助の三千代を棄てた理由以外は、周到に小説の筋を作っている。平岡夫婦の東京への引っ越しによって、過去が亡霊のように現れて苦しめる。そして揺らぎ思い詰める。この大助の心の移り変ようは三千代が持ってきた百合の花が象徴している。漱石はいつも百合の花に重要な役割を担わせている。最初大助は三千代が持ってきた百合の花を嫌っていると振る舞うが、三千代は好きだったはずと驚いている。そして『大助は、百合の花を眺めながら、部屋を覆う強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼はこの臭覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が煙の如く這い纏わっていた。彼はしばらくして、「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中でいった』(238頁)こうして大助はなぜ自然に抵抗したのかと過去の自分に問いながら、今や裏表がなく、欲得もなく、雲のような自由と、水の如き自然とがあるとの思いに至るのである。
ここで重要な会話を抜き書きしたい。『「あの時兄さんが亡くならないで、まだ達者でいたら、今頃私どうしているのでしょう」と三千代は、その時を恋しがるようにいった。「兄さんが達者でいたら、別の人になっている訳ですか」「別の人にはなりませんわ。貴方は?」「僕も同じ事です」三千代はその時、少したしなめるような調子で、「あら嘘」といった。大助は深い眼を三千代の上に据えて、「僕は、あの時も今も、少しも違っていないのです」と答えたまま、なおしばらくは目を相手から離さなかった。三千代は忽ち視線を外した。そうして、半ば独り言のように、「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」といった』「僕は、あの時も今も、少しも違っていないのです」という大助の言葉は真実である。「あの時から、もう違っていらしったんですもの」という三千代の言葉も真実である。真実と真実がぶつかれば嘘が生じてくる。それは大助の愛するという心持の違いから生じている。その違いが行動となって表れ、三千代にはもはや違っているとしか思われなかったのである。即ち、兄が居れば自分に嫁いでいたのも同じ女を捨てることなどできない、大助と三千代の兄が親密になったのは、互いに明確に語らなかったけれどもある種の意味があったはずである。だが、兄が死んで意味はもはや欠如となり、妹なる三千代を引き受けることを大助は拒絶し、簡単に平岡に世話して捨てたのである。その行動の変化を三千代は違っているというのは大助の行動の正しい評価である。ただ、大助は三千代にあなたが必要なのですと告げる。残酷だと言う三千代に昔にそう打ち明けなければならなかったと大助は言うが、三千代はなぜ捨てたんだと問い詰める、この問いに大助は明確に答えることなどできるはずがない。三千代という固有な名詞ではなくて、女という普通の名詞で常に変わらず三千代を愛しているのである。そして愛する対象を普通から固有の名詞へと移り行かんとする狭間の内に大助の心は揺らいでいるのである。このように本小説の最高場面の会話はとても緊迫感が伝わってきて読み手も緊張する。
こうした大助の三千代への告白のあと三日たってやっと大助は三千代の所へ行く。三千代からは「なぜそれからいらっしゃらなかったの」(255頁)と問い詰められる。もはや大助と共に生きると決意した三千代に対して、大助は三千代とは今まで通りの関係にしたまま、勧められている結婚を考えるなど不実である。本書の題名の「それから」はたぶんこの言葉から来ていると思われる。即ち「それから」は不実な優柔不断な男を象徴する言葉である。また三千代を捨てたその当時からの経過を示す「それから」でもある。彼らの行く末を示す象徴的な「それから」でもある。平岡の任地先での借金は三千代の産後心臓が悪くなったことに起因する平岡の放蕩のために作った借金であることが明らかになるが、夫婦仲はうまくいっていなかったと受け止めることができる。三千代の体を得んがために結婚した平岡にとっては当然なことであろう。こうして三千代に攻められて大助は父の勧める縁談を断る。
では、最大の疑問はどうしても、なぜ昔大助は三千代を捨てたか、そして鼓動を苦しめるほど悩み縒りを戻そうとするのかという問題になる。これはとても難しい。本書に記述されている義侠心ではない、道徳心でもない、また、たぶん自然の昔に帰るとも思われるのでもきっとない。何かが隠されているのである。この筋書きは漱石が作ったものであり、自らの意志によって選択することができる。漱石の小説には複雑に現実が反映して屈折して描いていることが多い。勝手ながら、本小説の筋は屈折し裏返された筋を踏襲して作られているとも推測できるのである。即ち逆に大助が捨てられたのであり、愛していても周囲の意志によって諦めざるを得なかった大助がこの機会を捕えて、三千代を取り戻そうとしたと言うこともできる。略奪愛へと陥らせる筋は緻密に描いていてすんなり読ませるが、大助の心理は、途方もなく非論理的で不合理である、優柔不断すぎるのである。もしや、漱石はこうした略奪愛を小説として描きたかった願望を持っていて、その結果小説は筋書き通りに上手に描いているが、大助の三千代を捨てた動機なる心の内がうまく説明できない、不自然な記述になっていると考えるべきである。漱石にはこうした不自然な心の内や筋書き上の論理的矛盾が結構ある。ただ、この逆の筋が秘められているとの考えを単なる推測と否定してしまうと、もはや大助が言う今やっと自然の昔に帰るのだとの言葉に納得せざるを得ない。この考えは漱石の心をそれなりに反映している。彼は昔の彼ならず、大助は昔の大助ではない。常に人間は生成変化する。こうした考えを漱石は否定するはずはない。この難問の解決にはもっと考えてみなければならない。なお、漱石の人生における経験が小説世界へどのように反映しているかは、漱石以外の作家についても、文学理論において経験の作品への反映の有効性・無効性などを含めてもっと考慮されるである。長くなるが、次に作品もしくは作家論を書くべき評論手法について述べたい。
夏目漱石の評論としては江藤淳の「夏目漱石論」を読んだことあるが、その後さまざまな評論がでているようである。これらの評論の多さに、今さらながらその人気ぶりというより漱石の謎がうかがえる。これらの評論は機会があれば調べるとして、私の思い付いた評論手法を述べてみたい。なお、単独で行うか複数の手法を組み合わせるかはじっくり考えてみる必要がある。なお、デリダはテクスト論者でありテクストのみから解釈を主張してはずである。ドゥルーズは「批評と臨床」において、『提示されたテクストと考察された作者たち』(11頁)との関わりを述べている、『書くことは、つねに未完成でつねに自らを生み出しつつある生成変化にかかわる事柄であり・・生き得るものと生きられたものを横断する〈生〉の移行なのである。エクリチュールは生成変化と分かち得ない』(12頁)。そして『作家は病人なのではなく、むしろ、医者、自分自身と世界にとっての医者なのである。・・文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る』(17頁)と述べている。作家は自分自身にとっての医者であるとの言葉は重い思いが込められている。この時『エクリチュールとは何に存するのか・・との問いに・・書くことについて・・作家はそんな話はしない、別のことを気にかけているのだから』(22頁)と述べて、不明確ながらテクスト論者と見受けられる。私もテクストからのみ評論すべきと思うが、作家の経験を取り入れても良いと思っている。さて、評論の方法論というより思考方法を、思い浮かぶままに記述すると次のようになる。
1) ジル・ドゥルーズ著「差異と反復」の思想に基づく解析。即ち、差異は無限小から無限大まであり、差異は行動として反復してくる。反復してくるのは人間である。
2) レヴィナス著「実存から実存者へ」の思想に基づく解析。人間の実存とはみずからの生成変化の〈主体〉である。また、他者存在の思想も応用できるかもしれない。
3) 心理的な分析による解析。フロイトよりもラカンが良いのか良く分からないけれども、心の機敏さや葛藤、投射や反射、特にトラウマに関する理論が良い。これはドゥルーズの作家は自分自身の医者になるとの考え方に基づく手法ともなる。
4) フーコーの知的断層やライプニッツのモナド論の適用、ただあまり役に立ちそうはない。ドゥルーズの地層論は面白そうである。また、映像理論に基づいて作品に投影された漱石を調べて解析する事が可能であろう。
5) 時間軸に基づいた解析。ベルグソン、ドゥルーズ、レヴィナスなどの思想の応用。空間にも適用して、漱石の時間、空間に関する感覚を解析。更に作品論にも応用するのである。
6) 作品に表されるエロスや視線に基づく解析。漱石の視線の先の対象物の細やかな描写、更に対象から受ける反対の視線、表情に基づく解析。これはドゥルーズの「他者構造論」によっても良い。もしくはレヴィナスの他者論でも良いかもしれない。
7) 漱石が述べている文明論、文化論、文学論などに基づく解析。
8) 論理性と情熱性、即ちロジックとパトス。更にファージ―(曖昧さ)とカタストロフィー(破局)とバランス(均衡)。漱石の小説にはこうした筋書きや精神状況が見受けられるのである。フリー(流れ)の考え方も良い。
9) 波動理論に基づく心の揺れの解析。物質波と精神波を心の揺らぎとして量子力学的に解析する。ただ、物質波の把握は難しいはずである。
10) 作品中の名場面を表現している文章を集め解析。もしくは漱石の全文章をコンピュータにより、ある単語の使用回数などを調査分析してその傾向と心理とを分析する。人工知能に作家論を書かせる。
などが思い浮かぶが、そもそも作家論などは生成変化するものである。なぜなら、作品とは作家が健康を保持するために記述したものであって、その残滓なのである。残滓を調べればそれなりの心の状態が分かるであろうし、思いがけず記述した文章が予想外の心理を浮き彫りにするかもしれない。ただ、作家はもはや作品から逃れ出ていて別に居る。つまり作家は常に作品からも、作品論や作家論からもはみ出ていて捕まえきれないのである。こうして、漱石を論評してもある断面を捕えるだけであり全体像に幾分近づくだけであって、ブランショの言うように中心点には決してたどりつくことはできない。また、自らが思い描いて結晶化させた作品論や作家論そのものが差異を含んで生成変化するはずで、それらしき作家の姿が見えるだけなのである。自らの思い描いた漱石像や作品論は極端に言えばある意味で虚偽であり、幻想でしかないとも言える。常に移り行くのである。常に漱石に対する思いを込めているのである。こうして極端に考えると、漱石の作家論は必要とされずに、作品のみを楽しむほうが良いのかもしれない。なお、漱石の抱える諸問題とは大雑把に言えば、「女」、「金」、「明治の精神」であって、無論、それぞれに他者問題を含んでいる。作家論として題名を考えておくと、頁数を短くして記述できるかもしれない。取りあえず、「決して訪れない漱石の破局」、「漱石の女たち」または「百合の花の匂いに酔う漱石」や「作家漱石と登場人物漱石」などを題名としておけば、気が向けば記述することもできる。なお、ドゥルーズ的な視点の新しさが漱石論にも加われば良い。もっとも、まだ結構小説本を読まなければならないが。
最後に私は、結局、漱石は自らの健康を回復するために作品を書いたのであって、その回復はトラウマからの脱却を必要としたためであると言い切りたい。それ以外の何物でもなくて、作品は漱石の経験が色濃く反映されていて、疲弊していようとも願望を含んでいても、もしくは逆に自らをより深く墜落させようとも、漱石は自らの物語を紡ぐことにより、心の健康を取り戻そうと、生き延びようと願っていたために生み出されたものと思っている。無論、読者に向けての奉仕の記述や職業作家としての顔は取り除かなければならないけれども、小説の内には漱石が生きようともがいていた後の抜け殻や残滓が豊富に満ちているのである。これらの抜け殻や残滓は読者の心の治療に役立つかもしれず貴重なものである。いずれにせよ、作家論を書く手法を確立しなければ、漱石論は書けるはずなどないのである。
以上
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2016年1月8日(金) |
題:夏目漱石著 「吾輩は猫である」を読んで |
2016年は漱石没後、百年であるとのこと。夏目漱石の作品は大部分読んだはずであるが、殆ど忘れてしまった。また「吾輩は猫である」と「坊ちゃん」などは読んでいないはずである。少しずつではあるが、できる限り年代順に時間を見つけて漱石作品を読んでみたい。最後には「夏目漱石論」を書きたいが、きっと無理である。論述するには途方もない手間がかかる。全作品を読んで相当な量の記述を行わなければならならず、ゆうに半年はかかる。それに夏目漱石の作品はただ読むことによって読書を楽しみたいためでもある。ただ、簡単な感想文だけは記しておきたい。なお、私が読んだ「吾輩は猫である」は、岩波文庫の旧版上下本である。
この「吾輩は猫である」を読んでみると、こんなに面白い作品であるとは知らなかった。ただ、上巻と下巻(一冊の場合は前半と後半)で差がある。上巻の「面白い筋話」から下巻では面白い話が主であるけれども暗い影が乗り移ってきて、かつ「人間・文明批判」に移行している。いわば、エピスメーテー(知の断層)ではないが、上下巻の断層があるのである。これはくっきりとした断層ではなくて、微妙なずれである。漱石が書いているうちに生み出された結果であるはずの「ずれ」であり「断層」である。頼りにすべき江藤淳の「夏目漱石論」では、「吾輩は猫である」は「漾虚集」と表裏一体の関係にあり、表現形式の大胆さが今までの小説の枠を破り、また作者の異常な才気や軽口に関心を持ち読み進めることできる。即ち登場人物のリアルな通俗さが、かつ人生的興味に、近代日本文明の現実を反映している戯画が面白いのであると述べている。本書に関して雑多な評論家が批判している無芸術論や軽薄さなどとは無関係なのである。そして「漾虚集」の暗示するあの「深淵」の意識から真剣に文学する以上に、真剣に生きることこそが漱石にとって最も大切であったと主張している。なお、「漾虚集」は「倫敦塔」、「幻影の盾」、「琴のそら音」、「一夜」、「薤露行」、「趣味の遺伝」からなる江藤淳が言うところの「深淵」の世界を描いている作品である。この江藤淳の言うことはもっともであり、これ以上言うことはないのであるが、少しばかり自らの感想を付け加えたい。ただ、このまま書いてくと、長くなるので、感想文は簡潔に箇条書きにしたい。論点は六つほどある。これらを列挙すれば、
1) 「漾虚集」との関連
2) 話筋の推移
3) 上下巻の記述上の断層・ずれ
4) 語りの構造(作者―猫―苦沙弥先生)
5) 漱石の文体
6) 快楽と恐怖の脳・その他
である、相互に関連することもあるが気の向くままに記述する。まだ、思考がまとまって記述しているのではないため、多少の混乱はご容赦願いたい。
1)「漾虚集」との関連
フリー百科事典ウィキペディアによると、「吾輩は猫である」は1905年から約一年半の間雑誌「ホトトギス」に掲載されている。初掲載は1905年1月である。なお、「吾輩は猫である」は第11話で終わっている。「漾虚集」の最初の短編「倫敦塔」も1905年1月に「帝国文学」に掲載されている。解説の小宮豊隆によると、「猫」の方が「倫敦塔」より早いのではないかと述べているが、問題なのはほぼ同時期に記述されている点である。確か「倫敦塔」では生首のような銅像が薄暗い倫敦の街に浮かんでいる、憂鬱な作品であり、「薤露行」ではあなたにとっての永遠の乙女が、美しき屍になるのである。「一夜」では雅を楽しむ二人の男と一人の女が、不可思議に眠り続けるのである。問題は、これらの「深淵」を浮き彫りにさせる小作品が、軽妙で面白おかしい「猫」の話を描く漱石の内部に同居していて、異なった作品として同じ時期に生み出されている点にある。即ち、漱石は謎を含ませながらも自らの心象を正直に作品として綴ると同時に、面白くも諧謔し批判し攻撃する、かつ自虐も含む「猫」の作品とを別々に生み出す心の余裕をまだもっていたのである。この発露の違いは漱石自身が自らの心に江藤淳が称する「深淵」としての「暗」と、外部に対して積極的に気丈夫に振る舞う「明」とが含まれていることを明確に認識していたとも言える。即ち、本格的に読者を想定して長編の小説を書くという作業が「猫」の小説に「明」の意識が強く影響していると考えた方が良い。ただ、発露は違うが、若干ながら「猫」にも「漾虚集」の深淵を含み、「漾虚集」にも「猫」の軽妙さが見受けられると思うのは勘違いだろうか。こう述べるともう作品の内部に入って論評し記述せざるを得ずに、終わりにするが、漱石はその後、次々に作品を記述するに従って、「深淵」のテーマを収斂させて、「暗」を主体に自らの心がたどる道筋を描いていくのは確かである。そして絶筆の作品が「明暗」という題であるのは象徴的な意味を持っているはずである。なお、この話の根拠として、「ホトトギス」と「帝国文学」なる雑誌性格と読者層を調べなければならない。
2)話の筋の推移
「吾輩は猫である」は11話からなると述べたが、この話の筋は次の通りである。なお、猫自身の話や枝葉の話は除く。ただ、猫の呟きにも結構面白い点はあるのは留意しておく必要がある。上巻では、牡蠣的根性を持つ主人、いわゆる「牡蠣主人」、「首掛けの松」、「首くくりの力学」などのキーワードもあるが、なんと言っても、金田夫人の来訪によるその娘富子と寒月君との結婚話、特に金田夫人の鼻を話題にした笑話と寒月君の博士号を取るための「玉磨り」である。それに盗人「泥棒陰士」である。つまり、話は言葉遊びを含みながらも、よどみなく筋書き通りに進んでいる。読者は奇妙なキーワードに不思議に思いながらも軽く流して、金田夫人と寒月君を笑うことができる。下巻では、落雲館の生徒とのき違いじみたボールを巡る闘争、八木独仙君の哲学、迷亭の伯父さんの君子然、無論金田の富子と寒月君の結婚話は続いて、富子への偽恋文に名を貸して窮状を訴える生徒への非人情、華厳の滝への投身の懸念、寒月君のヴァイオリンの購入、姪の雪江、寒月君の田舎での結婚、三平君と富子嬢との結婚など、上巻を引き継ぎながら如何なく進み、最後に猫は水甕の中に落ちて次第に楽になってありがたく死ぬのである。ただ、八木独仙君の哲学の真意を考える苦沙弥先生、衣服の文明論、落雲館の生徒への怒りに満ちた主張、探偵、結婚論、芸術論や文明論などを書いているが、その内容は上巻の痛快な人物批評から、警戒心に疑心暗鬼や狂おしさを内在して、かつ文明文化の批判論評を強烈に含んでいるのである。これが上下巻の記述上の断層・ずれがあるとの主張の源であるけれども、このずれは、漱石が本書を記述するに従って生まれ出たものであり、漱石のその後の作品展開の前兆と受け取ることができる。つまり漱石が強烈に批評精神を発したということは外側に向けての批判であり攻撃でありながら狂気的であり、一方疑心暗鬼や狂おしさも心の内に少しずつ深まっていくのであり、これらは作家として内在面へと傾斜していく過程として生まれた「ずれ」なのである。それは同時期に記述していた短編「漾虚集」の世界を含む内在面を、長編小説世界における形式に基づいて表現していく過程の「ずれ」とも言うことができる。作品を記述するに従って、漱石は自らこの「ずれ」を確認し、多数の読者を想定した小説世界の内に深化させていくのである。詳細は次項で述べる。
なお、ずっと以前夢十夜を精読したことがあって、その時の記憶にあった言葉が結構本書にても使われていて、やはり同じ作者では共通するものだと感心する。見出した限りメモ書きにして、これらの言葉を残しておきたい。壁のしみ(上21頁)は、確か「虞美人草」にて、もしくは芥川龍之介が論じられていたのではないか。「時計」(上78頁)、「左甚五郎」(上83頁)、「ステッキ」(上132頁など)、パナマ(上220頁)、蛇(上230頁)、烏(上242頁、烏帽子)、豚(下123)、天邪女(下157頁)、百年(下284頁)がある。探せばまだでてくるかもしれない。なお、これらの言葉の中には漱石の心に染みとなりこびり付いている重要な言葉があり、別途論じる必要があるけれども省略する。
3)上下巻の記述上の断層・ずれ
上下巻の記述上の断層やずれについては、2) 話の筋の推移で述べているけれども、これだけでは不十分である。もっと、証拠を示さなければならない。ただ、ここではこの証拠が示し得たとして、話を進める。断層とかずれは乖離である。ただ、デジタル的ではなくてアナログ的なずれである。記述するに従って生じてくる作者も気づきにくい心の在り様から生じる文章の漂流なのである。何もこれは「猫」に限ったわけではなくて、記述するに従って露わになってくる作者の傾向である。最初に述べたように、漱石の精神は面白おかしい「猫」の話と「漾虚集」の暗示するあの「深淵」とが同居している。ただ、作品としては別々に描いている。そして「猫」の話の上下巻においては各種の批判、非難、侮蔑、攻撃などが明からこの「深淵」たる暗へと移行させる「ずれ」を含んでいる。そして、漱石のその後の小説作品は別々に描くのではなくて、この「ずれ」に基づいて、明を減じる過程の作品であることに注意されたい。即ち、暗が増大してくるのである。暗とは何か、別途定義になければならないが、漱石が心の内に抱え込んでいる諸問題なのである。なお、エピステーメーは「知の断層」であると同時に、知への攻撃であり知の破壊である。即ち、新しい知は古い知への批判・攻撃、破壊を通じて、否定し拒絶することによって成り立っている。ただ、漱石にとって攻撃すべき知とは、国家が取り入れようとした西洋文明の新しい知である。古来より引き継がれている日本的な古い知も守るというより、もはや確固として安住できずに、漱石はこれらの間で引き裂かれている、というより新しい知によって打ちのめされて、断層の暗い奥へ沈んでいくのである。ただ、漱石の諸問題における知の問題とはそれほど重要なものではない。漱石の抱えている問題はもっと暗くて淀んでいるものであり、この暗くて深い奥へと漱石は沈んでいくのである。これはその後の記述された作品「道草」の俳諧的な趣味、芸術が漱石自身によって否定されていることにも表れている。即ち、再度述べるが「猫」におけるこの断層・ずれは、漱石が作家として自らの問題に意識的もしくは無意識であろうとも接近して、その解決の地点への限りない深化を試みる過程で自ずと生じている記述なのである。
4)語りの構造(作者―猫―苦沙弥先生)
「猫」における語りは、猫が語っているのであり、語るべき対象は苦沙弥先生あり、彼の客人や弟子たち、細君や子供たちに、その他の余人である。無論、苦沙弥先生は作者漱石自身であり、作者漱石が猫を通じて苦沙弥先生やその他の人物を語り、かつ苦沙弥先生もその他の人物を語っている。それが、時々猫が消えてしまい、作者漱石が直接的に苦沙弥先生を、そして苦沙弥先生が語るべき余人をも語っている。これは猫が語るという構造を小説に持ち込んだ時点から、作者がどの人物にも関与して語ることができるという暗黙の了解を得ていたはずであり、苦沙弥先生が語っているはずなのに、作者漱石が余人を含めて語るという構造は許されているはずである。また、猫は全権大使であってすべてを語ることができるはずである。ただ、さらりと読んでいるうちに、次第にこの構造に慣れてそう気にはかけなくなるが、考えると奇妙な話である。
作者―猫―苦沙弥先生のこの構造が入り組んで、誰が何を言っているのか分からなくなることがあっても、こうした語りの構造を子細に調べることはあまり意味を成さない。前に述べたように奇妙な構造でありながらそれが猫という人格を設定したとたんに許されるべき構造をこしらえていたのであり、誰が語っているかはもはや問題ではなくなる。即ち、もはや漱石自身が自らを語り、自らを批判し、その他と洒落とはいえない馬鹿げた会話をして、世の人々を馬鹿にし、世の中を非難し、すまし顔で平気で生きているのである。このように猫という人格を借りて軽口に平気で人情など捨てて残酷にも無慈悲に、傍若無人にもぺらぺらと才気あふれるままに漱石は筆を走らせているのである。
なお、「猫」の筋は、具体例はあげないが、出来事の連鎖と単発の出来事を組み合わせて巧妙に仕上がっている。軽妙に語っていると思わせながら、漱石はある程度の筋の関連を考慮していたと思われる。ただ、この「語りの構造」の項目を加えたのは、実は誰が語っているか分からなくなることがとても怖かったためである。主体が分離したり客体と同一になったり、誰が勇んで語っているのか正体が分かりそうで分からずに怖いのである。実は、本書は面白い小説ではなくて、恐ろしい小説だと思われる。一番恐ろしいのが、誰が語っているのか分からなくなる、声高に喚いている声、叫び声や笑う声だけが聞こえてくる、この語りの構造なのである。
5)漱石の文体
漱石の文体は歯切れが良い。短文で襲い掛かってくる気迫がある。引用などにも途方もない才気を感じる。ただ、「幻影の盾」などの文章は森鴎外のたぶん同様の小説「うたかたの記」などと比べても遜色はない。漱石は当て字や言い間違いもそんなに気にしていなかったとのことで、当て字などは結構あり、鴎外のたぶん精緻な描写を心掛けていたのとは異なっている。こうした文章の構造を調べるのは手間がかかり、省略する。ただ、私は鴎外の文章より漱石の文章の方が好きである。歯切れが良くて、かつ詩的であり、豊かな表現力を持っていると思っている。
6)快楽と恐怖の脳・その他
快楽の脳と恐怖の脳とは人間に備わっている脳である。快楽の脳とは楽観的であり、恐怖の脳とは悲観的である。どちらの脳が強いかによってその人の性格が定まってくる。ただ、訓練によってその割合を変動させることができる。「猫」を読むと、漱石の脳は当然両方の脳を持ちながら、悲観を無理に楽観的に記述していることが分かる。虚勢を張っているのかもしれないが、例えば、「首くくりの力学」であり「華厳の滝」である。さらに「猫」と同時期に「漾虚集」を書いてバランスを取っている。確か芥川龍之介が漱石を称して「どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤が一つ、ちょうど平衡を保っている」(「ある阿呆の一生」より)と称していているがごとく、漱石は自らの精神に危険を感じて意識的に均衡させている。
警戒心も解くことが無い。「猫」には「探偵」という言葉が何度も出てくるが、漱石は何者かに狙われているがごとくに精神的衰弱の傾向をきたしている。この衰弱はますますひどくなっていくらしい。そして、この均衡は徐々に恐怖の脳の占める割合が広くなって均衡を危うくさせている。ただ、均衡を危うくさせると言っても、漱石にとっては問わずにいられない、本来的な深みへと次第に入っていくだけであり、これは江藤淳が指摘する『「漾虚集」の暗示するあの「深淵」』、即ち暗へと向かわせている。こうしてみると、漱石の脳は本来的によってか、生きていく上でのさまざまな事件によって、恐怖の脳と快楽の脳との均衡を保ちながらも、実は常に恐怖の脳の占める割合を増大させていたとも考えられる。この恐怖の増大は小説を書くことによって更に増大していく、漱石自身にとっての諸問題があるのである。そして、漱石の抱える諸問題は、近代化を急ぐ日本の危うさそのもの、そこに生きる人間たちの恐怖とも捕らえることもできるけれども、確かにこれは影響を与えているけれども、本質的な問題ではない、もっと根深い問題を抱えているのである。なお、この恐怖の脳の解析には漱石の人生上の経験を把握する必要がある。この小説内容と作者の経験との問題についてはまた記述する機会があるかもしれない。
最後に、その他として雑感である。本書を読んで初めはとても面白いと思ったものだが、4)「語りの構造」にて書いたように、次第に怖くなってくる。「低音部」が響いてくるのではない、たとえ文明文化に対する正当的な主張であっても、声高に怒鳴りつける、癇癪を破裂させたような攻撃性が増してきて、じんわりと恐ろしくなってくる。そして当然なことに猫を殺してしまう。安楽死に似た死に方である。『死ぬことは苦しい、しかし死ぬことができなければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きていることが死よりもはなはだしき苦痛である』(下256頁)となり、猫は甕に落ちて溺れながら『次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。・・ただ楽である』(下284頁)となって、猫を安楽に死なせる漱石の心情は作品を終りにするのではない、自らが自らの死の淵に佇んでいるようにも見える。これは漱石が攻撃した文明の結果であり、この文明の生み出す恐ろしさでもあると読み取ることも可能である。ただ、前にも述べたように、漱石の抱えている諸問題のほんの一部である。今なお夏目漱石が読み継がれているのは、現代においても、漱石が抱えていた諸問題を切実に内包しているためであろう。無論、小説としての面白さや謎の深さが読者の要求を満たし、かつ読者が好んでそうした漱石を支えていることは言うまでもない。
以上
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