2014年12月26日(金) |
題:吉野裕子著 「蛇 日本の蛇信仰」を読んで |
女は鬼に変身するのか、それとも蛇になるのか。良く分からなくて、馬場あき子著「鬼の研究」を読んだが、続いて蛇に関して読んだ本である。結論から言うと、本書は民俗学の本であって、各地における蛇信仰の名残などはたくさん記述されているが、目的となるそれらしき箇所は一か所だけにしか記されてなかった。『・・鱗の三角紋が鬼や蛇の象徴として舞踊・演劇の世界に今なおみられるのは周知のとおりである。日本における鬼とか獅子の背後にひそむものは、多くの場合、蛇ではなかろうか』と鬼には蛇が潜んでいるとしている。ただ、この鬼と蛇との関連の踏み込んだ詳細は述べられていない。残念である。
せっかく読んだので少しばかり本書の内容を紹介したい。著者は「序」において『本書は、その土俗の祭りの根幹にあるものを「蛇」として捉え、その蛇を祀る蛇巫存在の推理、および、それに付随する祭祀の諸相、日本古代哲学の考察をそのテーマとする』と、祭りの根幹を蛇信仰と断言するのである。通常、哲学や社会学などでは先駆者の思想を批判することで自らの思想を展開している。これにより自らの思想の位置を明確にすることができるのである。従って、祭りの根幹にあるものを「蛇」として捉えると断言されれば、異論を差し挟めない。祭りの思想には、どうしても他の思想、例えば太陽や霊魂や神々などがありそうに思われる。ただ、そうした著者の思想に基づく解釈を疑念に思いながら読み進めるしかなくて、各地の祭祀の紹介や解釈などはきっと正しくとも、やはりどこか半信半疑である。ただ、結構古代人の信仰など参考になる文章もあるし、最後の「日本の古代哲学」はとても良い。途中で放り出さなかったのが幸いしたのである。もしや著者の他の本「陰陽五行思想からみた日本の祭」を読まなければ、正しく理解できないのであろうか。良く分からない。
著者はまず蛇の生態等を詳述する。主な特徴は1)トグロ、2)呑みこみ、3)脱皮、4)毒牙、5)ペニスと交尾などを元に縄文式時代の蛇信仰について語る。また、蛇の古語の「カカ」、神鏡、鏡餅、蛇巫の存在などについて、蛇との関連について結構詳しく語っている。なお、初代天皇なる神武天皇は蛇である豊玉姫の妹である玉依姫なる竜蛇を生母に持つとしている。蛇の足の無いくねくねとした体や二つのペニス、濃厚な交尾、更に瞬きのしない光る目、脱皮などはさまざまに想像を膨らませて、この地上の諸生物に擬せられ、諸行事・習俗に影響を与えており、これらを民俗学的に掘り起こすことが著者の蛇信仰についての詳細な記述に繋がっている。なお、著者は蛇信仰と陰陽五行が古代の祭事の支えになっていたとしている。
「日本の古代哲学」とは少し大げさであるが、祖先神としての蛇などが述べられている。重要なのは次の点である。1)『古代日本人において神聖方位は東方であり、人の種も東方から来るものと考えた。西方は人間界である。・・「時」はよどみなく過去から未来へ、東から西に流れるものと考えていた』とのこと。2)「今」を死に向かわせないためには、中央に「今」を置いて積み重ねることが必要とのこと。「永遠の今」つまり「中今」を呪術的にもたらすには、人生通過儀礼における仮屋、即ち現実の母から生まれた新生児を人工の仮母胎である仮屋を作り、この仮屋こもらせ、西方に移動しようとする生命を中央に押しとどめることによって可能となる。3)「みそぎ」は身濯ぎの転訛とされているが、「身削ぎ」ではないかということ。即ち身に着けていたものを外し取っていくこと。4)和魂は「ニギ」が空間に何かが満ちている状態を指し、胎内に充溢している生命、即ち胎児を表しているのではないかということ。また、荒魂は「アラ」から推測して生命が外に顕現時点を指すのではないかということ。これらはとても面白い発想と思われる。
著者は蛇は畏敬と嫌悪を抱かせるが、この蛇に対する信仰は仏教の広がりなどによって衰退し忘れ埋没してくるけれども、今なお象徴化されて残されている事例も多いとしている。指摘されている事項はなるほど蛇信仰と繋がっていると思われる。まさに本書は蛇信仰に対して思考する機会を与えてくれるけれども、なるほどと思われる今現在の風習もあるけれども、できれば他の信仰との比較によって蛇信仰を記述して欲しい。著者は序にて『蛇の第一義は祖先神、宇宙神であって、私の「蛇」は、そのことを自信をもってはじめて扱っている』と述べている、その根拠、その理由を記述して欲しいのである。でも、面白い本である。
以上
|
|
|
|
2014年12月19日(金) |
題:馬場あき子著 「鬼の研究」を読んで |
女は鬼に変身するのか、それとも蛇になるのか。良く分からなくて読んだ本である。著者は古典文学や能楽に通じていて多少論理性に欠ける箇所があるとも、多様に古典文学などの文章の引用や内容の紹介によって楽しませてくれる。特に五章の「極限を生きた中世の鬼」では文章が高揚感に満ちて、鬼として生きなければならない女の切々とした感情が表現されている。ただ、女が鬼と蛇のどちらになるかはどうも良く分からない。結局、女は鬼にも蛇にもなれるに違いないのである。
簡単に本書の内容を説明する。なお、引用は『 』で示している。鬼は1)日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊であり、最古の現像である)、2)修験道をした時の山伏系の鬼、天狗、3)仏教系の邪鬼、夜叉、羅刹、地獄卒、牛頭、馬頭鬼、4)放逐者、盗賊、賤民などの人鬼系の鬼、5)怨恨、憤怒、雪辱などの情念をエネルギーにして復讐を遂げるために鬼になることを選んだもの、これらの種類があるとのこと。また〈おに〉と〈かみ〉が同意語であったかもしれないと述べている。なお、鬼は近世になって滅びて、舞台芸術の世界などにのみ存在が許され、その本来的なエネルギーも圧殺寸前であるとのことである。
著者は「鬼の誕生」から「鬼を見た人びとの証言」の章を通じて、鬼の姿、その気質を明らかにしていく。なお、日本の書物にはじめて「鬼」が登場するのは「出雲国風土記」であるとのこと。「虫めづる姫君」の「鬼と女は人に見えぬぞよき」の言葉に始まって、多様な文献からの引用は鬼の存在を納得させるものである。「王朝の暗黒部に生きた鬼」では、桓武以来の三百年に至る王朝の発展の外部に存在していた鬼について述べる。大江山の鬼や酒呑童子、土蜘蛛などはその例である。また謡曲「鉄輪」にて女が鬼となって「二道をかくるあだ人」なる夫を殺そうとした時に、「変わらじとこの思ひしに」と繰り言を述べて、夫の枕元でさめざめと泣く混乱した女の心情について、著者はかなしく美しく思い浮かべている。
「天狗への憧れと期待」の章では鬼の〈あわれ〉と天狗の〈をかし〉を中心にして著者は述べる。『〈鬼〉が、社会的破滅者であることを、その身に自覚していたとすれば、〈天狗〉は破滅する現実を、脱俗の一点において価値転換しようとしたのであった』という著者の文章には関心が引かれる。なお、天狗の祖を猿田彦に求める俗説があるとのこと。なお、この中世において〈鬼〉は観念の世界に定着していくが、天狗は山伏を媒介として具体的行動を持ち、人間臭さを強めていくのである。
「極限を生きた中世の鬼」の章で、著者は能の般若の面などを通じて、女の鬼について述べる。〈小面〉と対極する〈般若〉は別種のものではなく〈小面〉に内包し連続したものであり、哀しみや怒りを発散していて、破滅的なドラマの真率感を高めているとする。なお、小面とは小ぶりな若い女の面のことである。ここで著者は初めて『〈般若〉は〈半蛇〉であるという説がある』と述べて、女の邪悪や嫉妬・邪淫が蛇体になるとして、能の「道成寺」を本成、「葵上」を中成、「鉄輪」を生成と認識している。なお、本成とは蛇の極致に完全に至ったものであり、中成、生成に連れてその極地からの程度は下がることになる。野上豊一郎氏が「能と幽玄と花」の本の「般若の面と蛇の面」で半蛇がいつから般若になったか考察しているとし、著者は「葵上」の後シテが「やらやら恐ろしの般若の声や」という時につけていた面という説を拡張して、「葵上」の詞章どおりに『般若声にうながされて得脱する面が般若なのだと考えることができる』と述べている。
ただ、女が鬼や蛇になるその変身の仕方が私には良く分からなくて、著者の説明を良く読むと次のように解釈できる。本成とは蛇の極致であるなら、能面では真蛇と言っているはずである。即ち〈小面〉から〈般若〉を通じて〈真蛇〉に至る鬼と蛇の姿は既に〈小面〉なる女に含まれているのであり、嫉妬や怨念によって人間から変身しながらも、少なからず人間の心を持ち合わせているのが〈般若〉である。即ち〈般若〉は鬼でありながら、蛇の下地も人間の心も持ち合わせている、これが高じてもはや怨念だけを持ち人間を離脱する変身を行ったのが〈真蛇〉であり、もはや邪念・情念しか持たない形態なのである。著者が『徳田隣忠は、般若の能の真・行・草を「道成寺」「葵上」「黒塚」と考えている』と述べていることとも符合すると思われる。なお、「黒塚」とは山積する屍体と膿血腐爛の悪臭と暮らす女の家を旅僧が訪れる話である。
〈シカミ〉という鬼畜の面があるとのこと。この〈シカミ〉は『シテをまったく本性からの鬼畜・妖怪・変化するものとして処理している』のであり、『〈般若〉が〈シカミ〉と決定的にちがう点はもちろん〈女面〉であること』かつ『人間の変貌として扱っている』ためと著者は述べている。こうして著者は〈シカミ〉と〈般若〉の面をつけて演じる能の曲を区分けしている。こうした区分けに従い『その点「黒塚」は般若の能として「紅葉狩』以上に人間の哀れさをにじませた能である』と述べているのも合点がいく。般若に至る道筋の美しさは〈羞恥の心の美しさ〉と著者が文学的に述べているのは大変興味深い。最後に著者は鬼女と山姥の説明をする。鬼女とは鬼になった女であり、山姥はただ一人山を巡り行くのである。こうした〈鬼〉のすがたに限りない哀れを覚え、その訴え止まない〈鬼〉の心情を思いやる著者と似た感慨をまた私も持つ。
以上
|
|
|
|
2014年12月12日(金) |
題:相良亨 尾藤正英 秋山虔編 「講座 日本思想1 自然」を読んで |
西洋哲学の一部において「宗教」や「神秘」に入り込むのは哲学が袋小路に陥ったためであろうか。論理や分析を主流にしなければ、経験や事実を重視しなければ、自然や機械を考慮しなければ、哲学において理性の位置など危うくなる。こうして「宗教」や「神秘」を論じる西洋の哲学の一部は理性を不十分とみなしてある種の非論理的な袋小路に陥ったと述べるのは行き過ぎなのだろうか。ただ、量子論や不確実性の物理理論などに基づいた哲学も興隆して理知的な立場を堅持しているはずで、むしろこちらの立場を取る人の方が多いかもしれず、良く分からないのである。
こうした西洋の現状を見ると、それでは日本の思想はどうなのかと問いたくなる。「宗教」や「神秘」の思想と日本の思想、例えば「自然」と人間の関係はどうなのか、などなど。こうして少し謎解きができればと願い「講座 日本思想」を読むことにしたのである。日本の思想は慣れないので難しい。例えば本書の「自然」とは「おのずから」と読むとのことである。本書では「自然」に関して結構書かれている、ただ感想文としては関心を持った箇所のみを示したい。読んでみて分かったのであるが、西洋哲学の思想と関連付けて述べている日本の思想は、それなりに理解できるのである。
最初の章「古代人の心情」では『日本の古代には・・遊離魂の思想を持ち、人間を自然の一環と考えて、その自然も植物的生命の循環を基準にしてとらえられたものである』とのこと。即ち『日本人の生命観には、以前にカラ(体)から去ったタマ(霊)が滅ぶことなく、いま新しいカラに戻って来た、という遊離魂の思想が根底にある』とするとし、植物的転生などについて論じている。『人間は、タマとそれを宿すカラからできていて、タマがカラに宿っているあいだは、生命の通っているカラ全体をミ(身)という』のである。更に日本の神は季節の祭りのときなどに時々尋ねてくる共同体としての神なのであり、個人が個人的な恵みを望む気持ちにはどうしても不足感が生じてくる。こうして仏教への急傾斜は神の信仰の空隙に生じて広まってきたとする。更に共同体の神なるが故に、個人がための仏教やキリスト教と区分けして共存できていると記述している。
次に「宗教的修行における心と体」の章では、実践を自然の中に求める修験道には原始回帰の志向があり、仏教には行わない山籠や窟籠や木食行、苦行、木葉衣などを行っていたとのことを述べる。仏教には「都の仏教」と「山の仏教」があり、「山の仏教」が歴史の表面に現れてくるのは平安仏教を代表する最澄や空海からなのである。空海は民衆修行者であり、庶民の呪術的習俗に親近感を持つ、密教の伝来者なのである。この密教は近代以降合理主義によって軽視されるが、『このような宗教的体験を、現代の心理学や医学の立場から研究する道をはじめて開いたのはアメリカの哲学者であり心理学者でもあったウィリアム・ジェームスである』とのことである。こうして著者は曼荼羅の絵解きなどをして説明する。
「日本思想史における本覚思想」、「親鸞における自然法爾」、「徂徠学における自然と作為」の章につていては省略。なお、自然に対する思想についてはこれらの章にも記述されており、仏教に関連した説話が多い。「本覚思想」では世界や時間に関する概念が記述されている。なお「本覚思想」とは変化する現実界と不変なる本質界からなるこの世界において、まず生死・無常など現実界を肯定することから始まり、無常はそのまま無常であり、衆生は衆生そのままで肯定されているのである。また「親鸞における自然法爾」とは、『自然とは、おのずからそのようにあらしめるという意の語である』と親鸞が述べていることを踏まえて、この法語の意味を解釈している。徂徠学とは萩生徂徠の儒学説の最大の特徴である「道」から自然と作為を説明している。
「国学・和歌・自然」の章は知っている人物が語られていて面白い。近代和歌問題を定位させた賀茂真淵、自然と秩序について熟考した本居宣長、性的な実存を析出した上田秋成、和歌その言葉としての和歌論や言語論を論じた冨士谷御杖など、自然論、実存論、秩序論、言語論など観点から彼らを濃密に論じている。結局、「国学の近代と反近代」と題した節において、感情を共有するのではない自己表現としての和歌の変貌、言語の使命が近世において出現すべき条件は整ったと述べている。「生活思想における自然と自由」の章では、石田梅岩、食行身禄、安藤昌益について、近代化していく日本社会の生活思想の原型が見られるとして論じている。結局、自然と言う概念が人間のもつ可能性をこの世界に統合させるものだとするなら、この概念を用いて人の関心と立場の違いによって多様に思考が可能なのである。また自然概念そのものが多様でありうるし、人間の内面と社会の組織との関係において、自らの願望に従うことが自然となり、それに合わせて自己制御を行っているとも、巧妙に内面を調達されて本当の願望からはほど遠い、確実に疎外させていく巨大な社会を作り出しているのではないかとの指摘が本章では成されている。「自然と科学」の章は省略。
やはり、最初に述べたように、西洋哲学の用語を用いた説明が一番分かりよい。結局、「自然」とは「おのずから」とは何であったのか。個別の論文を通じて理解するのは「岩波講座哲学」を読んだ時のように難しい。ただ、本シリーズを読むと、日本の思想が少しずつ分かり得る気がする。
以上
|
|
|
|
2014年12月5日(金) |
題:盛山和夫著 「制度論の構図」を読んで |
確か、何かしら制度論を論じた本に紹介されていて読んだ本である。それまでの制度論を批判し、根本的な制度論を構築しようとして、一部難解な部分もあるが、一部納得いかない点もあるが、新しい概念を指し示す良い本である。著者は哲学にも通じているのか、結構哲学的な思考も出てきて興味深い。本書の記述内容は「まえがき」に示されており、『制度とは理念的実在であって人々の主観的な意味世界(「一時理論」と呼ぶ)によって根拠づけられており、この主観的意味世界はそれ自体が経験的で客観的な存在である。そして、社会的世界は人々の行為によって構成されているのではなく、人々が世界に対して賦与している意味によって構成されている。・・諸個人が世界の中に見出している意味はその本性上超個人的で普遍なものと映じており、そのことによって制度は客観的なものとして立ち現われることになる』ということである。著者の思想を簡単に紹介したい。詳細を知りたければ、多数の文献を精査検討して、思考範囲が広い本書を読むのが良い。『 』は本書からの引用文である。
著者は一貫して多数の社会科学者の制度に関する思想を読み解き解釈し批判して『制度とは何か』と問う。これらは「確立された行動様式」と構想力、市場と組織、秩序問題、秩序問題としてのゲームの理論、コンヴェンションへの懐疑、規範の意味論、ルールの実在論、社会組織としての知識について論じ、そして方法論的個人主義を超えて、著者は制度の概念と二次理論としての制度論を示すに至るのである。著者にとって重要なのはまず秩序であり、この秩序に関して均衡理論などを通じて、社会学的な理論と制度ないしは秩序との関係の検討の必要性を強調する。なお秩序問題としてのゲームの理論に批判的である。例えば「囚人のジレンマ」などにおけるゲームの理論とはプレイヤーの選択する行為の組によって定まる社会状態だけに適用可能であり、実際には行為の組として記述できないものが多くあるとする。
「コンヴェンション」とは共通の利益をもたらしているような習慣的規則のことである。この「コンヴェンション」が自己継続的に行動の連鎖を生み出すためには、自己と他者との知識の連鎖が必要である。つまり他者への推論と認知の知識を重層的に持つ必要があるとする。また、この知識は他者の行為は過去ではなくて将来も意味していなければならない。この概念において、著者は論理式を用いながら論じて、現実の経験的に存在する秩序のメカニズムを十分に説明できていないとする。「コンヴェンション」が行動の規則性であるなら、まず「規範的」なものを考慮する必要があるのである。即ち、『規範的でないものから規範的なものが生じる、あるいは秩序のないところから秩序が生じることがいかにして起こるかという問題』を著者は「創生問題」として捕え、行動に対する反応の在り方が規範を同定するのであり、言明に先立って規範は存在していると述べる。
更に著者は「共同体」とルールについて考慮する。ルールとは「行動的実在」とは異なる「理念的実在」であると主張する。数学のルールは「理念的実在」であるが、社会的ルールには諸行為や状態、例えば家族、婚姻なども含まれていて、新しく「理念的な実在」を創造するのであり、諸関係が規定されるのである。即ち諸個人と諸行為に「意味」が与えられ、相互に関連付けられることなのである。著者はシュルツの文を引用する。『社会学にはもともと〈行為主体としての〉集合的人格なるものは存在しない。社会学が〈国家〉、〈国民〉、〈株式会社〉、〈家族〉、〈軍隊〉、それに類似した諸〈形象〉などを問題にする場合は、むしろ諸個人の現実の行為や可能性として観念的に構成された社会的行為の特定の経過のことをいっているだけである』この『行為者自身が自らをとりまく世界について抱いている内容を』一次理論と著者は呼ぶ。なお、これに続く超越的二次理論は『社会科学という探究の立場が確立しようと志向している理論』を呼ぶのである。即ち、超越的二次理論とは『どの社会的世界にも内属しないような超越的な視点からの社会世界に対する知識』である。
こうして著者は「方法論的個人主義を超えて」「制度概念」と「二次理論としての制度論」を論じる。社会的な制度は意味だけで構成されるのではなくて、1)意味の体系。2)行為の体系、3)モノの体系からなるとする。最後に著者は『制度の研究とはいかにあるべきか。それは、制度が人々の意味世界をもとに成立していることからすれば、結局はその意味世界を解明しつつ、それと行為とモノの体系との関係を二次理論的に探究していくことに他ならないだろう』と結論付けている。本書を読んで、単純に私の頭を過ったのは「意味」と「超越的」という言葉が適切かどうかという点である。諸個人と諸行為に「意味」が与えられ相互に関連付けられること、制度とはこの意味世界をもとに成立していること、この「意味」なる言葉の意味、また「超越的」というこの世界を俯瞰的もしくは超越的に眺める視点を取り得るかどうか、制度の外から制度を眺めることはできない。制度もこの世界の内に居てその構造を知ることができるはずなのである。従ってもっと適切な言葉や視点があるはずという思いがある。ただ、意味の無いことはたぶん制度とはならないし、超越的が社会科学の立場からの探究を示していれば著者の主張も理解し得る。その他にも本書の前半と後半の論理の整合性など何点か疑問あるが、これらの疑問は他の制度論の本を読むなどしてなければ良く分からないし、かつ難しいので止める。いずれにせよ、本書は制度論を根本的に思考した労作であり良い本である。
以上
|
|
|
|
2014年11月28日(金) |
題:W.ジェイムズ著 伊藤邦武編訳「純粋経験の哲学」を読んで |
本書は、W.ジェイムズの1904、1905年の哲学的な論文を各八章にて紹介したものである。無論、「純粋経験の哲学」の概念を、即ちジェームズの世界観をまとめたものである。伊藤邦武が本書の成り立ちと各論文の記述内容を、簡潔にかつ適切に巻末にまとめ記述しているので、感想としては思いつくままに記述したい。
まず、「純粋経験」へと至るために、「意識」について詳しく論じていることである。ジェイムズは「思考」と「物」とを元に、「思考」や「経験」や「認識」を踏まえて意識を論じている。即ち意識は出来事に役割を果たすことのない、それ自身としては無時間的なものであり、単なる経験の「内容」の相関者なのである。即ち経験が他の経験と結びついて認識者の役割、意識という役割を演じ、また別の経験に結びついて認識されるもの、客観的な「内容」の役割を演じるということである。言い換えれば、経験は異なったグループのもとで「思考」として、また別のグループでは「物」として現れてくるとジェイムズは主張するのである。ジェームズは絵画に使う絵の具に例えてこの経験を説明している。絵の具は売り物であり店に並んでいる物質的な物でありながら、他の絵の具と共にカンバスに塗られると絵画の一部分として精神的な機能を構成できるのである。このように経験は他の経験と結びついて、意識とも「内容」ともなる。このため意識は存在者の第一原理から外される。即ち具体的な思考だけが完全な実在となる。この思考は物と同等である。
こうして本書の初めにジェームズがテーゼとして、『世界の内のただ一つの原初的な素材を「純粋経験」と呼ぶのであれば、認識の作用はこの「純粋経験」の特定の部分同士の互いの関係として説明できる』(12頁)と述べていることが分かってくる。即ち、経験は他の経験との結びつきによって、認識者の役割や意識という役割と「内容」とに分離され演じることにある。では、単なる経験ではない「純粋経験」とは何なのか。それは『あれからできている。つまり、まさに現れるとおりのものからできており、空間から、強度から、平坦さから、茶色さから、重さから、等々からできている』(33頁)のである。こうしてジェームズは論文の記述を重ねていき「純粋経験」の説明とその展開を詳細に行っている。なお、ジェームズは自らの世界観に「根本的経験」と名付けている。即ち、経験論は全体を二次的な存在者とみなし、部分、要素、個体を重要視する。本質的にはモザイク的な哲学であり、複数の事実から成る哲学であって、『ヒュームたちはそれら複数の事実を、それらが内属する実体にも、それらを対象とする絶対精神にも関係づけなかったのである』(49頁)ため異なっており、『わたしは根本的という修飾語をつけるのである』とする。即ちモザイク的な要素を重視する哲学なのである。
こうして論じられる「純粋経験の世界」は少し込み入りながらも多少関心を引き寄せられる。なお、ジェームズはベルグソンと友人であるためか、知覚対象の認識や意識などなど、論じる範囲やその内容も重なっている部分もあると思われる。ジェームズが『観念が次から次へと推移することを、観念の自己超越の本質であるとみなそうとはしないのであろうか』(80頁)と述べる観念の自己超越性、『客観的実在とは、複数の推移によって織り成される同様の経験のひとつながりである』と述べる実在論、経験の連続性や事物や質の捕え方、自我や意識などなど、切り口はいくらでもある。ただ、彼らがたどり着いた「宗教」や「神秘」の地点では立場の相違が浮き彫りにされるに違いない。これらを外側、中間、内側から眺める視点の相違がきっとあるはずである。なお、ジェームズは宗教における超意識を認め、『宗教経験のなかには他の種類の経験からの類推や心理学的推論によっては演繹できないような、ある種の特殊な性質のものが実際に存在している、といってもよいのではないかと考えている』と述べている。これは外側から心理学者の立場から見て、理解不能な経験が存在していることを示している。
最後の第8章「多元的宇宙」が面白い。まさに「純粋経験」を超えているのか『もっとも不思議な可能性と視野とを開く』(197頁)「宗教経験」について論じるのである。率直に宇宙の多元性を認める立場から、『多元論の哲学にとっては、妥協や調停はその本質的属性である』(205頁)のであり、『哲学と同様、宗教にとっても新しい時代の始まりが、すぐそこまで来るであろう』と述べるに至る。なお『プラグマティズムの原理に則って解釈すると、多元論、すなわち宇宙が多であるという思想は、実在のさまざまの部分が外的に関係しあっている可能性がある』(213頁)のであり、『すべての事物は貫入し合い、巨大な全体的集合のなかで互いに入れ子状態になっているのである』とする。『・・かくして哲学と実在、理論と実践は、同じ円環のなかを無限に進んで行くのである』とし、ジェームズはフェヒナーやベルグソンの開拓した魅力ある道に従って進み、何らかの哲学的結論が引き出せるように願って本書の記述を終えるのである。
以上
|
|
|
|
2014年11月21日(金) |
題:広井良典著 「定常型社会 新しい「豊かさ」の構想」を読んで |
定常型社会における「環境・福祉・経済」と言う広範囲な問題を簡潔にまとめた良い本である。記述内容はほぼ理解できるが、岩波新書版で頁数が少なくて、もっと深く考えているはずだと思う点や、少し理想化されている点もある。この定常化社会と言う思想は、今の社会では一部にしか認められていないし、これからも認められるのはきっと容易ではないはずであるが、これらの論議は今後進んでいくと思われる。成長と言う経済的な概念の捕え方、その成長の結果得られた富の配分の問題、また実現すべき制度について、日本と世界の政治・経済の現状並びに将来の姿を常に重ね合わせ考慮し続けていかなければならない、難問でもある。
簡単に述べると「定常型社会」とは経済成長が伸びなくとも、十分な豊かさが実現される社会である。高度な経済成長を遂げて、低成長へと移行した日本はこの「定常型社会」のモデルの国に成り得ると著者は述べる。人口の減少や資源の有限性を考慮すると経済の成長というエンジンを噴かせ続けなくとも、成長という考えから脱却して持続可能な豊かな社会を実現できると著者は強調する。多くの者たちはまだ経済成長こそが諸問題を解決できると信じ込み捕われているのである。実現されるべき具体的な主要課題を示すなら「福祉国家」としての「社会保障」などがある。こうして「定常型社会」の実現には人間の欲望の追及や富の分配の問題、更に平等の概念や自然との関わりなど新しい経済システムの構築に関して考慮し対策を講じなければならない点が多数あるのであるが、新しい認識の枠組み作りから出発して、原理的な理念と具体的な政策の提言が可能であると著者は述べている。
本書は4章からなる。第1章ではケインズ理論から始まって、小さな政府と大きな政府の対立軸を経済成長と環境政策の観点から論じている。この対立軸は、絶え間ない経済成長が人間による需要、消費の無限の拡大を前提とした需要創出政策が成熟期に入ってくると飽和して成り立たなくなってきて、対立軸はクロスし接近するのである。この対立軸の詳細な説明は本書参照のこと。著者はこうした経済構造を図示して説明し、各国の環境・福祉政策を示して、経済成長の在り方と、富の分配の原理を明らかにする必要性を述べる。第2章では日本のライフサイクルと社会保障について論じる。それは医療・年金・福祉についての税との絡みなどであり、個人のライフサイクルに結びついた社会保障の制度の重要性を訴えている。
第3章では「社会保障とは個人の自由の実現のためにある制度である」と断言する。即ち「個人の機会の平等」が「個人の自由」や「自由意思」を生み出すのである。ただ「機会の平等=潜在的な自由」が究極的な価値原理となりえるのではない、この問題は、第4章で述べる「時間の転換」に基づく「自己実現」として記述されている。本章では地域、国家、地球レベルの社会福祉と環境政策について、著者は結構、詳細に取りまとめて論じている。第4章では豊かさを求めてと題し論じている。共同体社会においては資源の総量が定まり分配と倹約で成り立っていたものが、近代の経済活動では、資源の総量が拡大し得るとういう認識を持っていたのであり、消費が社会的な善なる美徳であったのである。そして産業化=工業化によって経済活動はより成長重視へと展開することになる。ただ、資源の有限性からは逃れられないのである。
こうして今日の社会は、古典経済学者の自然的に制約された経済活動から離陸して、成長重視へと展開し、更にモノそのものの消費から情報に基づく消費、貨幣のそれ自体の投機の対象化、資本に基づく利潤率など心理変数に依存す経済へと展開したとする。著者はこうした成長重視から定常経済への移行を提唱する。それは成長を速度として捉える速い時間観から生物学的ゆるやかな時間観への変化が必要であり、この余裕ある時間の消費から文化や健康、趣味など「自己実現」の時間が生み出され得ると述べる。そしてこの自己実現が価値と意味の原理たり得るのである。この後著者は今後の展開として、新しいコミュニティとNPOを通じた公共性について定常型社会の観点から論じ、少しばかり政策提言する。
あとがきにて著者は科学技術も含めて論じたかったと言っているが、私の考えではまさしく科学技術が速度を加速させて商品化を進めている。そして科学技術は技術開発そのものが暴走する性質を内在していて、資本の利潤と結びつき商品開発にしのぎを削り、情報に基づく消費を拡大させているのである。資本の利潤と結びついた科学技術の展望を、その独自の暴走性を含めて、科学技術が何のために必要されるか早急に論じられなければならないだろう。ただ、科学時術の暴走性は直接的な商品開発から切り離しうる固有の性質でもあり、論点の簡略化から除外も可能である。更に本書を読んで定常化社会を実現するために思ったことを何点か示したい。なお、自由や平等、人間の権利など近代に生まれた概念の哲学的な修正や再創造については省きたい。今の社会が前提としてかつ目標としている概念であり、手を付けるに途方もない努力を必要とする。ただ、福祉社会を実現するための、尊厳死や姥捨て山や人工中絶に、人間の欲望や資本の性質については、難しい問題であるがもっと論じられて良いと思われる。例えば「姥捨て山」とは哀しい言葉であるが、政府はこの思想を取り入れて、老人よりも若者に重きを置いた政策を実行に移している。
一番目の思いは人間が無条件に他の人間を養うことのできる限界論である。つまり福祉国家たる福祉の質のレベルと国家の財政との均衡問題であり、制度問題でもある。国家単位もしくは世界においていわゆる豊かさ、生活の質と生産の関係を数値で示すことは簡単であり、図示できれば見やすし分かりよくなる。つまり定常化社会における生活レベルを明確に示すことが重要なのである。二番目は一番目と関連するが、生産は非生産の人間をも養っているのであり、例えば兵士など、これらの国際関係が緊張して増大する軍事費や老人の数の増加による介護費用の増大は政治や国防や福祉の概念へ影響を与えざるを得ないが、国家の役割の明確な定義から始まるのであり、少し本書の土俵から外れるかもしれないが、近代的国家の概念に抵触するかもしれないが、できれば国家の役割を再定義した上で福祉社会を論じたい。三番目に先に述べた資本や貨幣などの経済論を制度経済学や制度論へと拡張して制度設計へと展開できないかを論じたい。無論本書でも論じているがより詳細にということである。四番目に豊かさと価値原理についてもっと詳細に論じる必要がある。でも、本書の言わんとすることは最初にも述べているが、ほぼ理解できているつもりである。
著者は初めに哲学を学んでいたと言うが、人間に対して単なるヒューマニズムではない優しい視線を持っている。きっとこの優しさが著者の思想を理想論に見せているのかもしれない。「定常型社会」を実現するための具体的な数値や人間の本性論に対する見解などが本書の内容を補足するために必要であると思われ、今後それらの展開と、科学技術に関する論述を期待したい。でも本書は「定常型社会」の思想が簡潔に良く分かる良い本である。
以上
|
|
|
|
2014年11月14日(金) |
題:富永健一著 「人類の知的遺産79 現代の社会科学者」を読んで |
社会科学の全体像を明らかにすることは大変な作業である。ある意味で経済学も哲学も社会学も政治学も含むとてつもない範囲に及ぶからである。何十人ではきかない学者の思想を、著者一人が記述する。著者は社会学の実証主義者である。社会科学を専門の実証主義と理念主義との二つの対立する語で区分けし、それらのすべてを論じる。この思い切った区分けのためか、近代に西洋で始まった社会科学の歴史が社会科学とは何かを知りたい者には、適度な質を持って良く分かる。特に哲学の経験主義や経済学も含めた領域において成されている学問の内容が手に取るように分かるのである。
高名な哲学者も経済学者も、知らない社会科学者もたくさんいるが、著者の意向に従って個別ではなくて実証主義と理念主義に分けて少しばかり紹介したい。なお、近代西洋における「近代産業社会」が自然科学と社会科学とを生み出し、またこれらが逆に近代化と産業化を推し進めたと著者は述べる。出発点は十七世紀に始まる啓蒙主義である。彼らは自然科学も含み、哲学や社会思想から文学に至る広範囲にわたって活動している。こうした啓蒙主義者は経験論に基づいて思考する。即ち経験論者は経験的事実の観察に基づいて実証科学として思考するのである。実証主義とは実証科学に基づき思考する科学主義なのである。これに対して理念主義は自我の意識内の主観的な要因を認識の源とする主観主義である。
実証主義を古典的実証主義と現代社会における実証主義に分けて著者は論じる。仔細は記述しないが、経験主義からの理論的命題の定式化としての帰納論理、また数学を基礎理論においた論理実証主義、個別の経験的事実をあらわすもっとも簡単な原子命題と、この原子的事実に数学などによって推論を加えて得られる分子命題、「物言語」などを用いたプロトコル文にて表現する物理主義などについて論じる。社会科学のパラダイム論からの諸学説、即ち専門領域への分化が生じて、経済学・政治学・社会学における諸潮流について論じることができるとして、著者は均衡理論、システム理論、機能理論について詳細に説明する。なお、均衡理論は主に経済学、システム理論は政治学、機能理論は社会学において中枢になる思想である。システム理論は機械と有機体との両方に情報伝達として通用するサイバネテックスという概念を構築する。機能理論はシステムの構成要素としての機能と結びついている。短期的には変化せずに持続する構造の元での機能的要件、即ちシステムの存続に必要な充足すべき機能を検討する「機能―構造理論」や複数の行為者によって構成されている「社会システム論」などに展開され説明されている。
実証主義に対する理念主義は先に述べたように、自我の意識に基づいた認識を拠り所とする主観主義である。この理念主義は行為者の付加した主観的意味にまでさかのぼって解釈する社会科学なのである。こうして著者は理念主義を歴史主義、現象学、マルクス主義ならびに批判理論に分類し説明する。歴史主義はドイツ観念論哲学の影響の下に社会科学が形成された名残の学派なのである。詳細は省くがこの歴史主義は知識社会学へと移行して最後の花を咲かせることになる。純粋意識の現象学、階級闘争を論じたマルクス主義、そして批判理論とは、著者によれば実証主義的な社会科学ではなくて、現実を批判しその秘密を理念的に明るみに出す主観的な理論であり、これらの内容について説明する。更に著者は実証主義と理念主義の接点としての行為論を論じる。この行為理論はドイツとアメリカで行われた社会科学の交流による、人間の行為に基づいた社会科学的な分析の概念である。
最後に著者は結語として、社会科学の発言力や研究成果や期待度が低下している現状を憂い研究努力の必要性や奮闘を述べる。それにしても本書は社会科学の多岐に渡って記述したとてつもない労作であり良書である。ただ著者の専門分野であるためか、社会科学として厚みがあるためか実証主義の説明の方がより詳しい。記述に八年を要し発行は1984年である。
以上
|
|
|
|
2014年11月7日(金) |
題:横手慎二著 「スターリン「非道の独裁者」の実像」を読んで |
本書はロシア革命以降のロシアの政治状況が分からないために、かつスターリンに関心があり読んだものである。結論から言うと、スターリンの生涯についてダイナミズムさは無いながら、事実のみを淡々と記述している、細かな点も逃さずに客観的な事実のみを伝えようと著者の姿勢が徹底している良い本である。従って「非道の独裁者」の実像はなかなか浮かび上がって来ないが、彼の評価も国内外の好悪両方を書いているため分かりにくいが、これはスターリンそのものが著述物をあまり持たずに思想を展開できないため、また彼が陳腐な男であるためか、彼の人物像に焦点を当てた文章には迫力が必要とされるためかは良く分からない。スターリンへの評価も割れているようである。これはヒトラーと並び称される非道の独裁者としては異常なことでもある。
いずれにせよ、本書の全九章を通じ、ロシア革命以降の主要人物の系譜とスターリンの役割、及びロシアの海外諸国への対応の仕方は一応分かったので、専門家でない者にはきっとロシアの現代史が容易に分かり得る本である。まず、日露戦争後の1917年にロシア革命は起こったのである。ロマノフ王朝の専制政治が倒壊し、レーニン政権、続いてスターリン、フルシショフ、ブレジネフ、・・、・・、ゴルバチョフと指導者が続くのである。トロツキーはスターリンの政敵である。こうした指導者の周りには常に内部闘争がある。このロシア革命以後のスターリンはまだ目立った活動をしていないが、着実に権力の掌握に前進していくのである。
ヨーロッパの各国は地続きであるために有史以来、アフリカの一部も含めてさまざまの出来事が生じている。ロシア革命後には第一次世界大戦が生じている。この戦争によるロシアの人的かつ物的損失は膨大なものであったらしい。こうしたなかレーニンは国家管理による経済統制を積極的に進める。そして、資本主義の終焉を述べる。この世界大戦は資本主義が帝国主義の段階に移行したための不可避の戦争であり、ヨーロッパ諸国の資本主義は、次の段階である社会主義の前夜の状態にあるとレーニンは言う。社会主義革命の時代が到来するはずなのである。ただ、コミンテルンを結成して社会主義革命を実現させようとする、こうしたレーニンの主張は実現しないばかりか、資本主義国家との関係を悪化させる。また農民からの穀物調達を目的とした「赤色テロル」という権力的措置を行い、こうした薄暗い時代にスターリンは頭角を現してくる。
レーニンの死後トロツキーが外され、スターリンが実権を握る。共産党組織の要の位置にいるスターリンによる共産党の一党支配が始まるのである。そして、スターリンはヨーロッパの資本主義社会の革命がなくとも、ロシアは社会主義社会を建設できると主張する。更に農民からの穀物調達を強化させ夥しい農民を餓死させても、国の重工業化に邁進する。指導的立場を保持せんとする指導層を中心にした大粛清も行われる。ただ国の重工業化は進められ、結果としてヒトラーとの戦いに勝利する。この勝利がレーニンの評価される点であり、大量殺略と相殺されて評価が割れるらしい。
こうしたスターリンも第二次大戦後から外交判断が衰え初め、また国も疲弊しており、ヨーロッパの経済再生を示すマーシャルプランから逸脱してしまう。アメリカとの対立や影響力の排除、ドイツや日本の復讐に懸念を示し、スターリンは外交的に失敗して、猜疑心を募らせていたアメリカとは結局処々の問題が生じて冷戦状態に陥る。それほどまでに彼はアメリカを恐れていたのである。もしやマーシャルプランからのその他の外交的駆け引きにおいて、ロシアはアメリカ従わずに離反することを、前もってアメリカに意図されていたのかもしれない。いずれにせよスターリンと毛沢東との議論、朝鮮問題、東ドイツ問題などなど、国家の体制の相違が対立を生むことは既にスターリンの晩年以降始まっていたのだろう。1953年にスターリンは死ぬ。こうしてみると、現在が過去の歴史と連続していて現在のさまざまな問題が過去と接続され推移していることが良く分かるのである。本書は歴史上のごく狭い範囲を取り扱っているが、きっと歴史とは人間が作り出している限り、エピステーメという知の枠組みの上部構造とは異なった、連続性を保っている川の流れのような下部構造があるはずである。
以上 |
|
|
|
2014年10月31日(金) |
題:青木昌彦著 「青木昌彦の経済学入門 ――制度論の地平を拡げる」を読んで |
本書を読んで初めて「制度経済学」なるものがあるのを知る。つまり、本書は制度論であり、経済学に制度論が必要であり、それも中心的位置に立つべきものとして論じている。いや経済学ばかりではなくて、各学問の領域が制度論を必要としている。本書はそれ以上に社会の仕組みの基底に横たわる制度を概念的に把握しようとしている、制度論の初歩的な展開を行っている本なのである。制度論の知らない者には初歩的と思われるけれども、諸論文と諸対話からなる縦横した四章十二節に簡潔に書かいているが故に、制度の概念を見抜くのは結構面倒である。また本書は日本、中国、韓国の制度の比較も行っているし、東京電力の送電分離などの具体的な問題にも触れている。もし、制度論を本格的に知りたいのであれば、もっと理論のみを記述した本を読んだ方が良いと思われる。ただ、本書は制度論の重要性を理解させる本である。
制度の理解の重要性は、1990年代のダグラス・ノースの著作が契機になったらしい。この制度という言葉の定義は概念化の問題であり、経済学者でも一致をみていないとのこと。なお、日本の戦後の制度として、終身雇用制やメイン・バンク制があげられるとのこと。この問題の理解するための最適な制度の概念化とはゲームの理論を使用するとのこと。これは、フォン・ノイマンが経済学者モルゲンシュテルンの協力を得て始めたものであり、アダム・スムスの「道徳情操論」にも示されているらしい。ゲームの理論は、社会的ゲームの変数域としてのドメイン(例えばマーケット)、このドメインでのプレーヤーの行動様式をモデルしたものである。即ち、ルールに従って戦略的意志決定を記述する理論なのである。ナッシュが数学的基礎を築いている。このドメインにおいてプレーヤーは共通化された予想に従ってそれぞれの戦略を採るが、全体として一つの均衡を生み出す。この均衡が制度になるのである。
国家形態のように均衡が複数あるのは、経済ドメインと政治ドメインの相互の依存関係があるためであり、これは歴史的条件も重要になってきて、ゲームの理論と比較歴史情報との両方を用いて考慮しなければならないとする。こうして「均衡=制度」とはある期間にわたって変わらない重要な特徴を要約したものでると著者は考えている。即ち、プレーヤーの戦略によって均衡が生じる、この均衡は言語的に要約され内生的ルールとなり、このルールが実際のプレーヤーのプレーによって絶えず確かめられ、人々がこのルールに沿って行動していると再認識できる、即ち循環的な構造をとることになり、これがドメイン内での制度なのである。
制度変化とはゲームのプレーの仕方に共通理解であったものが崩れていく時なのである。日本の失われた20年というのは、制度の移行期の一世代にわたる30年の移行期なのであると著者は述べる。こうして人間社会は相手の行動を予想しながら行動するためにゲームとして類推でき、経済活動だけでなく、政治学や生物学、経営学などにも応用できるのであり、その目的は現状を分析し可能な改革の理論づけを行っていくことにある。なお、経済学には「メカニズム・デザイン理論」があり、社会の制度をどういう成果が望ましいかその基準を目標にして、人々をインセンティブと両立した形で動かせるメカニズム、即ち制度のデザイン理論もあるとのこと。なお、先に述べた均衡が複数ある場合には「多様性」と「普遍性」との折り合いが重要であると著者は述べている。この「折り合い」に著者は特別な意味を込めていると私には推測される。
制度は変化するものなのである。従って各国の経済と人口動態の変数が次の局面に移行する条件を作り出すとともに、それらによって条件づけられるのである。こうして著者は東アジアの近代経済の足跡をたどる。そして「制度論の拡がる地平」と題して、今後の制度論の展望を、ナッシュ均衡やルイスの定理を引用しながら、制度進化をそのプロセスも含め説明する。詳細は本書を参考のこと。最後から二番目に「資本主義はどうなるか」と題してフリードマンとの対話が掲載されている。最後に「先進都市化と卓越したチーム力を競おう」と題して日本の活性化について語り、「失われた20年」に蓄積された先進都市化とエクセレンスによって、この「移りゆく30年」は力強くなるだろうと宣言する。30年とはちょうど東京オリンピックが開催される年なのである。本書を読むと制度とは作ることができると思われるが、作られるものでもあり、社会の制度などはこれらの狭間の中で少しずつ移行していくものであると痛感する。無論、カタストロフィが生じれば一気に制度は様変わりするはずであるが、これは本書の対象外の概念である。
以上
|
|
|
|
2014年10月24日(金) |
題:ハンナ・アーレント著 大久保和郎 大島かおり訳「全体主義の起源3」を読んで |
ハンナ・アーレントの初期の著作である「全体主義の起源」は以前から一度は読みたいと思っていた。本書は三分冊となっており、調べた結果、主要な思想は三分冊目に記述されており、これを読めばほぼアーレントの考え方が分かるとのことで、この「全体主義の起源3」のみを読むことにした。もともとアーレントの思想は少なからず知っていたし、一冊だけ読むことに特に問題があるとは考えられない。読んでみると驚くべきことに、アーレントの文章が「革命について」とは異なって素直で読み易く、少し冗長と思われるほど丁寧に記述されていたのである。彼女は1906年生まれ、アメリカ合衆国への亡命が1941年、「全体主義の起源」の出版が1951年、「革命について」は1963年に出版している。1975年に死亡。いずれにせよ、年老いて哲学者の文章が変わることはデリダやドゥルーズで経験しているし、アーレントの文章も晩年は何らかの理由によって変化したのだろう。たぶん翻訳はそれほど影響を与えていないはずである。なお、アイヒマン論争は1963年に生じている。
本書は新しい思想がそれほどなくて読み流したのであるが、簡単に趣旨を記述すれば次のようになる。全体主義的支配は独裁や専制とは異なった支配であり、孤立して相互に結びつきの無い大衆、自ら以外の何ものにも頼れなくなった大衆によって生み出される。無名性と自己放棄に暴力という欲求を加えて、超人的な破壊力の展開のなかに自らを投じる大衆によって作り出されるのである。そして全体主義支配は政治的・公的領域を無構造とし、人間の関係を残らず一切破壊し、人間は恐怖と不信の支配する世界の中で動くのである。そして全体主義は結局人間の行動能力を廃絶すると同時に、逆にすべての犯罪の共犯者に仕立てて、一切の結果を大衆に押し付ける体制なのである。
こうした主論旨を、全体主義の構造性、外見性、内在的な特質をヒトラーのナツィ・ドイツとレーニンのボルシュヴィズムなるロシアを例に取りアーレントは順次論じている。なお、「緒言」では中国共産党の全体主義的特質も明白だったと述べている。まず、最初に述べたようにアーレントは、全体主義運動は大衆運動だとしている。大衆が見出した唯一の組織形態であると断じる。これは階級社会の崩壊であり、モッブ(群衆集団、アーレントはモッブを大衆とエリットの間に在る集団として使用していると思われる)と大衆の結びつきなのである。全体主義運動のプロパガンダはモッブやエリットには有効ではなくて、まず大衆の獲得と対外国用に使用される。大衆はプロパガンダによって全体主義に組み込まれると同時に、これに組織化される。この組織構造と運動の指導者、その役割などについてアーレントは述べる。全体主義運動が大衆を引き付けてみ飲み込み、そして大衆がこの全体主義を選択支持し支えていくのだろう。逆に言えば全体主義は前述したように、大衆によって生み出され育てられる体制なのである。
なお、全体主義は世界的な規模での全体的な支配権の確立と他の国家形式と支配形式の破壊の固有の性質を持っていることをアーレントは強調している。国家機構、その掌握する機構から免れている全体主義の無構造性、秘密警察の役割、強制収容所などについてアーレントは述べるが、重要なのは道徳的人格を殺し法的人格を抹消した後、固体性を破壊することが可能であるということである。こうして全体主義とは通常の意味関連をことごとく破壊すると同時に、〈超意味〉と言う無意味性の上に立つ〈意味〉を与えることで、この主義の謎を解き放つことができるとする。なお、この体制は大量に人的資源を消費するため人口の多い国でなければ成立しないということである。更に全体主義のイデオロギーとテロルについて述べる。テロルの全体主義における重要性を指摘する。有害なものと無害なものの除去について。最後に彼女はモンテスキウの思想に従いたいと言うが、人間はすべて同じであるという経験であり、同じとは人間の政治的な力の同一性であることを彼女は強調するのである。最後は彼女の好きな聖アウグスティヌスの文章を引用して終える。
感想としては、確かドイツは第一次世界後の敗戦による押し付けられた負債に苦しめられていたはずであり、これら経済との関連、また多少ながら触れているルサンチマンとの関連をもっと論じると良いと思われる。また、現在の人間が当時の大衆と同様に孤独化していて同様の状況にあると述べているが、従って全体主義が生じる下地があると言うとも、すんなりとは納得できない。現在少なからず歯止めがかかっているはずであるが、世界には想像もできない出来事が間々生じるのである。この想像もできない出来事とは差異を伴った全体主義の訪れであるのか、もはや既に亜種とも言うべき全体主義が存在しているのか良く分からない。いずれにせよ、ハンナ・アーレントの著作物は常に問題提起を行っているのであり、今なお彼女の提起した問題は生き続けていると思われる。
以上
|
|
|
|
2014年10月17日(金) |
題:山本巍 今井知正 宮本久雄 藤本隆志 門脇俊介 野矢茂樹 高橋哲哉著 「哲学 原典資料集」を読んで |
哲学書を結構読んだが、その歴史性や哲学書相互の関連性が良く分からない。このため西洋哲学の系譜を知りたくて読んだ本である。本書は多数の専門の哲学者が簡潔ながら的確に文章を切り詰め、更に原書からの文章も引用して説明しおり、熟読すればそれなりに理解ができるはずである。ただ、自らが読んだことのある哲学者の思想はなるほどと納得し得るが、読んでいない哲学者の思想はおおよその概観が分かるだけである。どうも本書は大学の一般教養として哲学講義のテクストとして出版されたものらしく、限られた紙数での記述であり概観しか理解できないのは致し方ない。授業として口頭による説明があると結構理解できると思われるが・・。
通常の哲学書が厚みを持った本で記述が多いのは自らの思想の詳細な展開を図ると同時に、具体的な例をあげて思想に膨らみを持たせて読者に理解できるように努めていることが良く分かった。そのため本書はさっと目を通して西洋哲学の系譜だけを理解するように努めた。この観点からすると本書は区分けの仕方が良くて、初期の目的を達することができたのである。ただ、1993年出版のためか古い本であり、今現在の状況が良くわかない。これは致し方ないであろう。
本書は四章に分けている。「古代哲学」、「中世哲学」、「近代哲学」、「現代哲学」の四章である。卓見だと思ったのは「中世哲学」がキリスト教を形成した教父の時代1~8世紀から始まりスコラを場とした西洋中世哲学の9~14世紀としたことである。これはギリシア的ロゴスとイエスなる根拠の子(ロゴス 言)とを、時間的観点ではなくて思想として明確に区分けしたためである。アリストテレスの実体論が存在論として現代哲学に受け継がれているは知っていたが、本書を読むと良く分かるのである。古代哲学ではやはりアテナイ盛期の哲学としてのソクラテスやプラトンにアリストテレスが中心になるのであろう。
また、スコラ的な知の不確かさから、近代哲学の始まりとしてデカルトによる人間の知と実在の在り方の問い、更に認識する精神と物体との二種類の「実体」に基づく二元論から、スピノザやライプニッツによる無限の神の限定された様態としての精神と身体の一元論化、カントによる理性批判に基づく知の能力の再検討、価値や幸福といった倫理的概念より道徳的規則に従う義務の概念に基づく自律した意志の自由の獲得など、ヘーゲルの精神の弁証法的自己運動としての把握などなど、多数の哲学者による成されたこの近代哲学が現代哲学に繋がっていくのである。無論、近代哲学にはカントやヘーゲルのドイツ観念論にロックやヒュームなどのイギリス経験論が含まれている。この中世哲学は中世の神概念から、経験や思考の主体たる自我が哲学の中心課題になると紹介されている。
なお、現代哲学では実体主義から機能主義への移行と評して、ニーチェ、プラグマティズム、フレーゲやラッセルなどの論理的言語分析の哲学、現象学、分析哲学、更にヨーロッパ哲学の現在として、ガダマーやハバーマスなどのドイツ哲学とフーコーやデリダなどのフランス哲学が記述されている。なお、前期ウィトゲンシュタインは論理的言語分析の哲学に、後期ウィトゲンシュタインは分析哲学に含まれている。ドゥルーズは記述されていない。面白いのは言い忘れたが、古代哲学に含まれるソクラテス以前の哲学とヘレニズム期の哲学である。特にソクラテス以前の哲学のパルメニデスの哲学詩である。こうしてみると、西洋哲学の歴史が分かり、本書の「はしがき」に『哲学は、・・「名もなき真理」の叫び声』と記述している崇高なこの文章の意味することを良く理解できるのである。
以上
|
|
|
|
2014年10月10日(金) |
題:大河内一男著 「人類の知的遺産42 アダム・スミス」を読んで |
ニコラス・フイリップソン著「アダム・スミスとその時代」を図書館から借りて読んだが、どうもすっきりしない。アダム・スミスの思想の推移を述べているというより、スミスの生涯史であり、思想の断片のみを記述してからである。拍車をかけているのが、著者の細かな主張や感想が入り混じっている専門家には有効化もしれないが、発散して冗長な文章となるのである。見切りをつけると、ちょうど古本屋に掲題の本があり、読んでみた。なお、アダム・スミスへのヒュームの影響の大きさとスミスの最初の著作が「道徳感情論」であるのを知ったのは、前者の本のおかけである。
本書は簡明に書かれていて分かりよい。簡単しすぎていて物足りない位である。著者の生きていた時代には、アダム・スミスの文献の研究はマルクス主義者とみなされて大変な思いや経験をしたらしい。その当時の状況とアダム・スミスの魅力に始まって、彼の生涯と著作物が紹介され、「国富論」の内容がそれなりに詳述されている良い本である。なお最初の著作物を現在は「道徳感情論」と言うらしいが著者は「道徳情操論」と記述している。なお、アダム・スミスの時代には同一の教授が神学、倫理学、法学や政治学も講義していたらしい。著者はスミスが新興の人間、特にただ消費するだけの「不生産的階級」に対峙する「中等ならびに下層階級」なる「生産的階級」の人間に関心を持っていたとする。つまり生き方が混濁した時代の新たな人間の活躍を描いたとする「道徳哲学」の広範囲な思想の中に、スミスの著書を位置付けるのである。
簡単に述べれば「国富論」は国富とは金や銀の蓄積ではなくて、新しい富は年々消費される消費財であり、これは労働によって生産される。国民が豊かであるのは、労働の熟練度や技能の判断力、即ち勤勉であり分業であり、次に有用な労働に従事する者としからざる者との数の割合に基づくであるとスミスは主張していると著者は述べる。即ち本書は金や銀を国富と考えていた当時の体制に対する批判の書でもある。ただ、本書の売れ行きは良く、スミスは一躍有名になって社会的地位も得たらしい。
本書を読んでみると「国富論」が古典としての魅力を失っていないことがわかる。分業、商品の価格、労働価値、分配と社会発展、資本の性質や蓄積についてスミスが子細に考慮した思想が現代の経済学の源、いや国家システムの礎となったことが良く分かるのである。賃金、地代、利潤の三つの所得への分解は階級の利害であり、これらと特に賃金と社会の発展、停滞、衰退が結び付けられる。無論、資本も関与する。これらの密な相互関係の分析を通じて、スミスは論じているらしい。この根本には個人の「利己心=自愛心」や「節約」を人間固有の本能に根ざすとする、またこれに基づいた個人の自由な行動が社会公共の経済的福祉を実現するというスミスの信念があるのである。どうもスミスは国家や行政に不信を抱いていて、「安価な政府」や「夜警国家」の思想もここから生じているらしい。
「国富論」第五編では主権者または国家の収入として、軍事費、司法費、公共土木事業、青少年の教育施設、宗教的施設の経費、租税、公債について述べているとのこと。公債は国家を破滅に導くとのこと。これまでいかに多くの国が公債によって破滅してきたことか。確か戦後日本も一度破滅しているはずである。最後に著者は「アダム・スミス――十八世紀と現代」と題して記述していることから二点。「蜂の寓話」について、マンドゥヴィルの自由放任による競争が、私欲に満ちた強欲なる悪徳が社会を発展させるとの主張に対して、スミスは批判と同時に真理に近似しているからこそ人々が驚いていると両方の評価を与えているとのこと。「見えざる手」の神なる配慮、即ち個人的本能的行動と社会的福祉の関係はこの手に導かれているとのこと。それにしても、アダム・スミスは良い。確かに著者の述べるように、現代の諸問題においての解決策がいくつか見出され得る。
以上
|
|
|
|
2014年10月3日(金) |
題:征矢泰子著 「征矢泰子詩集(現代詩文庫175)」を読んで |
安部公彦著「詩的思考のめざめ 心と言葉にほんとうは起きていること」を読んで感想文を書いたことがある。その時に詩に対する私の考え方を少し述べている。従って「征矢泰子詩集」を読んで感想文を書くか迷ったが、本当に何年かぶりに日本人による日本語で書いた詩集を読んだために書いてみたい、書くことにしたのである。結局、正確に言うと、本詩集に対しては肯定的でないために、感想文を書くのをためらったのである。感激した詩集であれば躊躇わずに感想文を書くことができるたであろう。
だいぶ以前に多数の詩人の詩が紹介されている本を読んで、この著者の詩だけは読んでみたいと思っていた。うまい具合に現代詩文庫の「征矢泰子詩集」が一冊在って手に入れることができたのである。ただ数編の詩を読むのとは異なって、多数の同一著者の詩を読むと、著者の詩の傾向としての言葉に対する感覚や住む世界の広がりを知り得ることができる。結論から言うと、本書は言葉に錐を刺すような鋭さを秘めながら、著者は小さな世界に住んでいる、自らの主体の発する言葉だけに生きて客体化することができないのである。どうも荒川和江や吉原幸子などと同人仲間であったらしく、吉原幸子の詩集もずっと以前に読んだことがあるが、著者と同様に主体が語り叫び悲鳴を発する詩であった記憶がある。こうしたまごう方なき主体が発する直接的な言葉の詩が好きな人が多いはずで、その点著者の詩はそれらの詩人たちの内においては、言葉が切り詰められ鋭利である点で優れている。ただ、主体を客体できずに言葉に鋭さを秘めれば秘めるほど、主体は身動きのできなくなり、自らの主体の内に追い込まれていくのである。針先で神経を刺す痛みが常駐し主体はこの神経の内の小さな世界でのみ暮らさなければならなくなる。つまり、閉じて昇華できなくなりつまらなくなる。
私はこうした主体が発する感情的な言葉よりも、戦後詩の西脇順三郎を中心にしたサークル「荒地」の詩が描く知的にダイナミズムな詩の方が好きである。征矢泰子はこの「荒地」よりも年代が下であるためか、作家論・詩人論を読んでも誰も知った人は現れ出ない。女を見ると欲情すると「死児の絵」という本に書いた吉岡実のような男がいれば、彼女も影響を受けて客体化した詩を書くことができたかもしれない。たとえばこの著者の「晴天」という詩に「晴れ渡った蒼いしずかな空から/さんさんとかなしみがふってくることがある」がある。確か白石かずこは「青いレタスの淵に座っていると/卵が降ってくる」とある。また中原中也は「汚れちまった悲しみに/今日も小雪の降りかかる」とある。悲しみにも降ってくるものにもいろいろあるのである。征矢泰子は少し説明的で行間が狭く主体が語っている。総じて彼女の詩文は行間が狭くて緻密と言うべきか広がりが無いというべきか、この狭さが文章の特徴の一つになっている。一方、白石かずこはもはや主体も客体もないのか幻想的である。中原中也は主体と客体をぼやかしている、というより曖昧さの中に溶け込ませているのである。どの詩を好むのかはそれぞれの人の勝手であるのであるが・・。
本書の作家論・詩人論では片岡直子の『「かなしみ」からの始まり、「待つ」ことの終わり』と題した文章が一番良く征矢泰子を語っている。私は征矢泰子の性的な自由な詩や侵入されることによってしか大人になることのできない少女、真紅の花などにもついても書こうと思ったが、書くべき考えがまとまらないので止める。たぶん、現代詩文庫から抜粋しただけの詩を読んだだけでは良く分からないためでもある。最後に著者の詩の中で好きな詩を書こうと思う、それで終わりにしたい。「花の行方」という詩集に含まれている「曼珠沙花」という詩は、花の行方の澄み切った空のこの透明な向こう側に位置に著者が居るような気がして、既に心の棘を静かに飲み下したような気がして、即ち自らの客体化ができているような気がして、一番良いし好きである。
以上
|
|
|
|
2014年9月26日(金) |
ベルグソン著 平山高次訳 「道徳と宗教の二源泉」を読んで |
ベルグソンの著書を読むのは「時間と自由」、「物質と記憶」、「創造的進化」、「思想と動くもの」についで五冊目である。文庫本としてはたぶん「笑い」だけが残っているのだろう。この「道徳と宗教の二源泉」は読み始めるとベルグソンとしてはいつもの通りに文章は美しいながら、どこかゆったりと書いていて面白みに欠けていていたが、最後の第四章「結び ――機械学と神秘学――」を読んだ時に愕然としたのである。それはベルグソンの神秘に触れた気がしたためである。木田元が「哲学と反哲学」において西洋の哲学が最後に根源的自然の問題に触れると記述していたことを思い出したためでもある。W.ジェイムズが宗教を論じるのと同様に、西洋の知の行く着き先の一つが科学的な知であるのとは反対側の神秘や宗教の根源的自然に通じるであろう、もはや知とは言えない領域に入り込んでいく姿を見たのである。この本書の内容を簡単に紹介したい。無論、今までの生命の飛躍などのベルグソン自身の思想が取り入れられ、それが発展させられている。
ベルグソンはまず社会的責務と道徳的責務について論じる。社会的責務とは社会を存続させる責務である。これは社会に規則正しさを導入する秩序に類似している。一方この社会的な秩序の背後には自然なる秩序が存する。即ち宗教的な戒律なる秩序があり、この秩序も時によって社会的役割を演じていたと述べる。我々にとって重要なのは社会的連帯を生み出す社会的自我を個人的自我に付加し「社会的自我」を育成することにある。そして個人の中心位置へと社会の円が狭まってきて責務が加わり増大していくとベルグソンは述べる。道徳的な苦悶はこの社会的自我と個人的な自我との関係の混乱から生み出される。道徳的責務の根底には社会的要求が存在しているのである。こうして責務と道徳について純粋状態も含めてベルグソンは多弁に論じ続ける。
次に静的宗教と動的宗教についてベルグソンは述べる。静的宗教とは人間の閉じた集団社会における道徳的責務のことであり、動的宗教とは開かれた全人類を包含する人間社会における道徳的責務のことである。なお道徳的責務とは個人的意志を同一方向に向かせ、集団の凝集を確保する力なのである。そして宗教とはこの力と規律を与えてくれる。きっとベルグソンにとっては閉じた社会から開かれた社会への移行が問題なのである。彼はこの静的宗教と動的宗教について、幻想もしくは想像力を生み出す想話機能、生命の飛躍、知性と本能や秩序と進歩に基づき多弁に語る。更に宗教と責務についても論述を加える。この辺の文章を眺めながら書いているが、もう一度読んでみたい位に最初の印象とは異なって密度の高い文章である。更に魔術と宗教との関係、アニミズム、神々との関係も含めて記述していく。重要なのは宗教の定義が例えば『静的な宗教が知性の行使にあたってあり得るかもしれない、個人の意気を消沈させ社会を解体させるものに対する自然の防御的反作用である』(250頁)と述べている点である。つまり、知性を欲したのは自然であり、自然は知性と本能を両端に置いて対をなしているが、知性にかき乱されると自動的に防御的に復旧させるとする。こうした宗教に関する主張は意味深長である。こうしてベルグソンは神秘主義にたどり着く。神秘主義とは物質を貫いて突進した精神がそこまで進もうとして、進むことのできなかった地点に位置している。完全な神秘主義とは行動であり、創造であり、愛であろうと述べる。そして仏教についてキリスト教などについて語り続ける。
こうして最後にベルグソンは「自然社会とデモクラシー」、「自然社会と戦争」、「戦争と産業時代」などの小見出しの中において、人間の歩みについて民主主義について産業主義について語る。少しだけ文章を引用する。『ひとはますます遠くまで突進するであろう』『説明を必要とするのは常に停止であって運動ではない』『人類は自分の未来が自分次第だということを充分には知っていない』などという文章が、他の人にも言われていて知っている思想だとしても、ベルグソンが述べる時その美しい文章の示す詩的な呻吟は意味深く印象的である。やはりできれば再読してみたい。今まで結構、哲学書を読んでそれなりに感想文を書いているので読み直し、少しは自分の頭の中を読んだ当時の印象を思い出して整理したいとも思っている。哲学史を読んでみるのも良いだろう。
以上
|
|
|
|
2014年9月19日(金) |
題:ブライアン・ウォード=パアーキンズ著 南雲泰輔訳「ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ」を読んで |
題名に引かれて読んだ本である。初めの二十頁くらいは真面目に読んでいたが、文章が冗長で内容に乏しく、約三百頁をさっと読み飛ばした。結論から言うと、新しい知識も得られず文明論としての面白さも感じない、それほど重要な本ではないと思われる。
「日本の読者へ」の序文などで、著者はローマ世界の崩壊はゲルマン民族の侵入によって静かに同化していったという考え方を否定する。また、ピーター・ブラウンによって提唱され、彼の「古代末期」なる本にて示された、衰退と没落の時代というより精神的・知的発展の時代であるという考え方にも同意しない。結局、地域の多様性を考慮しつつ、精密に個別に考察される必要があると言うのが著者の意見である。
つまり西ローマ帝国が五世紀に崩壊したのは、ゲルマン民族が侵入して地域経済を破壊したことに起因する。これは西ローマ帝国が海からの侵入が容易であり、中世まで生き延びた東ローマ帝国とは地域の特性が異なるためである。西ローマ帝国は安全な地域ではなかったのである。この結果、古代経済として当時それなりの高品質な大量生産を行っていた複雑なシステムが硬直してしまい、変化に対応しきれなかったためであると述べている。なお、著者はローマ帝国は交易のネットワークを張り巡らせたそれなりの高度な経済的なシステムを構築していたと考えている。それが帝国の崩壊によって、もはやこの経済システムは先史時代へと逆行してしまったためなのである。
こうした論理を、発掘された陶器の量や品質、識字率、貨幣量、建造物の規模などから著者は長々と説明する。専門家でない者にとっては読むことは苦痛以外の何物でもない。さっと眺めれば十分である。また効率的に行われていた農業生産が失われ、養うことのできる非生産人口が大幅に減少したとする。こうした変化が西ローマ帝国では急激に生じて崩壊したのである。
結局著者は何を言いたいのか。「文明」とはローマ帝国のそれなりの高度な社会・経済システムのことを指しているのか。この帝国の崩壊などによって「文明」と言う言葉を使用するのを止めた方が良い、つまり「文化」という言葉の方がより繊細に適格な印象を与えるとでも言いたいのか。どうも著者はアメリカなどの現代の高度な物質文明が古代ローマ帝国のそれと似ており、経済史における衰退を招くと皮肉っているのか。良く分からない本である。真正面から「文明」論を展開していないためである。きっと古代史の研究家が読む本と意味と価値を見出すことのできる本であるに違いない。図版だけはとてもきれいで見ていて飽きないのが救いである。
以上
|
|
|
|
2014年9月12日(金) |
題:戸田山和久著 「哲学入門」を読んで |
どう表現していいか分からないけれど、きっと良い本なのだろう。語り話しかけるような無駄が多い文章に違和感を覚えて、大したことは書いていないと思っていたが、中盤を過ぎると著者の哲学に対する真摯な態度が伝わってくるのである。ただ、終盤にはありきたりに流されて急ぎ書き終えようとする姿勢も見えてくる、また唯物論もしくは物理主義者なる著者の意見も記述が曖昧なのである。ただ、妙に生々しくかつ正確に哲学の現状と意味を追い求めている著者の姿勢が明らかになってくる不思議な本なのである。著者はドゥルーズは難しいと言いながら、概念を創造するというドゥルーズの思想をたぶん踏襲して実践する哲学そのものに対する熱い思い入れが伝わってくる本なのである。ただ、哲学の入門書としては哲学の歴史も記述し、または別の切り口から記述したもっと良い本がありそうでありながら、この本も立派な哲学の入門書である。
著者は科学者であり哲学者である唯物論者もしくは物理主義者であるらしい。この立場から本書は序「これがホントの哲学だ」、「意味」、「機能」、「情報」、「表象」、「目的」、「自由」、「道徳」、「人生の意味――むすびにかえて」の全7章を、カントやヘーゲルなどではなくて、ミリカンやデネットなどの私の知らない哲学者の著述を引用し、哲学的な用語を広く解説しながら筋道を立てて述べていくのである。図解入りの、これらの哲学用語を通じた哲学的な概念の説明は分かり良い。どう紹介しようと思ったが、思いつくままに主要な論点を簡略化して述べていこう。詳細に入り組んだ論理と思想について知りたければ本書を読んでもらいたい。
著者は生物もしくは生物の進化に関した例を結構使用しているが、ベルグソンの生命に関する思想を思い浮かばせる。また、人工衛星やチューリング・マシン、シャノンの情報理論なども多く語られているが、やはり印象に残っているのは人間もしくは動物の自然との関わりである。きっと自然や生物そのものの中に生きて行く上での「意味」があり「機能」があるのである。当然「目的」も絡んでくる。これらは存在していないもの、いまそこにないもの、まだ現実化されていないことに関わっていると著者は説明する。きっと生物とはないものに向かい、果たそうとすることに関与しているのだろう、詳細は本書参照のこと。
面白いのは「情報」におけるエントロピーについて述べた後、世界は情報の流れとして捉えることができ、出来事と因果を論じていることである。確率論的な考え方ではなくて、因果的世界は情報の流れる世界であると著者は述べる。この思想を詳細に記述するなら、楽に本一冊は書けそうである。出来事と因果の関係は結構本が出版されていて、この情報世界を因果に加えて論理的に新たな世界像として記述することは結構難しそうである。この後、著者は「表象」を生き物における志向性から記号論を交えて論じる。この志向的記号論と自然が発する自然的記号とが複雑に絡み合っていることを示し、思考的な表象と抽象的な表象について述べた後、更に表象について区分けし、著者は「目的」と「表象」との関連について論じるのである。
更に著者は「自由」について自由意志と決定論の両方の説を引用し話を進める。自由とは他行為可能性を持ち、またこの時の意志とは、自己コントールの能力に他ならならいと主張するのが面白い。即ち自由意志とは、自己コントロールによって内的な自己反省が、反省的検討が、合目的性がもたらすものであり、これこそが過去の事象に基づき定められている機械的メカニズム的に定められているとする決定論と両立する「自由」であると主張するのである。この論理の詳細は本書参照のこと。
ただ、まだ欠けているものがあり、それが「道徳」だとして著者は話を進めていく。即ち責任ある自己とは自らが作り上げた歴史である、また言語による物語が自己を作っており、こうした自己が進化し道徳的責任を取れることによって、自由な行為を行え得るのである。自由意志なき世界はディストピアになるかについても著者は述べている。最後に人生は短めの目的手段の連鎖の集積であり、人生の意味とは決定を積み重ねて自己を作る中で、人生そのものを作ることではないかと述べる。つまり生きるに値する自己と人生を作ること、即ちデフレ的な意味になるが、枠組みと質を拡張した広範囲な意味の中に認めることである、このデフレ的な措置で十分ではないかと著者は述べるのである。
どうも後半になると宗教的に読み取れるから不思議である。「責任」という言葉があっさりと使われているからであろう。また、普通使われない「自己コントール」という言葉が切羽詰まって自己に何かを要求してくるからに違いない。著者はこういう言葉に錘をつけてはいないと思われるが、私には重い錘が付いている言葉と思われて仕方がない。これらの言葉は倫理や道徳に繋がるはずであり、安易には使いたくない言葉なのである。善と悪とのエージェントについても記述して欲しかったし、また道徳の意味についても、もっと丁寧に踏み込んで説明して欲しかったのである。
著者の述べる自由の話は一つの解釈とすべきであろう。この話の内容は省略。ただ現実的な模範解答例みたいな解釈であり分かりは良いが、私は自由について記述した文章を結構読んでいて、いまだにどれも納得はしかねているのである。最後に付け加えると、本書は著者が述べるように意外に正統派の哲学である、この哲学に「入門」の文字をつけるは良いかどうか。哲学用語をそれらの考えの裏付けも含めて広汎に哲学の基礎を理解する上での入門書であると思われる。
以上
|
|
|
|
2014年9月5日(金) |
題:木田元著 「哲学と反哲学」を読んで |
木田元は岩波文庫におけるベルグソン著「思想と動くもの」にて、訳者河野与一の訳文の校正などを行い、また解説として「思想と動くもの」の成り立ちやベルグソン思想を論じていて、初めて知った人である。まだ若い人だと思っていたが、ご高齢であり先日亡くなられたということである。ご冥福をお祈りしたい。本書「哲学と反哲学」という本はだいぶ以前から知っていたが、著者がハイデガー研究の第一人者と新聞に紹介されていて、関心を持って読んだ本である。
本書「哲学と反哲学」は1990年に岩波書店から出版されている。同じ岩波書店から「同時代ライブラリー」として、本書の内容に、Ⅵ章「ハイデガーとライプニッツ論」を加えて出版されている。即ち「同時代ライブラリー」を読めば一冊で済む。本書は存在論を主にした西洋の哲学史の変遷を記述している。プラトンやアリストテレス、フッサール、シェラー、メルロ=ポンティ、ニーチェ、エルンスト・マッハなどなど多数の哲学者の思想が紹介されている。短論文を寄せ集めたものであるが、全体の構成は筋が通っており、記述も簡明で博学かつ軽妙であり、ハイデガーとウィトゲンシュタインとのキルケゴールを介した共通性など、著者の独特の見解は味わい深いものがある。
簡単に記述内容を紹介すると、存在はプラトンに哲学によって〈デアル〉と〈ガアル〉という本質存在と事実存在とに区別されて、〈ピュシス〉という始原の単純な存在が覆い隠されてしまい、存在とはギリシア人が問うた時の本質存在「それは何であるのか」に局限されてしまったのである。哲学とは本質存在と事実存在の区別や優位性の問題なのではなくて、この始原の単純な存在に立ち返ることであり、これが反哲学であると著者は主張する。即ちこの反哲学はハイデガーの始原の〈存在の回想〉という思想的営為であり、メルロ=ポンティの見ることや感じることの〈主体〉と〈客体〉を併せ持つ〈野生の存在〉の存在論、ハイデガーの大文字で始まる「存在」なのである。こうして始原の存在に回帰することが反哲学の目指すことであると主張するのである。
著者はプラトンの〈エイドス〉やアリストテレスのエイドス(形相)とヒュレー(質料)を論じる。また、世界概念や感覚や運動も関係してくるために、フッサールの現象学やエルンスト・マッハの感覚論、ベルグソンの知覚論などなど多岐に渡って論じる。こうして哲学の系譜は存在者の存在を力に見たライプニッツ、根源的存在を意欲に見たシェリングを経て、力への意志に超越を示したニーチェに通じているのであるが、このニーチェにおいてさえ形而上学の克服を企てながら本質存在と事実存在の区別に捕われていたとする。ただニーチェはこれの存在の区別の消滅に関わる哲学の完成者として、ハイデガーの論文から著者は読み解くのである。本書はわりと簡単に読めるが、内容を正確に把握するためには、結構な数の哲学書の読破が必要であると思われる。ただ、哲学における存在史の概略だけを知りたければ、この濃密な文章を味わうだけで良い。
西洋の哲学において哲学者が最後に根源的自然を問題として取り上げている点に関し、著者は西洋哲学の知の本質が明らかになるかもしれないと述べているのが印象的である。次の『 』にて示す引用文は著者の本書を記述する目的である。『この哲学から近代ヨーロッパの科学知や科学技術が派生したのだとすると、哲学と呼ばれるこの特殊な知が西洋の文化形成、少なくとも近代ヨーロッパの文化形成に本質的にかかわっている。あるいはむしろ文化形成に原理を提供してきたとさえ考えられるのである。現代の巨大化した技術文明の母体となった近代ヨーロッパ文化の形成を総体として批判しようとする哲学者たち・・彼らがその哲学の本質をどのようにしてとらえ、それに対しておのおのの反哲学をどのようにして位置づけようとしているかは、もう少し立ち入って検討してみる必要がある。西洋とは全く異なる出目を持つわれわれが哲学することの意味を見きわめるためにも、この検討は欠かせないように思われるのである』
この著者の文章には、哲学の時代的な流れの中にある種のギャップを感じさせる。これからの哲学に課せられた素朴な諸問題であるのかもしれないが、時は移ろい進んでいるのである。一つ目は反哲学そのものが古くなりもはや反哲学は哲学と同様の意味に使われており、この後の哲学の変遷を確認する必要があるということ。二つ目は哲学が生み出した子なる科学知が親をも飲み込もうと、飲み込んでしまうほど思想的に力量的に圧倒しているのではないか。もはや反哲学ではなくて、今までの哲学は狭義の哲学であって、これからは科学的思考法も取り入れた広義の哲学として新たな思考の枠組みの変更、もしくは枠組みの放棄を行わなければならないのではないかということ。三つ目は二つ目と関連するが存在の哲学、主体と客体の哲学はこれからも成立し続けるのかということ。四つ目は、自然との諸関係も含めた倫理、道徳はどう考えれば良いかということ。もはや存在の哲学は放棄して、倫理や道徳を主にした逆に狭義の哲学を行うべきでるのではないかということ。五つ目は西洋とは全く異なる出目を持つわれわれの哲学する意味の見きわめとは何を言わんとしているのか。著者の回答らしき文章もなかったため、自然との共生という日本の思想を示唆しているのだろうかいうことである。いずれにせよ、本書は存在論に関して、簡便な哲学史を示しており手元において置きたい一冊である。
以上
|
|
|
|
2014年8月29日(金) |
題:W.ジェイムズ著 桝田啓三郎訳「プラグマティズム」を読んで |
「プラグマティズム」は論理学的な言語論を論じ、実践的な科学的な思考を重んじる哲学であると思っていたが予想といくらか異なっていたのである。無論、ジョン・デューウィ著の「哲学の改造」を読んでいるのでおおよその予想はついていたが、本書では経験論から始まり最後には宗教論に導かれる。W.ジェイムズはベルグソンと友人であったが、ベルグソンが最後に神秘に導かれるように、W.ジェイムズは宗教に導かれるのである。これは哲学が解し得ないものを知ったためであろうか。良く分からないのである。元々「プラグマティズム」なる哲学の成り立ちが少しばかり込み入っている。この成り立ちを訳者桝田啓三郎の解説に基づき説明して、その後簡単に本書の内容を紹介したい。
W.ジェイムズは精神的な危機を経験しており、理論的よりも実践的、知性よりも信念の哲学の道を進むのであり、生と強く結びついている。宗教は人間の本性にねざす根本的な事実であり、また自然科学の経験も宗教の経験と同様にW.ジェイムズの世界観を規定する権利を有しているという桝田啓三郎の文章を読んだとき、なるほどと思ったものである。ジェイムズはチャールズ・S・パースの思想に大きく影響されており、プラグマティズムの原理もプラグマティズムという言葉さえパースの造語であったらしい。ジェイムズはパースの思想を哲学の一つの方法として受け取り発展させたのである。パースは科学的論理学の一つの方法として提唱していたが、ジェイムズによって哲学上のもろもろの対立する学説を調停する方法となり、真理の理論まで拡張されているとする。ただ、今日においてはプラグマティズムの哲学はパースの位置まで引き戻され論理実証主義の方向に発展している。従ってW.ジェイムズ著の「プラグラティズム」というこの本書はジェイムズの哲学であって、もはやこんにちのプラグマティズムの哲学との関係が希薄になろうとも、プラグマティズムという哲学は本書に記述されている講演によって進められ、アメリカ哲学がヨーロッパ哲学とは独自の道を歩み始めたのである。またジェームズの思想の内にアメリカ人的思考を含んでいて、彼がアメリカ的哲学の創始者なりえたと桝田啓三郎は述べている。
まず、W.ジェイムズは第一講「哲学におけるこんにちのディレンマ」などを通じて、観念的な楽観論や学説体系の構築を批判し、事実の基づいた科学的な経験論と宗教的な人間の価値への信頼の二つの要求に答えるべきこの二つのディレンマの解決策として、プラグマティズムを提唱する。このプラグマティズムの範囲は方法と真理である。方法とは事実と具体性に執着した論理的なものであり、真理とは変遷であり語られる新しい内容である。こうしてW.ジェイムズはプラグマティズムについ形而上学的な観点から、また真理観や人本主義(ヒューマニズム)や宗教との関わりあいについて述べていく。本書は講義録であり全八項から成り立っているが、気の付いた点のみ記述したいが、やはり前述したように科学的な思想と宗教的と言うより人間の生に関した記述が多くて、「宇宙」という言葉が多くて、著者の思想の特徴が浮かび上がってくる。文章は平易で読み易いがテンポが速く理解しにくい点もある。簡単に引用を中心にして本書の内容を紹介したい。引用は『 』で示している。
「自由意志」とはこの世界に新しいものが出現するということ、過去と同一ではない未来を期待する権利という意味である。そして、世界は「一と多」とのどちらであるかの問題を通じて、「一と多」は等位であり、知性がめざすものは多様性でも統一性でもなくて全体性であり、見方にかかっているのだとする。更に経験なる事実に立ち向かう必要性、夢と実在との混同、この混同は「思惟」であって「事物」とは区別されるのである。真理観について『真理は観念に起こってくるのである。それは真となるのである。出来事によって真となされるのである』『真の観念というものは・・有用な言語的および概念的な地域へわれわれを導いてくれるのである』と述べている。
第七講「プラグマティズムと人本主義」に述べられている次の文章が大切である。『真理も法律も言語も、われわれの歩みにつれて作られるのである。われわれのさまざまな正、邪、禁止、刑罰、語、形式、慣用句、信念などは歴史の前進につれて、次第に付加されていく新しい創造物なのである。法律、国家、真理などは、歴史の歩みに生命を吹き込む先行原理なのではなく、その結果をあらわす抽象的な名前でしかないのである』(241頁)『世界はじつに鍛えられるものとして存在し、われわれ人間の手によって最後のタッチが加えられるのを待っているのである。かの天空の王国と同じように、世界は人間の暴力を悦んで受け入れる。人間が世界に真理を生みつけるのである』(257頁)ジェイムズの人本主義が明確に示されている。
第八講「プラグマティズムと宗教」でウォールト・ホイットマンの「君に」という長い詩を引用して、世界の救済について、未来の経験について、道徳観について論じているのもまた興味深い。最後に著者はプラグマティズムとは二つの極端の論の中での改善論と認める。それにしても本書を読んでベルグソンを思い出したのは偶然ではない、きっと生への肯定的な見方である。ただ、W.ジェイムズはこの世界について人間の在りようについて、ベルグソンと同様に生み出され変化するものとみているが、善と悪については等しく現れ出てくるものと見ている。こうした道徳観はベルグソンにはなかったはずである。ジェイムズやベルグソンの宗教や道徳、神秘が何を意味するのかは大変興味深い。プラグマティズムの主流がW.ジェイムズから離れて論理的な科学へと向かうのも当然のような気がする。即ち、W.ジェイムズは実用論者であり宗教論者であり多彩な能力を持っているが、「純粋経験の哲学」や「宗教経験の諸相」などを読んでみないと、どの切り口から臨むべきか分からない。というより、どの切り口も正しいに違いなくて、ただ全体像を把握するのが甚だ困難であると思われるだけである。
以上
|
|
|
|
2014年8月22日(金) |
題:ジュリア・クリステヴァ著 松葉祥一 椎名亮輔 勝賀瀬恵子訳「ハンナ・アーレント 〈生〉は一つのナラティヴである」を読んで |
ジュリア・クリステヴァの「斬首の光景」を読んだことがある。哲学的な文章と豊富な知識に基づいてイメージ論を展開した良い作品であったと記憶している。今回読んだ「ハンナ・アーレント」はそれ以上に力作で良い作品である。全部で三章、「人生は一つの物語である」、「過剰な人類」、「思考・意志・判断」からなり、最初の二章ではハンナ・アーレントの著作物「聖アウグスティヌスによる愛の概念」、「人間の条件」、「全体主義の起源」などに基づいてアーレントの思想を読み解きながら、かつ母やハイデッカーやヤスパース、それに二度目の夫たるブリュッヒャーとの関係などを手紙や逸話を織り交ぜながら記述している。ハイデッカー絡みの話が一番多い。第三章ではアーレントの思想の礎となる「思考」と「意志」などについて明快に論じている。ただアーレントの政治的かつ哲学的な思想は相当織り込みながら、それらについて個別に論じることは少ない。クリステヴァは「女性の天才――生、狂気、言葉なる」と題して序文を書いているが、彼女はハンナ・アーレントの他にメラニー・クライン、コレット、今も輝き色褪せることのない三人の天才の女性の奏でる主要な楽譜を描いているが、本書はこれら三冊の内の一冊なのである。
ジュリア・クリステヴァの文章は歯切れが良い。力強く哲学的で分かりやすい。分からない箇所は何度か読み返せばおおよそ理解できる。ただ、哲学やアーレントについての知識が少ないと理解できない文章もある。彼女は遠慮せずに言い切る。アーレントも痛烈な批判を何度も受けている。それでもクリステヴァ自身も自らの確たる視点を失わないために、またアーレントを天才女性として尊敬しているためにか、彼女の歯切れの良さはアーレントそのものの心と体を、思想とその源を浮き彫りにさせて、高貴な楽譜に基づいた言葉による演奏を読者は聞き取るのである。ただ奏でられる演奏の音律の正しさについては、アーレントの著作物を読んでいないために私には判断できない。アーレントに対するクリステヴァの見方であるとしか言いようがない。というよりアーレントを知らない者へのクリステヴァの解釈込みの楽譜のついた音楽の贈り物であるというべきであろう。書きたいことは結構あるが、簡単に何点かに絞ろうと思う。従って、以下の文章は私の好みで選択した本書のテーマの幾つかである。なお、投稿前に読むと、文章の不鮮明の箇所があるが、クリステヴァが述べているのかアーレントが述べているのか判然としない箇所もあるが、本書が手元にないために修正しない。
「聖アウグスティヌスによる愛の概念」においてアーレントは愛のさまざまな形態を通じて生を定義することになるとクリステヴァは述べる。アウグスティヌスには生は永遠であるという考え方がある。ただ、アーレントの解釈では、聖アウグスティヌスの思想は生の概念の発端としてのこの不変の中に、特有の寄与として「驚くべき湾曲」を入れたのであり、安定した同時性の中に時間的継起を挿入したとする。言い換えると、生は不変ではなくて引き続き立ち現われ移ろい行くのである。誕生によって生起する生である。誕生と死との間の生である。存在の永続性を湾曲させて世界を構成するこの生が、開始と行為の次元を付け加えるのである。この被創造物は世界を取り入れると同時に世界を基礎づける二重性を持っており、これが人間と言うこの存在者に自らの存在の意味を問うことを可能にさせるのである。これが聖アウグスティヌスからアーレントが見出した生の概念、生の豊かさなのである。そしてクリステヴァはアーレントにとって重要な生についての思考を詳細にたどっていく。その後クリステヴァは、アーレントが記述したラーエル・ファルンハーゲンの伝記について、アーレントが同じユダヤ人として同行し彼女の生を通じてヒステリーを通過しなければなかったと評する。なお、ラーエル・ファルンハーゲンとは1800年前後のユダヤ人女性で芸術などのサロンの主催者である。このヒステリーとは、ユダヤ人でありたいのにユダヤ人ではありたくない、この矛盾から昇華するためのである。むしろユダヤ人であるアーレントの人間的な生の基盤の確立のために同様の苦悩を持つ女性を描かなければならなかったとする。
なお、クリステヴァは初期のアーレントは歴史に示される政治活動に人間の生の概念が貫いて記述していると述べる。アーレントは生を通じて語る思想家であると同時に活動家なのである。また彼女にとって真実の歴史の物語とは、共に語る人間の間である間―存在に在り、かつ思考し記憶として明確に想起されなければならないとする。即ち共に語り物語を共有する人間たちが重要なのである。なお、ナラティヴとは「物語」であり、クリステヴァが「〈生〉は一つのナラティヴである」と副題をつけたのもアーレント思想を貫いている生に対する思いから来たはずである。クリステヴァは『人間と生の最初の一致は物語である。物語とは最も直接的に共有された活動であり、その意味で最初の政治活動なのである』とも明確に述べている。
ハンナ・アーレントが有名になったのは「全体主義の起源」であると著者は述べる。この時、ある種の人間は過剰だと宣言したらしい。そしてクリステヴァは、アーレントは功利主義とオートメーション化によってすべての人間が過剰になってしまうのではないかと恐れていたと述べる。この分析は想像のプロセスに似た結晶化によって行われるとする。言い換えれば想像が実を結び秩序ある像を作ることであろう。この結晶化と構造主義の構造概念の影響によって「全体主義の起源」の基本構造を得たらしい。ここで重要なのは、全体主義は個人個人のつながりがなくなり個人が孤立した時に生じることである。即ち無構造の大衆によって生み出される。アイヒマンに対する悪の汎用さについて、クリステヴァはアーレントの考え方を、人間の自発性と思考の無化でありこれが容赦なく人類の一部を破壊させるのであると述べる。この根源悪はカントの言う「倒錯した悪意」ではなくて、アーレントにはもはや人間悟性にもとらえられないものなのである。
第三章が面白い。アーレントの政治活動の概念の独創性について語っている。「思考」、「意志」、「判断」はアーレントの特殊な視線を素描し政治そのものや哲学そのものも打倒するものであるとクリステヴァは述べる。誰と身体の対立は「私たちは誰か」との問いになり「私たちは何か」と対立する。この「誰か」とは世界の複数性のなかに根づかせるものであり、「何であるか」は社会的な外面と生物学的な属性に還元されるとする。即ち誰は現実態として姿を現し「活動」に結びついてくるのである。身体は生命過程の要因であり、私的領域で活動するために世界を不在にしているとクリステヴァは述べる。誰は生物学的な生や「仕事」などの物象化から逃れることによって勝ち取られるのである。身体は共通なものではないものでありパトスの対象となる。パトスは暴力を生み出す。更にクリステヴァはマゾ・サドとの関係にも触れるが、アーレントがこの要因を取り上げなかったことを惜しんでいる。
思考する自己が自己とは区別されて存在する。思考する自己は現実から切り離されている。この思考すると言う事実が現実感を失わせるのである。こうした思考と現実の分裂についてクリステヴァは「第六感」や思考の危険性も踏まえ興味深く論じていて面白い。思考は生に伴うものであり、バッカス的な酩酊状態としてアーレントは示すに至るとクリステヴァは述べる。また意志の介入こそが始まりであったとする。禁止と始まりを含む律法は精神の生活を変形するが、意志によって変容させていくことができるのである。更に政治哲学に向けて観客の趣味の重要性についてクリステヴァは述べる。なお、趣味=味覚であり各人に固有なものでありながら、「共同体的」なものとして味わうことができるのである。更にクリステヴァは、判断は観客からなる人間共同体の不安定さのなかで可能になるのであり、判断=裁きは許しと硬貨の裏表の関係にあるとする。許しとは忘却がなされたことを、取り消すことのできないことに対する罪悪感からの解放なのである。
最後にクリステヴァは出生の完全な経験について述べる。アーレントにはきわめて遠かったが、この事実が世界を掬う奇蹟かもしれないはずであり、非常に近かったことについて。『自分にとって重要なのは「この能力の完全な経験」だと明言している』とアーレントが語っていたとクリステヴァは述べる。本当にアーレントが子供を産んでいたらどうなったのか。きっと良い母親になって著作物の一部が欠けることになったかもしれない。いずれにせよ本書を通じてアーレントの主要な思想などが分かり、なおかつ「思考」や「判断」についても新しい見方を教えてくるのである。一番良いのはクリステヴァの繊細なかつ分析的、豪腕な文章であるのかもしれない。
以上
|
|
|
|
2014年8月15日(金) |
題:北山修+橋本雅之著 「日本人の〈原罪〉」を読んで |
確か読売新聞の読書欄で知り表題が面白そうだったので読んだ本である。新書版サイズの200頁強の薄い本である。著者の北山修は精神分析学の専門医、橋本雅之は国文学者である。読んでいくうちに、この両者の日本人の〈原罪〉に対する共通認識が、見解の相違を浮き彫りにしていくのが面白い。各三章はそれぞれが記述を行っているが、最後の対談においてこの相違が決定的に明らかになる。もともと「日本人の〈原罪〉」そのもの表題が刺激的であるために、それぞれの目的や魂胆が異なっているためではないかと推測される。
簡単に述べれば「日本人の〈原罪〉」とは古事記における父神イザナキと母神イザナミの話から始まる。イザナミが火の神の出産により死ぬ。イザナキは黄泉の国にまでイザナミを追いかけ「見ないでください」という「見るなの禁止」を破り腐乱死体と成り果てたイザナミの醜い正体を知り、幻滅感を持ち「見畏み」て、黄泉の国を逃げ出すのである。イザナミは「原悲」とも言うべき見られた女性の悲しみを持つが、見る側のイザナキはなんらの罪の意識を持たない。逃げるとは見たものの正体の排除であり、そしてこの汚れをみそぎによって洗い清めるだけである。この「見るなの禁止」を破った側の罪を問わないことに、罪悪感の本質があるのであり、禁忌を犯したイザキの罪が日本人の〈原罪〉そのものであると主張するのである。なお「古事記」から罪意識を最初に読み取ったのが北山修である。イザナキはその場所に立ち止って幻滅に立会い慟哭し喪に服さなければならないとする。これによりイザキはイザナミの悲しみを知り彼女の魂も救われるはずであると言うのである。
橋本雅之はそれに加えて「台本の書き換え」を要求する。この国の精神文化の影の部分の原罪を現す「古事記」そのものの日本神話を率直に受け止め原罪を自覚すれば、日本神話は新しい文化として芽生えてくる可能性を秘めていると述べる。この国の未来はこうした禁忌を破り、見てしまった幻滅から逃走して排除しようとしたこの原罪を自覚することにより作られるのであり、国際的な協調の面からも必要なことであると強調し、恐ろしくもこの原罪の論理に基づく精神文化の書き換えを要求するのである。「古事記」に原罪としての解釈が認められるとしても、もはや解釈論を途方もなく逸脱した論理である。まるでゼウスの荒淫さやアダムの知識の実を食した結果生まれた精神文化の書き換えを要求すると同様の荒唐さである。ハードディスクのようにオーバライトできるはずがなく、精神文化は継承しかつ築き作り上げていくものである。一方北山修は一度限り原罪という言葉を使用しただけで、彼の本意は対話編に述べられているように、世界に多くの「見るなの禁止」の物語があり、これらを踏まえて対象喪失の悲劇が共有されているとする。この処理をどうしているのかにより文化的な宗教的な差が生まれているのであり、全人類的に経験する罪意識の発生論を論じていて話の奥行きが深いのである。
たぶん本書を読む限り、古事記を通じて理解できるのは原罪なる「罪悪感」というより罪意識の欠如はあると思われる。ただ「見るなの禁止」を見た場合の罪意識にも状況に応じた程度の差があるはずであり、西洋における根源的な原罪論にはたどり着かない。そして私の知っている限り問題なのは「源氏物語」における近親相姦の罪、「伊勢物語」における在原業平と伊勢神宮の巫女との禁忌の逢瀬の罪の意識の欠如、またこれらの行為に対する現実的な罰もしくは神罰的な罪が全くないことにある。古典文学の一部しか読んでいないために良く分からないが、禁忌が禁忌ではなくて罪意識もない。むしろ古典文学では逢瀬や密会を楽しんでいるようにみえるのはなぜか。源氏物語における六条御息所の生霊が仏教の思想による源氏への懲罰という説も読んだことがあるが、どうしても理解できないのである。それは本書で述べられている神話に埋もれてしまった罪意識の欠如から生じているのではない、例えば禁じても罰する者が居ない、もしくは禁忌さえ許容するというような全く別の意識構造から生じているのではないかとの強い思いがある。こうした神話から近代文学を通じて日本人の精神構造を解き明かし論じた本を探して読んでみたい。これは日本人の日本人による思想や哲学書に、例えば折口信夫などの思想に案外簡明に記述されているのかもしれない。更にこうした原罪がどうして生じるのか、なぜ神話を通じてさえ読み解かなければならないのか。そもそも人間に原罪が必要なのか、原罪という概念を必要とした人間たちがいただけではないのか、そういう思いも強いのである。ただ、この問題は難しくて深入りしない方が賢明であると思われる。
以上
|
|
|
|
2014年8月8日(金) |
題:ハンナ・アレント著 志水速雄訳「革命について」を読んで |
ハンナ・アーレントの著書を一冊も読んでいないと分かり、本書を選んだのである。読み始めると、彼女の文章は今までに読んだことのない特異で難解な文章である。きっと複雑な論理を展開した文章と言うより、寄り道や余分な言い回しが多く、冗長でかつ修飾語が時々多くなるきっと悪文である。更に拍車をかけているのが、なぜか子細に一字一句読むことを強いるのである。斜め読みして読み飛ばせば、彼女の主張はそれなりに理解できるはずである。こうした読みにくい文であってもその内容を否定するものではないし、悪文であるからこそ良い小説や哲学書などもある。ただ、どうしても読むことができない。結局、私はベルクソンやドゥルーズの詩的に美しい文章が好きなのであって、悪文を読むのは苦手なのであろう。内容を理解せずとも文章を読むことだけを楽しんでいるのかもしれない。従って、本書の感想文は「序」と「訳者あとがき」、解説(川崎修)及び横帯の文章を元に書いたものである。「序」を数回読むと、彼女の文章の癖と同時に言わんとすることが浮かび上がってくる。なお、解説(川崎修)ではハンナ・アーレントの主張や誤解それに思考の手法を含めて、また彼女の思想的な特質について簡潔ながら丁寧に記述している。『 』は引用文である。
本書はアメリカ革命が政治への参加という自由の視点から高く評価できるのに対し、フランス革命はその目的を貧困の除去など社会問題の解決を目指したために失敗したとする、この二つの革命に対するハンナ・アーレントの評価を記述したものである。自由とは古代ギリシアのポリスにおける自由人たちによる政治活動のうちに認めることができるとする。このためアメリカ革命は公的に自由な政治活動を認める革命として意義は高いが、ただ、自らの革命の精神を後世に引き継ぐことができずに結局失敗したとする。アメリカ合衆国憲法を生かすべき、公的な政治参加のできる自由の空間を生み出すことを怠ったためである。結局は小市民的な自由に陥って革命精神を忘れたことを意味する。本書の解くカギは「自由」と述べる彼女の思想そのものの中にあるのだろう。こうした彼女の「自由」の思想の詳細は分からないが、たぶんルソーの市民が公的に政治参加する一般意志と同様であり、政治を自由に語ることのできる自由な空間を示していると思われる。本書をきちんと読めばもっとたくさんのことが分かってくるはずであるが・・。
「序」にて彼女が述べていることは以下の通りである。『イデオロギーはもう現代世界のリアリティの大勢からかけ離れている。これに反して戦争と革命は・・世界の二つの重要な政治課題となっている。・・戦争と革命そのものは生き延びている』のである。そして自由とは『暴政に対する自由である』とし、『自由とは革命の目的』なのである。それなのに『自由と言う言葉そのものが革命家の語彙から消え・・自由の観念が・・戦争と暴力の正当な行使の中心に据えられている』と自由の観念をはき違えていることに怒っている。『戦争が自由の概念と結びついたのは、ほとんど稀である』にも拘わらず、自由の観念が戦争問題の論争に取り入れられたのは、戦争による破壊的手段が合理的に使用できないほど巨大化したために、お題目的にも唱える必要があるためと彼女は主張する。ただ、政治の舞台から戦争の消え去る兆候を読み取ることができ、この理由を彼女は三つあげる。総力戦における軍事部門と文官部門の関係の矛盾、つまり総力戦が行えないために軍事部門が防御者の役割から無駄な役割への変化。二つ目に戦争に敗北して生き残ることの国家はないのであり、例えば日露戦争に敗北によるロシア革命であり、どの国家も滅びる可能性があること。最後に軍拡競争による抑止戦争。実行に移されずに威嚇する傾向にあることである。
そして彼女は『戦争と革命の相互関係、・・この相互関係において重点がますます戦争から革命に移ってきている』とする。さらに『戦争の激情は、革命が解き放った暴力の単なる序曲であり準備段階すぎなかった。・・未来に残るのは戦争ではなくて革命であるというのは確かだろう』と述べる。革命と戦争は暴力を公分母にしており、これらは相互に転化が可能であるが、絶対的な暴力においては沈黙せざるを得ない、即ち『暴力に立ち向かう時には言葉は無力である』という以上に、この言葉を発する能力を政治理論は持っていないのである。本来的な自由を獲得するためには戦争ではなく革命しかないのである。最後に彼女は「自然状態」について述べる。この「自然状態」は十七世紀に諸処の科学者によって国家の成立を論じるための仮説として導入されたが、『自然状態の仮説は、そのあとに続く一切のものからまるで渡ることのできない亀裂によって切り離されているはじまりの存在を意味として含む』のである。この文章の言い回しももアーレントらしくらしいが、このはじまりは『アベルはカインを殺し、ロムルスはレムスを殺した。暴力ははじまりであった』のである。『「はじめに犯罪ありき」・・という信条は聖ヨハネの言葉と劣らないほど自明の真実を語り続けてきたのである』と本書の最後で彼女はこう結ぶのである。この「はじまり」を暴力と捕える以上に、アーレントの著作物を読んでいないために良く分からないが、もっと人間の生誕に関しての意味を彼女は付加しているのかもしれない。いずれにせよ、はじまりがあるからにはいつか終わりが来るであろう。この終わりまでの未来に革命は起こるのだろうか、アーレントの思想とは裏腹に戦争が起こるのだろうか・・。
彼女のこれらの思想に対して一つだけ「確実性の終焉がある」と言いたい。潜在体的なリスクに対する評価をアーレントが行っていないことである。暴力を手にするものはいつでも暴力を使用できる能力を持ち、革命でも戦争であっても使用できるはずである。これらが相互に転化が可能であるなら、本来的な自由を獲得する革命でなくて、戦争にて使用される可能性の方が高い。ただ、必要なのは彼女が述べるように自由を獲得する革命なのである。川崎修は「解説」で、彼女の思想の「挑発性」即ち「異様さ」は失われたとする、ただ本書が持ち続けている少なくない「異様さ」への言及を支持したいと述べる、この支持に期待したい。また彼が述べる『アレントという思想家は、本来、回答よりも問題を与える思想家』という言葉は的を射ている。いずれにせよハンナ・アーレントの著作物は「全体主義の起源」だけでも読んでみたい。彼女がどうしてルソーなどのように分かりやすく、ベルグソンなどのように美しく記述できないのかが分からない。きっと能力ではない何かが、彼女には欠如しているか、過剰であるからに違いない。
―― フランスは遠きにありて思うもの/革命は近きにありて思うもの/はじめは終わりからは断絶していない/審判が下されるその日は/川へと落ちる草野球の球がころころ転がって/魚釣りの糸を遠くに投げて水音がする/まぶしい陽の浮いている日である ――
以上
|
|
|
|
2014年8月1日(金) |
題:ディキンソン著 亀井俊介編「ディキンソン詩集 アメリカ詩人選(3)」を読んで |
予定していた詩集を入手して読んでも感想が殆どなくて、まだ感想を書いていない詩集は「ディキンソン詩集」と「ゲーテ詩集」と「ルバイヤート」しかない。読んだ当時の記憶をたどり、一番面白そうなのはたぶん「ディキンソン詩集」であると思い、この詩集を改めて読み直した感想文である。本書は岩波文庫から発刊されている左頁に英文、右頁に訳文の掲載されている詩集である。編者亀井俊介がディキンソンの生涯と詩の特徴を丁寧に解説しているので感想は簡単に済ませたい。
彼女の詩は魂の悲鳴と救済と希望である。いや救済や希望よりも死と身近に居て、自らの幻想的な恋愛や死が鮮やかなメタフォーにてリズムを伴い歌われている。すると音律良く彼女の小さな魂がこの広大な宇宙の中に解放されるのである。名前はあげないが、日本でも女性詩人の中にはこうした日常に含まれる魂の呟きや悲鳴を歌う詩人が居るけれども、詩の内容は全く異なっている。ディキンソンの詩は細かな感情を描きながら宇宙全体へと繋がっていく奥深さがある。幻想は具体的なイメージを伴い、魂の飢餓感は一杯の水を求め休息し、再び地上へと舞い降りて色を染めた庭へと幻想的な海へと、またこの宇宙の奥へと動き出すのである。
具体的に詩の例をあげると一番良いのであるが、結局八行だけ示したい。「[35]この世界で終わりではない」からの出だしの八行である。「哲学」という文字が入っているから選んだのである。
この世界で終わりではない。
もう一つの世界が向こうにある――
目には見えぬ、音楽のように――
しかし、確かにある、音のように――
それは手招く、そしてはねつける――
哲学には――分からぬ――
そして結局は、謎の中を――
知恵は、通って行かねばならぬ――
編者の亀井俊介も紹介する詩の選択と翻訳には苦労したようである。全部で五十作品は自らの好みで詩を選択したとのこと、訳文は原文にできる限り忠実に従ったとのこと。そしてできる限り原文にて味わって欲しいと述べている。確かに好い詩が選ばれている。ただ、最初の少女っぽい訳文と後半の大人びた訳文との齟齬の撤廃や、もっと原文に忠実であるべきと思うが、詩の訳は難しいのである。ずっと以前、谷崎純一郎の「春琴抄」の英訳文はひどいものであったと記憶している。ランボーの訳文は三冊持っている。いずれにせよ原文にて味わうのが良いのである。英文を眺めていると、自分ならできる限り行単位で訳したいと思うけれども、きっと難しくて訳文は出来上がらないに違いない。ただ訳文と原文とでは明らかに趣が異なることが分かる。意味の分からない単語が少々混じっても、多少韻律は分からなくとも、原文を読むのが最適であると思われる。もう少し、ディキンソンの詩の特徴を記述しようと思ったけれども、記述は難しくて、やはり直接詩を読んで自らの感性で確かめるのが一番である。
―― 詩人は嘘を言うと/ペソアが真実について語るとき/ディキンソンはありふれた意味から/絶え間ない貧困にふさわしく人を/時間の外へと詩人を置いて/真実に財産を与える ――
以上
|
|
|
|
2014年7月25日(金) |
題:ベルグソン著 河野与一訳「思想と動くもの」を読んで |
本書は九編の論文から構成される論文集である。特筆されるべきは最初の二つの論文「緒論」の第一部と第二部であろう。ベルグソン自らの手による思想的伝記である。その他個別に「可能性と事象性」、「哲学的直観」、「変化の知覚」、「哲学入門」と個人を評した「クロード・ベルナールの哲学」、「ウィリアム・ジェイムズの実用主義 心理と事象」、「ラヴェソンの生涯と業績」がある。それぞれの論文が簡単に書かれながらも独特に論じて含蓄があり、ベルグソンの心情も加わって、結構面白い。なお、巻末に「解説」として木田元が、本書の日本語版も加えた成立過程、特に訳者河野与一との章立ての相違の諸事情など、更にそれぞれの論文の記述内容を的確に要約しているので、感想文としては思い立った点のみを記述したい。
1) 本書を読めばベルグソンの思想・概念を割と容易に知ることができる。ベルグソンの著作物を読み始める場合、最初に本書を読むのが良いかもしれない。ただ単純にそうとも言えない所もあり、判断は難しいが、私はできるだけ記述された年代順に読むことにしているので、判断は保留して読む人の自由である。
2) 本書を読むと、ベルグソンがどうして生命と科学とを、空間と時間と、そして直観や運動と変化について論じるその理由が少しながら分かったような気がする。ベルグソンは三種類の観念について語る。この観念の定義については省略。そして『観念を生み出す社会をさらに生み出す生命の躍進に立ちもどった精神の努力は、・・・そこにはすでに神的なものと言うことができる』(92頁)哲学者に亡霊のように付きまとうこの神的な努力が秘密を解き明かしてくれ、この努力こそが生命の持続や、哲学と科学の間、物質と精神などを語らせているのである。そしてきっとベルグソンの語る哲学は生命の源から発生してその懐疑ではない、多様な可能性を含む生命の肯定である。この肯定とも賞賛とも受け止めることのできる哲学が卓越した文章によって納得させられるのである。
3) 「哲学入門」はありきたりの入門書ではなくて難しい。木田元の解説によると、ここに述べられている直観は、つまりベルグソンの直観はメルロ=ポンティによって、変化というより思想の動揺を表わしているとのことである。即ち各著作物により定義が二つに異なって記述されているらしい。詳細は本書の解説を参照のこと。
4) ベルグソンはプラグマティズムのウィリアム・ジェイムズと親交があったらしい。どうりでベルグソンは哲学と科学の違いを述べながら科学の有用性を肯定している。では、なぜアインシュタインの相対性理論を非難したか、その文章が手元にないが、すぐにも手に入らないが、空間と時間に関する定義の問題に他ならない。たぶん、空間化された時間を批判したベルグソンは、時間を意識に与えられた純粋持続と見なしており、アインシュタインの相対性理論における時間は空間化していると判断したのだろう。文庫本では出版されていない「持続と同時性」なる著書にベルグソンは相対性理論について論じているとのことで、機会があれば読んでみたいが、これは物理学と哲学的な感性・知覚論とのまったく土俵の異なる問題とも言えて、不毛に陥る危険性がある。つまり、世界は私の内に在るのか、外に存在するのか、これらを繋ぐ完璧な言語はあるのか、という昔からの問題でもあると思われる。この問題の現状がどうなっているか私はその詳細を知らない。
以上
|
|
|
|
2014年7月18日(金) |
題:エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ著 石崎晴己訳「文明の接近 イスラームVS西洋の虚構」を読んで |
本書は人口学者、人類学者、歴史家であるエマニュエル・トッドとイスラーム圏の人口動態研究の第一人者であるユセフ・クルバージュとの共著である。イスラーム圏では識字率の向上により出生率の低下が起きて人口に影響を与え、内婚共同体家族制度(共同体内部での婚姻が可であり男の子供は妻をめとっても一緒に住むことができる)を解体させている。これは直系家族(夫婦に生まれた一人の男の子供だけが婚姻しても一緒に住むことができる)である西洋がたどった歴史である識字化、脱キリスト教化、出生率の低下と同様の過程をたどっているのであり、即ちイスラーム圏は近代化への変遷の過程の真最中であるとする。従って西洋とイスラームとの種々の衝突や混乱は移行期に生じる危機であり、収斂の軌道に乗っている、これが治まれば移行期の危機は去るとする、きっと人間の歴史の豊かさを確信する著者の楽観的な主張が述べられているのである。
なお本書はイスラーム圏の識字率と人口動態について国別に詳しく述べているが、哲学書でも社会科学書でもなく、きっと調査研究的な内容に少しばかり思想を加えた教養書なのだろうか、分類が良く分からない本である。ただ、経済のグローバル化と人口動態の指摘は大切である。どうもエマニュエル・トッドにはこうしたグローバル化と人口動態とを詳しく結びつけた別の著書があるらしい。当然、家族制度も結びついて記述しているだろう。この著書を読まないとたぶんトッドの広範囲な思想は良く理解できないと思われる。ただ本書の西洋とイスラームとの種々の衝突や混乱は「移行期の危機」とする考え方にはどうも賛成しかねる。なぜならこの人間の長い歴史において「移行期の危機」と称する「危機」は常に生じてきたのであり、それは経済や人口動態に絡みながらも別の要因もあるためと推測される。著者の言うように単に「移行期の危機」であって欲しいが・・。
訳者である石崎晴己の解説がとても鋭くて分かりよくて、刺激的な内容も本書の内容への相応の批判も含まれていて良いのである。それは西洋という視点を転換させる絶対核家族的なアメリカも含んだ視点への転換であり、トッドのグローバリゼーションの思想の紹介であり、「移行期の危機」への批判である。こうして紹介されるエマニュエル・トッドの思想を詳しく知りたいかと問われればそうではないと答えたい。グローバリゼーション以上にイスラームと西洋との対立が歴史性、地域性などを含めた文明と宗教に基づいて、まず論じられるべきと思うためである。つまりこれらの文明によって異なった思考や精神構造があり得るのかどうか、あり得るとしたら衝突が生じるのかどうか、この衝突は何でありどういう結果をもたらすか。私はもっと文明相互の衝突、緩和、融合についての社会科学書的な、もしくは哲学的な思想の記述を求めているのかもしれない。
以上
|
|
|
|
2014年7月11日(金) |
題:フェッリクス・ガタリ著 杉村晶昭=訳「人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて」を読んで |
ジル・ドゥルーズと一緒に仕事をしたガタリと思いながらも、確認するために訳者杉村晶昭の「訳者あとがき」を先に読んでしまったのが悪かった。「訳者あとがき」に本書の内容が丁寧に論述されていて、何を書いているか分かってしまったからである。簡単に言うと、学校などの資本主義的な「集合的装置」が人々の主体を権力に従属させる「記号的従属」を強制しているとする、「集合的装置」と「記号的従属」の関係論を論じた本であり、「言語論と記号論」から解き明かして、ガタリは新たな世界の可能性を求めているのである。
ジル・ドゥルーズおよびD+Gの本は結構読んだはずである。内容は殆ど忘れてしまったが、フェッリクス・ガタリの文章は、ジル・ドゥルーズの文章に比較してぱさぱさと乾いていたことを思い出す。訳文であるため本当のことは分からないが、ドゥルーズの文章の方が味があって私は好きである。確かドゥルーズがガタリはシステムの統一を望んでいるようだという意味のことを言っていた気がする。ドゥルーズはそうした統一を求めていずに、本書のような社会科学的な記述の著作物はないはずである。本書をめくると懐かしい言葉が飛び込んで来る。「抽象機械」、「リトルネロ」、「顔貌性」、「内在平面」、「脱コード化」などなど。しっかりと読もうと思ったが、内容がぱさぱさと乾いていてかつ懐かしい言葉の意味も思い出せず、難しくてさっと読み流した。ただ「反グローバリゼーション」、「語用論」と「カタストロフ」という言葉だけが記憶に残っている。
関心のあるところを少し読み直してみると、無意識は構造的に一貫しているのではなくて、無限に多様であるらしい。この言語と無意識の関係を論じる。資本主義について論じる。構造主義的言語論を批判する。顔貌性を論じる。どうも顔貌性やリトルネロは脱出のための調整機能を有するものらしい。それは袋小路やブラックホールからの脱出のカタストロフのリズムな、前代未聞の大脱出の調整機能であるらしい。そしてこの大脱出の向こうに新たな世界の可能性が広がっているのであり、そのために「言語論と記号論」や「リゾーム」や「ブラックホール」などが、可能性を示唆するものとして記述されているのである。
訳者杉村晶昭が個々人の解釈および実践の重要性を説いておられるので、私の考えを述べて頂かせればドゥルーズがこうした社会学的な具体論をあまり記述しなかったのは、陳腐化する思想の限界とその思想の創造を常に求めていたからであり、文学にこそ処々の問題の提示と解決の感性的な根拠が示されていると判断していたためである。それが思想、即ち概念の創造と繋がっている。たぶん本書は地球規模ではない、ある特定の狭い領域を描いている。言語論や記号論の微細な差異など、その他の論述も興味深く精読したいが、もはや領域が狭すぎて解決に至らない。解決すべきは資本主義社会における自由な主体性の確保であるとするならば、もっと変数を多くして広帯域に考慮しなければならないのである。
前に書いた日記から引用して私の結論とする。『この世界は多数の変数から成り立っていて複雑に運動している。大胆に変数を評価してより重要度の高い変数に絞れば、増殖しようとする貨幣(資本)、そして人間の数にその人間の追い求める生活の質の高さと自由と権利、更に力として経済力と軍事力などがあり、これらが世界の基盤を実的なフローとして揺らがせ動かしているはずである。国家の異常な債務を加えれば、この世界は実的な基盤ではなくて、ある種の虚構の上に成り立っているとも言える。言い換えると世界の基盤は実であっても虚であってもフローとして流れていて常に揺らいでいる。常に基盤は揺らぎ目的を持たずに、貨幣と力によって更に人間そのものによって、それらの恣意的な力学に従属しながら、ダイナミズムなフローとして揺らぎ運動しているのである』
このフローを変えるにはカタストロフのリズムが、それも音階の高いリズムが要求されるというより、自ずとフローの内から変動のリズムが生じてくるのである。ガタリが言うこれらのリズムも結局は自由な主体性の確保はできない。なぜなら「集合的装置」によって主体を権力に従属させる「記号的従属」は、人間が複数の数として生きている限り決してなくなることのないシステムなのであり、このシステムの放棄は生存の放棄そのものに繋がるのである。原始社会ですら少なからず不平等や権力への従属があったのである。カタストロフのリズムが要求されるのではなくて、自然と生まれ奏でられて時には、激しく打ち鳴らさせる琵琶の音のようにフローの内部から湧きあがれば、システムは決壊して新たなシステムの構築を模索する。ただ、その新たなシステムにも「集合的装置」は在るのであり、新たな「記号的従属」が生じることになる。ただ、権力や主体性の色合いはどの程度か分からないが、少なからず色を変えていると予想される。
以上
|
|
|
|
2014年7月4日(金) |
題:安部公彦著 「詩的思考のめざめ 心と言葉にほんとうは起きていること」を読んで |
読売新聞の読書紹介で知り読んだ本である。この本に紹介されている半分以上の詩人を読んでおり、好きな詩人も結構おり、著者の言わんとすることも分かる良い本である。ただ、著者の言うように「詩的」という言葉が本来の意味を、この本を読むことによって誰もが分かるかは少し疑問符がつく。なんといっても、詩にはさまざまな種類があって広範囲であり、ここに紹介されている詩はそのほんの一部にすぎないからである。ただ、著者の主張は一部を除いて納得できる。きっと著者は主張を理解出来得るための、少ないながらそれなりの材料を揃えてあるはずであり、また、どうも少しばかり私と感性が似ているような気もする。
著者の考えを簡単に紹介する。詩はまだ名づけられないものとの出会いであり、聞くのではなくて聞こえてくるものであり、並べられた列挙された言葉であり、声に出さない声であり、また詩は歌であり、歌うことが恥ずかしいこともあり、言葉の修羅場でもある。では詩を読むとは、動詞や形容詞の振舞いであり、言葉に取りつかれた言葉の服装であり、私のどこに居るかの位置であり、絵の具のように言葉を汚すものであり、よそ行きの言葉であり、目に見えない型であり、世界を尋ねることであると著者は言うのである。そして、萩原朔太郎、伊藤比呂美、西脇順三郎、田原隆一、谷川俊太郎のそれぞれ一遍の詩を解読するのである。
谷川俊太郎以外の詩の解釈は納得できる。ただ、解釈されると妙なもので癖なのか反対意見を述べたくなるが、それほど齟齬があるわけではない。詩は自らが読んで自らが楽しむものであり、それを散文にて子細に説明されるが嫌いなためであろう、これらの詩人の著者による解釈は穏当でありきっと正当である。ただ、谷川俊太郎の詩を言葉や詩を信頼していない、部分と全体を説いているとする解釈も穏当でありながら、私の解釈とは異なっている。たとえば「二十億光年の孤独」では二十億光年との言葉を冠することで孤独とその深さを示しそうとした軽質な言葉の表現である。こうして彼は言葉の配置転換や置換を行うことによって言葉の詐欺を行うのであり、本質を表すことのない言葉を翻弄し並べることによって偽善の詩の風景を作るのである。私はエミリ・ディキンソンのような小さな呟くような言葉であっても真実が語られるのが好きである。ただ、配置転換された言葉に騙されることが心地良いのか、並べられた言葉の音律に弄ばれ快感に酔ってしまうのか、何も表していずとも何らかの感性的な表現を感じ取る人のいかに多いことか。そうした人々が多いからこそ、日本において職業詩人として成り立っているのは彼ぐらいであるらしい。もしや彼の詩には大勢の人に共感させる言葉としての卓越した表現を含んでいるのだろうか。それなら彼は言葉の詐欺師ではなくて、肯定的な評価として言葉の魔術師と呼ぶべき者であろう。良く分からぬことでもあるが・・。ただ、私は彼の詩の一遍を仕方なく読むことはあっても彼の詩集の全部の詩を読むことはないはずである。最初にも述べたように、詩にはさまざまな種類があって広範囲であり、どの詩を読み好きになるのも各人の自由である。
著者の意見と大幅に異なるのは現代詩である。現代詩は言葉間の距離を離してイメージを拒絶するのであり、無秩序な言葉の並びが何も語っていずとも、何かを語ろうとしようとも、理解を拒絶した言葉だけが並んでいる詩であると私は思っている。谷川俊太郎を現代詩人と称している著者は、どうも古い現代詩の感覚を持ち合わせているらしい。無論、現代詩も多様な形態を持ち得る。さらに言わせてもらえば、言葉の好い匂い、絵画的なもの、思索的な詩や諧謔的な詩もあるのであり、これらこそ日常の詩であり紹介して欲しい。また詩は死の身近にあると言うが、逆に言えば生の身近にあるものであり、詩は生を肯定するダイナミクスであると捉えても良いはずである、というより叙事詩などは無論、他の詩人の中にもそうした考えに基づいて活力に満ちた性を含む生について綴っている多くの良い詩がある。
また著者が言うには、私そのものが西脇順三郎の詩では隠れていて、その他の詩人では西洋の詩の因果律に従い、私なる主体が大いに語っているとのことであるが、私はこの西脇順三郎の手法が好きである。きっとこれからは、むしろ主体は語らずに隠れてしまう。私の知覚は本物か偽物か分からないまま私なる主体がなくなってしまうとも、「聞こえてくる」「匂ってくる」「見えている」ものそのものが詩として記述され得るはずである。私という主体の心情や視線を排したこうした風景の描写のような記述手法が詩の向かうべき方向だと私は勝手に思い込んでいる。それにしても著者が述べるように、自らの感覚に合う詩人は残念ながらとても少ないのである。
以上
|
|
|
|
2014年6月27日(金) |
題:西川潤著 「新・世界経済入門」を読んで |
著者の独自の見解が多少含まれていて異論を述べたくなる時もあるが、世界経済を多角的な視点で、現実のデータを多数用いて世界経済を分かり易く説明している点では、非常に良い本である。大いに参考になったのである。そして私の思い描いていたことに少しばかり輪郭を与えてくれた著者には感謝申し上げたい。
まず本書はグローバル化の進行に目を向ける。このグローバル化は世界経済の大元なる貿易、投資、通貨に影響を与えるものである。そして更に国家の債務危機、人口の移動や人権問題などなど、通貨体制と基軸通貨、これらについてデータを示しながら説明した後、本書はこの世界経済を成り立たせているこの地球の基礎的なデータに目を向ける。それは100億人になるはずの人口である。今でさえシビアな食料とエネルギーと難民問題、今までの国家間の南北問題に加えて国内で生じる南北問題である貧富の格差、テロリズム、軍事化などなどの問題。こうして著者は市民運動、市民社会の提唱と定常経済の重要性を指摘する。定常経済とは高度成長を追求するのではなくて、人口増加に見合った分だけの資本の蓄積を前提とした社会発展である。これは良い生き方を求めることであると著者は述べる。ただ、北欧などでは少しは実現しているかもしれないが、こうした定常経済の考えは理想論に近く、著者が指摘したさまざまの問題のほんの一部にしか解決を与えない。人間の本性についての考察が欠けているためであり、まさに人間の渦巻く欲望を考慮に入れていないためである。この複雑に絡み合った世界の現実的な解決策か、もっと大胆な発想の転換された実行策が、概念として示されていると良いのであるが、それはとても難しいことでもある。
著者が示すように、この世界は多数の変数から成り立っていて複雑に運動している。勝手ながら大胆に重要度の高い変数に絞ると、増殖しようとする貨幣(資本)、そして人間の数にその人間の追い求める生活の質の高さと自由と権利、更に力として経済力と軍事力などがあり、これらが世界の基盤を実的なフローとして揺らがせ動かしているはずである。国家の異常な債務を加えれば、また兌換物たる貨幣を実ではなくて虚と捕えれば、この世界は実的な基盤ではなくて、ある種の虚構の上に成り立っているとも言える。言い換えると実であっても虚であっても、この世界の基盤はフローとして流れていて常に揺らいでいる。著者が述べるように目的を持っていればよいのであるが、常に基盤は揺らぎ著者の述べる高貴な目的を持たずに、いや、ただ自己増殖という単純な目的だけを持って、更に欲望を携えた人間そのものの本性によって、貨幣と力によって、それらの恣意的な目的に従って、秩序を保とうと装いながらダイナミズムに運動しているフローなのである。
このフローが何かによって変動する時きっと破綻を生じさせる。フローが防波堤たる堤防を越えれば氾濫が高じて秩序をかき乱し破綻を生じさせる。この破綻が大きければ、きっとこの世界における意味と権利と自由の剥奪であり得る、むしろ生命の隷属と破壊であると言うこともできる。それはもはやフローの変動ではなくて、フローが量を増して氾濫が治まらないカタストロフィーでもあろう。この基盤のフローの氾濫は歴史的な差異を伴った反復であり、因果律に基づく出来事でもある。政治的に言えば、ハンナ・アーレントが言うように多様な物の見方を失った時に生じる、それぞれのどれもの値打ち、価値や思想に概念の不均衡ではなくて、一極化して突撃するフローでもある。また別に考えれば一極化とは正反対の多方面に噴出する多極化したフローにもなり得るであろう。政治ばかりではなく経済やその他の変項としてフローを見た場合も同様の現象が生じるはずである。こうして世界の基盤が流動している諸変数がほぼ理解できたのは本書のおかげである。私的な考えによると、これらの変数の絡みと出来事への因果は項を絞った多数項の式として社会科学的に表し得るはずである。ただ、この式を追求する目的と、この式から求める解が何であるか定めなければならない。いずれにせよ、式を作るとすれば、最初の解としては氾濫の生じる閾値を求めることであろう。
なお、変数としては次の項目などが考えられる。変数は各国、または地域の値を取る。この値は全体の値との比較、比率において採用する。また、フローの変化量を最重要視する。きっとこの式の値は各国、または地域の破綻度、または政治経済的なリスク度を表すことになるだろう。破綻の生じる閾値については一意的に決定せず、レベルとして示すことも可能である。なお「閾値の哲学(仮称)」として哲学的な表現可能と思われるが、その表現言語は抽象言語を用いて、フローの概念のみの抽象化した記述とするべきであろう。むしろこの式は式としてよりも社会科学的な、哲学的な概念として表現されるべきものであるのかもしれない。
1. 流動する貨幣(投機マネーや投資資本)の量や債務量及びその変化量
2. 経済力の量及びその変化量
3. 軍事力の量及びその変化量
4. 全人口の量と貧民の量及びその変化量
5. 自由の量及びその変化量(思想、信条などの表現や行動の自由の量)
6. 権利の量及びその変化量(生存権、社会保障費などの量)
7. その他
以上
|
|
|
|
2014年6月20日(金) |
題:ウィトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳「論理哲学論考」を読んで |
難しい本だと思って放っておいたら、読む本がなくなってしまい結局読んで見ると、とても関心深い哲学的な諸問題が述べられていて、魅力にあふれる良い本だと気づいた。論理学も初期の論理学で難しくはなくて、記述される諸命題もそれまでに抱えていた哲学的な諸問題が一刀両断され簡潔明瞭に解決されている。ただ理解するのはやはり難しい。フレーゲやラッセルの批判の書でありながら、バートランド・ラッセル自身の丁寧な解説には興味深いものがある。ただ、ウィトゲンシュタイン自身が本書に深刻な誤りを認め、その後の彼の思想は変遷して行くらしいが、その後の著作物は読んでいないために、この誤りはラッセルにより指摘される倫理と言語と総体もしくは限界の問題としておこう、よく分からないからである。ウィトゲンシュタインは1889年に生まれ、1951年に死亡。「論理哲学論考」は1918年に完成。そして死後まとめられたのが後期の思想「哲学探究」である。
どう感想文を書こうか迷ったが、六項ある一番目の項番の命題を記述し、訳者野矢茂樹さんには申し訳ないが、その後特に重要と思われる項のみを引用して、それらに何が記述されているのかを自分なりに簡潔に解釈して示したい。引用部は『 』で示す。なお訳者解説として野矢茂樹さんが主要な思想を明瞭に解説しているので、そちらを読んだ方が良く分かるはずである。また、訳注も丁寧に分かり易く記述されていて大いに役立っている。なお序にて、ウィトゲンシュタインは、本書は哲学の諸問題を取り扱っており、この諸問題は言語の論理の誤解から生じていると述べている。彼にとって本書は思考ではなくて、思考された表現に対して限界を引くものなのである。限界を超えた思考の両側の領域で思考ができなければ思考に限界を引くことはできないと彼は言う。従って、思考ではなくて表現たる言語において限界が引かれるのである。
なお、ウィトゲンシュタインの使う言葉は、「世界」、「事実」、「事態」、「対象」、更に「実体」、「像」、「構造」、「写像形式」、「論理形式」、「論理像」、「思考」、「命題」、「写影方法」、「命題記号」、「意味」、「名」、「複合記号」、「単純記号」、「原始記号」、「表現(シンボル)」、「形式と内容」、「定項」、「変項」、「値」、「論理文法」、「記号言語」、「定義」、「真理関数」、「真理概念」、「論理形式」、「内的性質」、「内的関係」、「形式的性質」、「形式的概念」、「要素命題」、「トートロジー(同語反復)」、「真理根拠」、「確率命題」、「真理操作」、「無限公理」、「知覚」、「経験」、「独我論」、「零位法」などなどがある。これを見れば、彼が何を言わんとしているは、薄々感じ取れるのである。少しずつ分からぬまでも記述していこう。なお、これらの言葉の意味は必要があれば記述していこう。
一 世界は成立していることがらの総体である
『世界は諸事実へと分解され、論理空間の中にある諸事実、それが世界なのである』
ウィトゲンシュタインが言うには、世界は現実に成立している論理空間上の事実の総体と定義される。なお、論理空間とは論理的に可能な事態の総体のことである。
二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
『事態とは諸対象(もの)の結合である。また対象(もの)は事態の構成要素になり得る。この対象が世界の実体を形作るのである。ただ世界の実体が規定し得るのは、ただ形式のみであり、実質的な世界のあり方ではない。世界のあり方は諸対象の配列によって構成されるものである。実体は形式と内容からなる。諸事態の成立・不成立が現実である。この現実の全体が世界である。像は論理空間における諸事態の成立・不成立を表し、現実に対する模型である。像の要素は像において対象の代わりとなる。像の結合を構造と呼び、構造の可能性を像の写像形式と呼ぶ。いかなる形式の像であれ現実と共有していなければならないもの、それが論理形式、すなわち現実の形式である。写像形式が論理形式であるとき、その時論理像と呼ばれる。すべての像は論理像でもある。像は現実と一致するかしないかである。すなわち正しいか誤りであり、真か偽かである。ア・プリオリに真である像は存在しない』
ここで述べられる事態とは起こりうる可能性であり、事実は現実に起こっていることである。結合しまた構成要素になり得る対象が世界の実体を形式的に、または秩序だって配列されることによって、実質的なあり方を成り立たせている。こうしてウィトゲンシュタインは像という概念を述べる。この像とは思考、言語、命題と理解できる。この像はいかなる形式であれ論理形式を現実と共有していなければならない。なお、論理形式とは対象がどのような事態の内に現れうるか、論理的可能性の形式のことである。像の真偽とは像の意味と現実との一致・不一致であり、真偽を知るためには像を現実と比較しなければならない。この像なる思考、言語、命題は現実の模型であり、構造を持ち現実を写像する。この像は論理的なものである。むしろ正確な写像を行うことができるように論理的な言語なのでなければならない、これがウィトゲンシュタインの主張である。
三 事実の論理像が思考である
『可能な状況を射影するものとして命題という知覚可能な記号(音声記号、文字記号、等々)を用いるのであり、思考はこの命題おいて知覚可能な形で表される。そして命題とは世界と射影関係にある命題記号である。命題に含まれるのは意味の形式であり内容ではない。意味を表現できるのはただ事実だけであり、名の集まりではない。なお、命題に含まれる単純記号が名である。そして対象に対して名を与えることができ、記号は対象の代わりをする。対象について語ることはできるが、対象を言い表すことはできない。命題の意味を特徴づける命題の各部分を表現(シンボル)と呼び、表現は形式と内容を特徴づける。表現は一般形式において当の表現は定項となり他は変項となる。この変項の確定こそがその変項の実質であり、値を確定することが諸命題を記述することである。日常言語の誤謬を避けるために、論理的文法を忠実に反映した記号言語を用いなければならない。命題は本質的な側面と偶然的な側面を持つ。命題は論理空間の中に一つの領域を規定する』
ここでウィトゲンシュタインは記号と命題との関連について述べる。知覚可能な記号によって命題として思想が表現可能なのであり、また世界を命題として射影できるのが命題なのである。さらに名と表現について定義する。名は命題の要素なのであり、要素として新たな命題を構成する作業を構成することができる。そして記号は対象について語ることはできるが、対象を言い表すことはできない。つまり、言葉は対象を明晰にその性質について雄弁に語り続けることができるが、対象そのものの全体を言い表すことは決してできないのである。きっと対象は示すべきものであるのかもしれない。定項と変項とは数学における定数と変数を思い浮かべれば良い。変項に値を定めれば数式を解くことができる、即ち命題を作成できることなのである。なおここでも著者は論理的に表現可能な言語の必要性を説いている。
四 思考とは有意味な命題である
『命題の総体が言語であり、思考は言語で偽装する。すべての哲学は「言語批判」である。ラッセルの功績は、命題の見かけ上の論理形式が必ずしも実際の論理形式になっていないことを示した点にある。命題は現実の像である。命題はそれが真であれば事実がどのようであるか[すなわち論理的領域の範囲]を示す。そうして事実がかくかくであるということを語る。命題はわれわれに新しい意味を伝えることができる。命題の可能性は記号が対象の代わりをするという原理に基づいている。現実は命題と比較される。命題は現実の像であることによってのみ、真か偽でありうる。否定命題は否定される命題と別の論理的領域を規定する。真な命題の総体が自然科学の全体である。哲学は自然科学ではない。哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化であり、ぼやけた思考を明晰にし、限界をはっきりさせなければならない。対象や事態の形式的性質について、あるいは事実の構造の性質(内的性質)について、形式的関係や諸構造の関係(内的関係)について論じることができる。同様に形式的概念についても論じることができる。命題変項は形式的概念を表し、その値はその概念にあてはまる諸対象を表す。論理型式には数が欠けている。すべての真な要素命題の列挙によって、世界は完全に記述される。真理条件の可能な組の中に、トートロジーと矛盾という極端な場合がある。命題は要素命題の総体から導かれるものですべてである』
ここでウィトゲンシュタインは命題と現実との関係を示す。命題は現実の像であり、先に述べた論理形式によって命題の要素として対象と名の論理形式も明らかになり、これらを用いた有意味な命題の構成もできるのである。これは論理形式が明らかになった論理空間上の真理操作によって行われる。そして、真と偽、さらに否定命題へと話を移していくが、命題の真や偽の領域の取り出し操作である真理操作の話に他ならない。更に話は哲学に移って行くが哲学の役割は上述している通りである。形式的概念とは形式的性質という語を用いたと同様に導入可能であり、旧来の論理学上における狭義な概念と混同を避け区別する必要があるからであり、この形式的概念は命題変項によって表される。即ち変項は形式的概念を表す記号となるのである。つまり変項とはすべての値が共有する一定の固定された形式を表しており、これはこれらの値の形式的性質とみなしうるからである。この形式的な概念は関数や集合によって表されるのではなくて、今まで述べて来たようにただ変項によって表されるのである。こうしてウィトゲンシュタイは要素命題という文脈に現れる、名について言及し、真理値表を用いてトートロジーと矛盾について説明するのである。こうして最後に、一般的な命題形式は一つの変項であると述べるに到る。
五 命題は要素命題の真理関数である
『真理関数は一列に順序づけられる。これが確率論の基礎になる。現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。未来の行為をいま知ることはできない。ここに意志の自由がある。矛盾は諸命題の外側の限界であり、トートロジーはその空虚な中心点である。できごとは起こるか起こらないかであり、中間は存在しない。確実性を欠けるところでのみ、われわれは確率を必要とする。確率命題は諸命題を抜粋したものである。諸命題の構造は互いに内的関係にある。この内的関係に照明を当てるには、命題を操作の結果として、すなわち、他の諸命題(操作の基底)からその命題を構成する操作を施した結果として、表せばよい。否定、論理和、論理積、等々は操作である。真理操作とは、要素命題から真理関数を作る方法である。論理においてはすべてがひとつひとつ自立している。それゆえいかなる類別も不可能である。論理の問題の解決は単純であらねばならない。もっとも一般的な命題形式の記述は、論理における一つの、そしてただ一つの一般的な原始記号を記述することである。ある意味でわれわれは論理において誤りえないのである。完全に一般化された命題によって、世界をあますところなく記述することができる。要素命題の総体によって課せられる世界の構造の可能な範囲こそ、まさに完全に一般的な命題が限界づけるものにほかならない。経験的実在は対象の総体によって限界づけられる。限界は再び要素命題の総体において示される。世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。この本のなかで論じることができない唯一のもの、それが主体である。主体は世界に属さない。それは世界の限界である。自我は「世界は私の世界である」ということを通して哲学に入り込む』
ここでウィトゲンシュタインは簡単な論理式を用いて説明する。それは確率であり因果でありできごとであり、世界であり主体であり知覚であり独我論であり、秩序であり限界である。なお、真理関数とは真偽を入力して真偽を値として出力する関数である。独我論とは私と他者の比較に際し、他者の存在を否定し自分だけが存在すると主張することである。後半で、私と世界、そして主体、限界との関係が論じられている。すなわち私の言語の限界が私の世界の限界なのである。対象の総体によって限界づけられるこの対象は名によって表わされるものである。要素命題はこの単純な記号の名から表される。即ち対象は要素命題の総体によって限界づけられることでもある。この名と対象の組が私の経験する世界であり、即ち要素命題を記号の名として表す記号とは私の言語であり、この言語が私の世界の限界となるのである。思考する主体は世界の中の対象ではない。なぜならこの世界と身体とその身体の部位との関係をすべて語り得ないからである。主体は世界に属さず世界の限界でもある。関係が対象と対象の対応を通した関係が、即ち記号を通じて像が物語る事実が重要なのであり、意味的関係を持つのである。独我論による自我は広がりを欠いた点まで縮退し、自我に対する実在が残されるだけであり、この自我は「世界は私の世界」として哲学に入り込む哲学的自我であり、魂や心理学的な主体ではなく形而上学主体となるのである。
六 真理関数の一般形式はこうである[P(-)、ξ(-)、N(ξ(-))]これは命題の一般形式である。
『これが語っていることは、すなわち、いかなる命題も要素命題に操作N(ξ(-))をくりかえし適用した結果である。数は操作の冪である。数という概念は数の変項である。論理学の命題は何も語らない。(それは分析命題である。)論理学の命題がトートロジーであることは、言語の、すなわち世界の、形式的――論理的――性質を示している。論理命題は世界の足場を作記述する。というよりむしろ、それを描き出している。名が指示対象を持ち、要素命題が意味内容をもつことは、論理命題において前提にされている。そしてそれによって、論理命題は世界と結びついているのである。論理は記号を本質的に必要とし、その記号がもっている本質的特性それ自身が、自らを語るのである。論理学は学説ではなく、世界の鏡像である。論理学の探求とは、[可能な]すべての法則の探求に他ならない。そして論理学の外では、いっさいが偶発的である。因果律とは法則ではない。法則の形式である。理由律、自然の連続原理、自然の最小消費の原理、等々、これらのすべての命題は、科学の命題に与えうる可能な形式をア・プリオリに洞察したものにほかならない。いかなるできごとの経過も「時の経過」なる何ものか――そんなものは存在しない――と比較することはできない。できごとの経過はただ他のできごとの経過(たとえばクロノメーターの動き)と比較しうるのみである。それゆえ時間的な過程の記述は、他のできごとの経過に依拠してはじめて、可能になる。世界は私の意志から独立である。世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。命題は[倫理という]より高い次元をまったく表現できない。倫理的なものの担い手たる意志について語ることはできない。永遠を時間的な永続ではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。語りうること以外は何も語らぬこと。私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。語りえぬものについては、沈黙せねばならない』
ここでウィトゲンシュタインは形式と操作の観点から数と論理学や自然科学について述べる。なお真理関数の一般形式を示して示されているP(-)は要素命題の集合である。ξ(-)はなんらかの命題の集合を表しており、N(ξ(-))はそれらの命題を否定し論理積で結ぶ真理操作を表す。こうして要素命題を基底として、操作Nを繰り返し行うことによって、次々に新しい命題が構成されることになるのである。数はこうした操作の回数である。論理命題は名が指示対象をもち、要素命題が意味内容をもつことにより、世界と結びつき世界を描き出している。このようにしてウィトゲンシュタインは世界の記述形式としての数学、物理、時間、生命に関して述べる。更に倫理について触れる。この世界と生に関して述べる。そして最後に、語りうること以外は何も語らぬこと。・・語りえぬものについては、沈黙せねばならない、として本書の記述を終わらせるのである。
それにしても、「論理哲学論考」を読むと論理を取り扱いながら、一つの宗教教義書を読んだような気がする。哲学が取り扱うべき諸問題を切れ味鋭く裂いて簡潔に述べているからであろう。本書が今なお妖しい光を輝かせていると言われているのはこうした理由からと思われる。結局ウィトゲンシュタインは何を言いたいのだろうか。いろんな説があるが、まず単純に表現たる言語においてこの世界の限界について述べていると理解しておこう。
―― 論理考妖しき光に染まる空の間 ――
以上
|
|
|
|
2014年6月13日(金) |
題:月本昭雄著 「この世界の成り立ちについて 太古の文書を読む」を読んで |
本書は旧約聖書、十二預言書、ギルガメシュ叙事詩などを読み解き記述したものである。読売新聞にも何回かに渡って掲載されていたらしい。ただ、新聞にて読んだ記憶はない。結論から言うと、旧約聖書、預言書は殆ど読んだはずであるが、私の記憶は薄れている。そのため知らないことが記述されていても、読んだ記憶があって懐かしい文章に触れても、やはり本書は断片的に掲載されていて、新しい記述も加わったためか、全体的な整合性を欠いている。この世界の成り立ちと命題されているが、この成り立ちそのものがよく分からなかったのである。つまりこの表題が良くなくて、この世界の神話的な成り立ちよりも、旧約聖書や預言書などに記載されていることを断片的に紹介した本である。それも現実の実話も結構加えているため、分散した取り止めのない記述になっている。
本書の冒頭にて朝鮮独立運動に絡み若くして死んだ詩人の詩を著者が紹介している。詩がたやすく書けるのは恥ずかしいことだ と詩人が嘆く時、それは人生が生き難いために生じることであっても何も恥ずべきことでないと私は思う。嘆かせる出来事の、その事柄をあふれる言葉でもしくは簡潔な言葉で記述すれば良いと思われる。そうは言ってもたやすく書けない事があるのか、たやすく書けることがとても苦しいのだろうか、きっとそうした思いに捕われることもあるに違いない。この詩を掲載した著者の意図は人間の罪故に人間の支配欲故に自然が滅んでゆく、預言書と同等の澄み渡る言葉として紹介したに違いない。著者の思いは分からないでもないが、私などは横道に逸れ枝葉に触れて語ることが嫌いであり、つまり論述的な記述の方が好きであり、更に紹介されている詩はそれなりに良いが、私は心情を吐露するよりも動く絵画のようなダイナニズムな詩が好きである。そう言えば思い出したのが丸山豊の詩である。彼はとても良い詩を書くが、戦地から帰って数十年の苦吟の後にやっと記述できるようになったのである。詩をたやすく書けるのは恥ずべきと言う詩人の思いは丸山豊の心情に通じるのであろうか。良く分からないが、書けることと書けないことは異なるはずである。ただ私の言いたいのはなぜこの詩が引用されているのか、著者の趣旨が本書の構成の観点からも良く分からないことである。
ともかくずっと以前に十二預言書は岩波文庫からまとめて発刊されていたと記憶している。預言書がなぜか数冊しかなくなり、このまとまった十二預言書を数年前購入しようとしたら、無いのである。セット売りされているはずがないのである。エレミヤ書とヨブ記などが好きだったため、これらを単独で買うしかない。私の記憶は虚構だったのだろうか。それはそれとして、ギルガメシュ叙事詩はすごく良い。本書はこの世界の成り立ちを断片的ではなくて、断片を埋めイメージを掻き立てる文章を挿入して物語的に記述すれば良かったと思う。また、この世界は各国、文化圏において成り立ちは異なり、これらの相違がなぜ生じたのかについて含め論じた文化論の本であれば私にはとても読み応えがあったはずである。
以上
|
|
|
|
2014年9月4日(木) |
題:矢野久美子著 「ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者」」を読んで |
良い本である。ハンナ・アーレントの生涯とその思想が簡潔明瞭に、理知的に淡々と記述されている。確かハンナ・アーレントの本は数冊読んでいるはずが、どう探しても記述したはずの感想文がでてこない。本書においてアーレントの著作物を確認したが、やはり知ったものはなかった、つまり読んでいないことが確実で、本書に示されているアーレントの著作物からどれを読もうかと思案している。ただアーレントの著作物は難解とも言われており、読んで見たい気もするし読まずに避けたい気もする複雑さがある。ただ、本書を読んだことで、代替えすることもできるはずであるとは言い過ぎながら、本書はきっとアーレントの思想の核心はきっちりと捕えているはずである。
この本はアーレントの生い立ちから始まり、詩と哲学が好きな少女が成長し、ハイデッカーなど何人かの師の下で哲学を専攻するが、ユダヤ人であるが故にナチの影に怯え、実際にフランスの収容所にも収容されるが、何人かの夫との出会いや、幾多の友人と知り合い、アメリカに渡ったニューヨークでの精力的な活動、アイヒマン論争などにおける著作物への非難、友人たちとの絶縁、そうした辛苦に中にも変わりのないヤスパースとの師弟愛、人間を尊厳する思想の活動家としてのハンナ・アーレントの生涯が的確に捕えられている。本書は、アーレントを「政治哲学者」と記述しているが、哲学者に政治という文字を加えることによって、より一層アーレントの政治と闘う姿が浮き彫りになる。著者はアーレントの感情や思想を最初控えめにアーレント自身の詩などを通じて記述しているが、著者自身の自らの思いを加えた記述に静かに変化していく様子は、著作物の紹介にしても簡単な文章ながら信念を持つ著者の冷静な解釈として、とても説得力を持っている。
本書の内容を紹介することは越権行為であると知りながら、簡明に本書を読んだ限りの理解において、二点ばかり紹介したい。一点目はアーレントのきっと思想の核心である。この世界はさまざまな物の見方によって、さまざまな表現、人間の複数性「誰であるか」の実現によって他者との関係性においてリアリティを成立させているのである。これは公的に共有されている世界である。このリアリティは社会の勃興により、きっと工業社会の進展によって、「誰であるか」を表す行為が規制され、むしろ必要性がなくなり、私的にしか、つまりそれぞれの家族的な他者とは呼べぬ親密な他者との関係の問題へとおとしめられる時、消滅するのである。
つまり公的な世界で保たれていたリアリティが、新たな社会の勃興によって私的な世界へと矮小化され、この世界は多様な物の見方を失った無世界になることでもある。この時大衆は複数の経験をし得る世界を失った無世界において行動するという、イデオロギー的にも危険な役割を果たすことになる。なお、社会は平等であることが前提であるが順応主義が生じて、巨大家族のように振る舞うと要求してくるらしい。この「誰でもない者」による支配、つまり「無人支配」は官僚制によって成され得ると著者は紹介している。もう一点紹介すべきことは、アイヒマン事件である。つまりアイヒマンは悪の権化ではなくて思考の欠如した凡庸な男であり、ユダヤ人評議会は輸送するユダヤ人リストを作成して協力していたと記述し、多数の友人からも絶交されたらしい。アーレントにとって、悪とは普遍的な正義に対する概念であり、イスラエル国家の利害とは一致しない人類的な問題だったのである。
それにしても、本書で紹介されているアーレントやブレヒトの詩は好い。一度目を通してみたいものである。なお、ジュリア・クリステヴァが記述した「ハンナ・アーレント 〈生〉は一つのナラティヴである」も既に読んでおり、機会があれば感想文を掲載したい。本書はハンナ・アーレントをあまり知らない者も読むこともできる簡明な記述であり、ジュリア・クリステヴァのアーレント論は少し哲学的な知識を要求する、存在論などの哲学的な記述も含んでいる長めの本である。
以上
|
|
|
|
2014年5月30日(金) |
題:いとうせいこう著 「存在しない小説」を読んで |
読売新聞の本の紹介で知り読んだ本である。最初、フェルナンド・ペソアの短文二行が載っていて、ペソアの詩が好きだから期待して読んだが、全六回のうちまず第一回の短編小説「背中から来て遠ざかる」を読みすぐに挫折してしまった。汽車に乗っている男が過去の思い出に浸っているようであるが、少しも関心を引かないのである。後はぱらぱらと捲って読んだのではない、少しの間眺めただけで、能楽堂には結局たどり着くことができなかったのである。
「存在しない小説」も「存在する小説」もどういう発想なのか分からないが、小説に存在論的な思いを込めるのは良くないと思う。いずれにせよ書かれていて手に触れて読むことができるからこそ、その小説は存在するのである。カフカが自らの小説を廃棄するように望んだが、残された者が廃棄せずに読むことができたのは幸運でも不幸でもない。なければ無いと知らぬままに過ごすであり、在るから読むことができるのであって、この在ること自体に意味を見出すことはできない。無論、存在するカフカの小説の内容に意味を見出すことはできる。いわば著者の思考は生れ出ることのなかった「存在しない私」と今現在生きている「存在する私」の違いの理由を問うているようなものであり、「存在する私」が居るからこそその理由を問うことができるのである。読まれることのない小説も著者は「存在しない小説」と分類しているようであるが、読まれていなければ存在していないことと同じである。孤島にたった一人に暮らすロンビンソン=クルーソーのような存在の本であり、フライデーという読者を得て存在が可能となる。新たな他者との共存によって「存在する小説」となることができるのである。即ち過去の小説や絵画が見出されて新たに評価を受けるように、他者と感性の共感や齟齬によって存在を露わにする可能性を持っているに過ぎないのである。
むしろ人間の歴史は膨大に埋もれたもの、きっと現れ出ることの無い「存在しないもの」の上に成り立っている。もう完全に消滅して探そうとしても見出すことができない消え去ったものの多くが、少しは残滓として形態を残して地層を形成していること、また「存在するもの」に少なからず影響を与えていたその可能性について私は信じたいし、かつそうした残滓から成り立つ地層があると確信している。ただこの地層は考古学的な発見の礎になることはなくてもはや一欠けらの化石も見出すことのできない幻の地層でもある。私はこぜわしくちまちまと「存在する小説」や「存在しない小説」考えるのは嫌いである。本質を含めた書物の存在論としてその思想を論述的に論理的に展開すべきであると思われる。
そういえば消滅するという言葉で思い出したのが大江健三郎の「晩年様式集 イン・レイト・スタイル」である。ちらっと眺めただけで感想文は書かなかったが、たぶん記憶では「私は死ぬが、私たちは生き続けることができる」という最後の文章である。中身は読んでいないために断言できないが、これは私の希望を託しているだけであって、むしろこの世界の状況は悪化し続けている。残された唯一の希望なる拠り所にしがみ付いて生き続けなければならないとする、もう死ぬのを待つだけの人間の持つ切なる希望を絶望の代わりに表現したのであろう。「水死」ではだいぶ批判した感想文を書いた記憶がある。最近、新聞に「こころ」を読んで感銘したとの記事が掲載されていたが、「水死」での夏目漱石への嫉妬心は半端ではなかったはずである。きっと軍国主義と殉死とに関係があるのだろうが、作家が政治活動を行うとしたら、どうして人権問題に関わった活動を第一義として行わないのかとても不思議である。きっと表現の自由の問題こそが生と死を切り分ける人権問題以上に彼にとっては第一義の問題であるに違いない。
昔サルトルが「実存主義にとってヒューマニズムとは何か」を読んで、個人がアンガージュすることは世界をアンガージュすることであるとの記述が浮世離れしていて哲学とは思われず、唖然としながら妙に感服した記憶がある。きっと個人は日々に生活を送りながら、世界を動かしているのである。そう思えば馬鹿馬鹿しくともこの日常の詰まらないことにも希望が持てるに違いない。いやアンガージュせずとも日常の小さな詰まらないことにこそ希望を持つことができるのである。そして希望とはきっと絶望と言い換えることができて、その逆もまた可能なはずなのである。これらの日常に個人は世界をアンガージュしているのだろうか。サルトルの意に反してしてアンガージュしていない、もしくはほんの数ミリ心と体が動いてアンガージュしているのかもしれない。
いずれにせよ小説は面白くなければならない。その一言に尽きる。昔の残された小説には良いものが多い。きっと自然に淘汰されるのであろう。きっと「存在しない小説」ではなくて「存在しなくなる小説」について論じる方が面白い。結構な文学論になりそうである。逆に言えば「存在し続ける小説」である。こうしてみると、面白くない小説には今まで何度か感想文で述べてきたように共通の特徴がある。まず説明文なる小説である。誰かが「小説の表現とは文体である」と言っていた記憶があるが、基本的にはこの文体に織り込まれた小説家の感性が小説を読ませるのである。筋が面白ければなお良い。次に会話文の無意味さである。会話は本文と離れてはいけない。例えば「こころ」で言うなら、「あなた、殉死なさったら」と妻がふざけて言う時驚いたものである。カフカで言うなら、あの長ったらしい会話、もはや会話ではなくて言葉が勝手に話し出すような文は本文そのものである。無論、きっと別な形式の良い会話文もあるはずである。それに小説と作家の位置関係である。作家と小説の登場人物の位置関係が定まらず、時々作家がちょいと顔を覗かせる作品が結構あるが非常に読みにくい。
ここまで書いて読み返したら、結構余計なことを書いていて本書の感想文になっていない。ペソア詩集など別の感想文を書けばよかったのかもしれない。でも、もう書き直す気力も失せている。「存在しない感想文」となりたいが、きっと「存在する感想文」であってその内「存在しなくなる感想文」となる。
―― 存在するしない/どちらも良くて/夕涼む土手の縁 ――
以上
|
|
|
|
2014年5月23日(金) |
題:近松門左衛門著 「曾根崎心中 冥途の飛脚」を読んで |
本書には七つの作品があるが、とりあえず読んだのは「曾根崎心中」と「冥途の飛脚」である。近松門左衛門の文章が井原西鶴や上田秋成とどう違うか知りたかったためである。近松門左衛門の文章は浄瑠璃のためか、体言止めが多くてやはり独特の味がする。三者それぞれの味がするのである。軽快で客観的な西鶴調と人情に色濃い近松調と、リアルに幻想を現実化する上田秋成の文章はそれぞれに面白い。ただ、私はやはりリアルに幻想を現実化する上田秋成の文章が一番好きである。ついで人情の深みに落ちていく近松門左衛門である。ただ、皆それほど作品を読んだわけではなくて、単なる好みである。これら江戸後期の文学は平安時代の日記文学などに比較して殆ど読んでいないが、読み広げていくのも興味深い。ただ人情本はあまり読みたくないのである。まあ、時々さまざまの文章を読んで見るのが楽しくて一番面白いのであろう。
「曾根崎心中」と「冥途の飛脚」は、心中する心情の表現が言い知れぬ深さ到達していて、共鳴し感動する文章はそれほど難しくない。ただ、これらの作品の文章の難しさはちょいと複雑な金の貸し借りの筋がすぐに理解できない所にある。特に「冥途の飛脚」における五十両と二百両との違いがすぐに飲み込めなかった点にある。ただ、下部に脚注がついていて、古文に慣れぬ身にはそれをたどると直ぐに理解できたのは幸いである。両作品とも金銭が問題になっているのではない。巻末に井口洋の「近松世話浄瑠璃の起点」にて指摘されているが、一分である。彼の言う通りであり一分が問題なのである。
井口洋はこの一分について定義していないが、直観的には義理人情というより倫理観として私は理解する。つまり道徳なのである。人の道と言うのは好きではないが、こうした言葉によって理解すべきなのであろう。そしてどうしたことか、主人公は善人や意志の弱い人間であって不用意にお金を貸したり使い込んでしまうのである。「曾根崎心中」では金を借りた悪者に主人公徳兵衛は逆に「理屈に詰まって挙句には、死なずがひな目に逢ふて、一分は廃った」と言われる。「冥途の飛脚」では主人公は顧客のお金を使ってしまい、母を思って「是其の声を母が聞けば死んでも一分たたぬこと」と言わしめる。近松は商人が隆盛を極めた江戸後期に、金銭を取り扱って生じる悲劇において、その取扱う人間に出来事がふいと浮き上がってくる、その出来事に流され支配される心の弱さの問題を取り扱っているのであろう。この悲劇は必ず絆を深めて一緒になろうとする女が居ることによって生じる。一分に銀二貫や金五十や百両のお金も加えることによって、明確に生じてくるたった一分の問題をお金を超えた根底に据えて見ているのである。それにしても近松の心中場面などは生身に迫ってくる迫力ある文章である。上っ面ではないこの文章にて、声をして人形として迫り来れば、近松浄瑠璃が当時いや今でも一部の人たちに人気を博するのも道理である。
簡単に理解した範囲で筋を紹介しておく。「曾根崎心中」は実際に生じた事件を元にしているが巧妙に手を加えて筋立てをしているらしい。主人公徳兵衛は親方の姪を銀二貫付きで娶るのを断り、もはやこの銀二貫を受け取った継母からは取り戻しているが、浅はかにもこのお金を友人に貸してしまう。友人は偽ってお金を借りたのであり、渡した証文を偽証文だと言って金を返してくれない。徳兵衛と遊女おはつと恋仲にある。おはつには身請け話があるとも、彼女は金を返さなければもはや心中するしかないと決断し二人は心中を実行するのである。「冥途の飛脚」における飛脚とは現金為替屋のようであり、送られてくる現金を顧客に渡す役目であり、忠兵衛はこの仕事に従事している。忠兵衛と梅川は恋仲にある。最初の五十両は友人の機転、ふざけた手形によって救われるが、後の二百両は封を切り梅川の身請け金としてその一部を使ってしまうのである。封切りとは死罪であり、二人は召し捕えられ、忠兵衛は目隠しを願い出る。即ちめんない千鳥(面を包むの意味か)で終わる。それにしても筋を書こうとして本書を斜め読みしたら、金ばかりではなくて複雑な人間関係にも驚いたのである。この人間関係の複雑な絡みが文章の理解を妨げると同時に、それぞれの人情や思いに義理が絡みより筋を複雑にして浄瑠璃を面白くしているのだろう。
以上
|
|
|
|
2014年5月16日(金) |
題:上田秋成著 「雨月物語」「春雨物語」を読んで |
「春雨物語」の岩波文庫による復刻版を入手する。文庫版を読んでみたかったのである。「雨月物語」も入手するが、この岩波文庫は何十年も前のもので活字が掠れ不鮮明であり、注もついていずにとても読みにくい。現代語訳のついた本は結構出版されているが、厚くて、かつ現代語訳がついているが故に嫌いなのである。仕方なしに、岩波の古典文学大系の「上田秋成集」を引っ張り出して読むことにした。これらの物語は読んだはずであるが、「吉備津の釜」以外は殆ど記憶にない。少しばかり上田秋成の経歴をたどり、これらの本を読んだ感想を述べたい。
上田秋成は初め「浮世草紙」を書いていた。江島其磧、井原西鶴、近松門左衛門の影響を受けているようである。彼は古典的なものに傾き雅文調の濃い「雨月物語」を四十前後に書いているとのこと。なお生活に困り医業を始めている。俳句もたしなみ蕪村との交流もあったとのこと。宣長との論争からも見られる通りに個人的な感性に基づいて、落窪物語、大和物語、伊勢物語などの公刊に携わり講じることによって生活資金の一部としていたらしい。「春雨物語」は七十前後の作であるらしいが、改稿を重ね未完のままであるとのこと。妻の死や、時期を違えた左右の目の失明があったことなどなど。上田秋成はどの人にも違わぬように彼にしか経験できない人生を送っているのである。
読んで驚いたのが、「雨月物語」と「春雨物語」との格調の違いである。「雨月物語」が人情を排して情景描写を主に、怪異なのか怨念なのか、静謐に愕然とさせ、妖艶に迫り、暗澹として幻想的な物語が多いのに対して、「春雨物語」は泥棒の改心など説教調、説明調に論説調であり、文章はきっと同質ながら、その文章に流れるリズムが明らかに異なっているのである。「雨月物語」を書いた後のきっと上田秋成が何十年かに経験し体得した悟りや確信が含まれているのであり、それが秋成の論説好きと相まって書かれたものが「春雨物語」であるに違いない。こうしてみると若くして書かれた「雨月物語」はある種の啓示を受けて記述したような感がしてならない。ただこの啓示は修練の賜物であり、格調高い文章と同時に、若干寓意も含まれているのは見過ごしてはならないと思われる。
以下、気に入った作品を紹介したい。「雨月物語」では九編の作品があるが、なんといっても「吉備津の釜」と「蛇性の淫」が良い。ついで「浅茅が宿」に「夢応の鯉魚」「青頭巾」が良い。特に「吉備津の釜」は最高の傑作であると私には思われる。しらじらと明けたはずの夜が戸の外に出ると明けたはずの夜はいまだに暗い。「あなや」と叫ぶ声が聞こえてきて、流れ地を伝う血がかざされたともし火に照らされ見えるのである。「蛇性の淫」では物語性を含んで、美しくも妖気に満ちた淫を携えた蛇が部屋の中にとぐろを巻いている。
「春雨物語」では十篇の作品があるが、「死者のゑ顔」「宮木が塚」「歌のほまれ」が良い。これらの作品は基調が「雨月物語」と通じるところがある。それ以上に「春雨物語」の巻頭の文章がなんとも味わい深い。「はるさめけふ幾日、しづかにておもしろ。・・・物いひつづければ、猶春さめふるふる」とはどういう心境なのであろうか。なお「死者のゑ顔」は実際にあった話を元に作成したらしい。花嫁が首を切られてゑ顔なのである。いずれにせよ上田秋成は、井原西鶴、近松門左衛門と異なった独自の世界を切り開いている。表立った義理人情ではなくて、この世界に纏わりついている怪異妖艶さが、その妖しさが根源的な性が、特に「雨月物語」ではいかんなく表現されていると思われる。遠くまで出かける際の文庫本は誰かの好きな人の詩集を携えて行きたい。
―― あなやの声に明けし夜/血注ぎ地を伝う/姿形の見えぬ髻を/月中天より照らすこの夜/淫注ぐ蛇も地をのたうっている ――
以上
|
|
|
|
2014年5月9日(金) |
題:ジョン・デューウィ著 清水幾太郎 清水禮子訳「哲学の改造」を読んで |
本書はデューウィが1919年に大学で行った講義をまとめた本で、哲学入門の絶好の書であると横帯に書いてある。訳者の解説によるとデューウィはプラグマティズムの中心人物で、ダーウィンの進化を初めとする生物学の影響が強いという事である。全八章から構成されていて、哲学の歴史と現状とその再構成について、ギリシア哲学にベーコンやモンテスキューなどの啓蒙学者の思想を引用しながら記述している。まず記憶から始まっており、ベルグソンの記憶論と比較し批判的に読んでいたが、読み進めると結構科学との融合など実際的であり肯定的であり、なるほどと思う所もある。本書の感想は彼の主張とする所を手短にまとめたい。プラグマティズムに関する本は読んでみる価値があるというより、何冊かはきっちりと読んでその思想内容を把握するつもりでいる。
デューウィは、人間は思考よりも記憶に支配されており、この記憶は情緒的な適合性である。科学であるより詩でありドラマであり、これが物語として社会的影響の下に体系化されて、教義や祭式の固定化と組織化が行われ、行為に一般的な規則を与えるとする。これに伝統的な掟に含まれる道徳的な規則や理想と実際的な知識を調和させることにより、哲学が生じる力となり得たと述べるのである。ただ実際に哲学が生じるのは下層階級が示す事実知識の大きさと広さが増して、上流階級の宗教的および詩的精神とが態度や精神において衝突する時、即ちソフィスト運動の中で生じたこれらの衝突の事実が、西洋世界が考える意味での哲学が生まれたのであるとする。言わば伝統的見地と実証的な知識との対立が哲学を生じさせたである。
こうして哲学は初めから過去の伝統的な信仰の中から道徳的な核心を見出すこと、これを合理的な根拠において正当化することが仕事になる。将来の哲学においてもその時代の社会的および道徳的な闘争から、観念を明晰にすることにある。即ち哲学は道徳的な力を明らかにすることによって、人間の願望に奉仕するのであると著者は力説する。そして著者は哲学の再構成と言う問題を述べるために、観察と実験による経験を知識の源泉とする帰納法の父なるベーコンを紹介する。即ちベーコンによると科学はまだ偶発的で散発的であり人生の幸福のためにまだ組織的に応用されていない。けれども新しい科学とその応用とが政治的な変化を起こさせて、また政治上のまたプロテスタンティズムにおける個人主義が進行して、科学および哲学における伝統的観念を疑問に付して哲学の再構成と言う問題を提起させているとする。著者は近代哲学の混乱は伝統的なものとこれらに対する科学的な結合不可能なものを結合しようとして生じているのであり、経験と理性、実在的なものと観念的なものなど哲学的対立概念から哲学の再構成を考慮していくのである。
まず初めに科学について、近代科学における変化が「実在」の尺度、存在のエネルギーの尺度であると述べ、自然や宇宙から目的因や形相因が追放されたのに対して変化たる動力因の重要さを指摘する。変化が遍く存在することを認識することが大切なのである。こうして科学に結び付いた経験的知識は、限りない可能性、自由な運動を持つものであり、創造的な哲学に転化しうると断言する。なお経験とは科学および道徳生活の案内者として役割を果たすのである。経験論者の問題は人類が空しく背負っている莫大な重荷、人類を押し潰し歪めている重みを掘り崩すために攻撃することにある。この時、経験は解放の力になり、新しいものを意味する。理性は意味のないものになり、代わりに経験的な着想に対しては知性という言葉が使われることになるのである。
こうして著者は変化の重要性を説き、認識は観照的ではなくなり実践的なものとなると言い、哲学も実践的な性質を持たなければならないとする。道徳に関して、自然科学の成果に対して人間についての科学のおよび技術は、認識の方法の改善により新しい道徳的混乱を生んでいるのであり、盲目的な習慣や衝動に代わる知的な代替物を見出そうとして生まれた哲学は、この代替物を見出す試みを続行しなければならないとする。また論理学においても思惟過程の明晰な組織的な定式化であり、科学であり技術であり、そうした経験の計画的再組織化を確保しなければならないとする。そして、概念、理論、思想体系は道具であり、その価値はその使用の結果に現れる作業能力のうちにあるとする。つまり使用されることを通じて常に発展するものなのである。経験に抽象は欠くことのできないものであり、抽象とはあるものが一つの経験から解き放たれて他の経験に移されることを意味するのである。
なお道徳に関して、道徳的状況とは行為に先立って判断および選択が要求されるような状況であり、必要なのは行為の正しい方向、正しい善を見出すことである。知的再構成がまだこの領域に適応されていずに、個別的な善が多数あるということがまず信仰される必要あるとする。そして著者は最後に哲学上の変化が社会哲学に与える影響について述べる。社会と個人との関係を三つ例示し、社会機構、法律、制度が個人のために何かを獲得するためにではなくて、個人を創造するための手段であることを力説する。社会とは経験、観念、感情、価値が伝達共有されるような結合の過程なのである。また宗教的精神は科学的観念や社会的信条と結びついており、人間の科学的信念や日常的な社会活動を通じて甦るであろうと著者は言う。最後の文章が良くて本書のまとめとなっている。『現実の動きの意味を明確にし明瞭にする仕事も進めるのが、転機の時代のおける哲学の任務であり問題である』
―― 経験を積めば/実践的に/歩むのかこの地 ――
以上
|
|
|
|
2014年5月2日(金) |
題:ロートレアモン伯爵著 前川嘉男訳「マルドロールの歌」を読んで |
古本屋に寄った時に、ちょうど文庫本の前川嘉男訳「マルドロールの歌」があったので仕入れた。とても良い本であったと記憶している。ぜひ一度読み返したいと思っていたのである。家に帰り、手元にあった栗田勇訳「マルドロールの歌」と文章を比較すると、栗田勇訳の方が落ち着いていて、適切に訳されていると思い仕入れた文庫本ではなくて、栗田勇訳を読んだが、ロートレアモン伯爵の思いがもどかしくも文章の背後に隠れてしまい、どうしても伝わってこない。このため第三の歌から前川嘉男訳に切り替えた。すると荒々しいロートレアモンの荒い波のような思いが揺れる感情の起伏が、人間に対する憎悪と憐憫が、愛情と否定が直に読み取れたのである。なお、「マルドロールの歌」は一遍の長い抒情詩である。たぶん私が一番の好みとする文章であり抒情詩小説構造を持っている。
だがこの感想文をどう描くか珍しく浮かんでこない。少しばかり本書の文章の引用と、ロートレアモンの生涯と、たぶん私が思うには一番近い精神と記述方法を持つと思われるランボーとの比較などを含めながら思いつくままに書き進めたい。
ロートレアモン伯爵は1847年に南米のモンテビデオで生まれたらしい。1870年に死んでいる。24歳である。革命家であったか複数の革命家と関係していたのか、少年の他の少年への情熱的な恋。その恋の破局が生じたのか。その生活ぶりも相当変わっていたらしい。他の著作としては「詩学断想」というエッセイ集や手紙が数点あるだけらしい。とにかくこの著書は通常の解釈を拒絶するのである。マルドロールに私に君に第六の歌で登場するマルドロールに殺されるマーヴィン、その他の多数の固有名詞、どれもがロートレモアンであり、きっと愛した少年たちであるに違いない。この第六の歌だけが少し小説っぽい。そして一番詩的である。
栗田勇訳「マルドロールの歌」には「ロートレアモン伯爵=イジドール・デュカス」として、アンドレ・ブルドンの文章が掲載されているが、こうした解釈不能な文章を正当に解釈した書き方は好きである。「マルドロールの歌」はこうしてシュールレアリストによって取り上げられたが、その有名な文章を紹介したい。なお、ダリによるロートレアモン伯爵の肖像画があるとのことである。文章はミシンとコウモリ傘を含めて、本書の文章が分かるように少し長めに紹介したい。『・・捕えられた動物自身によって、つねにふたたび仕掛けられる、齧歯類だけをかぎりなくつかまえる、麦藁のしたにかくしておいてもしっかり機能する、不滅のネズミとり器のように美しい。そしてなによりも、ミシンとコウモリ傘との、解剖台のうえでの偶然の出会いのように、彼は美しい!』こうしてロートレアモンの文章は美しさを強調しながらその美しさを並びなき比喩によって、何をも超絶するのである。
ランボーの「地獄の季節」を少し読んでみたが、絶対的まごうことなき精神の記述であって、主体の言語たる現実に対する拒絶である。拒絶する精神は明晰であり知的であり透明に澄んでいて、自らの主体を否定しながらその結果明らかに肯定している。ロートレアモンは絶対的まごうことなき現実の記述であって、この主体を包み込む感性的な現実を拒絶しながらその現実に恋い焦がれている。彼の主体は一貫して憎悪と愛情にまみれて交錯する揺れる感性的なものであり、明晰さを否定し非知的に混濁していて自らの主体をこの現実のうちに埋め込み隠蔽しようとしている。ランボーが言語と現実への「断絶」の望みであるなら、ロートレアモンは言語と現実への「溶解」の望みであると言うべきである。以上は私の簡単な感想であるが、どこかに二人を比較し詳細に論じた本があればぜひ読んで見たいものである。
でも、ロートレアモンもランボーも良いのであるが、きっと若い時の自分には適合するのであって、少なからず感性的なずれが生じている。このずれは補正できなくて少しずつ広がっている、そう思うこの頃の夏の暑さである。
―― 蝙蝠の/翼をかざす/白き指 ――
以上
|
|
|
|
2014年4月25日(金) |
題:三島由紀夫著 「鏡子の家」を読んで |
失敗作と言われる夏目漱石の「虞美人草」に続いて三島由紀夫の「鏡子の家」を読んだのである。結論から先に言うと、夏目漱石の「虞美人草」は漱石のその後の可能性を示した原点を示しているが、三島由紀夫の「鏡子の家」は小説に観念を持ち込もうとした、新たな小説の可能性を模索した彼にとっては壮大な計画の挫折であると思われる。
小説としての魅力も乏しい。同様に観念的に創造された「虞美人草」の藤尾に比較し、鏡子の魅力の足りないことが原因である。約600頁と大作であるが、漱石の小気味よい文章を読んだせいか、虚構体とも言われる説明的な長い文章は疲れくるが、結局は流しながらも最後まで読んだのである。たぶん、この小説の筋も影響を与えているのだろう。漱石は推理小説が好きで、彼の作品には推理小説を読むような謎解きの楽しさがあるが、三島由紀夫は文章と筋とを絡ませて読ませる作家なのである。その筋が複雑になり横道に入り分岐しすぎていて、単純な私にはよく分からなくなるのである。というより、余分な筋の記述が多い。小説の筋の分岐は超長編小説にのみ許されるのである。
「鏡子の家」の筋は資産家の離婚した美貌の女、鏡子の家に世界の崩壊を信じる男など自らの思想や肉体に特技を保有した四人の男や女たちが集まってくる。こうした鏡子と四人の男の物語であるはずが、四人のそれぞれの物語があり、その物語の中で分岐した物語が積み重なっている構造の小説なのである。そして四人の男がそれぞれの物語の中で自らを失い変容や崩壊していくある種の退廃小説なのである。もしや本書の主人公は空虚な鏡子が住み人を集める家そのものであるのかもしれない。そして鏡子は他人の淫蕩な話を聞くのは好きであるが、自らの貞節をはみ出ることはしない身の堅い女である。ただ鏡子はやはり最後に、現実感を取り戻すために、生活を成り立たせるために身の処し方を変更するその前夜に、一人の男と寝るのである。結末はある程度予想はできたが、最後の文章表現までは予想できなかった。三島由紀夫の最後の文章では「美徳のよろめき」が一番好きである。いつもそれまでの読んだ筋を圧倒させる迫力がある。なお本書の文章の中では、「イヤリングをしていないと裸でいるような気がする」という鏡子の言葉がとても好きである。
退廃小説であれば川端康成の短編小説ながら「眠れる美女」の方が優れている。私好みの小説の筋としては、四人の男をすべて、空虚、ブラックホールである鏡子と肉体的な関係を結ばせて、そして男たちを破滅させていく方が良い。男たちを空虚へと否応なく導き罠に陥れて転落させていくのである。ただ、三島由紀夫がそうした筋を選ばないのは、彼の強固な美意識であり、嫉妬やありきたりな刃傷沙汰を嫌う、強烈な倫理観が拒絶するからなのであろう。何よりも鏡子がそうした行動を否定する身持ちの堅い女として描いているために致し方ない。ただ最後に体を許すとしても、現実を取り戻すとしても、読後感として何らの感慨も感動も得られないのは本書の致命的な欠陥である。三島由紀夫の小説であれば、私が読んだ限りでは「豊饒の海」の方が格段に優れている。
きっと観念を小説に表すのであれば相応な小説の形式と筋が必要なはずである。形式は観念を納得させる礎であり、筋は観念の象徴となる。本小説のように直接会話の中の言葉で観念を述べて読者の共感を得ることは難しい。観念を語る者の生き様や精神的背景が納得できなければ語られた観念が宙に浮いてしまう。きっと観念小説は別途の小説の形式が必要なのであり、小説の形式がその記述された筋と情景を含んで観念を生み出してくるものなのである。ただ単に言葉にて直接的に表現される観念は共感とは途方もなく離れた距離に居て、もはや何を語っていようとも観念を表出できない。いやただ私だけが共有できなくて多くの人が共感できていればこの私の言い分は間違っている。たぶん観念そのものの明確な定義が必要なのであろう。
なお、本書の最後に田中西次郎の「解説」が掲載されていて、複数の同格の主人公の掲載方式、彼が「メリ・ゴオ・ラウンド方式」と呼ぶこの形式について、本書はその成功例と述べている。もっとも彼が名付けた形式の大元の小説家モームは自身が書いたこの種の作品を、失敗した作品と述べている。読者は読み進めるうちに、誰か一人だけを気に掛けることが原因であるらしい。いずれにせよ、小説は読んで楽しければ良いのであって、私が本書を楽しむことができなかった、それだけである。三島由紀夫は文章が強烈に観念的に装飾されているために、ありきたりの三文小説的な筋を描いても高級な文学となる。華族のお嬢様の悲恋を描けば、高級な文学を超えて得も言われぬ気品と美しさに酔ってその文章の高貴さに心をときめかすことができるのである。
―― 観念の/透けし押し花/貼る鏡 ――
以上
|
|
|
|
2014年4月18日(金) |
題:スピノザ著 畠中尚志訳「知性改善論」を読んで |
スピノザの「エチカ」を読みたのであるがきっと難しい。無限なる属性を持つ神が居て、この神に自然や人間が絡んで本性論が幾何学論的に論じられているはずであり、きっとよく理解できなくなるはずである。そこで「エチカ」の導入本とも言われる本書を読んでみたのである。本書は読んだ限りにおいては、認識論であり、知性論であり、道徳論であり、知覚論であるような気がするが、さっと読んだ限りではよく分からない。そういうときにはまず彼の年代を調べてみるのが良い。思想の近い人が必ず居て参考になるはずである。スピノザは1632年の生まれである。相当昔の人である。デカルトやライプニッツと年代が近いか重なる。そうか、コギトの時代かと納得する。コギトとはよく論じられているが良く分からないのである。私が思うが故に私が居るのか、私が居る故に思うのか、もともと私は対自と即時に分裂していて思っているのか、その思う私は本当に居るのか、謎解きは難しいのである。
そういえば、思い出したのであるが、ドゥルーズがスピノザを論じていたはずである。簡易版の「スピノザ 実践の哲学」と詳細版の「スピノザと表現の問題」があり、両方読んでいるが、ドゥルーズはスピノザの哲学をどうも表現の問題として捕えている。以下は引用である。『表現の概念は神として規定された有に適用されるが、それは神が世界において自らを表現する限りにおいてである。またそれは真なるものとして規定された諸観念に適用されるが、それは真の諸観念が神と世界を表現する限りにおいてである。そして最後に個別的な本質として規定された諸個体に適用されるが、それは個別的な本質が諸観念のうちで自らを表現するかぎりにおいてである。その結果、三つの根本規定、つまり存在する、認識する、活動するあるいは産出するは、この概念のもとで測られ体系化されるのである。存在する、認識する、活動するは表現の種類である。充足理由の時代であり、充足理由の三分肢、存在の理由、認識の理由、生成あるいは作用の理由は表現のうちにそれらの共通の根を見出すのである』
こうして、ドゥルーズは、表現の概念は流出と創造の神学的な伝統の中に忍び込んでいるとするが、スピノザやライプニッツは人間を神にふさわしいものとし、また新しい論理の所有者とすることによって、これらの概念は神学的な伝統なる有の超越性を否認すると同時に、有にまさる一者の超越性も否認すると論述を進める。そして、『スピノザの場合、表現は創造と流出と和解するのではなく、むしろそれらを放逐し、非十全な記号、多義的な言語の側に投げてやるのである。スピノザは表現の概念のうちに内含されている哲学本来の「危険」、つまり内在性と汎神論を受け入れる。そればかりか、彼はこの危険に賭ける。スピノザの場合、表現の理論全体は一義性に奉仕しているのである。そしてすべての意味は、一義的な有を無関心にあるいは中立性の状態から引きぬいて、それを汎神論あるいは表現的内在性において実際に実現される、純粋肯定の対象とすることである』そしてドゥルーズは最後に『表現されるもの、それは意味である』とする。なるほど少し難しくて分からない文章もあるが、話が見えてきたのである。
こうして、再度本書の頁を捲りながら主要な論点を簡単にまとめると以下のようになる。なお、本書の最初にでてくる表題は「知性の改善に関する、並びに知性が事物の真の認識に導かれるための最善の道に関する論文」と記されており、理解するうえで大いに役に立つ文章である。
1) 善について。善いとか悪いとかは相対的であり、同一事物でも善いとも悪いとも呼ばれ得るのであり、どんなものも本性では完全とも不完全とも言われないとする。だが人間は自分の本性より力強い本性を考えこの完全性へ自らを導く手段を求めるように駆られる。人間としての最高完全性へ到達することに、我々の行動および思想は向けられるべきであるとする。
2) 知覚の四様式について。知覚の四様式によって、改善しようとする人間本性を知ることができるとする。事物が全くその本質によって、あるいはその最も近い原因の認識によって知覚される場合の知覚の様式を用いることが良いとする。
3) 真の観念について。真の観念とはその対象とは異なるあるものである。たとえば身体と身体の観念である。言い換えれば、観念を形相的本質と想念的本質から見れば、形相的本質は想念的本質の対象たり得るのである。形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性はあり、確実性(確知)とは想念的本質そのものなのである。真の観念は形相的本質と一致すべきであり、全自然の根源と源泉とを再現する観念から導き出さなければならない。真の観念によって、完全者の認識に到達することに専念する必要がある。
4) 虚構された観念について。精神を真の観念と虚構された観念、虚偽の観念とを混合しないように抑制すること。精神が理解することが少なく知覚することが多い時、また自然を認識することが少ない時多くのことを虚構し得る。精神は全く知覚することなく、自分の力だけで事物と関連のない感覚あるいは観念を神のように創り得るのではない。明瞭かつ判明に物を知覚する限り、虚構に陥る心配はない。精神は手段と原因を見て虚構を看過することができるのである。
5) 虚偽の観念について。虚偽の観念は承認を含んでいる。目を開いて醒めながら夢見ているのとほとんど異なることがない。知覚は常に混乱を含んでいるのである。明瞭かつ判明な観念は虚偽ではない。真すなわち知性と偽を知りさえすれば明らかになるのである。真の思惟の形相はその思惟自体の中に存していて、知性の能力及び本性そのものに依存しなければならない。錯誤はあまり抽象的に事物を概念化することから生じるのである。
6) 疑わしい観念について。精神の中に一つの観念しかないなら、真であるか偽であるかを問わず、ただ一種の感覚だけがある。虚構された観念、虚偽の観念は偶然なそして連絡のない諸感覚に起因するのである。
7) 記憶と忘却について。記憶とは脳における印象の感覚がその感覚の一定持続と結びついたものである。これと同じものが想起にもみられる。表象作用は知性の活動とは異なっており、精神は表象作用に関し受動的関係に立つ。表象力と知力を区別しなければならない。
8) 定義の諸条件について。定義はもっとも近い原因を包含しなければならない。また定義はすべて肯定的でなければならない。
9) 永遠なる事物を認識する手段について。精神が想念的本質として自然の本質・秩序・合一性を認識するには、一切の観念を常に自然的事物すなわち実在的有から導き出すことが何よりも必要である。実在的事物から抽象的概念を結論してはならない。また変化する個物の系列を補足する必要もない。人間にはこの系列の捕捉は無理であり本質も引き出せないからである。知性とその諸特性と力の認識を基礎とした反省的認識により、永遠なる事物の認識に到達し得る道が明らかになる。
10) 知力の特性とその諸特性について。知性の特性について八つ列挙する。例えば、知性は確実性を包含する等々。この諸特性を観察し知力の力ないし能力を探求し解明できるのである。
こうして本書「知性改善論」は未完に終わっている。訳者である畠中尚志が未完に終わっている理由として、この問題の困難性をスピノザの方法論の循環的矛盾について述べている。詳細は本書の解説を参照のこと。また解説では本書の意義や「エチカ」との関連も「エチカ」の内容も多少記述されている。「エチカ」を読むかどうかはまだ決めていないが、私が知りたい本性とは異なっている。本書を読んで、西洋の哲学とは長い年月をかけて繋がっていると改めて感じたのである。
―― 知性縒れ/下書き嵩んで/浮く牡丹 ――
以上
|
|
|
|
2014年4月11日(金) |
題:萩原朔太郎著 「与謝野蕪村」を読んで |
萩原朔太郎が蕪村を紹介していると知って読んだ本である。俳句など殆ど無関係ながら、読んでみると結構面白かった。朔太郎の感受性が露わに表現されていて、かつ蕪村も新しく朔太郎に解釈されて、そして思いがけずに芭蕉も出て来たのには驚いたのである。
なお、本書の目的は江戸時代には頭角を抜きん出て表すことができずに、正岡子規によって見出された与謝野蕪村の萩原朔太郎による新解釈と俳句の紹介である。子規による客観的芸術として論じられた蕪村に対して、朔太郎は客観と主観について論じた後、主観こそまさしく蕪村のポエジイであり、抒情詩の本体であるとする。このポエジイの実体は朔太郎の文章を引用すると『時間の彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、・・子守唄の哀切な思慕』であるとする。無論蕪村の客観的また絵画的な面を否定するものではない、それを認めた上でこの本質を見抜けなかった子規一派を朔太郎は批判するのである。こうして蕪村の俳句を朔太郎は情景や心情の解釈も含めて多数紹介するのである。
そして初めは馴染めなかった、むしろ嫌いであった松尾芭蕉が、老年になって芭蕉に魅入られたと告白する。なぜなら芭蕉は『本質的な意味のリリシズムが精神している』のであり、自然風景を叙す場合も常に主観が想念する詠嘆の情操が先に立っていると述べる。蕪村と芭蕉の違いは言葉の韻律に現れているとし、芭蕉は言葉それ自身に重たさや軽さの韻律、即ち言葉の抑揚節操する音楽によって構成されているのに対して、蕪村はリリカルな音楽を出すことよりも、印象のイメージを的確にするための音象効果にあるとする。こうして芭蕉は自然と人生における本質的実在を探ろうとした真のリアリズムの、真のヒューマニズムの詩人であったと述べて、芭蕉の俳句を紹介するのである。
この萩原朔太郎の蕪村と芭蕉に対する評価の変遷や交錯と、彼らの俳句に対する解釈評価が面白いのである。それは朔太郎が主観と客観の両方の気質や抒情と絵画的な表現方式の両方を持っていたからに違いない。私は客観の中に含まれているリリシズムが一番好きである、そうであるに違いない。萩原朔太郎の詩の中でもそうした絵画的な客観の中にリリシズムが薄くいやむしろ厚く流れる詩が、とても好きである。少しばかり、蕪村の俳句を紹介してお仕舞にしたい。そういえば思い出したが、夏目漱石の俳句はとても好きであり、ぜひ読んでみたい。なお、芭蕉の俳句の紹介は省略する。○のついた俳句は特に私の好きなものである。解釈などは本書などを参考にして頂きたい。
○遅き日のつもりて遠き昔かな
○春雨や小磯の小貝濡るほど
橋なくて日暮れなんとする春の水
菜の花や月は東に日は西に
○鶯の声遠き日も暮れにけり
これきりに径尽きたり芹の中
○白梅に明ける夜ばかりとなりにけり(辞世の句)
門を出て故人に逢ひぬ秋の暮
おのが身の闇より吠えて夜半の秋
○恋さまざま願の糸も白きより
うら枯やからきめ見つる漆の樹
俳句ではない、簡単に本書の感想を述べた、私の作成した一行詩、三行詩または五行詩である。
―― 香に匂う/言の葉満ちて/夜の明けぬ ――
―― 寂しき心に/浮かぶ月/漕ぎ行き出れば/
海色に染まり/今宵の旅も続くらむ ――
以上
|
|
|
|
2014年4月4日(金) |
題:アンリ・ベルグソン著 合田正人 松井久訳「創造的進化」を読んで |
ベルグソンの著書を読むのは「時間と自由」、「物質と記憶」に続いて三冊目である。だいぶ慣れてきたのか、本書は最初分かり良かったが、だんだん難しくなり、そしてなんだか文章が冗長になる。結局読後感は、なぜベルグソンが本書を書いたのか、その意図が分からなくなったのである。「創造的進化」はエラン・ヴィタル(本書の訳は、生命の弾み)について、生命の進化について書かれているはずが、最初はそうであったが、次第に存在と意識に運動、それに知性や秩序に無や宇宙に哲学者批判が加わって、むしろ今までの思想を踏襲し記述しているのである。本当にベルグソンは何を言いたかったのか。そうした時には巻末の解説に頼るのが一番である。読後に松井久の解説を読むと、本書の構成、書物の理解の二つの方法としての、歴史的・社会的状況下と著者の思想の連続性から話は始まって、ベルグソンの哲学的問題に及んでいる。詳細は本書の解説を参考のこと。従って、感想文としては簡単に済ませたい。なお、本書を読むためには、「物質と記憶」などを読んで「持続」などの概念を仕入れておいた方が良い。
本書の内容を一言で述べると、生命とは絶え間なく創造するものであるという肯定的な信念である。ドゥルーズはこの思想の影響を受けて、この肯定に悲嘆を組み入れながら、生成すべき概念へと展開させていると言えるだろう。ベルグソンにとっては存在そのものが創造であり、生命の精神(意識と言い換えてたぶん良い)が持続の中で絶えず創造しているのであり、この生命は有機体の胚同士の連結線として生命の弾みを描いているのである。そうして『生命は本質的に、物質を横過って放たれ、そこからできる限りのものを抽き出す流れなのである』(337頁)ということである。
まず、ベルグソンは、生命の進化は持続の連続的記憶、有機体的記憶の歴史的な全体を直前の瞬間ではなくて、現在の瞬間に結び付けなければならないとする。進化とは、過去を現在に引き継ぐことであり、変化の連続性、過去の現在への保存であり、絶え間ない創造変化であるとする。こうして常に計算可能な決定論である機械論的説明や生命とその器官を目的とした目的論を批判し否定する。遺伝するのは形質(性質)ではなくて偏差なのである。変異の原因は個体が保持する諸々の差異なのである。こうして『生命は要素の結合や累積ではなく、分離や分裂によって、仕事を進めるのである』(121頁)
こうして生命は傾向であり、分岐を諸方向に展開することであり、進化の運動は分岐する方向を見抜かなければならないとする。動物と植物をエネルギーなど例に取りこの考え方を説明する。重要なのは生命の知性と本能についての思想である。知性と本能は重なり共存しながら、向く方角が異なるのである。ベルグソソンは無機的な青銅器などの道具や生物の持つ有機的な組織化の働きから説明するが『完成された本能は、有機的な道具を使用し、その構築まで行う能力である。完成された知性は無機的な道具を製作し用いる能力である』(180頁)とする。こうして本能と知性をさらに解き明かすために、意識と無意識について定義し『知性はむしろ意識の方向に向かい、本能は無意識の方向に向かうことになる』(186頁)のである。更に知性と本能について、形相、質量、認識、連続性、運動、記号などから論じるが省略。重要なのは知性が不活性なものの取り扱いが得意で、生命を生まれつき理解できないのに対して、本能とは共感であり生命へと向けられていることである。
そしてベルグソンは直観という概念を述べる。直観とは知性ではなくて本能によって得られる生命固有の領域に導きいれるものなのである(225頁)。こうして意識が直観と知性に裂かれたのであれば、意識の二重化は、その対立について共通な起源を持ち、一方の探求は他方を導いて円環をなすのである。実在と知性の関連について、知性が理解するのは実在そのものであり、実在に触れ、実在に生きることが人間知性の機能であるとする。こうしてベルグソンは精神の知性性と諸事物の物質性、収縮と弛緩、演繹と帰納、秩序と無秩序、エネルギー、固体化、超意識などについて生命進化と生命の意義の観点からまた哲学との関連について論じるのである。
重要なのは私の多いに関心のある収縮と弛緩であろう。生の内側では持続によって前進する過去が新しい現在に絶えず増大しており、意志が人格をそれ自身へと暴力的に収縮させることで、過去を現在に押し込んで創造している。この時、知性は新しい状態を外から眺め既知のものと似ているものとで再構成している。そして行動は自由である。もし自らを弛緩させたら、記憶も意志もなくなり物質の存在に近くなる。当然自由はない。この二つの状態を「精神性」、「物質性」と呼び、ベルグソンは精神と物質について論じ『生命とはある運動で、物質性とはそれとは逆の運動なのである』(318頁)と述べる。そして『生命の弾みとは絶対に創造することはできない。なぜなら、それは眼前の物質、つまり自分とは逆の運動と出会うからだ。しかし、生命の弾みは、必然性そのものであるこの物質を捉え、そこに、可能な限り多くの非決定性、つまり自由を挿入しようとする』(320頁)と述べに至る。
そして直観と知性を結びつける。『直観と知性は、意識の相反する二つの方向を表している。直観は生命そのものへと進み、知性は全く自然に物質の運動に自分を合わせる』(339頁)のである。ただ哲学が直観を考慮していくと『直観が精神そのものであり、ある意味で生命そのものであることに気づく。知性は物質を生み出した過程をまねた過程によって、みずからを直観から切りとる』(340頁)のである。これが心的な生の統一性として現れてくる。こうして『意識は本質的に自由なのである。・・知性は、物質がある枠組みに入っていくのを見るのに慣れているので、行動する意識、つまり自由な意識を振り返って見ると、自然に意識をこの枠組みに入れる。したがって、知性は常に、必然の形式で自由に気づくことになる。つねに知性は、自由な行為に内在する新しさ、つまり創造を無視するだろう。つねに知性は、行動そのものを、人為的、近似的な模造品に取り換えるだろう』(343頁)と述べる。模造品とは知性が古いもの、同じものによって近似値的な取り換えを行うことである。こうした知性を再び直観に吸収することより、多くの行動するための力、生きる力を与えてくれるとベルグソンは述べる。なぜなら生命そのものの創造と物質の運動が組み合わさり、生命の自由と模造が可能となる。つまりさまざまな生命は孤独ではなくて不可分に関与し、この宇宙において恐るべき推進力に身を委ねているからである。
更にベルグソンは存在ついての観点から過去の哲学者を批判する。興味深いのは知性と意識における錯覚についてである。それは動くものと不動ものものであり、空虚による充満との錯覚である。存在と無では、無や空虚がまずあって、存在がそこに付け加わったのではなくて、今あるものが知覚されないのであって、何かの不在を知覚しているのではないということである。こうして肯定と否定、空虚と充満、生成と形式についてベルグソンは述べる。更に持続と継起とは異なった存在の形式を述べた哲学者を批判するのである。最後の文章が良い。『下降する実在である物質は、上昇するものとの結び付きによってのみ持続するのである。しかし生命と意識はこの上昇そのものである』こうして『哲学は、精神が自分自身に帰ることであり、人間の意識が自分の由来である生きた原理と一致することであり、創造の努力と一致することである』(466頁)『哲学とは、生成一般の掘り下げ、真の進化論者であり、したがって科学の真の延長である』(466頁)フーコーの「言葉と物」やレヴィ=ストロース「悲しき熱帯」の最後の悲観的な文章となんと異なることか。ドゥルーズはベルグソンからより多くのものを受け継いでいるような気がしてならない。
以上
|
|
|
|
2014年3月28日(金) |
題:夏目漱石著 「虞美人草」を読んで |
夏目漱石の「虞美人草」や三島由紀夫の「鏡子の家」は失敗作と言われている。小説の失敗作には作者の本来の姿が立ち現われてくるとも言う。そこで何をおいても、まず夏目漱石の「虞美人草」を読んでみたのである。夏目漱石の小説や随筆は殆ど読んでいるはずであるが、内容を忘れており覚えていても微かな痕跡だけであり、どうしても新たに読み直さなければならない。そしてこの「虞美人草」は一年くらい前にテレビで論じていたのであるが、その内容も少しも思い出すことができない。従って、本書と桶谷秀昭による本書の解説と江藤淳による「夏目漱石論」を参考にして感想文を書きたい。たくさんの参考文献を読む時間はないし読んでも参考になる意見は少ない。
結論から先に記述する。「虞美人草」は確かに、輪郭鮮明な性格を登場させたイデエ小説であり、結末を急ぎすぎているけれども、その後の漱石小説の足跡の原点となる登場人物や「暗い過去」に「とらえがたい闇」を表していて、桶谷秀昭が解説で言う通りに『「虞美人草」は職業作家の処女作にふさわしいのである』となる。これ以外に記述する必要がないくらいに簡明な結論である。それに私の感想を述べるなら、漱石が職業作家としての処女作に気負いながらも、文章に凝りながらも、筋に多少無理があるとも、小説を書くのを職業としてこなしなしながらも、むしろどう書こうかと楽しんでいるようにも見える。
何年か前にアメリカ人の評論家に、漱石は生を肯定する作家だと述べた人がいたはずであるが、その通りに漱石はこの小説において肯定的なのである。無論、この肯定は桶谷秀昭が解説で述べる、いみじくも正宗白鳥が本書を否定的に指摘する「勧善懲悪」からきていると思われる。我意に捕われる新しい女、虚栄心と自尊心に満ちた悪役なる藤尾は死ななければならない、殺さなければならないのである。悪者を殺すことによって勧善懲悪はなりたち、大団円によって読者を心地よくさせる。「夏目漱石論」の「漱石の旧さと新しさ」において、江藤淳は、坪内逍遥の「小説神髄」やその影響を受けた二葉亭四迷などの当時の文壇状況、さらにその弟子の正宗白鳥の漱石論における勧善懲悪論を詳しく論じている。正宗白鳥の勧善懲悪論については、文学において非存在による、怪力乱神による「型」に頼る以外の語れない部分を、漱石は「型」によって語っているとして、やんわりと白鳥を批判している。馬琴流の勧善懲悪な「型」が分析的・暴力的な「真実」の表現より、はるかに生命力に充ちたものであると江藤淳は主張している。こうした彼の主張に私は賛同する。
もう結論を書いたので、納得のいかない金時計の話だけをしたい。銀時計の話はしない、難しいし記述が長くなるからである。藤尾はなぜ金時計を宗近君に与え、その宗近君がなぜ大理石の角で砕いたのか。小野さんに裏切られた藤尾は「じゃあ、これはあなたには不要なんですね。よう御座んす。――宗近さん、あなたにあげましょう。さあ」と言う。そうして、宗近君は「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんなす酔興な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分かるだろう。これも第一義的活動の一部分だ。なあ甲野さん」と言う。藤尾が所有している金時計を渡した相手に、藤尾自身が付いて行くという話が底流にあり、藤尾は成績優秀な者に与えられる銀時計を持ちかつ詩人なる感性を持つ小野さんに金時計を与えて嫁になるつもりでいたのである。藤尾はもはや別の女、小夜子を妻にする小野さんに対するあてつけで、嫌いな宗近君に金時計を与えたのか。時計に藤尾自身が付いて行くということを忘れてしまったのか。そして宗近君は好きな藤尾さんを手に入れることができるのに、なぜ第一義と称して金時計を壊してしまったのか。
第一義とは血を見ないと出てこない活動なのである。仏語では無上甚深の妙理の意味。きっと血を見ないと出てこない真実を尽くした人間の活動の意味であるのであろう。甲野さんの「金時計は廃せ」に宗近君は「うん、廃そう」と答えて、「頭ができれば、藤尾なんぞ要らないだろう」に宗近君は軽くうふんといったのみである、との記述がそれ以前にある。いくらか藤尾に対する宗近君の態度が曖昧と感じるのは気のせいだろうか。頭ができたからこそ(外交官試験に合格したからこそ)宗近君には近代的な女性としての藤尾が必要なのではないのか。宗近君がいくら好きであっても、藤尾は詩的能力が欠如した宗近君を嫌っている。この藤尾の我の強く利己的な性格はもはや第一義から遠く離れていて、宗近君にして藤尾からの申し出を拒絶させ時計を壊させるのか。宗近君のこの行為は頭の中では理解できても、感覚的にどうもおかしい気がするのである。
ここで宗近君の本心と創作された「型」なる人物との分裂があるというより、どうも納得できない別の筋があるのである。きっと私が思う筋書きは、藤尾は金時計を持ったまま、もしくは自ら金時計を壊して死ななければならない。あてつけに身を投げ出すようにして宗近君に金時計を渡すより、藤尾は金時計を渡す相手を失って自害しなければならない女なのである。小野さんに自尊心を傷つけられたためか、藤尾は自らの冷静な論理を見失ったのかもしれない。例えば次のような別の筋がある。―――藤尾は小野さんを睨みつけながら金時計を大理石に打ち当てて粉々に壊した。宗近君は藤尾に近づき、藤尾さん、あなたはその時計を誰かに渡すべきだった。それが第一義の行動である。そうでしょう、甲野さん。僕なら喜んで受け取る。けたたまし笑い声を発して藤尾は出て行った。そして自室に閉じこもったままなかなか現れない。相当な時間が経って宗近君が入った時、藤尾は真新しい白い布で顔を覆って北を枕に寝ている。宗近君は初め冗談かと思った。―――
問題は第一義の理解である。私の思いついた筋は第一義を間違って理解しているのかもしれない。漱石は自からが論じる第一義の筋を描きたいために、最大のクライマックスを演出させるために、藤尾から宗近君に時計を渡させ、そして壊させる。そのことが藤尾を驚愕させるのである。漱石にとって我の強く利己的な性格の近代性は自ら壊すことがなくて、誰かが壊さなければならないのであったのだろうか。その後藤尾は死ぬ。ただ自殺か病死か不明である。『呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が動かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床の上に倒れた』そのまま、藤尾はあっけなく死んでしまうのである。なお、金時計とは藤尾の父親の遺品であり、確かではないけれども前々から宗近君に与える約束もあったようである。こうして藤尾は自ら時計を壊すのではなくて、意中ではなくとも他の人に時計を与える。これは前から述べているように論理的に矛盾した行動である。この矛盾した行動を書かざるを得ない漱石は自らがこの矛盾の中に引き裂かれて生きているのである。嫌いでも嫌いでなくとも漱石は身を捧げる対象に裏切られ生きていたのである。従ってこの結末は、きっと漱石にとっては矛盾ではなくて自らの心の内に秘めた裏切りそのものの描写だったはずである。では漱石の身を捧げる対象とはなんであったのか、江藤淳の「夏目漱石論」を読めばきっと納得できるはずである。この私の書いた結論はありきたりであろうとも、本書を読むとそうとしか思われない。なお、漱石は後年この「虞美人草」を極度に嫌っていたとのことである。
「虞美人草」の最後は基本的には大団円である。甲野さんと糸子、小野さんと小夜子のカップルができあがり、漱石が謎の女と呼ぶ世間体を気にする藤尾の母親は悔い改める。宗近君は第一義を成就した立役者であり、悲劇は藤尾だけに起きたのである。漱石は藤尾が死ぬことによって「虞美人草」なる小説にひとまず区切りをつけたかったのであろう。ただ、この大団円は宗近君と藤尾が結婚する別の筋で終わりにすることもできた。こうした別の筋は「虞美人草」の後の小説にて記述されている。宗近君と藤尾が結婚するような小説が連なっており、むしろ小野さんと藤尾が結婚するのかもしれない、この後に漱石が書き残した小説群は矛盾に葛藤する、心を戦わせる者たちが名前を変えて変奏されながら綴られているはずである。
本書の最後の言葉が哲学以上に哲学的である。『道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然に起こる。・・陥穽の周囲に朽ちかかる道義の罠は妄りに超ゆべからざるを知る。罠は新たに張らなければならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る』この文章を解釈すれば面白そうである。作家とは妙なもので、きっと書くことによって内在する問題がより鮮明になり、それを追求しなければならなくなる。心はより枯渇してより深みに入っていくものなのであるのだろう。「虞美人草」を記述することにより小説の記述手法を試行して、かつ自らの描かんとする問題をより的確に把握し、漱石は先に述べたように約10年の間に夥しい作品群を残したのである。今でも決して古くはない新しい作品群である。
以上
|
|
|
|
2014年3月21日(金) |
D・デイヴィドソン著 服部裕幸 柴田正良訳「行為と出来事」を読んで |
「出来事」とは何か気に掛かる。それが本書を読んだ理由である。
ドウルーズが出来事について「意味の論理学」で述べていたことは次のようなことである。即ち出来事は我々が実現すると同時に、我々を待ち受けるものであり、この出来事によって我々は自己を見出し表出することができる。ただ出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものなのであるとする。そして、自由な人間だけがあらゆる暴力を唯一の暴力において把握し、あらゆる出来事を<唯一の出来事>において把握できるとする。
なお、出来事とは理念的であり、出来事は<唯一の同じ出来事>において交流する観念的な特異性であるとする。出来事の様態は問題性であり、出来事はもっぱら問題の条件を定める。出来事について語ることができるのは、その出来事によって条件が決定される問題の中だけであり、問題の場で展開されてその近傍で解として特異性を語るときだけである。特異性とは個人的・人称的であるどころか、個体と人格の発生を取り仕切るものである。特異性が真の出来事であるとするなら、特異性は絶えず特異性を再配分する<唯一の出来事>において交流し、特異性の変換は歴史を形成するとする。『戦争が出来事の本質に相応しい<出来事>であるのは、おそらく戦争が同時に多くの仕方で実現され、各参加者が各々の現在の変化につれ実現の異なる水準で戦争を捕えることができるからである』と具体的例をあげてドウルーズが言う時、よく理解できるのである。
本書では「行為と出来事」という題が示すように、行為の理由と原因を探り「出来事」を生じさせる因果関係を行為文の論理形式として考慮し記述したものである。従って、ドゥルーズが出来事を到来するものであり観念的な特異性として個人へ再配分する唯一の出来事の交流として記述するのとは明らかに異なっている。即ちデイヴィドソンにおいては、行為者がある出来事を行為たらしめるその行為文が探求の対象になるのである。「訳者解説」として服部裕幸が述べるには、デイヴィドソンは行為論と意味論の大家であるとのことである。本書は1980年に出版されている。ドゥルーズの「意味の論理学」は1969年に出版されている。デイヴィドソンはきっと「意味の論理学」を読んでいるに違いない。行為が唯一の出来事を説明してくれると述べている文章があったからである。本書は「意図と行為」、「出来事と原因」、「心理学の哲学」の三部、全九章からなる。なお、各章は独立した論文であるけれども、欠けている論文があるけれども、論理が修正されている論文がるようだけれども、全体としては筋が通っていてまとまっている。
どうも最近は、出来事と因果を論理的諸法則に従って論じていることが多いようである。きっとその方が、行為の結果として出来事を捕え、その理由と原因を探ることができるからであろう。ただ、私はドゥルーズの概念的に把握する考えの方が好きである。きっと哲学の思想にも論理ではなくて、感情的な好き嫌いがあるに違いない。従って、本書は最初丁寧にきちんと読んでいたが、半ば以降は斜め読みをしている。本書の記述が入り組んでいて読んでも分からない箇所が結構あったことも、論理式が理解しにくいことも斜め読みをした理由である。前書きが長くなったので、デイヴィドソンに関する論文のうち、気になる点を私の理解の範囲で少しばかり記述したい。なお、「訳者解説」として服部裕幸が本書の内容を紹介し、また批判も含めて詳しく解説しているので正確に本書の内容を知りたい人は、そちらを読むのが良い。『 』は本書からの引用文である。
さて、行為者の行為は賛成的態度、関連した信念、またはその両方によって「主たる理由」として因果的説明ができるということである。デイヴィドソンはテーゼを立て、この「説明ができる」という観点から各論者の論理に反駁して論証していくのである。このようにしてデイヴィドソンはそれまでの意図的行為の説明は理由と行為を原因と結果という形で関連づけることができないという当時受容されていた思想を否定するのである。この考え方は学会に相当影響を与えたようである。ただ、生き物の振る舞いが思考、欲求、情動、意欲からなるパターンである限り合理的なものであるが、自制が欠如しているとき行為者は自分自身を理解できていない、自分自身の中の何か本質的に理不尽なものに気づいているとも述べて、関連づけが難しいことがあることにも触れている。
更に著者は、行為者性と出来事について、行為者の行為と出来事因果性について述べる。出来事因果性は行為者が生じさせる原初的行為の広がりを説明できるが、行為者性の基礎的な意味は説明できないとする。なお原初的な行為とは最初のトリガーとなる行為であり、それが行為の連なりを生むことは説明できるが、その行為の意味性は説明できないと私は理解している。なお原初的な行為とは著者によれば身体運動である。そこで著者は行為者性の理解を手助けする行為者因果性という概念を導入する。こうして著者は原初的な行為の出来事の区別化から始まり、詳細に論じていくが分かりにくく省略。ただ、著者による結論は次のようになる。『われわれは、原初的行為、すなわち、何か別のことをなすことによってなすのではない行為とは単なる身体運動であり、実際に存在する行為のすべてはこれのみである、・・われわれは自分の体を動かすこと以上のことは何一つしていない。その後のことは成り行きまかせなのである』ただ、身体運動と制限されていても、ダムの建設や、互いの殺し合いなどの理由も説明してくれる事実、運動でもあると著者は述べる。
出来事は存在論的カテゴリーを構成するものなのである。『心的出来事がある種の生理学的出来事と同一であると考えられるべく要求されるという事実は、・・出来事は個体でなければならないのである』そして出来事は個別化成され得るし存在するのである。更に著者は知覚、想起、決定、行為といった心的な出来事について論じる。記述内容については省略。本感想文を書いていて気付いたのであるが、デイヴィドソンの文章はとても分かりにくいか、複雑な論理構造の文章になっている。私は感想文にデイヴィドソンの思想の主旨や流れを記述していない。また省略が多いことは私が本書を理解できていないことの証拠でもある。ぜひ、服部裕幸の「訳者解説」を読んで頂きたい。
以上
|
|
|
|
2014年3月14日(金) |
トマス・ペイン著 西川正身訳「人間の権利」を読んで |
人間に権利があるかどうか、あるならその理由はと問うて読んだのであるが、この問いに容易に解は得られるはずもない。ただ、人間の自由、平等、博愛などのそれぞれの言葉の意味が、権利も含めて「概念」を表したものであるという思いが押し寄せてくる。ただ、存在を定立化させる本来的な「概念」の必要性を論じたドゥルーズの概念を、その根本的な思想の源が把握できたような気がする。彼が自由、平等、博愛などの言葉を用いずに、デリダのようにルソーを論述せずに、抽象化した概念のみを論じていることが痛いように分かるのである。私がもし哲学書なる本を記述できるなら、同様にこうした言葉は使わずに、ドゥルーズと同じように言わんとするところを抽象化した概念で記述するであろう。
真実があるかないかは別にして、もはや真実があったとしても抽象化した平面にて謎かけのように記述するだろう。なぜならその辺りに転がっているかもしれない真実はあまりにも歪曲されていて醜悪に変形していて記述するには耐え難いからである。悪臭が立ち込めていて逃げ回りその姿を遠くに隠そうとするものを追い駆けたりはしない。この真実を元の姿に矯正したければ、いや真実を正すことなどできるはずがなくて、もはやただ見守って渦巻く言葉の端から謎を込めて、この真実の真の姿に実は恋い焦がれているという思いを、概念による抽象的な切なさを込めて、麗しくて美しい真実の真の姿を求めている哀切な思いを言葉の切れ端にてただ吐き出すしかない。逃げ去ろうとする真実にすがりつきたい思いをこらえて、今はただ待つしかない、というより真の真実は常に姿を隠して逃げ去るのである。ただ真実と称した別の醜悪な真実が襲い掛かるように近づいて来ることを恐れている。何を為すべきか忘れて、真実があるならもはや真の真実が飲み込まれようとしているこの世の常ながら無常の風景があるのであり、その風景が眼前に広がっているように思われて、じっと凝視している人の目ならぬ犬の目ならぬ死んだ魚の目があるのである。
少し序文が長くなったが、本書はフランス革命の意義を否定し攻撃するエドマンド・バークの著書に対するトマス・ペインの反駁の書である。トマス・ペインは西川正身のあとがきによると、アメリカ独立とフランス革命に関与し社会主義の実現を自分の使命のように考えていたらしい。本書は二部構成、全13章に分かれて記述されている。第一部ではフランス革命の意義を強調する論理で真っ向からバークへ反駁している。人間の権利は第一部に記述されている。第二部では社会と文明論から始まって、貧民税や国債の支払にまで計算し剰余金が出る福祉国家の実現を目指している。どうもペインのお金の計算では国の財政は楽観視できるのか、それとも計算がどこか間違っているのかは分からない。感想文では「人間の権利」に関してだけ記述したい。それしか関心がないのである。『 』は引用文である。
ペインによる人間の権利は造物主に作られた時点まで遡らなければならず、その時『その時点で人間は一体何であったかか、人間だったのである。人間であることが、その唯一の肩書であったので、これ以上に高貴な肩書、人間に与えることができがしない』(65頁)のである。次に人間の一体性について述べる。『わたしが「人間の一体性」と言ったのは、人はすべて「同じ一つの階層」に属するものであり、したがって、万人が生まれながらに平等で、しかも平等な自然権を持っていることは、後代の人びとが、あたかも「生殖」によよってではなく、「創造」によって継続されてきたように思える・・』(67頁)創世記においては『両性の差別そこ指摘しているが、それ以外の差別は暗示さえされていない。これは神聖な権威ではないにしても、少なくとも歴史的な権威なのであって、人間の平等性が、近代の教義であるどころか、記録にとどめられた最古のものであることを示している』(68頁)どうやらペインは自然権に基づいて人間の権利を述べているらしい。そして市民権に話を進めていくのである。『自然権とは、生存しているとの理由で人間に属する権利のことであって、・・市民権とは、社会の一員であるとの理由で人間に属している権利を指す』(70頁)この市民権と憲法や法律の話は省略。こうしてフランス革命の話が続いて行くのである。
ここで人権宣言の文章があったので記しておく。全十七条であるが最初の三条にとどめる。
第一条 人間は生まれながらにして、またつねに変わらず、自由、かつ権利の点において平等である。したがって、社会的差別は、公共に役に立つか否かのうえにこれを設けることができる。
第二条 すべての政治結社の目的は、奪うことを許されぬ人間の自然権を保持することにあり、これらの権利は、自由、所有権、安全、圧制に対する対抗である。
第三条 国民は、本質的にはすべての主権の根源である。したがって、いかなる「個人」も、またいかなる「団体」も、明らかに国民に由来せぬ権威は、いかなるものであれ、これをもちことは許されない。
こうしてみると条文化された人間の権利というものが、ここ何百年か続いてきた、今も続けて行こうとする「概念」でしかないことがよく分かる。そして存在を定立させなければならないとしたらこの概念を生成し続けなければならない。それは存立平面の変容によってこの概念の麗しく美しい姿が変化生成することである。きっとより美しくはならないであろう、醜くなるのでもない、この存立平面の変容によってただその姿が変貌するのである、いやまったく別の概念に変身するかもしれない。そして、概念は真実ではないのである。ただ概念は真実になれる時がある。華麗に変貌、変身できるその生成変化を、自ら容態を変えるそのことそれ自身が真実なのである。無論、この生成変化は外部から無理に犯すようになされては、醜悪に変形していき概念の真の麗しい姿が隠されるであろう。
最後の思いを述べる。リュック・ナンシーの言う存在への不意打ちによって常に立ち現われてくる「自由」ように、この「自由」はや人間でも国家であっても、もはや「概念」を超えてしまい、剥き出しにされた「本性論」によって論じられなければならないだろう。立ち現われてくる本来の姿ではなくて、常に本性論が、性分が問題になるのである。そしてこれを論じるにはベルグソンの述べる「収縮と膨張」という概念が、その生じるはずの現象とともに大いに役に立つに違いないのである。
以上
|
|
|
|
2014年3月7日(金) |
ルソー著 本田喜代治・平岡昇訳「人間不平等起源論」を読んで |
ルソーの「社会契約論」を読んだなら、この「人間不平等起源論」も読まなくてはならないだろう。結論から言うと、「社会契約論」がルソーの思想の完成された姿を現しているとしたら、本書はその思想の源泉たる生の姿を表している。つまり理論の形成に寄与する思想的萌芽が自由闊達な文章の内に見られるのであるのである。無論「政治経済論」と合わせて読まなければならないが、ただ「政治経済論」は活力に乏しくてそれほど面白くはない。「社会契約論」が完成している科学的な文章であるとするなら、本書の文章は不平等に対する、人間社会に対する憤怒などの情感も含まれていて滑らかながら饒舌に味のある文章なのである。ただ、その記述内容は楽しく読ませてくれるけれども、思想としてそれほど感銘を受けることはなかったのである。この当時の封建制度に対する非難とそれに従う自然状態から離れた人間の悲惨さが描かれている良い本であると思いながら、思想的な新鮮味はなかったのである。ただルソーに内在している問題をすべて読破できたとは言えず、機会があれば読み直して彼の新たな視点を見出したい。それほど本書は科学的にも文学的にも人間についての表現が豊かで、萌芽しようとする種が撒かれているはずである。
本書は特異な構成をしている。「ジュネーヴ共和国に捧げる」、続いて序文、そして本論は第一部と第二部に分かれて、ルソー自らが付けた原注、付録としてヴォルテールとの手紙のやり取り、フィロポスへの返事が掲載されている。特に原注が本文に匹敵するほど長いのである。解説にて平岡昇は、「人間不平等起源論」は懸賞論文への応募だと述べている。「学術芸術論」にてルソーは懸賞論文に当選しているが、本書は当選はしていない、ルソーも当選するとは期待していなかったのである。懸賞論文の題は「人々の間における不平等の起源はなんであるか、それは自然法によって是認されるか」ということで、当選した論文は、不平等は自然法によって是認される趣旨に従って記述されていたということである。
この落選した論文を祖国ジュネーヴ共和国にて、献辞文「ジュネーヴ共和国に捧げる」を添えて出版することになるが、下層民を憤怒しすぎる、憎悪を駆り立てる論文として、現実の政治権力を刺激して不信を募らせたらしい。本書の序文では法と自由について書かれている。さて本論に入るが、ルソーは人類のなかに二種類の不平等、自然によって定められる自然的または身体的不平等と社会的または政治的な特権によって成り立つ不平等の二つの不平等があると指摘する。そして第一部では自然状態、第二部では社会状態の不平等を記述するのである。『 』は本書からの引用文である。
第一部でルソーは人間の特性を能力として指摘する。この改善能力をルソーは人間と動物との区別、脱自然状態への原動力として使用していると、訳注では指摘している。この能力について『この特異なほとんど無制限な能力が人間のあらゆる不幸の源泉であり、平穏で無辜な日々が過ぎてはずのあの原始の状態から、時の経過とともに人間を引き出すものがこの能力であり、また人間の知識と誤謬、悪徳と美徳を、幾世期の流れのうちに孵化させて、ついには人間を彼自身と自然に対する暴君にしているものこそ、この能力であることは、まれわれにとって悲しいことながら認めないわけにはいかないだろう』(53頁)とルソーは述べている。この能力に対する疑念がルソーには常に付き纏っているのである。
そして『自然状態とはわれわれの自己保存のための配慮が他人の保存にとってももっとも害の少ない状態なのだから、この状態に従ってもっとも平和に適し、人類にもっともふさわしいものであった、と言うべきであったのだ』(70頁)『人と人との差異が、自然の状態においては社会の状態よりいかに少ないものであるか、また自然の不平等が人類においては制度の不平等によっていかに増大せざるをえないか理解されるであろう』(81頁)ということになるのであり、『自然状態においては不平等はほとんど感じられないことと、不平等の影響もそこでは無に近いことを証明したのだから、これからなすことは、その不平等の起源と進歩とを人間精神の連続的な発展のなかで示すことである』(83頁)と述べる。そしてこの諸能力の発展には外的な要因、偶然が協力していたと指摘する。ルソーはこの自然状態は発展することはないが、人間は無垢で平等に暮らしていたとする。不平等は人間の発展そのものに起因するのである。
そして第二部では、人間精神の連続的な発展のなかで、人々はさまざまな事物を眺めて比較することに慣れると指摘し、踊る者、美しい者、強い者、巧みな者、雄弁な者が重んじられるようになり『そしてこれが不平等への、また同時に悪徳への第一歩であった。この最初の選り好みから一方では虚栄と軽蔑とが、他方では恥辱と羨望が生まれた』(94頁)と述べるのである。この結果『各人は自分に示された軽蔑を、自分自身の重んじる程度に応じて罰したから、復讐は猛烈となり、人々は血を流すことを好むようになり、残酷になった』(94頁)のである。そして貯えが有効であると気づくと『平等は消え失せ、私有が導入され、労働が必要となった』(95頁)のである。自然法から生まれる権利とは違った私有の権利が生まれるのである。つまり『自然の不平等が新しい原因の組み合わせによる不平等とともに知らず知らずのあいだに発展し、状況の相違によって発展した人々の相違は、その成果の点でいっそう著しくなり、いっそう永続的になり、そしてそれと同じ割合で個々の人間の運命に影響し始める』(100頁)のである。
こうして『一方では競争と対抗意識と、他方では利害対立と、つねに他人を犠牲にして自分の利益を得ようとするひそやかな欲望。これらすべての悪が私有の最初の効果であり、生まれたばかりの不平等と切り離すことのできない結果なのだ』と述べる。こうして貯えられた財産は略奪の危険があり、生命の危険もあり、結合体の全員を守るための社会や法が生まれるのである。ただ『この社会と法律が弱い者には新たなくびきを、富める者には新たな力を与え、自然の自由を永久に破壊してしまい、私有と不平等の法律を永久に固定し、巧妙な簒奪をもって取り消すことのできない権利としてしまい、若干の野心家の利益のために、以後全人類を労働と隷属と貧困に屈服させたのである』(106頁)こうしてルソーは財産や自由についてその権利や放棄について述べる。政治構造や法について述べる。君主制や民主制を述べるのである。専制主義において『そこには考慮すべき誠実も義務もなくなり、極度に盲目的な服従だけが奴隷に残された唯一の美徳になる』のが不平等の到達点となるのである。結局『不平等は所有権と法律の設定によって安定し正当なものとなる』(130頁)とルソーは述べるのである。
こうしてみると当時の専制政治による社会における痛烈な批判書である。そして、この不平等が所有権と法律によって決定的になるのである。ところが「社会契約論」における思想の主旨は「自然状態」にて実現されている人間の自由と平等が「社会状態」でも失われることがないのであり、社会契約によって実現され解決できるとの主張である。この社会契約に基づく解決は人民の「一般意志」という最高の指導の下に実現可能となる。こうした思想に移行するために、ルソーは「社会契約論」にて人間が生存するために集合による力の総和を作る必要性を論じ、この集合たる社会の『「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」これこそが根本問題であり、社会契約がそれに解決を与える』とするのである。
つまり「人間不平等起源論」が不平等に対する「嘆き」の書であるなら、「社会契約論」は所有権と法律を認め、自然状態と同様に社会状態でも平等を維持できるとして「一般意志」を含め格段にルソーの思想を発展させた書と言うことができる。それにしても「嘆き」から社会「契約」へとその思想の内容の展開には目を見張るものがある。旧約聖書においてモーゼは神と十戒という契約を結んだはずで、どうも西洋には契約という意味ある言葉が昔からあったようである。ただ、私には何だか「契約」という言葉が理解できない、分からなくなくなってきたのである。ある種の「概念」として捕えるべきなのだろうか。それなら「嘆き」から「契約」へと急展開するルソーの思想が概念を孕ませ、生み出させたとして理解できないこともないのである。
以上
|
|
|
|
2014年2月28日(金) |
河野健二著「フランス革命小史」を読んで |
「自由」、「平等」、「博愛」に「人権」を加えて、その基本的な考え方がよく分からなくなったために、まずフランス革命について知りたくて読んだ本である。フランス革命については結構著作物が出版されていて、桑原武夫の研究成果が有名なようである。以下図書館から取り寄せた主な本の記述内容である。
1) 河野健二著「フランス革命小史」岩波新書 約200頁
新書版で手軽に読める。フランス革命の意義とその思想背景に革命の物語的な展開がなされていて、フランス革命のおおよそがすぐに理解できる良い本である。
2) 桑原武夫編「フランス革命の研究」岩波書店刊行 1959年 約700頁
B5版で活字も小さく読みにくいが、フランス革命が詳述されていて、研究者向きと思われる。
3) 桑原武夫責任編集「世界の歴史10 フランス革命とナポレオン」中央公論社 1961年 約500頁
B6版か本が「フランス革命の研究」より小さく活字も大きくて、かつ物語的に記述されていて、フランス革命を歴史物語として読むには良い本であると思われる。
4) 柴田三千雄著「フランス革命」 岩波セミナーブックス30 1989年 約250頁
6回に渡って行われた「岩波市民セミナー」の公演内容を加筆や修正を行いまとめたものである。話体である。セミナーであるためテーマを絞っており、物語的ではなくてやはり講演調である。
5) 河野健二 樋口健一著「世界の歴史15 フランス革命」河出書房新社 1987年 約400頁
文庫本でフランス革命をナポレオンの治世までお話としてまとめた本である。本書を最終的に所有することにする。
手っ取り早く、河野健二著「フランス革命小史」を読むことした。なお著者は封建革命・ブルジョア革命・社会主義革命について考察する一環として、過去の歴史としてのフランス革命の問題を捕えたい旨の記述をしている。この視点は重要である。以下はその内容を箇条書きにした簡単なまともである。
1) フランス革命は絶対王政を打倒したブルジョア革命であり、自由と平等を実現した革命でもある。なお産業革命の影響で工業生産も増大し経済的諸力が増大した時期でもある。こうしてブルジョアが勢力を伸ばしていくのである。
2) 一方、農村は土地に対する農民の権利が確固たるものとなり小農民経営でありながら、租税の負担や不作などによって貧しい。この多数の貧農層の精力的な行動が革命を前進させる力となるのである。言わば農民による襲撃である。
3) 啓蒙思想家としては、人間主義と自然主義であるモンテスキューと人間と人間社会を客観的に捕えるヴォルテールが先駆している。ホッブスやロックの人間中心的な思想、並びにケネーやディドロにルソーの人間や経済や社会への思想がある。なお、土地の所有権の問題は重要であり、安全と自由が保障されるのはこの「所有権」に基礎をおく政府と国家を作る必要があるのであり、これらを含めて人間と社会が重農主義者や「百科全書」派によって当時声高に論じられているとのこと。
4) フランス革命の発きっかけは1787年の経済問題に関して王権に反抗した「貴族革命」である。この結果三部会が1789年に開催される。三部会とは貴族、僧侶、「第三身分」である。この結果フランス革命が長い間続くことになる。各勢力の分裂と結合に内部闘争そして他の国との戦争が加わり複雑化していく。更に王と王妃に対する王権や生命の取り扱いも話し合われていくのである。
5) 1791年に立憲議会が「人間と市民の権利宣言」を確定させる。この時議会ではまだ少数派だったロベスピエールがその後人民主権論を主張して人気を博する。なお、旧勢力とブルジョア議会と民衆の三者が対立と妥協を続けても革命は進み、1792年の八月十日革命による王権の停止など、更に革命派内部の対立を含みながらもモンターニュ派(ロベスピエールを含む)は食料などの国内問題や戦争に失敗するジロンド派に勝利するのである。なお、ロベスピエールはジャコバン派であるらしい。ルイ十六世は王権停止後の1793年に処刑されている。
6) 内外の暴動や戦争の緊迫化に過激派を取り締まる公安委員会の独裁による恐怖政治が始まる。これはロベスピエールによる独裁でもある。著者は「勝利、恐怖、美徳」と言う言葉でこの期間を要約する。そして戦争に対する勝利が、恐怖政治からの反動を引き起こしてロベスピエール派は処刑されるのである。
7) 公安委員会は共和主義的なテルミドール派が勢力を握るが、その共和主義的な思想の実現をもたらすはずの社会的な確固たる基盤は整備されず軍隊の助力を求める。ここにナポレオンの生み出される背景がある。ジャコバン党の勢力復活に対してテルミドール派はナポレオンなどの三人の執政を1799年に認める。権力強化を図ったナポレオンは「革命は終わった」と言うのである。
ロベスピエールに対する印象が恐怖政治とうより、人民による政治を目指していた点が興味深い。結局「自由」、「平等」、「博愛」に「人権」の概念は啓蒙家たちが記述した啓蒙書を読んでみないと分からないということである。
以上
|
|
|
|
2014年2月21日(金) |
飯田隆他編集委員「岩波講座哲学02 形而上学の現在」を読んで |
本書は期待して読んだのではあるが、それほど「形而上学の現在」の状況が分かるのではない。巻頭の展望と2章からなる「形而学上の核心」と「形而上学の現代位相」及び探求において掲載されている10の小論文だけでは現在形而上学がどう動いているのか、各小論文が限られた数十頁の中でテーマを絞り記述しているために仔細が分かるわけではないのである。ただ巻頭の「形而上学は現在する」や「概念と方法」と「テクストからの展望」の2、3頁のごく短い17の論文が結構現在ではなくとも哲学の歴史などを雄弁に語っているとも思われる。
どうも本書を読むと物理学における量子力学の成果と共に確率論的な思考方法が、不確実性の思考が浸透している、また変わらず論理学的な思考の哲学もある。でも、根本にはギリシア哲学があるのである。デカルトやカントも批判を受け続けているのである。どうもこの講座哲学ではなくて、哲学の歴史などを記述した本を読むほうが現在の哲学の状況をくっきりと浮かびがらせることができるのかもしれない。いずれにせよ読んだからには、気に掛かった小論文について少しばかり紹介したい。なお岩波講座哲学は2008年に発刊されている。
1. 形而上学は現在する
無ではなくてあるものが存在するのか、との文章から始まって、形而上学の状況と生存理由と新たな動向を問うのである。
2. なぜ世界は存在するのか
世界が存在するかにつき神学的立場や認識論の問題などとして捕え論述している。
3. 「形而上学」の死と再生
超越論的経験論が面白い。ドゥルーズは自らの超越論的哲学を超越論的経験論と名付け作業を遂行していたらしい。個体の発生と変容=生成がカテゴリーの体系とどうも関連づけられていて、この変容が超越論的経験論の存在論的な帰結であると述べている。
4. 必然・可能・現実
様相実在論とは面白いものである。文を修飾するのではなくて文関数への修飾であるとのこと。
5. 出来事と因果
出来事と因果を論理的諸法則に従って論じている。
6. 無の場と創造性
「歴程」という言葉を自己創造のプロセスとして用いて、自己の創造的プロセスなどを論じている。
7. 決定論と自由
自由について、人間的自由は決定論と両立可能か論じるこことから始めて自由について論じている。結局、著者の意見は自由とは「思う(欲する)とおりに行為できること」と思われる。一番面白かった論文である。
やはり気に入った哲学書を読むのが一番面白い、従って哲学講座なるシリーズは必要な時だけ読むことにして、この「岩波講座哲学02」にて読むのは中断したい。
以上
|
|
|
|
2014年2月14日(金) |
リチャード・ローティ著 伊藤春樹 須藤訓任 野家伸也 柴田正良訳「哲学と自然の鏡」を読んで |
本書は哲学において結構有名でありかつ重要な書物であるらしい。結論から言うと本書は文章が難しくて精読しなければその詳細な内容は分からずとも、大まかな内容は「序」や裏表紙の紹介文から分かったので、時間をかけずにさっと斜め読みしたのである。ただ、三部に分かれ全八章で記述されているうちの第八章「鏡なしの哲学」についてはそれなりに読んだ。鏡なしの哲学が何を示すか知りたかったためである。本書が本当に必要になった時には再読したい。著者が主張することを理解できた範囲で簡単に述べる。なお、メタファーは隠喩であるが詳細な説明は省略。
哲学は知っていること、即ち知識の基礎を理解しているとして、この基礎を知る者としての人間の心や表象の問題を取り扱っているとする。即ち知るとは心の外に在るものを表象することであり、知識はこの正確な表象の仕方を理解することで得られるのである。ただ、知識概念はギリシア的なメタファーに置き換え可能であり、哲学は命題よりも描像によって、言明よりもメタファーにより表され規定されていたとする。鏡としての心という描像が、いかに心が視覚的なメタファーによって支配されてきたかを見せてくれるのである。この鏡を点検し修復し磨き上げる戦略が必要なのであり、哲学はこの戦略によって因習的な哲学に風穴を開けなければならないと著者は主張するのである。
直接的に言い表せば、ローティが称える三人の偉大な哲学者、ウィットゲンシュタインやハイデガーやデューイがこの伝統的な鏡のイメージ系な哲学に論争を挑み批判を行っているのである。本書はこれらの偉大な哲学者の思想に基づいたローティによる伝統哲学、ロック、デカルト、カント、ラッセル、フッサールらへの批判書でもある。そしてローティはこの鏡なる表象の理論から離れて新しい哲学を志向するのである。(なお彼が世界の在り方に真実を与えるような言語を拒絶し、芸術と科学は等しく言語的革新に、それゆえメタファーに依存する。文学や道徳や政治においてもその突破口はメタファーの発明に懸っていると考えることは西洋文化が自分自身を再編成する機会をもつことに大いに資すると述べているのは注目に値する。注:この文意は本人にも理解不能)
第8章「鏡なしの哲学」でローティは新たな学派の基礎を導く革命的哲学者を、建設的な体系的哲学と自らの語彙がいつか制度化されるとも思わぬまま意図的に傍流である啓発的哲学に分けた上で、啓発的な哲学は心理の発見よりも会話の継続にあると主張する。無論ウィットゲンシュタインやハイデガーやデューイは啓発的哲学に属する。体系的哲学の誤りは何らかの形而上学言説が必要である点であると指摘し、哲学者は知識に関して知っていると考えるのを止め、純粋に彼が読んだり議論したりする書物によって哲学が成されると主張する。つまり哲学者は伝統的諸問題に現に縛られている位置に居るのではなくて、西洋の会話を継続させるべきであると主張して本書の記述を終えるのである。即ち体系的哲学が古くから認識論に基づいて行っている表象から離れて、哲学はより精密な認識を行って、会話に基づいた認識からの確かな知の確保、きっとより論理的で実践的な手法を用いた新しい哲学が必要なのであると彼は言いたいのだろう。この哲学に対する考え方には共感でき得る。最初に述べたが、本書が本当に必要になった時には再読したい。
以上
|
|
|
|
2014年2月7日(金) |
野崎歓著「フランス文学と愛」を読んで |
手軽に楽しく読めて知識を増やしてくれたとても良い本である。本の引用なども自らの文章の中に収めていて、生き生きとした文章がとても読みやすい。本の題名通りにフランス文学の愛、即ちアムールについて、全6章「太陽王と恋の世紀」、「快楽の自由思想」、「感情教育」、「結婚と愛」、「親子の愛」、「解放と現在」と題して、夥しい作品を例に取りながら、17世紀のモリエールの「滑稽な才女たち」などから18、19世紀、ヌーヴォロマンに現代小説のカトリーヌ・ミエの「カトリーヌ・Mの正直な告白」などのフランス文学を通じて、フランスにおける愛、アムールと称するものの考え方の変遷を分かり易く的確に記述している。読んでいない本が結構あったが読すぐにみたくなるほど説得力に富んでいる本である。
本書に紹介されている愛の考え方、フランス社会における愛の概念的な変遷について簡単に記述して感想文としたい。17世紀においては、宮廷やサロンにおける才気豊かな女性たちによる愛、騎士道風な既婚女性へのプラットニックな愛、そして恋人たちの愛よりも、家柄に義務が何よりも愛には優先された時代なのである。無論、家柄や義務に捕われて極まりない愛の悲劇が生じることもある。この時代には女性は夫を愛することだけが幸福であるとの教育を徹底的に受けている。未亡人になって初めて女性は法的に自由の身になれる時代なのである。なお、著者によれば妻を「私の女」などと呼びフランス語には「妻」にあたる語がないということである。
ところが18世紀になるときわどい表紙絵の醸し出すエロスが逸楽を誘うのである。好色文学が栄えそのように放縦に行動する男女がいる。一方純愛主義を貫こうとする男女もいるのであるが、この放縦な行動は悪徳として想像力を極限まで突き進めさせる文学を生み出すことになる。1792年のフランス革命以降、19世紀においては色好みの道なる快楽主義から一変して、個人の快楽よりも家庭の安定と繁栄を優先させる愛を賛歌するのである。ただ本当の愛は結婚とは重なり合わない事実が文学において糾弾される。この文学は日常の現実を描くことによって近代リアリズムの発生に貢献する。ただ日常がありきたりであれば、日常を非日常化するエロティシズムや殺人が事件として立ち現われてくるのである。
こうして著者は特異な親子の愛や嫉妬に子供への暴力について語った後、二十世紀において初めてアムールの社会的な変容が成されたとする。それは多数の女性作家の登場によって奪還された女性による自由な愛の権利であり、その権利の行使である。ただこの愛の権利の激変は破壊的なものであり、この権利を呪う者も伝統的な愛の価値観を賛美する者も出て来るのである。現在のフランスの婚外子の割合は出生子の約半分であると著者は言う。そして逆にセクシュアリティの終焉による平安な心を得る者も出て来る。性差や個人差からの解放である。こうして著者は最後に愛と文学についてまとめているが、このまとめられた内容についての記述は省略する。
以上
|
|
|
|
2014年1月31日(金) |
飯田隆他編集委員「岩波講座哲学01 いま〈哲学する〉ことへ」を読んで |
今哲学が何を行っているか知りたくて本書「岩波講座哲学」を読むことにしたのである。ただ、この「岩波講座哲学01 いま〈哲学する〉ことへ」は、「はしがき」を読むと今の哲学の状況をきっと正しく捕えていると思われる。ただ、四つの章 Ⅰ「理性/ロゴスの再生」、Ⅱ「日本語で哲学すること」、Ⅲ「他者・あいだ・公共性」、Ⅳ「哲学の現場/現場の哲学」として掲載されている12の小論文を読むと、どうも記述が不足している気がしてならない。「「いま〈哲学する〉ことへ」に関して、きっと〈哲学する〉ことの定義としての論文が無いからであろう。今現在の哲学が何を行っているか、哲学の現状については「岩波講座哲学02 形而上学の現在」に期待したい。感想としては、気に掛かった小論文について少しばかり紹介したい。なおこの岩波講座哲学は2008年に発刊されている。
1. 名づける、喩える、書き換える
心について能動と受動の観点から、魂のはたらきについて、心の哲学について記述している。
2. 理性と非理性
理性の限界の対立について記述している。まさに現在の哲学の根本問題の気がする。
3. 科学のナラトラジー
自分の世界経験を構成し意味づける「物語り」論が「因果概念無用論」が面白い。
4. 技術への問い
現在は「社会構成主義」として複合的に技術を捕え論じるらしい。この影響下で決定論と本質主義に批判が展開されてきたとのことである。こうして著者は西田哲学の非本質論を論じる。
5. 「見る」と「見える」
「見る」と「見える」の違いについて、聞くなど他の例をあげて著者は認識主体と全体的な「場」から論じている。
6. 他性と超越
〈わたし〉と他性について世界との関係を、言語を含めて論じている。ただ思考の始まりは問いと一般的に言うと述べられているが、違うような気がする。問いは論じた後の結果であると思う。あまのじゃくなる勝手な言い分であるが・・。
7. “不条理な苦痛”と「水俣の傷み」
水俣病に関する哲学者同志の論争を記述している。それにしてもその人の思想の本質はちょっとした文章の端くれに単語にも表れるものなのである。そうした経験を私も持つ。文章には気を付けなければならない、でもきっと無意識のうちに記述してしまうのであろう。話す言葉が思いもかけず要らぬことを言うように。
以上
|
|
|
|
2014年1月24日(金) |
工藤庸子著 「近代ヨーロッパ宗教文化論 姦通小説・ナポレオン法典・政教分離」を読んで |
本書は読売新聞にて紹介されていて関心を持ち読んだ本である。500頁を超える大著でありながら、著者の博識と凛として明確に記述する文体は結構面白く読ませ楽しませてくれたのである。どうも著者は主に近代のフランス文学を研究する文学者でありながら、カトリックの伝統のスピリチュアリティ(霊性)に関心を持ちこれを手掛かりに宗教文化に通じて、近代のフランス文学、スタンダールの「赤と黒」、バルザックの「谷間の百合」、フローベールの「ボヴァリー夫人」など多数のフランス近代小説を題材にしながら近世ヨーロッパの宗教と文化について論じたものである。なお、この辺の経緯と思考方法の確立と宗教と文化との相互関係は、序章の「現代の宗教と文化」に詳しく述べられている。なお、本書は四部に分かれている。
序章 現代の宗教と文化
第Ⅰ部 ヒロインたちの死生学
第Ⅱ部 ナポレオン あるいは文化装置としてのネイション
第Ⅲ部 姦通小説論
第Ⅳ部 ライシテの時代の宗教文化
終章 女たちの声――国民文学の彼方へ
各部は独立して読むことができるが、特に関心を持ったのは第Ⅰ部と第Ⅲ部である。引用され論じられている小説も内容は殆ど忘れたがそれなりに読んでいたはずである。ただ、キリスト教などと無関係な私には論じること自体の意味が理解し難いことも感じられたのである。例えば死に際に終油を授けられる際の「告解」や「聖体拝領」があったかどうか。人間の最期をみとったのは聖職者か医師なのか。「姦通」を罰したのは宗教か民法かなどの問題である。ただ、「姦通」にはえも言われぬ甘美なものがふんわりと漂っているという風にフローベールが言ったらしいが、それは良く理解できるのである。「姦通」がなくなった現在では「不倫」がそれに当たるがだいぶ手垢がついて日常茶飯事に横行しふんわりと浮かぶわけにはいかないだろう。どうも本書で述べられていることがなんとなくしっくり理解できないことが、楽しく読ませてもらった割には少し不満なのである。
ドゥルーズはこうした近代のフランス文学を取り上げていない。彼は「デァローグ」において英米文学の優位を解いている。たぶん人間の境界を、折れ曲がった道を逃走する人物を近代フランス文学が描いていないからであろう。だが近代以降のフランス文学は結構引用しているのである。こうしてみると取り上げる文学はもはや個々人が影響を受けたもしくは関心を引いた範囲に限定されるのであろう。私も本書で引用されている文学は結構読んだことがあるが古びていて記憶にないというより、それ以降のフランス文学に影響されているのである。ドゥルーズが取り上げ論表する小説に同様の感銘を受けるのである。「姦通」や「死生学」は理解できないというより、「死」や「生」に「性」は、宗教の教義や儀式に文化を超えた論点を含んでいる気がしてならないのである。それはもはやきっと本書の枠組を超えた何かである。その何かは哲学で述べるべきなのか、宗教や文化にて、もしや文学で述べるべきなのか分からずに困っているのである。たぶん、著者はこのことを知っていて、難解な複雑さに陥るのを極力避けるべく枠組みを宗教と文化に定め記述していると思われる。
例えば本書の趣旨に反して、日本の文学を取り上げれば「伊勢物語」における主人公と伊勢の齊宮との関係は神仏や法の処罰を一つも受けない。源氏物語の義理の母との近親相姦もそれらしき罰を受けない物語なのである。無論その後日本にても姦通は罰せられる。ただ「好色五人女」における井原西鶴も「姦通」した女を哀れと思いながらも、罰などとは無関係に女の情念を冷静に描写している。どうしても宗教と文化を論じる場合、日本の例を含まなければ私などには理解できない。「姦通」が罪であるのは聖書があるからであり、「姦通」が罰を受けて死罪になるのは単に法律があるからである。これらの文化と宗教の枠組みは多くの数からなりそれに応じて罪になるのか罰になるのか許容されることなのか、まったく異なってくるのである。なんか話が横道に逸れたが、要は本書は題名の「近代ヨーロッパ宗教文化論 姦通小説・ナポレオン法典・政教分離」の通りに主に近代フランス文学に基づき、近代ヨーロッパ宗教文化論として四項目論じていて、それ以外は当然少しばかり筆が滑った以外は記述していないのである。序章の「現代の宗教と文化」の内容を豊かにし、詳細に論じればとても関心を持って読むことができるのであるが・・。ただ著者の冷静な筆致の内には、文学を外堀から解き明かそうとする情熱が秘められていて、壮絶な文学論もしくは研究書として読めばとても納得できるのである。
以上
|
|
|
|
2014年1月17日(金) |
ルソー著 桑原武雄 前川貞次郎訳「社会契約論」を読んで |
何かとルソーが話題になる時があり、まずこの「社会契約論」を読んでみたのである。少し古臭い所や分からい箇所があったが、全体的には平易な文章で分かりやすい良い本である。本書の思想の主旨は「自然状態」にて実現されている人間の自由と平等が「社会状態」でも失われることがないのであり、社会契約によって実現され解決できるとの主張である。この社会契約に基づく解決は人民の「一般意志」という最高の指導の下に実現可能となる。この基本的な考え方を示した文章を参考までに、少し分かりにくいかもしれないが引用して、感想文としては簡単にしたい。
最初の文章が有名である。『人間は自由なものとして生まれた、しかしいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか? わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか? わたしはこの問題は解きうると信じる』(15頁)ルソーのこの最初の文章は、複雑さを回避するために人間は自由なものとして生まれたのだと単純に理解しよう。そして彼は、家族は政治社会の最初のモデルとし、両者とも平等で自由に生まれたと述べた後に、暴力と権利について約束について語る。『力は権利を生み出さないこと、また、ひとは正当な権力にしか従う義務がない』(20頁)のであり、『人間のあいだの正当な権威の基礎としては、約束だけがのこる』(21頁)のである。この約束が多数決の法則となり社会契約の思想となるのである。
こうしてルソーは人間が生存するために集合による力の総和を作る必要性を論じ、この集合たる社会の『「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」これこそが根本問題であり、社会契約がそれに解決を与える』(29頁)とする。この契約の諸条項は『正しく理解すれば、すべてが一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員をそのすべての権利とともに、共同体の全体にたいして、全面的に譲渡することである』(30頁)『もし社会契約から、その本質的でないものを取り除くと、それは次の言葉に帰着することがわかるだろう。「我々の各々は身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめにして受け取るのだ』(31頁)これが社会とその構成員との諸関係である。
この「社会契約論」の出版以前に「不平等起源論」や「政治経済論」をルソーは記述しているとのことで、調べてみたい。また「自由」「平等」「博愛」を標榜するフランス革命についても調べてみたい。本書を読んでみて良い点、悪い点、不明な点の文章を抜き書きしてまとめると次のようになる。
1) 良い点 欠
2) 悪い点 欠
3) 不明な点 欠
ルソーのこうした自由や社会契約の思想は僭主や貴族に恐れられて、彼は相応の迫害を受けたらしい。当時としては斬新な考え方であったのだろう。当時の哲学者も含め命の危険をも顧みずに自らの思想を主張する者たちの心情はどんなものだったのだろうか。現在もそうした状況に置かれている者たちが結構居るはずであるが、ただ熱き思いに満ちているに違いない。本書を読むことによって、デリダがルソーに関わってなぜグラマトロジーを記述したかは理解できるのである。デリダにとってルソーの思想は重要な問題の一つなのである。「ならず者たち」でデリダが記述した、来るべき民主主義とは『主権なき神ほど、確実ならざるものはない、それは確実である。・・・それは確実に明日到来することではない、来るべき民主主義もまた』と結論されたこの文章が、ルソーの「社会契約論」の文章から部分引用されているのを、本書を読んで初めて知ったのである。
なお、余分な話になるが、存在を定立させるとして概念の創造の必要性を述べていたドゥルーズの概念とはこうした思想を示すのではないのかと思われる。ルソーにドゥルーズが殆ど関わらなかったのはこの「社会契約論」とはルソーが言っているように哲学ではないのであって、社会科学の範疇に入るのである。というより機会があれば述べたいが別の要因があると思われる。いずれにせよドゥルーズは哲学の垣根を払いながら社会科学や経済に近づいたが、より一層文学に近づいて哲学的な概念の創出を行ったのであり、この概念の創造の重要性を主張したのである。独断と偏見にて概念の創出として考えなければならないことを示せば、次のことがあると思われる。
1) 数を加えた質と量
2) 人間が保有する自由、権利など
3) 資本や市場などの特性その影響
この概念はもはや「社会契約論」の範疇からはみ出た概念を含んでいて、本書は参考にしながらも、ベルグソン、ドゥルーズなどの哲学や経済学から創造しなければならないと思っている。それにしても、再度言うが当時の社会状況において本書は社会の枠組みを変える脅威的な恐るべき能力を持った書物であったはずである。今も読み解く必要がある、ぜひともそう言うべきなのであろう。
以上
|
|
|
|
2014年1月10日(金) |
藤野可織著「爪と目」を読んで |
リュドミラ・ペトルシェフスカヤ著「私のいた場所」と藤野可織著「爪と目」の二冊を同時に借りることができた。両者とも初めて読む作家である。「私のいた場所」は暗い現実を描き「禁じられていた作家」であったらしいが、一つの短編を読んで、流れよどむ文体「~で」や「~が」が多く、それにそれほど幻想的でも暗くもなかったので、すぐさま読むのを挫折してしまった。
藤野可織著「爪と目」は一ページ目を読んで驚いた。「あなた」と「父」との解釈不能な関係性ではなくて、みずみずしい感性に富んだ文章だったからである。確か泉鏡花作「高野聖」の出だしは三回読んでやっと理解できたから、出だしの解釈不能は些細な問題であって、このみずみずしい文体が最後まで続くことを願った。この願いは少し裏切られたが、小説は結構面白かったのである。荒々しく不気味に描かれていて良かったのである。「爪と目」の方が幻想的でなおかつシュールに現実的である。どう感想を書こうか迷っているが、思いつくままに良い点と悪い点を混同しながらも列挙してみたい。
なお、本書のあらすじは眼科で知り合った父と関係を結んだあなたは、父とともに幼い女の子である私と住むことになる。亡き父の妻の本を古本屋に売り払ってあなたは古本屋とも関係を結ぶ。スナック菓子であなたは私を手なずけ、爪にマニキュアを塗る。古本屋との関係を断つときあなたは古本屋にコンタクトレンズを舐められる。そして重くのしかかり肘を押さえた私が、あなたのまぶたをこじ上げて目にマニキュアの薄片を入れると、ガラス板を透過して過去と未来を切断するはずの光をあなたは見るのである。
悪い点
1) 文体の欠点
現代小説の大部分がそうなのであるが「~た」が連なって文章が終わるのである。現代文では過去の時制がこの一つしかない。「~た」が続いた文章は説明調であり、文が断絶するのであり、リズム感がないのである。藤井貞和著の「日本語と時間」では過去の日本語では、確か助動詞を含めて8種類の多様な時制があり、その表現の豊かさが現代文では失われてしまい、現代小説は面白くないと指摘している。なお、彼は現代小説の表現力の貧困を皮肉って言っているのかもしれない。私も同様の意見を持っており、説明調の文章である現代小説は読んでも面白みはないと思っている。
本書の文体にもこの説明調の文章が散見される。みずみずしい感性の文章がこの欠点を補っていているが、この「~た」が続く説明文が気になる箇所がある。昔の著名な小説にはそうした点が見られないからには何らかの工夫がされているに違いない。本書に掲載されている他の小作品ではこの説明文は見られず、そうした文体の工夫が必要というより、著者自身が意識すれば、より質の高い文体にて記述が可能であるはずである。
2) 私と作者の位置
私はあなたの過去を知らないはずであり、きっとあなたの過去を記述しているのは私でなくて作者であり、こうして小説の背後に居て記述する作者を思い起こさせる場面がある。ただ、あなたが私であればこうした問題は生じないはずでありながら、きっとあなたは私ではない。どちらであっても作者を思い起こさせる描写は極力省いた方が良い。私が本書を書いているはずであり、首尾一貫して私が記述し続けなければならない。
3) 古本屋の役割
古本屋との別れの場面で、コンタクトレンズを舐め取られる場面があるが、最後の私の行動と同じであり、私の最後の薄片を入れることの意義が薄れるというよりダブってしまい、作者の目に対する思い入れが強調しすぎている。むしろあなたが古本屋を睨み続けて目を見開き続けて視線の動きや意志などとして記述するべきである。
4) 「独裁者」の文章
独裁者の記述が分からない。たぶん独裁者とは本を読んだ時の登場人物であり、目を閉じると忘れることができるが、私やあなたは忘れるわけはいかないという、挿入された話であるのだろう。唐突でありもっと柔らかに自然に記述されるべきである。コンタクトレンズを入れていても目を閉じると視界が遮られて見ることができない、即ち忘れることができるのであり、コンタクトレンズという物理的な物と視線や記憶という感覚との区別に配慮が必要と思われる。
良い点
1) 無機質と有機質な感性
みずみずしい有機質な感性の文章が無機質にも見えるあなたの感性を描くと、あなたや私が生き生きと不気味に描写されてくるのである。ただ、同時に掲載されている小作品「ちびっこ広場」の子を心配する母親の不安を抱え怯えた感性を描いた方が分かり良い。即ち有機質な感性の文章はむしろある程度無機質ではなく有機質な感性を描いた方が良いと思われるが、私にはよく分からない。文章が良ければそれで良いはずである。
2) 悪意もしくは憎悪など
悪意もしくは憎悪、もしくは恐怖もしくは抵抗や攻撃を描いているのかもしれない。それは未来に向けて切断されようとする体や剥奪される意識であるのかもしれない。田中慎弥著「共食い」の文章はあまり感心しないが、この作品では何に向かってなのか知らないがただ憎悪だけは読み取ることができた。本書で読み取るべきものは視覚への抵抗か、現実感の剥奪、未来への恐怖なのかはっきりとは分からないが、そうした意識を作者が持っていることは確かである。
3) 膨張もしくは急変
私があなたに重くのしかかるのが攻撃をするのが分かっていても、この私の質量の膨張は急激すぎるような気がする。たぶん、文章の表現の問題だろう。膨張自体の発想は良いと思われる。
4) 剥奪された意味
本作品の一番い良い所は文章の新鮮さと、殆ど説明なしに意味を剥奪されて出来事が進んでいく所にある。従ってなぜかどうしてかと意味を考えさせる。ただ、考えても意味が剥奪されているが故に無意味である。解釈がなりたつだけである。その解釈についてはまた別の著書を読んだ時にでも示したい。著者は未来に向けての可能性を秘めているはずで、もっと意味を剥奪させてもっと考えさせて、解釈を要求する作品を、もしくは解釈を否定し拒絶する作品を描くことができるはずである。そうした読み応えのある長編作品を書いてくれることを期待している。
以上
|
|
|
|
2014年1月3日(金) |
ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一他訳「狂人の二つの体制(1975-1982)及び(1983-1995)」を読んで |
ドゥルーズが抽象化して湾曲した線を伴わずに書いた普通の文章は、あまり見かけないために驚くのである。最初はとても簡単な論理で却って理解しにくいが、慣れるととても分かりやすく、ドゥルーズという人間が文章の内に見え出てくる。本書は「無人島」に続くドゥルーズのテクストの集大成であり、宇野邦一さんのあとがきによると、「アンチ・オイディプス」以降のフェリックス・ガタリとの複数の思考の痕跡を見て取れるとのことである。また本書の題名は宇野さんによると、プルーストの作品へのドゥルーズの特異な捉え方、狂気に深い関係があるとのこと。更に彼は「映画Ⅰ-運動イメージ」と「映画Ⅱ-時間イメージ」から「哲学とはなにか」に至るまでの概念を創造するという哲学独自の仕事を含めて、多岐にわたって記述しているということである。ともかく二分冊にて、62項目も書いているのだから、それは対話や刊行される本の序文を含めた夥しいテクスト文の集合であるに違いない。
本書を読んでみると、62項目では主にフーコーに関する文とシネマに関する時間や運動関する記述に、その他パレスチナなどの問題などが加わっている。最初の1項目がとても重要である。この1項目目の「狂人の二つの体制」ではまず人形使いを例に取り三種類の線と権力との関わりについて述べる。詳細は省略。次に二つの記号の体制について、無限と想定される記号の集合と、これに代わって線上のネットワークによる一主体を指示する記号の体制を、妄想型と情念型の狂気の二つの区別と結び付けて述べるのである。そして社会形成と記号の体制との関連を意味論から論じて、ドゥルーズはこの資本主義社会は情念型錯乱と呼ばれるものに対応するとする。この情念型の錯乱では、資本―貨幣の主体形成の線が機能すればするほど分岐の線などを発して自らを脅かすようになるのである。この項目で述べられている「狂人の二つの体制」、これが本書の題名となっている以上に、ドゥルーズの本来的な哲学的なテーマであると私には思われる。
以下はドゥルーズの思想から少し離れていくが私の意見である。この「狂人の体制」における主体の位置づけ及び資本と貨幣の役割を解明するには、たぶん経済や科学からの解明が必要とされて、これらと融合させた思考を持たなければならない。つまり概念の創造は哲学のみの仕事なのではなくて、それらの浸透し組み合わさった論理関数を含めた仕事になるのである。概念が存在の定立を行うために必要ならば、この存在の定立を取り巻く種々な環境を複合的な関数的分析に基づいて、概念の創造を企てなければならない。ドゥルーズが我々に突き付けた最大の哲学的な問題とはこの哲学的な概念の創造を行うこと、行うための思考の方法を問うて確立することなのである。即ち哲学から思考することと、哲学から脱却した思考が求められること。この思考はもはや哲学の思考ではなくて、哲学が成り立つことでも哲学の放棄でもなくて、ただ思考だけが成り立つことであり、これがきっと哲学を成り立たせることでもあるはずである。以下本書を読んで感じたことを、簡単に思いつくままのメモ的な文章にて箇条書きにしてみたい。
1. 「女嫌いについて」:アラン・ロジェの「女嫌い」について読みたいと思ったが、ネット上でどう探してもでてこないのである。「女嫌い」とは有名な本であったと思うのであるが、「人間ぎらい」と混同しているのかもしれない・・。
2. 「欲望と快楽」:ミシェル・フーコーの「快楽」とドゥルーズ自身の「欲望」の明確な違いについての批判的な説明、知についての違いについても。その他の言葉についても。ドゥルーズにしては珍しい文章であるが、そうしたフーコーとドゥルーズの違いは彼らの著作を読むと当然のことであって、それが文章として記述され公開されただけなのかもしれない。
3. 「それ自体では聴覚不可能な力を聴覚可能にすること」における「質量と形相」の「資材と力」への転換。例えば音的資材が聴覚不可能な力を、時間や持続や強度さえも聴覚可能なものにするためにあること。哲学においても極めて複雑な思考資材によって、思考不可能な力を思考可能にすることになると述べている。
4. 「今日の平和主義」における軍拡競争の膨大な費用の必要性。
5. 「言語をめぐる宇野への手紙」:現表行為に主体があるのではなくて、ただアレンジメントだけがあること。同一のアレンジメントのなかに様々な主体を指定する「主体化のプロセス」があり、主体を指定すること。
6. 「六八年五月[革命]は起こらなかった」:イリヤ・ブリゴジンは物理学の領域についても微細な差異が、そのまま伝搬していって、まったく別々の現象が共鳴しあい連結していく状態が存在すると語っていると、ドゥルーズが述べていること。つまり出来事の中には乗り越えがたい何かかが含まれているということ。
7. 「内在性の浜辺」:諸々の存在者は一義的で等しいこと。等しく存在すること。
8. 「創造的行為とは何か」:人民が欠けていること、同時に欠けていないこと。芸術作品とまだ存在していない人民とのあいだの親和力が決して明らかにならないこと。芸術作品はこのまだ存在していない人民に呼びかけを行っていること。
9. 「石たち」:イスラエル人はパレスチナ人民という具体的な事実を否定し続けてきたこと。
10. 「装置とは何か」でのフーコーの記述。装置のなかでの主体性の生産は一つのプロセスであり、主体性の線ができあがってくるのである。この線の断線。この装置の多様性。これまでの〈主体性の生産〉とは異なった、新たな支配に抵抗しうる〈主体性の生産〉訴えることができるとドゥルーズは述べて「知の考古学」におけるアルシーヴの文章の引用。フーコーの対話のなかにフーコーに付きまとっていた主体化の新たな諸様態が現れていて、これを見て取れること。
11. 「主体についての質問への答」:哲学とは主体なき多数多様体となり、統一性としての主体にかかわることのない多数多様の理論となること。
12. 「汚らわらしい戦争」:ブッシュがわが国(フランス)を召使いのようにほめたたえること。重要なのはこの点ではなくて『社会主義の裏切りの論理』がそのままわが身の体制にのしかかってくることの指摘である。ドゥルーズには珍しい直接的な感情を込めて描いた文章である。
13. 「フェリックスのために」:フェリックスはある複数のセグメントからなるシステムを夢想していたのではと、ドゥルーズは述べている。とうことはドゥルーズはシステムを夢想していないということでもある。
14. 「内在――ひとつの生」:この内在の一つの生について語ったものはいないのであり、ひとつの生はいたるところ、主体が横切るすべての瞬間、主体によって計られるすべての瞬間にあるのであり、ひとつはつねに多様体の指標なのである。
以上
|
|
|
|